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2016年03月29日

第57回 東洋のロダン






文●ツルシカズヒコ



 一九一二(大正元)年十二月二十七日、忘年会の翌々日、らいてうから野枝に葉書が届いた。


 昨夜はあんなに遅く一人で帰すのを大変可愛想に思ひました。

 別に風もひかずに無事にお宅につきましたか。

 お宅の方には幾らでも、何だつたら、責任をもつてお詫びしますよ、昨夜は全く酔つちやつたんです。

 岩野さんの帰るのも勝ちやんのかへるのも知らないのですからね、併し今日は其反動で極めて沈んで居ります。

 そして何でも出来さうに頭がはつきりして居ります。

 今朝荒木氏宅へ引き上げ只今帰宅の処、明日当たり都合がよければ来て下さい。

 色々な事で疲れてゐるでせうけれど。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年1月〜4月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p64~65/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p158)

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 野枝はすぐにらいてうの書斎に行ってみた。

 忘年会の夜、「鴻之巣」に残ったみんなはそこに泊まり、翌朝、荒木の玉名館に引き上げたという。

 その日、野枝はらいてうの書斎で一日過ごした。

 年が押し迫って、雑誌の発送をすませてからは、別に用事もないので、野枝は家の狭い部屋で終日、読書をして過ごした。

 野枝は暮れから新年にかけて部屋に入りっきりで過ごしたので、青鞜の人たちの誰がどうしたというようなことも忘れがちだった。

 そのころ、野枝と辻は窮迫のどん底にいた。

 ペン先一本さえ買えないことがあったくらいなので、正月の年始に出かけようにも着替えるものさえなかった。

 辻潤「ふもれすく」(『辻潤全集 第一巻』)によれば「無産者の教師が学校をやめたらスグト食(く)へなくなる」ので「とりあへず手近な翻訳から始めて、暗中模索的に文学によつて飯を食ふ方法を講じようとしてみた」(p388~389)辻は、陸軍参謀本部の英語関係の書類を翻訳したり、ロンブローゾ『天才論』の英訳本の翻訳に取りかかった。

『天才論』の翻訳は前年六月に取りかかり三か月半余りで訳し終わり、秋ごろ出版予定だったが佐藤政次郎に紹介された本屋がつぶれ、その後出版社がなかなか見つからなかった。





 一九一三(大正二)年一月七日の朝、紅吉から野枝にハガキが届いた。

 大森町森ヶ崎の富士川旅館に宿泊しているらいてうから紅吉に手紙が届き、それには野枝に万年山の事務所に行ってもらい、郵便物に目を通してほしいとのことづてが書いてあったという。

 野枝はすぐに家を出て万年山に行き、郵便物を調べ、送られて来た新年の雑誌の中から目ぼしいものを抜き出し、それを抱えて夕方ごろ帰宅した。

 すると、また紅吉からハガキが届いていた。

 新年会について相談したいので、八日に紅吉の家に来てほしいとの文面だった。

 野枝が翌日の八日、紅吉の家に着いたのはかれこれ日が暮れた六時か七時ころだった。


 二階には神近さんと哥津ちやんと紅吉がゐた。

 紅吉のお父様の越堂氏が客とお酒を飲んでお出になつた。

 紹介されて、それが彫刻家の朝倉文夫氏だと分つた。

 私達もそのお酒の座に一緒に連りながら色々なお話をした。

 神近氏には前に、研究会で一緒になつた限(き)りであつた。

 一座は賑やかに、種々な話をした。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年1月〜4月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p66~67/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p159)






「東洋のロダン」とも称される彫刻家、朝倉は高村光太郎と並ぶ日本美術界の重鎮への道を歩み始めていた。

 実兄の渡辺長男(おさお)も彫刻家で、軍神広瀬中佐像は長男が制作、下部台座の杉野兵曹長の像は朝倉が制作した。

富本憲吉と一枝の家族の政治学(2)」によれば、谷中天王寺に住んでいた朝倉は尾竹越堂と近所付き合いをしていたが、一九一三(大正二)年秋の第七回文展に越堂の父親の倉松をモデルにした《尾竹翁》を出品することになり、当時、朝倉はしばしば越堂宅を訪れていたようだ。

 朝倉は後に、おそらくこの日のことだと思われる、回想を記している。


 ある日、越堂さんから招かれて『きょうは“新し い女”に酌をしてもらおう』ということで、紅吉、市子、 野枝の三女史が青鞜社の出版事務をしているのをつかまえて、越堂老が『青鞜社の事務は青鞜社でやれ、せっかく客を招いたからもてなせ』と大喝したもので、大いにご馳走になったのだが、越堂さんは『芸者の酌などというものはつまらんもので、 “新しい女”のお酌で飲む酒は天下一品』だとひどくごきげんだった。

 おそらく、この人たちのお酌で飲んだ人はあまりいないだろう。


(朝倉文夫「私の履歴書」/『日本経済新聞』1958年12月連載/『私の履歴書 文化人6』_p34~35)





「どうも、家の一枝を連れて歩きますと、実に堂々としておりますな。たいがいの男は、これを見上げていきますので、それだけでも鼻が高いように思われますよ、ハハハハ」

 盃を手にしながら越堂が巨(おお)きな体を揺すって笑った。

「伊藤さんはおいくつです?」

 越堂は、野枝を見ながら言った。

「私ですか」

 野枝が答えかねていると横合いから、

「野枝さんは本当に老けて見られるのね、本当に当てた人はめったにないわ」

 と哥津が笑った。

「私が当ててみましょうか」

 朝倉も笑いながら、

「さあ、おいくつですかね。十九ですか、二十ですかね。一にはおなりにならないでしょう」

「当たりました。朝倉さんは偉いんですね。やはり血色やなんかで当てるのですか」

 紅吉が頓狂な声で朝倉の方に向いたので、みんな声を合わせて笑った。

 シンガポールやボルネオの視察に出かけたことのある、朝倉の南洋の話がみんなの興味を引いた。

 話題はそれからそれへと飛び、刺青の話になった。

「刺青なんて、一般には嫌われていますけれど、芸術的な画でも彫ればちょっとようござんすね」

 と誰やらが言い出した。

「そうですね、しかし人間はかなり倦きっぽいものですから、倦きなければいいけれど、取り替えるわけにはゆきませんからね」

 朝倉に考え深くそう言われてみると、なるほどそうかもしれない。

「けれども、私はこう思いますわ。本当に自分の一生忘れることのできないような人があれば、その人の名を彫るということは大変にいいように思います」

 神近のこの説に一番賛成したのは越堂だった。

 家の娘たちもこれから夫を選ぶ際は、そのくらいの真実な心意気が欲しいなどと、越堂がくどい調子でなんべんも繰り返して、紅吉を嫌がらせた。



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『辻潤全集 第一巻』(五月書房・1982年4月15日)

★『私の履歴書 文化人6』(日本経済新聞社・1983年12月2日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 20:55| 本文

2016年03月20日

第29回 出奔(一)






文●ツルシカズヒコ



 野枝が出奔したのは、一九一二(明治四十五)年四月初旬だった。

 野枝は後に「動揺」を発表するが、その中の木村荘太宛ての手紙に出奔についての言及がある。

「動揺」によれば、新橋から帰郷の汽車に乗った野枝は徐々に落ち着いてきて、いろいろ思考をめぐらせた。

 最も思いをめぐらせたのは、辻からされた抱擁と接吻のことだった。


 私はそれが何だか多分の遊戯衝動を含んでゐるやうにも思はれますのですがまた何かのがれる事の出来ないものに捕へられてゐるやうな力強さを感ぜられるのです。

 私はどうしていゝか迷ってゐるうちに汽車はずん/\進んで行つてもうのがれる事が出来ないやうなはめになりました。

 そうして仕方なしにとう/\帰りましたが帰つてもぢつとしてゐられないのです。

 私はすべて私の全体が東京に残つてゐる何物かに絶えず引つぱられてゐるやうに思はれて苦しみました。

 そして直ちに父の家を逐(お)はれて知らない嫌やな家に行かねばならないと云う苦痛も伴つてとう/\私は丁度帰つて九日目に家を出てしまつたのです。

 暫くの間十里ばかりはなれた友達の家にゐました。


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p177/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p34~35)

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 野枝が今宿に帰郷したのは三月二十九日なので、それから九日目に家を出たとしたら、それは四月六日である。

「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)には、帰郷して九日目に「婚家を出」たとあるが、「動揺」の文意からすると婚家の末松家には行かずに出奔したようにも受け取れる。

 出奔した野枝は叔母・坂口モト(父・亀吉の次妹)や友人の家を訪ね歩いた。

 叔母の坂口モトの婚家は、福岡県三池郡二川村大字濃施(のせ)の渡瀬(わたぜ)駅前の旅館だった(現・福岡県みやま市)。

「従妹に」は坂口モトの娘・坂口キミに宛てた書簡形式で書かれていて、出奔したその理由を「きみ」ちゃんに説明する内容になっている。

「伊藤野枝年譜」によれば、坂口キミは野枝より一歳年下で、幼いころ今宿の家で一緒に育ったこともあり、ふたりは仲がよかった。





 今、私の頭の中で二つのものが縺(もつ)れ合つて私をいろいろに迷はして居ります。

 私は今まで斯(こ)うして幾度きみちやんに手紙を書きかけたか知れないのです。

 けれども私の書いたものが果して正当に何の誤もなくきみちやんに理解されるかどうかとそれを考へては、若しきみちやんに理解が出来なかつたときにはきみちやんの為めにもまた私の為めにも大変不幸だと思はれますので止めました。

 けれども、どうしても書きたくてたまらないので。

 二つのものと云ふのは、その書きたいのと、書いて、もし悪い結果になるといけないと云ふ心配とを云つたのです。


(「従妹に」/『青鞜』1914年3月号・4巻3号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p58)


 という書き出しで始まる「従妹に」だが、以下、現代の口語調にして要約してみた。





 人は私のことを我がままで不孝者だと言います。

 自分でもそうは思いますが、人を苦しめておいてなんとも思わないと言われるのは心外です。

 私だって苦しくてたまらないのですが、それを我慢して自分の道に進んで行かなければならないのです。

 私は自分以外の人の都合で無理に結婚させられたのです。

 我慢して結婚したら孝行娘とは言われるかもしれないけれど、幸福であるはずがありません。

 誰も侵害することのできない自分の体と精神を持って生まれてきたのに、他人の都合で生きるなんて、生き甲斐のない人生と言わざるを得ません。

 人間は誰でも自分が可愛いのです。

 自己犠牲とかいっても、それから得られる名誉欲を満足させているわけですから、結局は自分のためなのです。

 きみちゃん、よく考えて御覧なさい。

 自分がこうしたい、そうしないとすごく困るというような、自分にとって重大なことはなかなか思うようにならないですよね?

 そして、それはそういうことをされると困る人が自分のまわりにいて、その人が邪魔するからです。

 自分の意志でした結婚ではなかったので、私はそれを破戒しようとしました。

 両親や叔父さんたちは、そうされると困るので邪魔するのです。

 私は他人が困るからといっても、自分自身が苦しいので無理にも破戒しました。

 それで一番困ったのは私に無理強いをした人たちです。

 その人たちが困るのは本当は当然なのですが、嘘で固めたいわゆる世間の道徳というものが、それが当然だとは人に思わせないのです。

 自分より年が上だとか親だとかということを盾にして、わずかな経験とかを無理な理屈にこじつけて、理不尽に人を服従させてもいいはずがありません。

 みんなは私のことを我がままだとか手前勝手だと言いますが、私の周囲の人たちの方がよほど我がままです。 
 私は自分の思うことをどんどんやるかわりに、人の我がままの邪魔はしません。

 私の我がままと他人の我がままが衝突したときは別ですが。

 自分の我がままを尊敬するように、他人の我がままを認めます。

 けれども世間にはそういうふうに考えている人は、そんなにいません。

 自分はしたい放題のことをして、他人にはなるべく思うとおりのことをさせまいとします。

 自分は自分だけのことを考えて行動し、他人は他人の勝手に任せておくのが本当なのですが、自分と他人の区別を明確につけることができないのがたいていの人の欠点です。

 それはその人たちが悪いのではなくて、日本のいわゆる道徳がいけないのです。

 今の日本の多くの人を支配している道徳は、ひとつも本当のものはなく、みな無理な虚偽で固めたものなのです。
 
 だから窮屈なのです。

 自他の区別がつかない人たちには、本当の意味の正しい個人主義と、自己本位や自分を甘やかす我がままや傲慢な専横との違いが理解できないのです。

 各自が我がままをすると共同が成り立たないから、相互に我慢しなければならないとよく言います。

 これも根本的に間違っています。

 みんなが他人に関わらず、自分は自分だけのことをやれば、最も自然な共同が可能になります。

 自分を抑圧するような不快な感情がないから、嫌な下らない争闘なんかは決して起こらずにすみます。

 けれども、共同とか言う人たちにかぎって、自分が他人にかけている迷惑には鈍感で、他人のしていることが自分に関わりだすと、すぐに邪魔をするのです。

 それも妙に道徳とかいうものにとらわれて、回りくどい嫌味な愚劣な争いをしているのです。

 私は自分を貫徹させるにあたって、そこに突き当たりました。

 私は他の多くの人たちのように、悧巧な狡いことはできなかったのです。

 道徳には何をさしおいても服さなければならない、そういう考えを私は抱くことができません。

 軽蔑しているものに屈するには、私の気位が高すぎるのです。

 他人が自分の行為に対してどんな思惑を持つか、というようなことを考える余裕を私は持てないのです。

 そしてそのことが悪いことだとは思いません。

 私はみんなの一番尊敬している、そして私を縛する最も確かなものであると信じる道徳や習俗を見事に踏みにじりました。






 野枝がこの「従妹に」を脱稿したのは、一九一四(大正三)年二月二十三日、出奔した約二年後であるが、野枝が坂口キミに実際にこのような内容の手紙を書いたのかどうかは不明である。 

 しかし「……こんなしどろもどろな言ひ方でなくもう少しきちんとした答が出来るつもりですから。気持ちが落ちつきしだいに書き代へて送ります」(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』p62)という下りもあるので、実際にこのような内容の手紙を書いたのかもしれない。



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 19:03| 本文

2016年03月19日

第26回 帰郷






文●ツルシカズヒコ



 一九一二(明治四十五)年三月末、上野高女を卒業した野枝は東京・新橋駅から列車に乗り、福岡県・今宿に帰郷した。

 この帰郷について野枝が書いた創作が「わがまま」である。

「わがまま」に登場する人物設定は、以下である。

 登志子=野枝、まき子=代千代子、野枝たちと同年輩らしい安子=千代子の親戚、叔父=代準介、叔母=代キチ、夫の永田=末松福太郎、「男」=辻。

「わがまま」では新橋駅から列車に乗り、博多へ向かったのは登志子、まき子、安子の三人である。

 昼の汽車に遅れたため、出発は夜になった。

 登志子は男と最後の別れになるかもしれないと思い、ジッと男の顔を見た。

 この男と二度と会えないとすれば、それは一生忘れられない悲痛な思い出になるだろう。

 そう思うと、男の顔を眺めているのが辛い。

 登志子はふと、十三歳年下の弟・清のことを思い浮かべた。

 まだ改札時間まで間があったので、登志子は故郷の幼い弟に頼まれた飛行機の模型を買うことを口実に、銀座に行くと言って新橋の停車場を出ようとすると、男が言った。

「僕が一緒に行ってやろう」

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 男は一軒一軒それらしい店の前で尋ねてくれたが、目的の模型は見つからなかった。

 登志子はもうそんな買い物なんかどうでもよかった。

 登志子はもう手を握り合うこともないできないと思ったのに、思いがけない機会が訪れことがうれしくもあり、悲しくもあった。

「もっと先まで行けばあるだろうけれども、時間がないかもしれない」

「ええ、もうよござんす、引き返しましょう。みんなが待っているでしょうから」

 停車場の階段を寄り添って上るとき、ふたりは手が痛くなるほど強く握り合った。

 改札口近くにまき子の後ろ姿が見えた。

 傍らに世話になった先生や世話焼き役の小父さんがいた。

 小父さんは野枝の顔を見ると、昼の汽車に遅れたのは登志子のためだと言って責めた。

 興奮し心が荒く波立ってる登志子にとって、その小言は耐え切れないほど腹立たしかった。

 自分に小言を言う資格のない人に、つまらないことを言われたということがまず不快だった。

 登志子は熱した唇を震わせ、眼に涙をいっぱい溜めて小父さんと言い争いをした。





 汽車が新橋の停車場を出た翌々日、登志子たちを乗せた関門連絡船門司港についた。

 船を降り、まき子と安子はいそいそと門司の停車場に歩き始めたが、登志子は重い足取りでずっと後れて歩いて行った。

 以前なら、故郷に帰ってきたという懐かしさ、うれしさを感じたが、今回はどうだろう?

 まるで自分の体を引きずるようにして行くのだ。

 仇敵のような叔父をはじめ、自分が進もうと思う道に立ちふさがる者ばかりだ。

 そして、みんなで自分に押しつけた、自分よりずっと低級な夫。

 そういう者たちの顔を思い浮かべると、イライラしてきて歯をかみならし、やり場のない身悶えがする。

 あと五、六時間したら、その夫の家に入らなければならないのだ。

 門司の停車場に入ると、登志子はベンチに荷物を投げるように置いた。

 まき子と安子はうれしそうに場内を見回している。

「チョイと、今度は何時に出るの。まだよほど時間があるかしら」

 まき子は野枝がボンヤリ時間表を眺めているのを見ると、浮き浮きした声で聞いた。

「そうね」

 登志子は気乗りしない返事をしてベンチに腰を下ろした。

 登志子はまき子の声を聞くと、叔父の傲然した姿を思い出して嫌な感じになった。





 男との一昨夜の苦しい別れが目に浮かんだ。

 五、六時間後の嫌なことを忘れるために、東京での出来事を思い浮かべて誤魔化していた。

 登志子の暗い心にいっぱいに広がり彼女を覆っているのは、最後の別れの日に登志子に熱い接吻と抱擁を与えた男のことだった。

 場内がなんとなくざわめいてきた。

「もうあと十五分よ、登志さん」

 と声をかけられ慌てて立ち上がったが、まだ十五分もあると思うと拍子抜けがした。

 ふとそこらの人々を見ると、登志子は急になんとも言えない哀しい心細い気がした。

 登志子はこの旅行の途中、大阪で連れを離れて、それから四国にいる人を頼って隠れるつもりでいた。

 それを思い出すと、不案内の土地の停車場でまごついている心細い自分の姿を、この停車場のどこかに見出した。

 登志子の心はさらに沈んだ。

 登志子はそのまま無茶苦茶に歩いて出口の方へ言った。





 車寄せのすぐ左の赤いポストが登志子の眼につくと彼女は思ひ出したように引き返して袋の中から葉書と鉛筆を出した。

 そしてまき子のたつてゐる反対の方をむいて葉がきを顔で覆ふやうにして男の居所と名前を手早く書きつけて裏返した。

 何を書かう?

 何も書けない。

 彼女の目からは熱い涙が溢れ出た。

『漸く此処まで着きましたーー』書いて行くうちに眼鏡が曇つて見えなくなつた。

 書けない。

 早く書いてしまおふとしてイラ/\して後をふり返るとたんに、

「改札はじめてよ、早く行きましょう」と急かれる。

 後の五六字は殆ど無意識に書いた。


(「わがまま」/『青鞜』1913年12月号・3巻12号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p85~86)


 野枝の「あきらめない生き方・その二」の始動である。

 野枝は辻との関係が断絶しないように、先手を打って葉書きを出したのである。



★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




●伊藤野枝 1895-1923 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:22| 本文

第24回 おきんちゃん






文●ツルシカズヒコ



 年が改まり、一九一二(明治四十五)年、学校は三学期になった。

 野枝はほとんど何もやる気が出なかった。

 苦悶は日ごと重くなり、卒業試験の準備などまるですることができなかった。

「辻先生と野枝さん」と誰からとなく言われるようになったころ、野枝は辻とおきんちゃんが接近するのをじっと見ていた。

 野枝は、見当違いのことを言われるのがおかしくて、鼻の先で笑ったり怒ったりして見せていた。

 しかし、野枝もかなり接近していたのは事実だった。

 それは主に趣味の上の一致だった。

 野枝は同級生のように呑気な気持ちにはなれなかった。

 先生との恋愛関係みたいなことで騒ぐ余裕は全然なかった。

 みんなの噂は本当に絵空事だった。

 しかし、辻とおきんちゃんとの関係はかなり怪しいと、野枝は感じていたが、それをみんなに話すほどの興味も感じなかった。

 野枝は自分自身の気分にひたすら圧迫されていた。

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 野枝は代千代子と一緒に佐藤教頭の家に寄宿していたが、一月のある月曜日、教頭先生とそのふたりの子供、千代子と五人で日比谷に遊びに行った。

 三時ごろ教頭先生の家に戻ると、おきんちゃんと野枝のクラスのEと前年の卒業生が訪ねてきたと女中が言った。

 今しがた帰ったばかりだというので、野枝と千代子が停車場に行ってみると、三人はそこにいた。

 野枝と千代子が教頭先生の家に引き返すことを勧めたが、四時までに帰らなければいけないのでそれはできないという。

 そうしているうちに電車が来た。

 野枝が千代子に「じゃあ、千代子さん、駒込まで送りましょうか」と言いながら、身軽にひらりと電車に飛び乗った。

「いいわ、お気の毒だから本当に、ね」

 と三人は言ったが、千代子も電車に乗ってしまった。

 三人の顔に当惑の色が浮かんだ。

「駒込からすぐにお帰りになるの野枝さん」

 とEが聞いた。

「ええ、そうね。辻先生のところへ寄ってもいいわね、千代子さん」

「そうね、寄ってもいいわ、そして墓地抜けましょうか」

「それがいいわ」

 三人は顔を見合わせた。

「私たちも寄りましょうか一緒にーー」

 おきんちゃんが気軽に言うと、野枝はカッとなった。

「辻先生のところへ寄るくらいなら、なぜ私のところへ帰って下さらないんです! ちょっとだっていいじゃありませんか、少しひどいわ」

「よしましょうか。遅くなるわね」

 と、Eさんが野枝の顔を窺いながら言った。

 どっちつかずのことを言ってるうちに、電車が駒込に着いた。

「どうするの?」

 野枝がムカムカしながら、そう言って電車から降りた。

 三人はしばらくぐずぐずしていたが、やがて降りてきた。





 野枝には三人の気持ちが見え透いていた。

 最初からここへ来るつもりだったから、「四時までに帰らなければ……」なんて嘘をついたのだと思うと、女らしいいろんな小細工をして、下らない隠し立てをしているのが不愉快になった。

 電車を降りた三人は何か相談をしていた。

 野枝が皮肉な目でじっとEを見つめると、人のよい彼女はおどおどしたような困った顔をした。

 野枝はなんだか快いものを感じた。

 野枝と千代子が三人のところに行くと、おきんちゃんは黙って俥(くるま)に乗った。

 足が痛いことを口実にしてーー。

 野枝はフフンと笑いたくなった。

 残されたふたりは道を知らないという。

 野枝は不快だったので行かないと言ったが、道を教えてやってきわどいところで逃げてやろうと思い、一緒に行った。

 ふたりはこのあたりの地理にまったく不案内だったので、野枝はできるだけ遠回りをして、ふたりを引っぱり回した。

 途中で馬鹿なお供をしていることが嫌になり止そうと思ったが、こんなところで彼女たちをほっぽり出しても仕方がないので、意地の悪い目をして皮肉を言っては、Eの困ったおどおどした顔を見てある快感を覚え、腹いせをしながら歩いた。

 ふたりを辻の家の門まで送りつけ、すぐに引き返した。

 ふたりは後を追っかけてきたようだが、見向きもせずに急いだ。

 しかし、不快な念はどうしても押さえることができなかった。





 翌日、学校に行くと、Eはうつむいてばかりいた。

 野枝は意地の悪い顔をしてジロジロ見た。

 やがて、Eが小さな声で言った。

「ごめんなさいね。昨日は本当に悪かったわ」

「なに別に悪いこともしないじゃありませんか」

「でも悪かったわ、ごめんなさいな」

「私、あなたからお詫びされる覚えなんかありませんもの、なんですいったい」

 野枝の声には薄気味の悪い落ち着きと意地の悪い冷たさがあった。

 人のいいEは辛そうに首を垂れた。

「でも怒ってらっしゃるでしょう。今におきんちゃんもお詫びに来ますからーー」

「何を怒っているんです。おきんちゃんが何で私にお詫びするんです。そんなことちっともないわ」

 そう言い放って、野枝は教室を出て行った。

「小さな、ケチな根性だね、おまえは」と自分に言いながら、野枝はやっぱりケチな根性に負けていた。





 おきんちゃんが来た。

 しかし、野枝はまるで相手にしないような態度を見せて追っ払った。

 みんなが不思議な顔をして見ていた。

 辻に対してもなんとなく一種の軽侮を感じ始めた。

 野枝はまたイライラして、本当にまあどうしてこんなにイヤなケチケチした了見を持っているんだろうと思った。

 自分が嫌になってきた。

 しかし、他人にはなおのこと同感できなかった。

 何を読んでもおもしろくなくなった。

 すべてがつまらなくなった。

 野枝は「惑ひ」の終わりの方で、自分の辻に対する感情をこう分析している。

 
 併(しか)し今考へて見ると、その当時は色々な複雑な考察にわづらはされて苦悶を重ねてゐたときだから意識に上らなかつたのだけれども男に対する愛はその頃から芽ぐんでゐたのだなと町子は考へないわけにはゆかなくなつてしまつた。

(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p275/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p114)


 つまり、野枝が辻を恋愛対象として意識し始めたのは、上野高女五年の三学期のころだったということになる。

「惑ひ」は『青鞜』一九一四(大正三)年四月号に掲載されたので、野枝は二年後に、冷静に自己分析をして文章化したのである。



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




 ●伊藤野枝 1895-1923 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:24| 本文

第23回 天地有情






文●ツルシカズヒコ



 野枝が福岡から帰京したころ、一九一一(明治四十四)年八月下旬の蒸し暑い夜だった。

 平塚らいてうは自分の部屋の雨戸を開け放ち、しばらく静坐したのち、机の前に座り原稿用紙に向かった。

 らいてうはその原稿を夜明けまでかかり、ひと息に書き上げた。

 書き出しはこうだった。


 元始、女性は実に太陽であつた。

 真正の人であつた。

 今、女性は月である。

 他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。

 偖(さ)て、こゝに「青鞜」は初声を上げた。

 現代の日本の女性の頭脳と手によつて始めて出来た「青鞜」は初声を上げた。

 女性のなすことは今は只嘲りの笑を招くばかりである。

 私はよく知つてゐる。

 嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。


(「元始女性は太陽であつた - 青鞜発刊に際して」/『青鞜』1911年9月号・1巻1号/『元始、女性は太陽であったーー平塚らいてう自伝(上巻)』_p328)

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 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p64)によれば、帰京した野枝は叔母のキチや千代子に対して、露骨に自棄な態度をとり始めた。

 さすがに叔父・代準介にはそういう態度は取れないが、この時期、代準介は長崎と東京を行ったり来たりしていて、月の半分も根岸の家にいなかった。

 準介は野枝の拗(す)ねた言動をキチから聞いていたが、卒業までには何とか落ち着くだろうと考えていた。

 野枝が帰京した後、末松家は入籍を急ぎ、野枝はすでに末松家の嫁なので生活費と上野高女の学費を出したいと申し出た。

 末松家と代準介の折衝により、末松家が学費を負担することで双方折り合った。

 野枝が末松家に入籍されたのは、十一月二十一日だった。

「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』p507)には、野枝は「夏休み以降卒業までの間、従姉千代子と上野高等女学校の教頭佐藤政次郎宅に寄宿する」とある。





 野枝はこのころの苦悶をこう書いている。


 無惨にふみにぢられたいたでを負ふたまま苦痛に息づかいを荒らくしながら帰京したときにはもう学校は二学期に入つてゐた。

 彼女の力にしてゐる先生達は皆で彼女の不勉強をせめて、卒業する時だけにでも全力を傾けて見ろと度々云はれて居た。

 併し彼女の苦悶は学校に行つて、忘れられるやうな手ぬるいものではなかつた。

 彼女の一生の生死にかゝはる大問題だつた。

 きびしい看視の叔父や叔母のゐなくなつたと云ふことも助けて、苦悶は彼女にいろんなまぎらしの手段として強烈なヰスキーを飲むことや、無暗(むやみ)に歩くことや、書物にかぢりつくことを教へた。

 教科書は殆んどのけものにされてすきな文学物の書ばかりが机の上に乗るやうになつた。


(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p268~269/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p111~112)





 年末、上野高女では「桜風会」(文化祭のようなもの)が開催され、野枝たちのクラスはシェークスピアの『ベニスの商人』を上演し、野枝はベラリオ博士を演じた。

 さらに野枝は指名されて、土井晩翠の『天地有情』の中の新体詩「馬前の夢」を朗読した。


 卒業間際の桜雲会の余興に、シェークスピアの「ベニスの商人」を上演しました時、シャイロックが町田さんで、私が胸の肉一斤を取られようとする商人のアントニオで、ポーシャが竹下さん、ベラリオ博士が野枝さん、バッサニオが代さんでした。

 その時の会に野枝さんが、土井晩翠の『天地有情』の中の新体詩「馬前の夢」の朗読を、堂々と胸を張って終わった時は、会場の全員を夢心地にして了った程でした。


(花沢かつゑ「鶯谷の頃から」/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」)


 花沢かつゑは「桜雲会」と書いているが、井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p37)では「桜風会」と表記されている。





 花沢かつゑは、野枝に関するそのころのこんなエピソードも語っている。


 級友で牛乳屋の娘さんが家庭の事情で学校をやめなければならなくなりました。

 佐藤先生もなんとかひき止めたいと考えていらした。

 そこであたしたちはその友達の親にかけあいにいくことになりました。

 ちょうど途中にあたしの家があったので、みんな焼いもなんか買って、家によって相談することにしました。

 ガヤガヤ話しているのを母は障子のかげで聞いていましたが、そのなかでひときわ目立つ野枝さんに眼をつけ、あんなしっかり者をうちの息子の嫁にしたいといったほどでした。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p37)


 級長だった野枝の仕切りのよさが目立ったのだろう。

「惑ひ」によれば、野枝はだいぶすさんだ生活をしていたふうにとれるが、最高学年の級長としてやるべきことはやっていたようだ。

 井出文子は上野高女時代の野枝についてこう書いている。


 ともかく上野女学校のいきいきした下町娘気質のなかで、野暮な田舎娘の野枝は精一杯反応し、もちまえの強い性格で逆に友達に一目おかせている。

 これらの話から想像しても、上野女学校での教育が野枝の精神形成にあたえた影響ははかり知れないほどおおきかったとおもわれる。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p37~38)




★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(上巻)』(大月書店・1971年8月20日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)




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2016年03月18日

第22回 仮祝言






文●ツルシカズヒコ





 西原和治著『新時代の女性』に収録されている「閉ぢたる心」(堀切利高編著『野枝さんをさがして』p62~66)によれば、野枝が煩悶し始めたのは、上野高女五年の一学期の試験が終わり、夏休みも近づいた一九一一(明治四十四)年七月だった。

 西原は国語科の担当で野枝が上野高女五年のクラス担任である。

「どうしましょう、先生、夏休みが来ます、帰らなければなりません」

 西原にこう切り出した野枝は、両腕を机の上に重ね、その上に、いかにも堪え難いといったふうに頭をもたせた。

「どうしたのです、そんなに帰るのがお嫌ですか?」

 野枝はすでに涙ぐんでいる。

「だって、今度帰ったら、また出て来られないかもしれないんですもの」

 西原はショックを受けた。

 女学校を中退することなどどうでもよいが、野枝の天賦の才を伸ばすには、彼女は少なくてもあと数年は東京にいるべきだと、西原は考えていたからだ。

 刺激も少なく、有為な人材も少ない田舎に埋もれてしまうのは惜しい、成長し切れずに終わってしまうかもしれない。

 西原はそう思った。

「なぜ、また来られないのですか?」

 西原の問いかけに、野枝は真っ直ぐに答えない。

「先生、なるようにしかならないのですね」

 彼女は思い諦めた調子で宿命論を閃かし、努めて話題をそらしたが、理由を聞きたいと思う西原と、話したいと思う野枝の心は引き合っていた。

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 夏休みになる三日前。

 ふたりは用もないのに上野の山を歩いた。

 涼しい木陰を選ぶわけでもなく、沈黙したまま、ただ足の向かう方へなるべくゆっくり歩を運んだ。

 野枝は言葉が喉まで出かかるが、舌を動かそうとすると神経が急に興奮して、何も言えなくなった。

 とうとう公園を歩きつくして谷中の墓地の方まで行き、御隠殿坂(ごいんでんざか)を右に降りて根岸の方に出た。

 もう日は傾いている。

 野枝はやっと口を開いた。

「家庭の事情で、また出て来られないかもしれません」

「出て来られなくたってよいじゃありませんか」

「でも卒業ができませんもの」

「卒業証書など、もらはなくてもよいでしょう」

 野枝にとってそんなことはどうでもよいことを、西原は知っていた。

 そんなことより、早く要点に触れたかった。

 すると突然、野枝が言った。

「米国へ行くことになるかもしれません」

 西原は結婚問題が持ち上がっていて、それが野枝の気に入らない縁談なのだろうと推測をしたが、平素は言い渋ることなどない快活な彼女の口から直接、聞き出したかった。

 いつもはテキパキと何でも言ってのけるくせにと不思議に思った。





「米国へ行って何をなさるのです」

「親戚の者が行くので、ついて行くのです」

 なかなか要領を得ない。

 野枝を見ると、唇を固く噛みしめて、むやみに路傍の木の葉をむしっていた。

「また手紙を書きます」

 野枝は目にいっぱい涙をためていた。

「では詳しく書いて下さい」

 西原はこれで野枝と夏休み明けの五十日後に再び会えるのか、あるいは一生のうちに再会することはないのかもしれないと思い、煩悶している彼女の痛々しさが堪え難かった。

「しっかりしていらっしゃいよ」

 とうとう、ふたりは核心に迫る会話ができずに別れた。

 野枝は帰省した今宿から何度か西原に葉書を書いた。

 だが、堪え難さや、諦めや、荒んだ心を大自然の景色によって紛らすような内容で、事実は少しも述べていない。

 西原は返事に困った。





「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、夏期休暇が始まり、代一家と野枝は千代子と野枝の仮祝言をするため福岡に帰省した。

 野枝が末松福太郎との仮祝言に臨んだのは八月二十二日だった。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p63~64)によれば、仮祝言に臨んだ野枝の心情とその後の経緯は、こういうことらしい。

 仮祝言というのは仮契約ではなく、身内親族が集まりきちんと式を上げ、初夜もすます儀式である。

 野枝が末松家に嫁ぐことを了承したのは、福太郎がアメリカ帰りであり、再びアメリカに戻ることに夢を抱いたからだった。

 しかし、仮祝言の夜、アメリカには戻らないとの福太郎の意思を聞き、野枝は失望し立腹し、翌日には東京に戻った。

 アメリカに行けないのなら、野枝には福太郎と結婚する意味がなかったからだ。

 代キチもこう語っている。


「野枝が気がすすまなかったらしいのは事実ですけど、ただアメリカへ行けるということには乗り気でしたよ。あとではいろいろ悪口をいっていましたけど、その時は『アメリカに行けるなら』って、不承不承首をたてにふったのです」

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p78)





 野枝の仮祝言について、野枝の妹・ツタはこう語っている。


 ……自分じゃ、さんざん、親たちや代の叔父夫婦が勝手にとりきめて、被害者のように書いているようですが、そんなものじゃありません。

 相手はうちどうしでよく知り合ってたし、私も祭りだ何だってよく行ったことがありますよ。

 顔も知らない、名も知らない相手なんて書いてますが、そんなことはありませんでした。

 それに、最後まで、嫁(ゆ)く意志がないのに、親たちが無理解でしゃにむに結婚させたようにいってますけど、姉は一度はちゃんと承知したんです。

 ええ、そりゃあ、はじめから一度も、相手を気に入ったことはなかったんですけれど、アメリカへ行けるってことが魅力で、アメリカに行ってさえしまえば飛び出してやるからって私になんか話していました。

 ですから女学校五年の夏休みにちゃんと結婚式を挙げる時も自分で承知しておったんです。

 ええ、島田に結って角かくしに梠縮緬(ろぢりめん)の留め袖の紋付で、今でも覚えていますが、近所でも見たこともないようなきれいな花嫁だと評判されました。

 私の口からいうのも何ですが、若い時の姉は、ちっともおしゃれじゃなくて、髪もなりふりもかまわない方でしたが、きれいでしたよ。

 でも、花嫁支度しながらも、やっぱり相手が気にいらないとぷんぷん怒っていて、わざと、まるで男のように、花嫁衣裳の裾をぱっぱっと蹴散らかして歩いたりして、まわりをはらはらさせるほど当りちらしてはいました。

 嫁入りした翌日にはもう出戻って来て、東京の学校へさっさと帰ってしまいました。

 聟(むこ)さんを全然よせつけなかったそうです。

「指一本だってさわらせやしなかった」

 と威ばっていましたが、まあずいぶんおとなしい聟さんもあったものだと、私たちは話しあったものです。

 そうですね、やっぱり、魅力のない男でしたよ。

 おとなしいだけが取り得で、私だって、嫌でしたね。

 それを姉は、帰ってくるなり、自分では平気で、

「私のかわりにツタちゃんが嫁(ゆ)けばいいわ」

 なんていうんですからーーまあ、そんなことを平気でいうし、本気でそう思うようなところがありました。

 あたしだってそんな男厭ですよ。


(瀬戸内晴美「美は乱調にあり」/『文藝春秋』1965年4月号〜12月号/瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p37~39)



★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(文藝春秋・1966年3月1日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(角川文庫・1969年8月20日)

★『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』(新潮社・2002年1月10日)

★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)




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第21回 縁談






文●ツルシカズヒコ



 級長になり、新聞部の部長を務め、谷先生の自死を知り、新任英語教師の辻の教養に瞠目した野枝の上野高女五年の一学期はあわただしく過ぎていったことだろう。

 井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』によれば、野枝と同級の花沢かつゑは、野枝についてこんな回想もしている。

 花沢によれば、野枝は「ずいぶん高ビシャな人」だった。

 花沢が日番で教員室に日直簿を置きに行ったときだった。

 教員室にいた野枝は花沢にスッと近寄り、花沢が小脇にかかえていた本を「何読んでるの?」と抜き取り、パラパラ頁をめくり、「こんなの読んだら早いわね」と言った。

 花沢は小杉天外の『魔風恋風』(前編)を持っていた。

 女学校の高学年にもなって「すいぶん幼稚な本を読んでるのね、花沢さん」と、野枝は言いたかったのだろう。

 花沢に職員室で恥をかかせ、「紋付き事件」のリベンジをしたという、穿った見方もできるかもしれない。

 井出は花沢のことを「級では勢力もあり新入りの野枝をやや冷やかしの眼でみていたのだろう」(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』p36)と書いているが、花沢をボスとする七人組、なにするものぞという、気性の強い野枝の面目躍如たるエピソードである。

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 井出の取材に花沢は五年級の「桜風会」(文化祭のようなもの)での野枝の詩の朗読のすばらしさや抜群の文才について言及し、その実力を認めているが、浅草で細紐テープを作る工場主の娘だった花沢ような東京の裕福な家庭の粋な下町娘からすれば、野枝は野暮ったい田舎娘でもあった。


 だいたい野枝さんはあまり綺麗ずきではなかった。

 髪は束髪にしていましたが、いつも遅れ毛がたれていて、なんだかシラミがいそうでした。

 それに半紙や鉛筆やパン代なんか友達からよく借りっぱなしでした。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p36)


「雑音」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』p127)によれば、上野高女四年生のころ「根岸の叔父の家から上野の図書館に、夏休の間毎日のやうに通つた」という。

  野枝にとって身なりよりなにより、日本最大の図書館での知識の吸収が急務であったのであろう。





 一九一一(明治四十四)年の夏、七月ごろだろうか、上野根岸の代家の庭で撮影された野枝と代千代子といとこ、三人の娘の写真が矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p55)に掲載されている。

 いかにも盛夏らしい、浴衣を着た三人娘のバックは竹垣になっており、その向こうが村上浪六邸である。

 野枝は団扇を持っている。

 代準介夫妻と浴衣を着た三人娘は、両国川開きの花火見物に行ったのかもしれない。

「千代子は色白で、目は細長い糸目、頬は下ぶくれの大和なでしこ顔。ノエは逆に浅黒いが、目はくっきりとした二重で、黒目がちのはっきりとした顔である。負けん気の気性が眼光にほどばしっている」(『伊藤野枝と代準介』p62)という、野枝と千代子の特徴がよく表れている写真である。





 そのころ、野枝の縁談話が進行していた。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p63)によれば、相手は加布里(現・糸島市)の富農、末松鹿吉の息子・福太郎。

 代準介、野枝の父・伊藤亀吉、末松鹿吉の三人は幼なじみだった。

 代は千代子の縁談も進めていた。

 相手は今宿青木(現・福岡市西区)出身で、代が若き日に勤務していた九州鉄道株式会社の社員だった。

 千代子は一人娘だったので養子縁組とした。

 野枝もこの縁談に乗り気だったという。

 福太郎がアメリカ帰りで、再びアメリカに行くことになっていたからだ。

 この縁談に対する野枝の心境はいかなるものだったのか。

 おそらくその重要な手がかりとなる資料が、堀切利高によって発掘されている。

 堀切利高『野枝さんをさがして』(p67)によれば、堀切が西原和治著『新時代の女性』(郁文社・一九一六年九月))を長野県松本市内の古書店で偶然見つけたのは、二〇〇〇年十月だった。

『新時代の女性』の「はしがき」には「若い女性の手に成つた偽りなき文章と、それに対する著者の批評と、其の批評を補ふに足るべき著者の感想とを録したものであります」とあり、十九編の文章が収録されている(堀切利高『野枝さんをさがして』p71)。

 その十九編の一編が「閉ぢたる心ーー何故開けないのでせうーー著者より」という西原が書いた文章で、かつての教え子だった女性に「あなた」と話しかけるスタイルで書かれている。

 固有名詞は一切出てこないのだが、堀切は状況証拠から判断して、その女性が野枝であることはほぼ間違いないとしている。



★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)




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第20回 反面教師






文●ツルシカズヒコ


 野枝が上野高女五年に進級した、一九一一(明治四十四)年の春。

 野枝が谷先生からの手紙に返信したのは四月末だったが、一週間が過ぎ、十日が過ぎても谷先生からの返事は来なかった。

 そして、とうとう五月の上旬のある朝、谷先生の友達から谷先生が自殺したという知らせを受け取った。

 谷先生は自宅の前の湯溜池で自殺を遂げたのだった。

 よくふたりで行った、あの思い出の溜池だった。

 野枝は何だか、当然のような気もすれば夢のような、嘘のような気もしながらホロホロ涙を落とした。

 あの長い最後の手紙は、野枝だけに宛てた谷先生の遺書だったのだ。

 暑中休暇に帰省した野枝は、生前、谷先生がいかに人望があり多くの人から尊敬されていたかという話を聞かされた。

 野枝はつくづく思った。

 その人望と尊敬が谷先生を殺したのだと。

 谷先生の自死に関して、周りはその理由をいろいろ取りざたした。

 家庭の問題、ラブ・アフェア、健康問題……。

 しかし、どれも根拠としては希薄だった。

 野枝は谷先生を追いつめた「実際の事柄」を知っていて、それは「ありふれた事柄」だと書いている。

 それを明らかにしたいが、関係者に対する谷先生の心遣いを尊重して、あからさまには言えないとしている。

 家庭問題でもなく恋愛問題でもなく健康問題でもないとすれば、谷先生が苦しめられたのは学校での教師間の人間関係以外に考えられないだろう。

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 野枝は谷先生の自死に遭遇し、さまざまなことを考えたという。


 彼女の生涯は、まるで他人の意志ばかりで過ぎてしまひました。

 しかも、彼女はそれに苦しめられつゝ、とう/\最後まで自分を主張する事が出来ないでしまひました。

 そしてその最後の瞬間に、彼女はやつと自分に返りました。

 けれど、何と云ふ無意味な生涯だつたのでせう。

 自分に返つたと云つた処で、たゞ他人の意志を拒絶した丈けなのです。

 自分に返つたと思つた瞬間には、もう生命は絶へてゐたのです。
 
 彼女自身で云ふ通りに、私は彼女を臆病だとも、卑怯だとも、意久地(いくじ)なしだとも思ひます。

 けれど、世間の多くの人達の生活を見まはすとき、私は卑怯であつても、意久地なしでも、兎に角、彼女程本当に、生真面目に苦しんでゐる人が、どれ丈けあるだらうと考へますと、気弱ながらも、とう/\最後まで自分を誤魔化し得なかつた正直さに対しては尊敬しないではゐられないのであります。


(「背負ひ切れぬ重荷」/『婦人公論』1918年4月号・第3年第4号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p40~41)





 注目すべきは、野枝が谷先生を題材にした原稿を四度も発表していることである。

「嘘言と云ふことに就いての追想」(『青鞜』一九一五年五月号・第五巻第五号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)、「背負ひ切れぬ重荷」、「遺書の一部より」(『青鞜』一九一四年十月号・第四巻第九号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)、そして「着せられた着物」である。

「着せられた着物」はAとBの対話形式でK先生について語り合っている。K先生は谷先生で、Aは野枝、Bは谷先生のことを知っている男性という設定である。

 A(野枝)は、こんな発言をしている。


 ……先生は、あたしに強くなれ強くなれつて云ひ通してゐたのよ。

 ……私は始めから出来る丈(だ)けわがまゝな、悪人になっておくんです。

 ……それが一番、自由な生き方ですよ、世の中には先生のやうに、いゝ子にされて縛(し)ばられて苦しんでゐ人がどんなにあるかしれませんね。

 でも出来る丈け自分を主張しないのはうそですよ。

 生命を与えられたからには出来る丈け生命を満足さすのが本当ですもの。

 私は何の為に生きてゐるんだか分らないやうなふやけた生き方はしたくないわ、先生なんて、何の為めに生きてゐるんだか分らないやうな生き方をして、まるで、生命を他人の為めにすりへらしてゐたから……その点から云へばあんな自分の生命を、そまつにした人はないでせうね。

(生命に)ねうちがあるとかないとか云ふ事は、自分で大事にするか、粗末にするか、どつちかで極まるんぢやありませんか……成るべく自分の生命は高く価値(ねうち)づける事ですよ。


(「着せられた着物」/『才媛文壇』1917年4月創刊号・第1巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』補遺_p483~487)





「遺書の一部より」と「着せられた着物」は、谷先生のことを知らない第三者が読んでもよくわからない内容である。

 野枝はわかる人にだけわかってもらえればよいとして、確信犯で書いたのだろう。

 いずれにしても、嫌なことでもたいがい時間がたてば忘れる気質の野枝が、四度も繰り返して原稿のネタにした谷先生。

 野枝にとって彼女とその自死は生涯忘れ去ることのできないことだったと思われる。

 つまり、野枝にとって谷先生は偉大な教師だったのである。

 人生の反面教師として。



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)



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2016年03月17日

第19回 西洋乞食






文●ツルシカズヒコ



 一九一一(明治四十四)年四月、新任の英語教師として上野高女に赴任した辻は、さっそく女生徒たちから「西洋乞食」というあだ名をつけられた。

 辻がふちがヒラヒラしたくたびれた中折帽子をかぶり、黒木綿繻子(くろもめんしゅす)の奇妙なガウンを来て学校に来たからである。

 辻は貧相な風貌だったが、授業では絶大な信用を博した。


「アルトで歌うようにその口からすべり出す外国語」。

 しかも、話題は教科書の枠をこえて文学、思想にひろがった。

 国木田独歩『武蔵野』バイロンの『恋愛詩』、本間久雄の文芸評論など、彼の話題はつきることがない。

 ことに東京下町に住んで若く世を去った樋口一葉の作品引用は毎度のことで、彼が片手をポケットに、片手を「三日月」といわれた長いあごにあて、「これは例の……」といいだすと、女生徒たちはいっせいに「一葉さんでしょう」と機先を制するのだった。

 辻は苦笑して、「じゃ……やめましょう」と頁をめくった。

 尺八やピアノをひいて各国の国歌をうたわせてくれるのも生徒に喜ばれた。

 辻は立派な教育者だった。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p44~45)

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 辻が生徒の間で人気を博し始めたころのことを、野枝はこう書いている。


 ……その重味をもつた気持のいゝアルトで歌ふやうにその唇からすべり出す外国語はその発音に於てもすべての点で校長先生のそれよりもずつと洗練されてゐて、そして豊富なことを認め得た。

 それにまたその軽いとりつくろはぬ態度とユーモアを帯びた調子がすつかり皆を引きつけてしまつた。

 新任の先生の評判はいたる処でよかつた。

 その男に対する町子の注意はしばらくそれで進まなかつた。

 たゞ町子はそのころ学校で発行した謄写版刷の新聞を殆んど自分ひとりの手でやつた。

 それに先生は新しい詩や歌についての一寸した評論見たやうなものをくれたりした。

 それで可なりに男との間が接近して来た。

 それからまた暇さへあれば尺八の譜を抱へては音楽室に入つてピアノに向つてゐるのが一寸町子の注意を引いた。


(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p267~268/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p111)





 辻はこのころの野枝をこう記している。


 野枝さんは学生として模範的ぢやなかつた。

 だから成績も中位で、学校で教へることなどは全体頭から軽蔑してゐるらしかつた。

 それで女の先生達などからは一般に評判がわるく、生徒間にもあまり人気はなかつたやうだつた。

 顔もたいして美人と云ふ方ではなく、色が浅黒く、服装はいつも薄汚なく、女のみだしなみを人並以上に欠いてゐた彼女はどこからみても恋愛の相手には不向きだつた。

 僕をU女学校に世話をしてくれたその時の五年を受け持つてゐたN君と僕とはしかし彼女の天才的方面を認めてひそかに感服してゐたものであつた。
 
 若(も)し僕が野枝さんに惚れたとしたら彼女の文学的才能と彼女の野性的な美しさに牽きつけられたからであつた。

 恋愛は複雑微妙だから、それを方程式にして示すことは出来ないが、今考へると僕等のその時の恋愛は左程(さほど)ロマンティックなものでもなく、又純な自然なものでもなかつたやうだ。

 それどころではなく僕はその頃、Y――のある酒屋の娘さんに惚れてゐたのだ。

 そしてその娘さんも僕にかなり惚れてゐた、

 僕はその人に手紙を書くことをこよなき喜びとしてゐた。

 至極江戸の前女(ママ/江戸前の女)で、緋鹿(ひか)の子の手柄をかけていいわたに結つた、黒エリをかけた下町ッ子のチャキ/\だつた。

 鏡花の愛読者で、その人との恋の方が遙かにロマンティックなものなのだつた、この人の話をしてゐると、野枝さんの方が御留守になるから、残念ながら割愛して他日の機会に譲るが、兎に角、僕はその人とたしかに恋をしてゐたのだ。

 僕は野枝さんから惚れられてゐたと云つた方が適切だつたかも知れない。

 眉目シュウレイとまではいかないまでも、女学校の若き独身の英語の教師などと云ふものは兎角(とかく)、危険な境遇に置かれがちだ。


(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p5~6/『ですぺら』_p173~175/『辻潤全集 第一巻』)






「Y――のある酒屋の娘さん」について、野枝はこう書いている。


 おきんちやん――女の名――は吉原のある酒店の娘だ。

 町子のゐた学校の二年か三年までゐたのだ。

 調子のいい人なつこいやうな娘だつた。

 町子は四年からその学校に入つたのだからよくはしらなかつたけれど、後の二年の間におきんちやんはよく学校に来たので――それも町子の級にゐたとかで、調子よく話かけられたりして後にはかなりな処まで接近したのであつた。


(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p265~266/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p110)


「惑ひ」解題(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p401)によれば、おきんちやんは新吉原京町の酒屋の娘の御簾納(みその)キンがモデルで、御簾納は結婚後の姓である。





 このころの野枝について、以下、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』から抜粋引用。


 代はノエの根性を好もしく思っており、隣家の作家村上浪六に紹介する。

 村上も上京を薦めた張本人として目に掛ける。

 代は霊南坂の頭山邸にも、千代子はもちろんノエも娘同様に同道し紹介している。

 ノエは高等小学校卒ゆえに、人より二年遅れた英語力を、辻の力を借りて一気に取り戻そうとする。

 逆に辻は、学園新聞「謙愛タイムス」のノエの記事やエッセーを読み、その文才に瞠目する。

 辻はノエに特段目をかけるようになり、時流の小説や欧米の翻訳物も推薦し指南していく。

 千代子はお嬢様育ちでどこかおっとりしており、ノエに級長を奪われたことを意に介していない。

 根岸の家の二階の八畳に千代子、隣の六畳にノエ。

 襖一枚で仕切られており、境いの欄間から洩れる灯りは両人とも深夜まで及んだと聞く。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』p_61~62)



★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★辻潤『ですぺら』(新作社・1924年7月11日)

★『辻潤全集 一巻』(五月書房・1982年4月15日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




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第18回 遺書






文●ツルシカズヒコ



 一九一一(明治四十四)年四月末、下谷区下根岸の代家に野枝宛ての一通の分厚い手紙が届いた。

 この時、野枝は上野高女五年生である。

 差出人は周船寺(すせんじ)高等小学校の谷先生だった。

 それは長い長い手紙だった。

 書き出しはこうである。


 もう二ヶ月待てばあなたは帰つて来る。

 もう会えるのだと思つても私はその二ヶ月をどうしても待てない。

 私の力で及ぶ事ならばすぐにも呼びよせたい。

 行つて会ひたい。

 けれども、もう廿二年の間、私は何一つとして私の思つた通りになつたことは一つもない。

 私の短かい二十三年の生涯に一度として期待が満足に果たされたことはない。


(「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p119)


 自分の細かい近況、野枝に会いたくてたまらないこと、仕事が本当につまらなくなったこと、先のことを考えると何もする気にもなれないことなど、自分の最近の感情を打ち明けたものだった。

 暑中休暇に福岡に帰省する野枝に会う楽しみが、駄目になるかもしれないという。

 ーーあと二、三か月もすれば会えるけれど、それまでとても待てそうもない。だから、野枝に会ったら話さなければならないと思っていたことをここに書きます。あなただけに話しておきたいことを書きますーー。

 そういう前置きで書いてあったことは、彼女のここ数年の「苦しみ」だった。

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 それを読んだ野枝は理解に苦しんだ。

 なぜなら、谷先生は他人に誉められたり尊敬されたりすることに苦しんでいたからだ。

 谷先生は小さいころから他人の機嫌を損ねるようなことのない人だった。

 大人に誉められれば誉められるほど控えめで、大人はさらに感心したが、彼女はそれをうれしいと思ったことはなかった。

 苦しくなってきたのは、小学校の教師になったころからだった。

 子供のころは他人の意志を尊重していればよかったが、教師になると自分の意志で決定決断しなければならないことがあるからである。

 しかし、子供のころからの習慣で他人を不愉快にしたり、怒らせたりすることがいやで、ついつい自分を引っこめてしまう。

 だが、自分のやり方が正しいと思うのなら、反対されようと、自分の意志を貫くべきではないかという自責の念にもかられる。

 谷先生は基督教の説教を聴くようになった。

 他人に対する寛大さや、愛他的な気持ちや、犠牲行為は、彼女にとってなんでもないことだったので、立派な信者だと誉められた。

 しかし、彼女はもっと深い力強い何かを教えてほしかった。

 彼女の苦しみは深くなった。

 自分の意志を尊重すると、他人の意志と衝突し、すべての人を敵にするようなハメに陥ったからだ。

 谷先生は勇気を持って謀反を起こせばよいのだと思うが、誉められるのも嫌だが、憎まれるのも恐いから、それができない。

 自分の不徹底と卑怯を嘲り、憤り、悲しむ。

 そして死ぬよりほかに道はないと思うほど、卑怯物で悪者で浅ましい人間だという。





 一字一句も読み落とすまいとして、貪るように読み進んでいくうちに、野枝には何だかわからないような(悲しいような、恐いような気のする)ことが書いてあった。


 私は毎日教壇の上で教へてゐる時、又職員室で無駄口をきいてゐる時、私が今日死なう明日は死なうと思つてゐる心を見破る人は誰もない。

 恐らくは私の死骸が発見されるまでは誰も私の死なうとしてゐる事は知るまい、と思ひますと、何とも云へない気持になります。

「それが私のたつた一つの自由だ!」と心で叫びます。

 本当に私のこの場合ひにたつた一つたしかめ得たことは、人間が絶対無限の孤独であると云ふことです。

 私の死骸が発見された処で人々はその当座こそは何とかかとか云ふでせう。

 けれども時は刻一刻と歩みを進めます。

 二年の後、三年の後或は十年の後には誰一人口にする者はなくなるでせう。

 曾(かつ)て私と云ふものが存在してゐたと云ふことはやがて分らなくなつてしまふのです。

 よりよく生きた処でわづかにタイムの長短の問題ぢやありませんか。

 人間の事業や言行など云ふものが何時まで伝はるでせう。

 大宇宙!

 運命!


(「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p120~121)





 そして、野枝には強者として生きてほしいという切なるメッセージが連ねられていた。


 たゞ私は最後の願ひとして、私は本当に最後まで終(つい)に弱者として終りました。

 あなたは何にも拘束されない強者として活きて下さい。

 それ丈(だ)けがお願ひです。

 屈従と云ふことは、本当に自覚ある者のやることぢやありません。

 私はあなたの熱情と勇気とに信頼してこのことをお願ひします。

 忘れないで下さい。


(「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p121~122)





 谷先生の長い長い手紙は、こう結ばれていた。


 よく今迄私を慰さめてくれましたね、本当に心からあなたにはお礼を申ます。

 随分苦しい思ひもさせました。

 すべて御許し下さい。

 混乱に混乱を重ねた私の頭です。

 不統一な位は許して下さい。

 ではもう止します。

 最後です。

 もう筆をとるのもこれつきりです。

 左様(さよう)なら。

 左様(さよう)なら。

 何時迄もこの筆を措(お)きたくないのですけれど御免なさいもう本当にこれで左様なら。


 (「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p122)





 不安になった野枝は大急ぎで返事を書いた。

 夢中になって長い返信を書いた。

 何を書いたか覚えてないほど興奮して書いた。

 自分が帰省するまでは、どんなことをしても無事でいてくれるようにと何度も何度も書いた。

 一九一一年四月末、谷先生からのこの手紙を受け取った野枝が、「遺書の一部より」と題して『青鞜』に掲載したのは一九一四年秋だった。

 さらに、野枝がこの手紙について言及した「背負ひ切れぬ重荷」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)が、『婦人公論』に掲載されたのは一九一八年の春である。

「曾(かつ)て私と云ふものが存在してゐたと云ふことはやがて分らなくなつてしまふのです」と谷先生は書いたが、野枝が残した文章により、彼女の存在は永遠に記憶に留められることになった。



★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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