2016年12月31日

第404回 平林たい子






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年四月二十九日の昼下がり。

 佐藤紅緑、大杉栄、林倭衛の三人は、パリの紅緑の宿泊先を出た。

 シャンゼリゼ公園に春の光が漲っていた。

 マロニエやプラタナスの美しい芽が吹き出していた。

 パリの市民は若返ったような顔をして散歩している。

 大杉は林と並んでしきりに、林のフランス語の発音に注意をしたり、友達の噂話をしたりした。

 紅緑は少し離れてふたりの後を歩いた。

 ふたりはときどき、年長者をいたわるように紅緑を振り返った。

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 私は又しても奇妙な感想に捉へられた、此処に三人の男が歩いて居る、一人は純社会主義者で一人は純国家主義者だ。

 さうして今一人は夫等を超脱した純芸術家だ。

 離れ/\の思想を抱いた三人が胸に滴るが如き親みを以て腕を組んで行くのはどういふわけだらう。

 私は思想問題に就いて語る事を避けた如く、大杉氏も夫れを避けた。

 三人は散々遊んで疲れた。

 すると大杉氏はパリで第一等の料理を食ひたひと言た。

「よし、行かう」

 林氏は第一等の料理屋と称する処へ案内した。


(佐藤紅緑「巴里に於ける大杉栄氏」/『文藝春秋』一九三〇年一月号)





 林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」によれば、「その夜はS・Kに誘はれて晩飯を喰いに三人で出掛けた。レストランの案内は僕にしろと云ふので、僕は二人をグラン・ブルヴアルの巴里でもまづ上等と云へる家へ連れて行つた」。

 大杉たち三人の向かいのテーブルには、六十くらいの男と四十くらいの女が座っていた。


 二人は食事中にも拘はらず小刀と肉叉を置いて接吻した。

「やあ、またやりあがった」

 林氏は眼前の接吻を見る度に言た。

「驚いたものだ、まるでカナリヤの様だ」

 私は恁(こ)う言た。

 林氏と私がそんな事を屢々(しばしば)言たが大杉氏は何にも言はなかつた。

 彼は夫れだけ洗練されて居たのである。

 他人の自由に対して批評を加へないのはパリジヤンの道徳である。


(同上)





 あっちこっちでキスが始まったので、キスに酔ったように三人は店を出た。

 まだ時間が早かったので、三人はカフェ廻りをした。

 大杉が女郎屋を見たいと言うと、紅緑も賛同し、三人は赤い軒燈の家へ入った。

 トンネルのような細長い路地をつき当たった扉を押すと、昼のように明るい電燈の下に十人ばかりの裸の女が並んでいた。


 何しろ身体に一糸を纏はぬ十人の女ーー身に着けたものは靴だけであるーーが私達を見るや否や灯取蟲が電燈に群る様に跳び付いて来たのだから堪らない。

 いかに肉を売るのが商売とはいふものゝ赤裸々の肉其のものを店頭に晒らすに至つては外国人は日本人よりも遥かに惨忍であり非美術的であり低級趣味であると思つた。

 だがそんな事を考へては居られない。

 女はどしどし肱を取り首に巻き付き大蛇の様な唇を寄せて来るのだ。

「ビールを飲まう」と大杉氏は言ひ出した。

 裸体女の曲芸が始まった。

 女の中に一人の黒人種があつた。

 白人の中の黒人は益々黒く見へる。

 其顔は破れた古靴の如く横に広がつて唇だけは赤子を食つた様に赤い。

 此の怪物は私を目がけて突進して来た。

 恰も夫れは有色人種同士だから同情してくれと言ふかの如く見へた。

 同情はするが近寄られては困る。

 私は逃げ出さうとした。

 すると大杉氏は彼女を自分の傍に坐らせた。

「こいつは可愛さうだよ」と彼は言った。

 私はそこに大杉氏の片鱗を見た。

 彼は洋盃を捧げて女に飲ませ、それから煙草を一本くれてやつた。


(同上)





 三人が娼家を出ると、大杉が言った。

「あれに比べると、日本の公娼の方が遥かに上品だ」

 廃娼論者の紅緑もそれに首肯しないわけにいかなかった。

 三人は再びカフェに行き、午前二時ごろに紅緑はタクシーで宿に帰った。

 紅緑がタクシーに乗るとき、大杉が紅緑に言った。

「明後日(あさって)の労働祭に労働者が芝居をやります。木戸銭は一フランです。見て行きませんか」

「結構、見たいな」

「じゃ、僕が迎えに行くから待っててくれ給え」

「ああ、待ってるよ」

 四月三十日、大杉は『東京日日新聞』の記者・井沢弘に原稿を渡したが、その原稿は「仏京に納まつて」というタイトルで六月二十二日から四日連続で同紙に掲載された

 大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』「編集後記」によれば、この時点ではまだ大杉の国外脱出後の行動の詳細が不明だったので、『東京日日新聞』に「仏京に納まつて」(単行本『日本脱出記』には「パリの便所」と改題収録)が掲載されたことにより、大杉の滞仏が明白になったという。

 四月三十日の夜、大杉はオペラ座の近所に出かけた。





 ……夕飯を食ひがてらオペラ近所へ行つて、そこから更に時間を計つてドリイに会ひに行かうと思つた。

 が、そのオペラの近くのグラン・キャフェで、前に一度あそんだ事のある、そして二度目の約束の時に何かの都合で会へなかつて、それつきりになつてゐる或る女につかまつてしまつた。


(「牢屋の歌」/『東京日日新聞』一九二三年○月○日/『日本脱出記』・アルス・一九二三年十月二十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』・一九二五年七月二十五日/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)


 ドリイは踊り場、バル・タラバンの踊り子で、大杉のお気に入りだった。

 彼女との関係について、大杉はこう書いている。


 牢やの中では、いつも僕は聖者のやうなのだ。

 時々思ひだしたドリイだつて、実は一緒に寝たには寝たが、要するにたゞそれつきりの事だつたのだ。
 
 ――Faire lmour, ce n'est pas tout. Ju es trop jolie pour cela. Je t'adore.

 と云ふやうな甘い事を、実際甘すぎてちょつと日本語では書きにくいのだ、子守歌でも歌つて聞かせるやうな調子でお喋舌りしながら寝かしつけてゐたのだ。

 そして又、それだからこそ、時々彼女を思ひだしたのだらうと思う。


(同上)


「牢屋の歌」の末尾に「ーー 一九二三年七月十一日、箱根丸にて ーー」とある。

 この日は大杉を乗せた箱根丸が神戸に入港した日なので、大杉はこの原稿を神戸上陸の寸前に書き上げたことになる。

 なお大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』「編集後記」によれば、「牢屋の歌」は大杉が帰国してまもなく『東京日日新聞』に掲載されたとあるが、その掲載日は調査中。





 このころ、アナーキスト山本虎三と同棲していた平林たい子は、山本と一緒に野枝を訪問した。


「労働運動社」という表札のかかった大杉家の表には、私服の刑事がうろついていて、堺家と同じに来訪者をいちいち検問する。

 家には中年の、筒袖を着た大杉氏の同志が、主義のために結婚もあきらめてごろごろしていた。

 のち、堺真柄さんの夫君になられた近藤憲二氏もいた。

 氏は、大杉氏最愛の後輩で、そのころはまだ若く独身だった。

 野枝さんは、神近さんと違って、ちょっと頽(くず)れたやわらかい感じのする小柄な人だった。

 長い煙管を持って、立膝で煙草をすいながら、

「若くていいわね。おいくつ?」

 と私に声をかける。

 私はまだ数え年で十九にしかなっていなかった。

 そう答えると、

「前途有望ね。あなたは勝気そうだから気に入ったわ。」

 こんな口調は、どこからみてもインテリ婦人とは見えなかった。

 が、大杉氏と並んで、「改造」や「解放」などにむずかしい論文を書いている婦人評論家としては、足許にもよりつけない高嶺にそびえてみえた。


(『砂漠の花』・光文社 ・一九五七年/『平林たい子全集7』・潮出版社・一九七七年)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:09| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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