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2016年06月29日
第266回 野枝さん野枝さん
文●ツルシカズヒコ
野枝の叔母・代キチは、瀬戸内晴美の取材にこう答えている。
大体、主人と申す男が、金を貯めることよりも、人間を育てることが好きに出来ておりまして、敵味方もなく、これという人物には惚れこむたちのようでござりました。
後になって、大杉のことなども、自分は右翼の玄洋社にいながら、ずいぶんと面倒をみるような気になったのも、主義主張より、大杉の人間に惚れこんだのかと存ぜられます。
大杉のことでござりますか。
はあ、大杉も辻潤もよう存じております。
辻はおとなしい煮えきらないようなところのある人に見うけられましたが、大杉はほんによか男でござりました。
とくに女子供に対した時のやさしさは、何ともいえないものがござりました。
どうしてこんなやさしい人を世間が恐しがるのだろうと思ったことでござりました。
はあ、それは辻もなかなかにやさしいところのある男にござりました。
野枝の男たちはみんな野枝を大切にしたようでござります。
はじめは、野枝が大杉さんにはしりました時、(代は)とても怒っておりましたが、お終いには大杉さんの人物を理解いたしまして、死んだ時などは、それはよう面倒をみておりました。
(瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p25~27)
野枝の妹・武部ツタは、瀬戸内晴美の取材にこう答えている。
後に私は下関へ落着くようになりましたが、いつだって東京からこの家に帰る途中、寄るんです。
決まってキップは下関までしか買ってやしません。
今宿から東京に帰る時も、必ず下関までしか買って来ません。
あとはみんな私持ちと決めていますし、お小遣いはもちろん、私が出すものと決めていました。
ええ、子供を産むたび、辻の時も大杉の時も今宿へ帰ってくるんです。
理由?
お産する費用と産前産後の休養をうちでとるのが一番安上がりだからに決まっておりますよ。
もう年とった母が、小さな子供のお守りをしながら赤ん坊のおしめ洗いをさせられて、よくぶつぶつぐちをこぼします。
あたしが、若い時から何も世話になった娘じゃなし、すてておけばいいじゃないかといいましても、結局、気の優しい母は、それでもわが産んだ娘じゃものといって、やっぱり面倒をみつづけていました。
その間だって姉は、暇さえあれば本を読んでいて、家に帰っている間は、おしめの洗濯なんかしやしませんでした。
……辻の時も、大杉の時も、亭主づれでよく来ていました。
大杉の時は、父が怒って、世間にみっともないからといって、大分長く絶縁していましたが、結局父の方で折れて、大杉もつれて来るようになりました。
ええ、まあ、男運はよかったんじゃないですか。
辻も大杉もとても優しくて、姉のことを野枝さん野枝さんと、そりゃ大事にしていましたもの。
両方ともいい男でしたけれど、やっぱり大杉の方がずっといい男でした。
男らしくて、優しくて、堂々としていましたよ。
辻はどこか、なよなよして、ぐずついた感じでした。
姉はおしまいには辻のことを、ぐずだぐずだとこぼしていました。
大杉があの大きな軀をおりまげて、井戸端で赤ん坊のおしめを洗っていた姿を、今でも覚えておりますよ。
大杉が来ると、そういうことは小まめにやって、姉の下のものでも何でも洗ってやっておりました。
辻のことだってもちろん、はじめの間はとても気に入っておりましたよ。
辻は尺八の名人でしたから、尺八を吹き、姉は三味線をひいて仲よく合奏したりしていたのを覚えています。
まあ、こんな田舎の人のことですから、父も母も結局は姉の夫だというので、どちらが来た時にも、できるだけ尽していたようです。
大杉と一緒になってからは、この静かな小っぽけな村まで、大騒ぎになりました。
駐在のお巡(まわ)りさんは、それまでは、この村の駐在に来ると、仕事がなくて、釣でもしてればよかったのに、姉が大杉といっしょになって以来は、泣かされていましたよ。
えらいところへ来さされてしまったと、みんな来るたんびにうちに来てこぼしたものです。
はあ、それはもう、三日にあげず、うちへやって来て、東京から、どんな便りが来たか、どんな変ったことがあったかと、訊きに来なければならないんです。
そんなところへ、姉たちが帰ってでも来ようものなら一大事です。
一日中、うちのまわりをうろうろして見張っていなければなりません。
それをまた、姉も大杉も平気で堂々とつれだって散歩になんか出ますものですから、そのたび、お巡りさんは尾行でへとへとになっていました。
姉はそんなお巡りさんをしまいにはみんな手なずけてしまって、使い走りをさせたり、子供のお守りをさせたりするんです。
荷物なんか、いつでも駅から尾行に持たせてやって来ましたよ。
身なりをかまわないのは相変わらずで、うちへ来る時は一番ひどくなったものを着て、仕立直してもらう肚(はら)ですから、綿なんかはみ出たものを着て平気です。
羽織の紐なんか、いつもかんぜよりでした。
(瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p39~42)
ツタは再婚をしているが、再婚した相手は廓を経営している二十七も年上の男だった。
その時、姉が私に軽蔑したように、「いくら何だって、よくもまあそんなに年のちがった男に嫁ぐものだ。それでいいの」っていうんです。
その言葉が忘れなれなかったものですから、姉が大杉といっしょになる時、私もいってやったものですよ。
「よくもまあ、そんなに女が何人もいる男といっしょになる気になったもんだ。それでいいの」
姉はけろりとして、
「女なんて、何人いたって平気よ。今にきっとあたしが独占してみせるんだから」
といいました。
ま、姉は、いったことは必ずその通りにしました。
それだけは不思議でした。
(瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p45~46)
野枝も大杉もツタの夫の商売である廓についてはノーコメントだった。
ツタの夫は年齢が年齢だけに、最初は野枝や大杉をまったく理解せず、つき合うことも嫌っていたが、そのうちふたりを受け入れるようになり、野枝と大杉はツタの家にも出入りするようになった。
姉は、あんな主義だったけれど、そのことで、私たちの商売をとやかくいったことはありません。
大杉もそうでした。
そのかわり、当然みたいにお金だけはとられましたが。
下関の私の家へもよく来ました。
(ツタの夫がまだ野枝たちに理解がなかったころは)私は姉の手紙でいつでも駅までゆき、駅で金をわたして、つもる話をするという方法で逢っていたくらいです。
姉たちの来た後の迷惑だったことといったらーー、必ず、警察から呼出しがあって、朝何時に起きて、何時に御飯をたべたまで訊かれるんです。
一日がかりでいやになりましたよ。
滞在中も二、三人の尾行が家のまわりに立って見ています。
うるさいったらないんです。
それでしまいには、姉は駅へつくとすぐ、自分から警察に電話して、今つきましたよっていうようになりました。
結局、尾行は姉に荷物をもたされて、子供を背負わされてうちまで送ってくるという有様でした。
(瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p46~47)
『伊藤野枝と代準介』によれば、代千代子と野枝は真夏の今宿の浜で海水浴を楽しんだ。
砂浜では子供好きの大杉が、魔子と千代子のふたりの女児をあやしていた。
千代子二十四歳、野枝二十三歳であった。
野枝と千代子はこんな水着を着て泳いだのかもしれない。
野枝と大杉の間に生まれた四女・ルイズは、祖父母(野枝の父・亀吉、母・ムメ)から聞かされた、大杉の小さな取るに足らぬエピソードに心が和んだという。
たとえば、今宿の家にきた大杉が子供たちのおむつを洗い、風呂の水をバケツで汲みこみ、地引網でとれたいかの刺身を天下一品だと喜んだとか、この浜の景色は、須磨、明石などよりははるかにすぐれているといったとか。
そんな話のくり返しのなかにも、大杉に対する祖父母の思いがこもっていて、こころよい話であった。
(伊藤ルイ「新しき女の道」/なだいなだ編『日本の名随筆97 娘』_p94~95)
★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)
★なだいなだ編『日本の名随筆97 娘』(作品社・1990年11月20日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第265回 大杉栄と代準介
文●ツルシカズヒコ
一九一八(大正八)年六月、野枝は安谷寛一に葉書を書いた。
宛先は「神戸市外東須磨」(推定)。
発信地は「南葛飾郡亀戸町二四〇〇番地」(推定)。
其後いかゞ。
お子達はお丈夫ですか。
私の処の赤ん坊もやう/\のことでなをりました。
手なしでいろんな仕事がちつとも進行しないので、当分の間仕事を持つて九州に行くことにしました。
此の家は今月一杯です。
秀世さんのおべゝは行きに持つてゆきます。
クララはもうたつたでせうか。
もしまだゐるやうだつたら、来月はじめに私はそちらを通ります。
多分特急ですから寄ることは出来ませんが、一分でも二分でも、まだもしゐるのなら会ひたいのですが、一度たづねて見てくれませんか。
(「書簡 安谷寛一宛」一九一八年六月推定/安谷寛一編『未刊大杉栄遺稿』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p46)
「私の処の赤ん坊」は前年九月に生まれた魔子、「此の家は今月一杯」は七月に亀戸から滝野川に引っ越すこと、「秀世さん」は安谷の子供。
クララはイワン・コズロフ夫人のクララ・サゼツキーのことで、コズロフ夫妻はモスクワ行きを計画していた。
野枝が魔子を連れて福岡県の今宿に出発したのは、六月二十九日だった。
翌、三十日に今宿に到着した。
避暑を兼ねていたが主目的は金策である。
矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、代準介が大阪の株界を引き、妻のキチと博多に戻ったのは、この年の六月だった。
代は住吉神社そばの住吉花園町(現・福岡市博多区住吉)に居を構えた。
野枝は主に従姉(いとこ)の代千代子の今宿の家で過ごした。
魔子は生後九ヶ月であり、千代子も三歳半の長女と魔子と同じ年の次女をかかえていた。
代は魔子を実の孫のごとくに抱き上げ、義絶心を柔らかく溶かした。
そのけじめとして、大杉を博多に呼ぶよう、野枝に伝える。
どんな人物なのか、この眼で見たくなったのだ。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p139)
七月八日、野枝の留守中、大杉家は南葛飾郡亀戸町二四〇〇から、北豊島郡滝野川町田端二三七に引っ越した。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、月の家賃九円の小さな家だった(現・田端一丁目七番付近)。
和田と久板も一緒に移住、飼い犬の茶ア公も連れて行った。
引っ越した理由はまたも金銭的なことだった。
六月十六日
大杉君は近い内にひっ越すという。
それはこの日比谷地所ないの親方甚万というのが、大杉君とこへいって、「貴方が来られてから地所ないに刑事が盛んに出入りするので、賭博が出来ない。現に大分あげられているさまで、これまで滞った家賃を棒引にし、五十円出すから、助けると思って立退いて呉れ」といって来た。
そんなら助けてやろうというのである。
それで四五日前に甚万から大杉君へ生魚を送って来た。
僕の宅へも黒鯛とコチと□(不明)とを貰って、鯛の皮付で一飲みしたワケだ。
勿論甚万は口を利いただけ、これは大家から出したのだろう。
(『橋浦時雄日記 第一巻』)
七月十一日、大杉が林倭衛とともに野枝の帰省先・今宿に向かい、十四日に今宿に到着した(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。
『定本 伊藤野枝全集 第四巻』「伊藤野枝年譜」によれば、大杉は八月三日まで今宿の旅人宿・松井八十方に滞在したとあるあが、『伊藤野枝と代準介』にはその記述がなく、野枝の約一ヶ月の帰省中、野枝と大杉と魔子は「代の家と今宿で過ごし」とある。
このとき福岡市住吉花園町の代準介宅で撮影された大杉の写真が、『伊藤野枝と代準介』に載っている。
結局、大杉は代準介の眼鏡に叶った。
「牟田乃落穂」の中に、代準介の大杉への感慨が記されている。
大杉栄は世に恐ろしき怪物の様に誤り傳へられ居りしが、其個性に於ては實に親切にして情に厚く、予、初めて対面せし時等、吃して語る能はず、野枝の通訳にて挨拶を終へたり。
親交重なるに従ひ吃音せず談笑したり。
尤も演説又は官憲に対しては流暢に弁論をなす。
或る時、社会問題は容易に實現せざるべしと云ひしに、是は五百年千年、又は永劫實現せざるやも知れず、去り乍ら、理想の道程を縋(すが)り行くこと吾任務なりと
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p140)
大杉は今宿滞在中に『糸島新聞』に取材をされ、こう語った。
自分ハ社会改善ノ為メ全力ヲ傾注スル考ナルガ、如何ナル方法ニ依リ改善スルカハ具体的腹案モナク、又発表スル限リニアラザルモ、中央ノ権力ヲ今少シ自治団体ニ移シ、現在ヨリモ強大ナル団体ヲ作リ、以テ人民ノ生活ヲ容易ナラシメタシト考フ」
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p141)
さらに『部落解放史ふくおか』創刊号(一九七五年刊)に掲載された井元麟之「ひとつの人間曼荼羅」の中で、井元は代準介を紹介する文中で、大杉と野枝に言及している。
大杉栄は、大正七年に野枝夫人と共に、海浜に近いその実家(福岡市西区今宿)に滞在して、時には海水浴に興じながら一と夏を過した。恐らくこれは大杉夫妻にとって、生涯を通じて最も平和で幸福な日日ではなかっただろうか
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p140)
★安谷寛一編『未刊大杉栄遺稿』(金星堂・1928年1月10日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『橋浦時雄日記 第一巻 冬の時代から 一九〇八〜一九一八』(発売・風媒社 /発行・雁思社・1983年7月)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index