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2016年06月04日
第240回 百姓愛道場
文●ツルシカズヒコ
日蔭茶屋事件後、半年くらいの間、大杉は「神近の怨霊」をよく見たという。
……夜の三時頃、眠つてゐる僕の咽喉を刺して、今にも其の室を出て行かうとする彼女が、僕に呼びとめられて、ちよつと立ちとまつて振り返つて見た、その瞬間の彼女の姿だ。
毎晩ではない、が時々、夜ふと目がさめる。
すると其の目は同時にもう前の壁に釘づけにされてゐて、そこには彼女の其の姿が立つてゐるのだ。
そして、其のいづれの場合にも、僕が自分に気のついた時には、おびえたやうに慄えあがつて、一緒に寝てゐる伊藤にしつかりとしがみついてゐるのだつた。
……僕は本当の自分に帰つて……手を伸ばして枕もとの時計を見た。
時計はいつも決つて三時だつた。
『又出たの?』
『うん。』
と、伊藤はそれを知るつてゐる事もあつた。
が、ぶる/\慄えたからだにしがみつかれながら、何んにも知らずに眠つてゐる事もあつた。
そして、よしそれを知つてゐても、僕のおびえが彼女にまでも移る事は決してなかつた。
彼女はいつも、
『ほんとにあなたは馬鹿ね。』
と、笑つて、大きなからだの僕の頭を子供のやうに撫でてゐた。
(「お化を見た話」/『改造』1922年9月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』には「葉山事件」と改題所収/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』)
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九一七(大正六)年四月九日、大杉と野枝は江渡狄嶺(えと-てきれい)を訪ねた。
……当面の生活費、さらには運動への後援、資金の懇望のためだろう。
彼は応じたらしく、さらに『文明批評』発刊時にも、資金援助をしてもらったとみられる。
江渡は府下高井戸村(現、杉並区高井戸東一丁目)で「百姓愛道場」を開き、農業経営を実践していた。
(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p207)
六月十七日、神近の控訴審判決が出た。
懲役四年から懲役二年に減刑された。
弁護士は一年以下の懲罰にできると踏んでいたが、神近が服役してサッパリ罪を償いたいという意思表示をしたので、控訴は取り下げられた。
六月下旬、空には雲があったが、その間から初夏の強い陽が射していた。
この日、生田春月のところに来客があった。
そのときのことを春月は自伝的小説「相寄る魂」に記している。
生田春月はモーリス・メーテルリンクの『モンナ・ヴァンナ』の翻訳を終えたばかりだった。
その原稿を持って書店に売り込みに行こうかと思い、机の上などを片づけていると、下宿の女中が来客を知らせに来た。
「お客様ですよ、御夫婦らしいですわ」
「お邪魔じゃないかね」
と言って入って来たのは、思いがけず大杉だった。
大杉の後ろには小柄な野枝がいた。
野枝は髪を真ん中から分けて頸で束ね、ニコニコしていた。
「ついこの前を通ったもんですから……」
彼女はやはりニコニコして、そこらじゅうを見回しながら、大杉のそばに座った。
「静かでいいわね、この部屋は……」
野枝はいそいそしている様子で、誰に言うともなく呟いて、春月をちょっと見てから、大杉の顔を甘えるように覗いた。
「どうしています。何をやっています?」
「メーテルリンクの『モンナ・ヴァンナ』の翻訳を仕上げたところです」
「『モンナ・ヴァンナ』を?」
大杉は意味ありげに微笑した。
大杉のその落ち着いた様子に、新聞や人の噂で伝わっているような興奮や熱しているような気配は、微塵もなかった。
日ごろ疎遠になっていた大杉が野枝と連れ立って、序(つい)でとはいえ、訪れてくれたことが春月は嬉しかった。
大杉が愛する女、野枝の濃い眉をした丸顔がニコニコしていた。
辻潤とも親密な交わりのあった春月は、このときの野枝の印象をこう書いている。
「奈枝子」は野枝、「隅田順」は辻、「大菅左門」は大杉。
奈枝子はすつかり若く見えた。
隅田順の家で、暗い皮肉な顔をして、子供をかかへてゐた時とは、まるで別人のやうに見えた。
新調らしい派手なセルの着物に、赤の入つたメリンスの帯を締めて、その服装からして、まるで甦つたやうに、いかにもいきいきとして見えた。
隅田順の家で、あのやうに老けて、理窟つぽく、ドゲトゲして見えたその女が、大菅左門の傍で、こんなにもいきいきと、あどけなく、女らしい女に見えるのに、純一は注意を向けずにはゐられなかつた。
(「相寄る魂」/『生田春月全集 第四巻』)
「あなたのところにも、その本があったわね」
春月の蔵書を物珍しそうに見ていた野枝が、そこに出ていた『義人田中正造翁』を見て言った。
「ああ、その本ですか」
と春月が言った。
「あれは面白かったでしょう。あの中にある翁の臨終のときの言葉はずいぶん考えさせられるわ。あの中に島田宗三という谷中村の若者がでているでしょう。あの男だけは少しはもののわかる男だってことですが、谷中村には本当に翁を理解する者がなかったってことは事実ですわ……」
「谷中村は今はどんなになっているんでしょう? ずいぶんひどくなっているでしょうね」
と言う春月に、野枝が大杉と連れ立って谷中村を訪れたときの話をひとしきりし始めた。
「わざわざ遠くから訪ねて行った私たちに、別に感謝するふうでもなく、冷淡かと思われるような様子でしたよ」
野枝が話している間、大杉は何も言わず、話を静かに聞きながら微笑している。
「どうだい少しは重荷が下りたような気がするか、もっとあそこでいろんなことを訊くのかと思ったら、何も訊かなかったねと、帰りに大杉に言われたんですけれど、本当にあそこの荒涼とした、すっかり生気を奪われた、何里四方の泥地を考え出すと、言うに言えない気がしますわ」
野枝が村の住民の反応について、大杉に問いかけるように言った。
「けれど、あの人たちはどうしてあんなに冷淡なんでしょうね。まるで反感でも持っているようだわ」
「そうだね、別に反感を持っているというわけでもなかろう。ことさらに感謝や女々しい感情を見せないだけ、そこにしっかりした諦めと決心とが見えているじゃないか。なかなかああはいかないものだ。それに、どんな場合でもそうだが、我々はたとえ自分たちのことを理解されなくったって、虐げられているもののために働かなきゃならないのだ」
大杉はしっかりした調子で、野枝に話した。
「僕はこの間、辻君に逢いました、宮嶋君と一緒でした」
春月がこう言うと、大杉は顔色ひとつ変えずに微笑しただけだったが、野枝は険しい目つきになった。
「辻君はあいかわらずスティルネルの話をしていましたが、宮嶋君がさかんにやっつけるので閉口してましたよ」
「宮嶋がやっつけるのは、むしろ僕じゃないですか。なんでもたいへん僕に対して憤っているそうだから」
「そうですってね」
と野枝が口を歪めて言った。
「私をぶん殴るんですって……ぶん殴りたければぶん殴るがいいわ、かまやしないわ。こうなってくれば、世間全体が敵になったってかまやしないわ。世間なんか恐れていて何ができるもんですか!」
野枝がそんなふうなことを荒々しく、野生的に言うとき、春月はなんだか若い牝馬でも見ているような気がした。
大杉はそうした野枝の様子を慈しむように見ながら、自分はそうした世間や同志の非難や反感などについては何も言わず、春月の興味の持ちそうな話題を選んで話し出した。
大杉は春月と共通の知人の近況などを淡々と話し終わると、急に語調を変えて言った。
「しかし、僕とてもみんなを非難できないかもしれない。それにしても最初の意気込みだけは失ってもらいたくないね。いったい、誰しもが初めて抱いて出発する感情を、よく幼稚なセンティメンタリズムだなどと言って笑うが、この生々しい実感のセンティメンタリズムが、本当の社会改革家の本質的精神なんだよ。それをみんな、長い間の無為と韜晦(とうかい)との惰性から、すっかり忘れたようになっている。これが何よりもいけない。僕自身が現にその硬直した心になって、無感激に陥ろうとしていたからね。僕としては今、僕の幼稚なセンティメンタリズムを取り返したい、憤るべきものにはあくまで憤りたい、憐れむべきものにはあくまで憐れみたい。それにはまず、自分の生活を変えなくっちゃならない……」
「そうですわ、自分の生活から……」
野枝が言った。
大杉と野枝は一時間くらいいて、これから近くの雑誌社に行くと言ったので、春月も原稿を持って三人で下宿を出た。
大杉たちには尾行がついているようには見えなかった。
途中でまいたのかもしれないと春月は思った。
通りまで出て、街角に行くと、大杉たちは右の方へ、春月は左の方へ歩いて行った。
春月がしばらくして振り返って見ると、プラタナスの青い葉が繁っている下に、大杉と野枝が睦まじそうに、何か話しながら歩いている姿があった。
たったひとりの女の殉情に身を委ね、心を励ましている、大杉の一種憂鬱な、いわば勝利の悲哀が、春月の心に残り留まった。
春月は大杉が野枝を自分の救いにしているのだということを、実にはっきりと理解した。
多大の犠牲を払っても敢えて悔いていない、大杉のその心事を春月は了解したと思った。
奈枝子自身は、別に深い思想の持主ではない。
けれども、女には、とりわけ或る種の女には、この不思議な、男子を鼓舞する霊妙な力がある。
古来、すべての革命に、紅一点とも云ふべき女性を見出すのは、かういふ意味合ひもあらう。
男子は石炭の如く燃える、然し、女性は石油の如く燃えあがる。
そしてその速やかな焔と熱は、男子の可熱性のためには、いかに貴重なものであらう!
(「相寄る魂」/『生田春月全集 第四巻』)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★生田花世・生田博孝編集『生田春月全集 第四巻』(新潮社・1930年12月/復刻版は飯塚書房発行・本郷出版社発売・1981年12月)
※生田春月の自殺
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第239回 平塚明子論
文●ツルシカズヒコ
野枝は『新日本』四月号には「平塚明子論」を書いた。
らいてうは「最近の我国婦人解放運動の第一人者として常に注目されつゝある」存在だった。
野枝はまず冒頭に自分とらいてうとの関係を書いた。
私は学校を出た許りの十八歳の秋から三四年の間ずつと氏の周囲にあつた、氏に導かれ教へられて来た、私が今日多少とも物を観、一と通り物の道理を考へる事が出来るやうになつたのも氏に負ふ処が少くない。
私にとつて氏は忘れる事の出来ない先輩でもあり、また情に厚い友人でもある。
そして氏の傍にゐた間、可なり氏は氏の生活を打ち開いて見せられた。
それだけにまた氏の真実にも接し得たと信ずる。
私は、ずつと前から氏に対する理解なき言論を見る度びに残念に思つた。
或る時には自分のやうに口惜しさに歯をくひしばつた事さへある。
……二年程前あたりから、いろ/\な事情がだん/\に二人を遠くした。
それにも、私は多くの責を自分に感じてゐながらどうする事も出来なかつた。
そうして二人の実際の上の交りが隔つて来ると同じやうに思想の上にも稍(やや)はつきりと相異を見出すやうになつた。
殊に最近の私の上に起つた転機は私の境遇にも、思想の上にも、即ち私の全生活を別物にした。
一方平塚氏も……文章の上にも、理論に於ても、あるひはその態度に於ても大家の風格を具へて来た。
(「平塚明子論」/『新日本』1917年4月号・第7巻第4号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p414~415)
この批評もけっこう長いので、以下、抜粋要約。
●らいてうは、それまでの日本婦人には希有な明晰な頭脳と思索力を持っている聡明な女性である。
●しかるに、彼女の聡明さが反感を買うのはなぜか? 「一人自らを高し」とし、「自分だけには欠点のないやうな顔をする人」という反感を買うのはなぜか?
●らいてうの聡明さは他人の欠点を笑って、平気で自ら一人高く済ましているような浅薄なものではないと信じたい。
●らいてうは他人の欠点を見ることによって、自省を深め、用心深くなり、用意周到に自分を慎み深く保とうとしているのである。
●世間の多くの人々はらいてうを理智一辺倒の人として、硬い冷ややかで女らしい感情もないように思っているようだが、それは大きな間違いだ。氏はあの冷ややか表構えの奥に、女らしい温かさと柔らかさを限りなく持っているのだ。
●実家を出るまでの、らいてうの母上に対する苦しい心持ちに幾度も泣かされことを覚えている。
●親しい友達として遇された友情にも、隔てのない温かなものがあった。そういうときの氏には、なんの嫌味も冷静さも用意もない。やさしい思いやりに富んだ親切な友達だった。そうしてこのような氏に接した者は、決して私ひとりではない。
●しかし、らいてうは終始、そうではない。あくまで用心深い。柵を作り、ある一線からは一歩も踏み込ませることをしない。
●らいてうは弱味を人に見せる人ではない。いざとなれば、人を呑んでしまう度胸はいつでも持っている。しかし、この度胸が不誠実で傲慢な人というイメージに結びついてしまう。
●らいてうは誠実で謙遜で弱味をさらけ出すよりも、いつも強く冷たく動かずにいることが快いのであろう。
●らいてうの度胸のよさ、しばしば誤解を招く遊戯衝動は禅の修養の影響が大だと思う。
●らいてうの評論集『円窓より』は、理智の力が鮮やかで、事物に対する観察は同時代の婦人の追随を許さない。
●『円窓より』には、らいてうの凄まじい情熱も読み取ることができる。情熱とはすなわち自分の主張を認めさせようとする力、その主張に対する自信である。
●婦人自覚の第一の叫びを挙げたことに対する自負、開拓者に対する世間の嘲笑と侮蔑への反抗心、そして「嘲笑の下に隠れたる或もの」に対する自信が読み取れる。
●らいてうの稀れな理智と情熱とが、とにかく我が国の婦人運動の基礎を作った。とにかく眠れるものを揺り動かした。我々は氏のその力の前に充分な感謝を捧げなければならない。
●らいてうのそうした凄まじい情熱は、彼女が世間知らずだったから、実社会に対して無知だったから、社会の偏見の恐さを知らなかったから、生まれたとも言える。
●社会を知り、用事深くなった今のらいてうには情熱がなくなった。私はその消失を悲しむ。
●森田草平との塩原事件にせよ、青鞜時代の「五色の酒」「吉原登楼」にせよ、らいてうは当初、俗衆(ぞくしゅう)の滑稽さを笑っているようなところがあった。
●しかし、俗衆の興味本位、偏見、無責任さ、愚かさなどが、自分の思想の社会的な効果をも減殺することを知るにおよんで、らいてうはそうしたものを黙過することができなくなった。
●らいてうはエレン・ケイに活路を見出した。ケイによって自分たちを取り巻く社会的事実に関してぼんやり考えていたことを明確に教えられ、それによって自分の意見をまとめることができるようになった。
●らいてうは、自分の恋愛について、さらに母親としての婦人の生活について、ケイの言葉に多くの同感を見出すことによって、ケイからさらに大きなものを吸収することができた。
●そしてらいてうは、ケイを紹介することが最も確実に自己の主張や思想を広めるための最上の手段であると考えた。
●らいてうの主張や思想はケイの中に見出したものによって落ちついたようである。
●しかし、私はエレン・ケイの思想には黙過しがたい疑問を抱いている。
●あれほど用心深いらいてうが、ケイの主張に対しては、厳密な批評をしないことが、私には不思議だし遺憾に思う。
●これはあくまで私の推察だが、ケイの誰にも肯定される批評がらいてうに多くの同感を強い、尊敬を強い、極めて自然にケイに牽引され、さらにケイに牽引されていくのに都合のよい道筋がらいてうの前に拓かれたのではないだろうか。
●らいてうの生活を説明するためには、ケイの主張が最も都合がよかったとも言えるかもしれない。
●だが、過去におけるらいてうの事業に対しては我々は充分な尊敬を持たなければならない。
●しかし、詳細にらいてうについて考えるとき、我々はもはや、最初の仕事以上のことをらいてうに期待するのは間違っているかもしれない。
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第238回 評論家としての与謝野晶子
文●ツルシカズヒコ
野枝は『新日本』三月号(第七巻第三号)に「評論家としての与謝野晶子氏」(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)を発表した。
作家としてはともかく、「評論家としての与謝野晶子」の批評であり、痛烈な批判だった。
婦人問題に関する発言において大御所的存在だっただろう晶子は当時、三十九歳。
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』解題によれば、晶子は『太陽』一九一六年十二月号「婦人界評論」の「一人の女の手紙」で、大杉を「理性の破産者」と批判していたが、その大御所に二十二歳の野枝が果敢に反撃したのである。
晶子の評論集『人及び女として』(近田書店)が刊行されたのは、一九一六年四月だった。
その中で晶子は「私の思想にも実行にも私の生の自尊から出発した反省と慎重」を持ち、「実際的の立場から物事の観察と判断とを軽々しくしないやうに」心懸けているとあるが、野枝は晶子こそが「生の自尊から出発した反省と慎重」に欠けていて、「物事の観察と判断とを軽々しく」している張本人であると指摘している。。
けっこう長い批評なのだが、以下、抜粋要約。
●まず第一に「与謝野婦人は評論家としての凡(すべ)ての条件に外れた人」として、殊に「新らしき婦人問題に就いては絶対に発言を許されぬ人」という前提で、この批評を進めて行きたいと思う。
●晶子は「自分の過去なんかどうでもよいという気持ちになって私は現在の執着に向かう」という発言をしているが、自分の過去と向き合い自省する能力に欠けていては、評論などできるわけがない。
●青山菊栄から「よく知らないことに対して軽々しく口を出すことを慎んだらどうか」という意味の忠告をされた晶子は、「間違ったことでもなんでもかまわないから言って、その間違いを訂正して貰って知識を深くしてゆくのだ」と回答したが、そんなものが評論であっていいはずがない。
●いろいろな方面から事柄を観察し、それを自分で分析解剖し、さらに自分の有する知識や理論や感情に照らして最後の断案を下すというのが、批評家の当然踏むべき手続きである。しかし、晶子のやっていることは、その場その場のなんらの統一もない理屈を言っているだけである。
●晶子は夫が代議士に立候補した際、夫に付いて地方に行き戸別訪問をした。その経験から晶子は、無智遅鈍な百姓が多数をしめている日本で代議政治を始めたのは甚だしい時代錯誤であると憤慨しているが、これはあまりにも不用意な発言である。その自覚がないというだけでも、晶子には批評家を名乗る資格がない。
●晶子はこんなことを書いている。
「私は真の保守主義者と真の急進主義者の根強い争議と猛烈な戦闘を経た国でなければ真の文明は開けて来なくはないかと思っている。日本の現状にはまだ『真の』と形容すべき両主義者が少ない。彼等はいつでも利己主義的に妥協する。いつでも徹底を避けて安価な姑息に低徊する」
●しかし、晶子こそ不徹底極まる卑しむべき態度である。それは特に婦人問題に明瞭に現われている。常にふたつのものの中間にあって、双方に理解を持っているような顔をしている。その自覚すらないとすれば、やはり、批評家としての資格がない。
●晶子は「女もまた人類の協同生活を営む一組成分であることを意識する」と主張している。当然のことである。
●しかし、晶子はこうも言っている。
「我も人であるという自覚が近頃女子の間に起こって来たのは甚だ結構な現象ですが、その『人』というのには、今のところはもちろん、なお永久にわたってもなお、男子のそれにくらべて非常な割引をし、幾多の条件をつけねばないないのではないでしょうか。自分は進歩していると言われる欧州の婦人を見てもこの疑惑を消すことが出来ませんでした」
●女子が「人」であるということのどこに、割引をして考えなければならないものがあるのだろうか。女子が人間として男子よりどこが劣っているのだろうか。晶子はどこまでも因習から脱することのできない人である。
●晶子は『太陽』新年号の「心頭雑筆」に「これまでの自分の観察が粗漏であり、機械的であり自分の批評が模倣的であり固定的である事に気がついて驚いてこの過ちを改めねばならないと思っております」書いている。
●しかし、これは「私だけはこの自分の欠点を見ることができるのです」という程度の「お悧巧」を見せているだけなのだ。
●「間違っていました」という抽象的な言葉があるだけで、「なぜ間違ったのか」その原因を解明はせず、「これから改める」ということで許されてしまうのだ。晶子は世間というものをよく知っている。
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第237回 三月革命
文●ツルシカズヒコ
一九一七(大正六)年三月五日、横浜監獄の未決監に収監されている神近に、横浜地方裁判所は懲役四年の判決を下した。
神近は即、控訴した。
三月六日、『東京日日新聞』社会部記者の宮崎光男が、大杉に取材するために菊富士ホテルを訪れた。
宮崎は東京日日新聞社に移る以前は実業之世界社にいたが、日蔭茶屋事件が起きる二ヶ月前に、東京日日新聞社に入社していた。
実業之世界社時代から大杉と親交があった宮崎は、その知己を利して大杉に直接会って日蔭茶屋事件の記事を書くことができた。
この日、宮崎が大杉に面会に来たのは、前日、横浜地裁で神近に懲役四年の判決が出たので、大杉のコメントを取るためだった。
大杉は宮崎を菊富士ホテルの食堂に案内し、夕食をともにしたり、印度人革命家(シャストリー)を宮崎に紹介したりした後、神近の件について話し始めた。
『少しの懲役は、彼女のためにも修養になつていゝかも知れんが、三(ママ)年の懲役は薬がきゝすぎて気の毒だ』とか何んとか、相変らず人を食つたことをいつて『時にだね君。新聞記者はだね。僕がだね。事件を提供して、それで食はしてるやうなものなんだからだね。どうだい相談だが、そのお礼にモナカ、それも鹽瀬のをだよ。モナカの一折も買つて来ないか』と、うそらしくほんとうらしくいふのである。
僕はそれを『これは面白い。お安い御注文だな。心得た』と、故意にもまにうけて、その翌日、社の近くの鹽瀬から、三円ほどを買つて持参した。
すると彼は『この相撲は僕が負けだ』と笑ひこけたのであつた。
(宮崎光男「反逆者の片影ーー大杉栄を偲ぶーー」/『文藝春秋』1923年11月号_p55)
「塩瀬」のモナカについては安成二郎も触れているが、甘党の大杉はこのモナカが大好きだったようだ。
三月七日、神近が保釈され横浜監獄を出獄、宮島資夫、麗子夫妻の家に引き取られ後、宮島家の近くの滝野川中里の下宿屋の二階に下宿して、『引かれものの唄』の執筆に取りかかった。
神近は高木信威(たかぎ-のぶたけ)との間に生まれた子、礼子を郷里に預けていたが、保釈直後に礼子が死去したことは、彼女にとって痛恨の出来事だった。
三月八日、ロシアの首都ペトログラード(後のレニングラード、現・サンクトペテルブルク)で、食料配給の改善を求めるデモ、暴動が起きた。
三月十五日にはニコライ二世が退位し、三百年続いたロマノフ王朝による帝政が崩壊した。
いわゆる、三月革命である。
春もまだ浅い三月中旬ごろだった。
近藤憲二が久板卯之助と本郷帝大前の銀杏並木を歩いていると、大杉が古ぼけた筒袖のドテラを着て散歩しているのに逢った。
大杉に誘われ、近藤と久板はすぐ近くの菊富士ホテルに行った。
それが近藤と野枝の初対面だった。
日蔭茶屋事件以来、同志の多くから爪弾きにされていた大杉は、野枝との「愛の巣」に近藤と久板を案内すると、人懐かしがってよく話した。
「愛の巣」とは言え、村木源次郎が見かねてよく食事を運んだほどの貧乏のどん底時代だったが、近藤と久板は大きな立派な蜜柑をご馳走になった。
大杉が近藤に言った。
「いつぞやは逗子へ来てくれたんだってね」
これは大杉が刺されて逗子の病院へはいったとき、私が見舞いに行ったことをいったのである。
すると野枝さんが急に困ったような顔をした。
「ほんとうに、あのときは済みません。私は雑誌社の人だとばかり思いまして……」
そのとき私は雑誌の肩書のある名刺を出したので、出てきた野枝さんが突ッけんどんにいって、あっさり追っぱらったのである。
そういえば、そのときの方が初対面だったともいえるのだが、野枝さんは、このことをいつまでも気にしていたのか、その後も幾度かわびた。
あれでなかなか、そんなことを気にする人であった。
(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p119)
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉と野枝が下宿代が払えず菊富士ホテルから追い立てを食って、近くの下宿(菊坂町九十四)に移ったのは三月二十四日だった。
★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index