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2016年05月23日
第210回 ポワンチュの髯
文●ツルシカズヒコ
岩野泡鳴は一九一六(大正五)年十月十二日の日記に、こう書いている。
十月十二日。雨。大杉氏、野枝氏と共に来訪。
(「巣鴨日記」/『泡鳴全集 第十二巻』)
大杉と野枝は泡鳴に借金の申し込みに行ったと推測される。
『日録・大杉栄伝』によれば、大杉と野枝が麹町区三番町六四の下宿・第一福四万館を出て、本郷区菊坂町八二の菊富士ホテルに移ったのは十月十五日だった。
ふたりで三十円の下宿代を三カ月も払わずにいたので、第一福四万館から追い出されたのである。
このころの大杉と野枝について、山川菊栄はこう書いている。
その年の夏中二人は三番町の下宿に籠城して雨と降る世間の攻撃の中に、食ふや食はずの悲惨な生活をしてゐた。
遂には下宿屋で食事を出すことをやめてしまつたので、小遣銭のない時は絶食し、幾らかはいつた時は食パンを買つて来て飢を凌いだと聞いてゐる。
これは二人の恋の尊い代価だつた。
(山川菊栄「大杉さんと野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p16)
そのころの大杉さんは八方ふさがりで、野枝さんの話では下宿のたちのきを求められ、食事も出してくれないので、食パンと水でしのいでいるとのこと。
しかし若い二人は憎まれれば憎まれるほどなお楽しそうに、貧乏の苦労もひとごとのように笑い話にしていました。
ふしぎなことに、どんな場合にも大杉さんは高級な、スマートな服装を欠かさず、野枝さんも気のきいた恰好で、「片道だけでいいのよ」といって私のところから余分はおいて銅貨二、三枚の電車賃をもっていくときでも、しょげた様子は見せませんでした。
(山川菊栄『おんな二代の記』_p226)
菊富士ホテルに移ったのは、投宿中の大石七分(大石誠之助の甥)の紹介による。
表三階二十三番の八畳の間に、一人三十円、二人で六十円の約束で宿泊することになった。
菊富士ホテルは大正三年、東京で三番目にできたホテル形式の宿泊施設で、長期滞在客相手の高級下宿である。
大杉が入ったので、本富士警察署の刑事が四六時中、監視についていた。
(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p193)
広津和郎は、こう書いている。
大杉栄がいた頃には、その頃は例の「尾行」時代だったので、朝から晩まで大杉を見守る本富士署の刑事が二人、玄関前に立ちつづけていたそうであるが、私がここに部屋を借りてから、その刑事の一人が訪ねて来て、尾行している中にすっかり大杉に魅力を感じたそうで、「私は今でも大杉先生を崇拝しています」などと云っていた。
(「年月のあしおと」/『広津和郎全集 第十二巻』_p254)
大杉栄『自叙伝』(「葉山事件」)によれば、十月三十日の夜、大杉は内務大臣官邸に電話をかけ、後藤新平がいることを確認して、永田町に出かけた。
官邸では二十八日から開かれていた寺内新内閣初の地方長官会議が終わって、慰労会が行なわれていた(『日録・大杉栄伝』)。
後藤の秘書官らしい男が大杉の名刺を持って挨拶に出てきた。
「御覧のとおり、今晩はこんな宴会中ですから……」
「いや、それは知って来ているんです。とにかくその名刺を取り次いで、ほんのちょっとの時間でいいから会いたい、と言ってもらえばいいんです」
秘書官は引っ込んで行き、すぐまた出てきて、大杉を二階のとっつきのごく小さな部屋へ案内した。
テーブルがひとつ、椅子が三脚ばかりの飾り気のない部屋だった。
すぐに給仕がお茶を持って来た。
その給仕はお茶をテーブルに置くと、ドアの右手と正面とにある三つばかりの窓を、いちいち開けては鎧戸を下ろしてまた閉めていった。
大杉が変なことをするなと思っていると、左手の壁の中にあるドアを開けて、さっきの秘書官が入って来た。
「今すぐ大臣がお出でですから」
彼はそう言って、出入口のドアをいったん開けてみて、また閉めて、それにピチンと鍵を下ろした。
ははあ、何か間違いでもあった時に、僕が逃げられない用心をしているんだなーー大杉は笑いたいのをこらえた。
秘書官は給仕が閉めた窓の窓掛けをいちいち下ろして、丁寧にお辞儀をしてまた隣りの部屋との間のドアの向こうに消えた。
すると、後藤はあのドアから入って来るんだなーーそう大杉は思って、そのドアの方に向かって、煙草をくゆらせて待っていた。
すぐ、後藤が入ってきた。
新聞の写真でよく見ていた、鼻眼鏡とポワンチュ(※筆者註/仏語 pointu/尖った)の髭の、まぎれもない彼だった。
「よくお出ででした。いや、お名前はよく存じています。私の方からもぜひ一度お目にかかりたいと思っていたのでした。今日はこんな場合ではなはだ失礼ですが、しかし今ちょうど食事もすんで、ちょっとの間なら席を外してもおれます。私があなたに会って、一番先に聞きたいと思っていたことは、どうしてあなたが今のような思想を持つようになったかです。どうです、ざっくばらんにひとつ、その話をしてくれませんか」
少し赤く酔いを出していた後藤は、馬鹿にお世辞がよかった。
「え、その話もしましょう。が、今日は僕の方で別に話を持って来ているのです。そしてその方が僕には急なのだから、今日はまずその話だけにしましょう」
「そうですか。するとそのお話というのは?」
「実は金が少々欲しいんです。で、それを、もしいただければいだだきたいと思って来たのです」
「ああ金のことですか。そんなことならどうにでもなりますよ。それよりも一つ、さっきのお話を聞こうじゃありませんか」
「いや、僕の方は今日はこの金の方が重大問題なんです。どうでしょう。僕は今、非常に生活に困っているんです。少々の無心を聞いてもらえるでしょうか」
「あなたは実にいい頭を持って、そしていい腕を持っているという話ですがね。どうしてそんなに困るんです」
「政府が僕らの職業を邪魔するからです」
「が、特に私のところへ無心に来たわけは」
「政府が僕らを困らせるから、政府へ無心に来るのは当然だと思ったのです。そしてあなたならそんな話はわかろうと思って来たんです」
「そうですか、わかりました。で、いくら欲しいんです」
「今、急のところ三、四百円あればいいんです」
「ようごわす、差し上げましょう。が、これはお互いのことなんだから、ごく内々にしていただきたいですね。同志の方にもですな」
「承知しました」
三百円を懐にした大杉は、保子に五十円渡し、野枝にも三十円渡した。
ぼろぼろになった寝衣一枚きりになっていた野枝は、その金でお召しの着物と羽織を質屋から受け出した。
大杉の手許にはまだ二百円は残っていた。
それに五十円足せば、市外に発行所を置く月刊誌の保証金には間に合うはずだった。
栗原康『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』(p88)によれば、当時の「三、四百円」は現在の百万円くらいの金額だという。
★『泡鳴全集 第十二巻』(国民図書・1921年12月)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)
★『広津和郎全集 第十二巻』(中央公論社・1974年3月10日)
★栗原康『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』(岩波書店・2016年3月23日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第209回 霊南坂
文●ツルシカズヒコ
一九一六年七月十九日午後の列車で大阪から帰京した野枝は、七月二十五日に大杉と一緒に横浜に行き、大杉の同志である中村勇次郎、伊藤公敬、吉田万太郎、小池潔、磯部雅美らと会った(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。
野枝と別れた辻は一時、下谷(したや)区の寺に寄寓していた。
野枝が第一福四万館で大杉と同棲していたころである。
ある日、野枝が寺を訪れ辻に面会したときのことを、宮嶋資夫は書き記している。
「あなたと私とだつて何も他人でなくたつて好いぢやありませんか」
と云つた。
其の時辻君は、「貴様と○○位なら淫売を買ひに行くか」
と云つてから、
「お前は大杉君の方へ行く時分には一人でなければいやだと云つてゐたぢやないか。それなのに今になつてそんな事を云ふのは大杉君に負けたんだろ」
と云つたら、
「いえ私は初めから斯うなんです」
と強情を張つてゐた。
(「予の観たる大杉事件の真相」/『新社会』1917年1月号・第3巻第5号/『宮嶋資夫著作集 第六巻』_p287)
野枝が再び大阪に向かったのは八月二十四日だった(『日録・大杉栄伝』)。
大杉の『近代思想』再刊のための金策である。
野枝は再び代準介を訪ねた。
代は二〇日間居る約束を反古にしたことを叱責し、大杉と別れるならば必要なだけお金を融通するという。
野枝は石のように黙りこくり、叔父とは決定的な喧嘩をせず、金策に九州へ廻る。
実家の父・亀吉からもよい返事はもらえず、九月の初旬に帰京する。
野枝は帰京すると直ぐに意を決して、霊南坂の頭山を訪ねる。
大杉の出版の意義を訴え、資金援助を頼み込む。
頭山は代の姪でもある野枝に優しく接し、盟友である杉山茂丸を紹介する。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p128)
大阪から福岡に行った野枝は、叔母・坂口モトのところに滞在していたようで、そこに宛てて大杉が手紙を書いている。
また大阪でそんなにいぢめられてゐるのか。
ほんとに可哀さうな野枝子だね。
大阪へは寄らずに直ぐ九州へ行つて了ひたい、とあんなに野枝子が云つてゐたのにね。
よつぽど痔をわるくしたものと見えるね。
その後はどう?
又長い間の汽車に揺られて、一層わるくなつてはゐやしないか。
しかし、そんな事で、杉田さんとか云ふ人にも会ふことが出来たのだね。
いつか伯父(ママ)さんが汽車の中で会つたと云ふあの人かい?
仕事は、男女関係の進化の、序文と目次とを書いただけ。
野枝子は、大阪を立つ時に電報をうつから、さうしたら手紙を書いてくれ、と云ふのだが、僕にはとてもそれまで待つてゐられない。
ほんとに僕は、幾度も云つた事だが、こんな恋はこんど始めて知つた。
もう幾ケ月もの間、むさぼれるだけむさぼつて、それでも猶少しも飽くと云ふ事を知らなかつたのだ。
と云ふよりは寧ろ、むさぼるだけ、益々もつと深くむさぼりたくなつて来るのだ。
そして此のむさぼると云ふ事に、殆ど何等の自制もなくなつてゐる程なのだ。
その野枝子と暫くでも離れるのだ。
しかも、お互ひに暫くでも音信なしでゐようと云ふのだ。
僕と同じ思ひの野枝子には、僕がどんな思ひをして其後の夜を明かしたか、今更云ふ必要もなからう。
野枝子が早く落ちついて、ほんとに野枝子自身の生活にはいる事、これが今の野枝子に対する僕の唯一の願ひなのだ。
果してこんどの九州行きは、野枝子の望み通りに、それを果たすための方法をつくつてくれるだらうか。
又、野枝子のもう一つの目的が、果してうまく達せられるだらうか。
此の二つの目的が達しられさへすれば、野枝子も僕も、直ぐに新しい生活にはいる事が出来るのだ。
しかしね、野枝子、若しうまく行かなかつたら、あせつたりもがいたりするよりも、何によりも先づ早く帰つておいで。
けれども、うまく行つてくれれば、ほんとに有りがたいのだがね。
野枝子もこんなに一生懸命になつて奔走してゐのだもの。
僕は、けふから又、うんと仕事にとりかかる。
もう昼近くなつた。
野枝子からはいつ電報が来るのだろう(三十一日)。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年九月一日 福岡県三池郡二川村坂口方野枝宛/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p649~654)
野枝が帰京したのは九月八日だった(『日録・大杉栄伝』)。
大杉栄『自叙伝』(「葉山事件」_p314)にも記述されているが、帰京した野枝は頭山満のところへ金策に行った。
野枝は上野高女時代に代準介に同行して頭山に面会したことがあるから、ふたりは知らぬ間柄ではない。
頭山は今は金がないからと言って杉山茂丸に紹介状を書いた。
野枝が杉山に会いに行くと、杉山は大杉に会いたいと言った。
九月の中旬から下旬ごろ(『日録・大杉栄伝』)、大杉が築地の台華社(杉山のオフィス)に行き杉山に面会すると、杉山は「白柳秀湖だの、山口孤剣だののように」軟化をするようにと勧めた。
国家社会主義くらいのところになれば、金もいるだけ出してやるという。
大杉はすぐに台華社を辞した。
杉山は無条件では金を出さなかったが、話の間に時々出てきた「後藤が」「後藤が」という言葉に、大杉はピンと来るものがあった。
大杉が杉山に面会できるまでの段取りをつけたのは、野枝であるが、彼女のこの金策について、鎌田慧はこう書いている。
……野枝は、祖父と親しかったという、「玄洋社」を組織した国家社会主義者である頭山満のもとへ金策にでかけたり、その紹介で、やはり福岡出身で玄洋社系の政界黒幕、杉山茂丸(夢野久作はその長男)に会ったりしていた。
(鎌田慧『大杉榮 自由への疾走』_p234)
頭山と親しかったのは野枝の祖父ではなく代準介なので、この記述は明らかな誤記であるが、この類いの記述に関して矢野寛治はこう指摘している。
野枝研究者の多くが、「頭山は野枝の祖父と懇意で」と書かれているのを散見するが、これはあくまで叔父代準介の間違いである。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p129)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『宮嶋資夫著作集 第六巻』(慶友社・1983年11月10日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★鎌田慧『大杉榮 自由への疾走』・岩波現代文庫・2003年3月14日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index