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2016年05月15日

第177回 ねんねこおんぶ






文●ツルシカズヒコ


 大杉と堀保子は前年一九一五(大正四)年十二月、小石川から逗子の桜山の貸別荘に引っ越していた。

『近代思想』(第二次)一月号(第三巻第四号)が発禁になったので、大杉は一九一六(大正五)年一月二日にその対策のために逗子から上京し、翌一月三日に吉川守圀の家に同人たちが集まり、協議した。

 大杉が大塚坂下町の宮嶋資夫宅を訪れたのは、その夜十二時近くだった。


「今夜は一寸報告にやつて来た。それは神近と僕とのことだが」と云ふ切り出しで、神近と関係の生じた事を話した。

(「予の観たる大杉事件の真相」/『新社会』1917年1月号・第3巻第5号/『宮嶋資夫著作集 第六巻』)

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 一月四日の夜に逗子に帰宅した大杉は、妙に萎(しお)れていた。

 堀保子が大杉と神近との関係を知ったのは一月六日の夜だった。


 ……大杉は何と思つたか、曽て神近が京都に行つた時、土産に持つて来てくれた御大礼の春日灯籠を取つて放りつけたり、古い目ざまし時計を川の中に投げこむだりするので、ハテ変な事をするわいと思つて、一體あなたは何でそんなに不機嫌なのかと改めて聞き糺すと、『ナニ僕が悪いのだ、僕が悪いのだ』と云つて又悄(しほ)れて了ふのです。

 それで私も少し疑念が起り『あなたは岩野さんの様な事をしてゐるんでせう』と突込みますと、大杉は何時もの癖の楽書をしながら、只ウンと云つて頷くのです。

『相手は誰です』と云ふと、『それは聞かんでくれ』と云ふのです。

 其時私はフト胸に浮かんだまま『神近でせう』と云ふと、大杉は又ウンと云つて頷くのです。

 私は真逆と思つた事が本人に承認されて、一度に冷水を浴せられた様な気持がしました。

 そしてアア聞かねばよかつたといふ心地もしました。


(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p8)





 保子は大杉にこの結末をどうするのだと迫った。


『……所謂魔がさしたとでもいうのだらう。然し此事件を余り重く見てくれては困る。彼女には屈辱的な条件をつけてあるのだから安心してくれ』と泣いて詫びるのです。

 私の不安は其れ位ゐで取去ることは出来ません。

 此から後どうする積りかと更に詰問すると、『堺君にでも行つてみたらどうか』といふのです。


(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p8)


 一月八日に保子は上京し、堺や荒畑や宮嶋に相談した。

 堺はこの際、きれいに別れたらどうだと言った。

 荒畑と宮嶋は真面目な関係とは思えないから、しばらく様子を見てみたらどうだといったようなことを言った。

 保子はともかく、大杉と別居することを考えずにはいられなくなった。





『青鞜』誌上で交わされた廃娼論争をきっかけに、青山菊栄と野枝が対面したのもこの一月だった。

 菊栄はその経緯をこう書いている。


 最初、私と野枝さんとを会はせたがつたのは大杉さんだつた。

 たしか大正四年の暮のこと、野枝さんが『青鞜』へ発表した感想文に私が無遠慮な批評を加へ、更に野枝さんがそれに答える文章を発表したことがある。

 当時私は大杉氏らの組織してゐた月二回の社会問題の研究会『平民講演』に出席してゐた関係上、大杉さんと心易く、大杉さんは又野枝さんと懇意だつた。

 それで大杉さんは私に向かつて『野枝さんに会つて見ませんか、きつといゝ友達になりますよ、』としきりに勧められたので、兎(と)も角(かく)も会はう、そして会つて双方の論点を明らかにしようといふことに極(きま)つた。

 ところが大正五年の一月、定められた会見の前に、私は神近市子さんに案内されて生れてから今日まで只一度、歌舞伎座といふところをのぞいて見た。

 丁度其時野枝さんも来合せてゐたので、予期せぬ初対面をした。

 野枝さんはたつぷりした髪をいてふ返しに結びカスリの着物にお納戸色の無地お召(めし)の羽織をなまめかしく着流してゐた。

 其格好が『青鞜』あたりで気焔を上げる新時代の婦人に似つかはしくない、伝統的な下町趣味を思はせたが、それにしては野枝さんその人の、何となくギゴチなくて粗雑な、生粋の江戸ツ子とは思はれぬ、銑錬(せんれん)されない感じと不調和でーー露骨に云へば地方出の料理店の女中でも見るやうな気がした。


(山川菊栄「大杉さんと野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p14)


 野枝、菊栄、神近の三人の歌舞伎座での対面については、神近も『引かれものの唄』で言及している。





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉と菊栄が小石川区指ケ谷町九二番地の野枝宅を訪れたのは、一月十五日だった。

 菊栄がその日のことを、こう記している。


 其後(※歌舞伎座での対面後)、約束の日に私が訪問すると、大杉さんは定めの時間よりよほど早く来てゐた様子で、青鞜の編輯室を兼ねた三畳の玄関の、雑誌や原稿で埋つたやうな部屋の中に、皿小鉢の並んだ小さな食卓を間にはさんで、野枝さんの当時の良人(りようじん)辻潤氏と差向ひで雑談に花を咲かせてゐた。

 野枝さんは赤い手柄をかけた丸髷に結ひ、濃い紫の半襟から白粉(おしろい)のついた襟首をのぞかせ、黒繻子(くろじゆす)の襟のかゝつた着物を着、生れて程ない赤ん坊を抱きながら家事と客の接待のために忙しく出つ入りつしてゐた。

 其日の野枝さんは全く忠実な可愛らしい『おかみさん』といふ感じがした。

 一体其日は、野枝さんと私が『青鞜』で論じ合つた問題の中心、即ち売淫制度の問題、及び社会運動と個人の改善との相対関係について互(たがひ)の意見の異同を明白にするために会見する約束であつたに拘らず、誰も彼もそんなことはオクビにも出さず、正月気分で呑気に酒盛りをしてゐるので、私は少々ヂレ出した。

 辻さんはチビリ/\と盃(さかづき)をふくみ、野枝さんは時々下物(さかな)を運んだりおかんを取(とり)かへたり序(ついで)に二言三言(ふたことみこと)愛嬌をいつては引込んだきり出て来ない。

 男同士の世間話に時が移る許(ばか)りなので、私は時計を見て内々憤慨し始めた。

 やつと灯(ひ)のつく頃ーー会見は三時の約束だつたーー野枝さんが暫(しばら)く話の仲間入りをする様子だつたので、肝心の話を始めて見た。

 しかし其場の気分はモウそんな真面目な固苦しい問題をを議論し批評するには全然不適当になつてゐた。

 その上、『私はそんなこと専門的に研究したことがないんですから分りません。』『でも私たゞ何だかそんなやうな気がするんです。』『でも私にはそんな風に感じられるんですから仕方がありません。』

 私の質問や弁駁に対する野枝さんの答へは、いつもかういふ調子でつかまへどころがなく、一向気乗りがしないので、私も面倒になつてしまひ、たうとう肝心の問題はあやふやのうちに、雑談と混線して行方不明になつてしまつた。

 その夜は『平民講演』の例会の日だつたので、私は幾度(いくたび)か大杉さんを促したが、『まだいゝ、まだ誰も来ちやゐるまい』といふやうなことで中々立たうとしない。

『では私だけお先へ』といふと『マアお待ちなさい、一所(しよ)に行(ゆ)きませう』といふ。

 余り遅くなるので気をもむと、『ドウです、今夜は序(ついで)の事に此処(ここ)で遊ばうぢやありませんか、』と来る。

『でも私はどうしても会の方へ行きます。あなただつて皆さんが集まつてあなたのお話を待つていらつしやるのですから一寸(ちよつと)でもお出にならなけりや悪いでせう、とにかく早く行きませう、』

 こんなことを幾度(いくたび)かくり返してやつと大杉さんが重い尻を持上げたのは七時過ぎだつた。

 それから池の端の集会場へいく途中、大杉さんは、私が頻(しき)りに保守的、退嬰(たいえい)的、独善的だとして斥(しりぞ)けた野枝さんの思想上の立場を色々に弁護し説明して、野枝さんの其当時の境遇に非常に同情を表してゐた。


(山川菊栄「大杉さんと野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p14~15)

 以上は七年後、大杉と野枝の死の直後の菊栄の追悼文の一節だが、菊栄晩年の回想である『おんな二代の記』では以下である。





『青鞜』に出た私の批評を見て大杉さんは、「いちど野枝さんに会ってごらんなさい、いい友達になりますよ」と、連絡をとってくれたので、お正月のある日、私は約束の時刻に野枝さんの家にいきました。

 若い野枝さんは、小さなからだに大きな丸髷、赤ちゃんをねんねこおんぶにして、大きくふくれた背中を、子供のように小さく、いじらしい町のおかみさん風の姿でした。

 玄関の三畳の間が『青鞜』の編集室で、まわりには新聞や雑誌や原稿などが乱雑につみ重ねられ、小さなチャブ台を間において、辻潤氏と向いあわせに、あがり口の障子に背をおしつけ、身動きもできないほど狭い中に、大杉氏と私が坐りました。

 野枝さんはあいさつもそこそこにひっこんだきりでしたが、しばらくするとポツリ、ポツリお皿、小鉢をはこんでくる。

 午後のことで食事どきでもないのにと思っているうちにお酒が出てくる。

 野枝さんは徳利をもってイソイソと出たりはいったり、男たちにお酌をしたりするばかり。

 私はがまんができず、大杉氏に、野枝さんと話をする約束で来たのだからと催促すると、もうすぐです。

 もうちょっとというばかりでらちがあきません。

 そのうち野枝さんが坐ったのでときをはずさず、私は、公娼は当然廃止すべきだと思わないか、あの公然の人身売買、業者の搾取を国家公認の制度としておくことを正しいと考えるか、その他聞きにかかると、野枝さんは、「私そんなこと調べたことないんですもの」と興味のなさそうな様子で、おかん徳利をもって立ってしまいました。

 私はじりじりして何度も帰りかけましたが、「いっしょにいきますからもう少し」「ちょっと待ってください」と大杉氏にひきとめられました。

 やがてやっと外に出ると電灯の火がちらつきはじめていました。

 その夜、池の端には例の研究会があるはずでしたが、雑談会のようで、知った人もなくつまらないので私は早く帰りました。

 来あわせた中に婦人は中年の人がひとりきり。

 その人は歌舞伎の舞台からぬけ出して来たような江戸女で、いちょう返しにさんごじゅの根がけ、黒じゅすの襟のかかったきもの、物いい、身のこなし、まったくきっすいの下町っ子で、かつて馬場先生が「荒畑の細君はイキな人だとはきいていましたが、なるほど大したもんですなあ」といわれた、その荒畑夫人おたまさんでした。

 その数日後、どこだったかの招待の劇場でまた野枝さんにあいました。

 この日の野枝さんは子供を家において来て、いちょう返しに錦紗の羽織をひっかけた粋づくりでしたが、荒畑夫人とちがって、つけやきばの下町好みで板につかない感じでした。

 美人というのではなくても、愛くるしくチャーミングなところのある野枝さんの魅力は、田舎の女学生そのままの、野生的で健康で、野花のような新鮮さにあるのではないかと思いましたが、大杉氏は野枝さんをあんな境遇におくのはかわいそうだ、みじめで見ていられないと同情していましたが、そのとき大杉さんにとっては、公娼よりも、野枝さんの解放の方が問題になっていようとは、勘のわるい私のしらないことでした。


(山川菊栄『おんな二代の記』_p216~218)


「その数日後、どこだったかの招待の劇場でまた野枝さんにあいました」とあるが、これは歌舞伎座での野枝、菊栄、神近の対面のことであろう。

 とすると、『おんな二代の記』では、この歌舞伎座の対面が菊栄が野枝宅を訪問した「数日後」になるが、『婦人公論』掲載の「大杉さんと野枝さん」では歌舞伎座での対面後に野枝宅を訪問したとある。

「大杉さんと野枝さん」記述の方が、菊栄の記憶が鮮明だったと思われるので、菊栄は歌舞伎座での対面後に野枝宅を訪問したと推測する。





 このころ教育雑誌の訪問記者から取材を受けた野枝は、自分の小学校時代について、こんなコメントをしている。

 野枝の肩書きは「青鞜主筆」である。

 
 私の小学校時代に、一番厭な思ひをしたのは、先生と先生との喧嘩の飛ば散りが生徒に及んだ事でありました。

 ……私達の受持ちの女の先生と、一つ下の組の女の先生とが大変に仲が悪くて……その一つ下の組の先生が図画の時間にだけ私達の組へ授業にいらしたのですが……始から終迄お小言の言ひ続けで……廊下で逢つても、何時も恐い目で睨みつけられるので毎日々々皆が不愉快に過しました。


(「教育圏外から観た現時の小学校」/『小学校』1916年1月15日・第20巻第8号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p312)


 これは野枝が「嘘言と云ふことに就いての追想」で書いている、周船寺高等小学校四年時に体験した例の事件のことである。



★『宮嶋資夫著作集 第六巻』(慶友社・1983年8月)

★神近市子『引かれものの唄 叢書「青鞜」の女たち 第8巻』(不二出版・1986年2月15日 /『引かれものゝ唄』・法木書店・1917年10月25日の復刻版)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:04| 本文

第176回 公娼廃止






文●ツルシカズヒコ



 一九一六(大正五)年一月三日、『大阪毎日新聞』で野枝の「雑音ーー『青鞜』の周囲の人々『新しい女』の内部生活」の連載が始まったが(〜四月十七日)、肝心の『青鞜』一九一六(大正五)年一月号の表紙は文字だけになった。

 野枝は読者に向けて、こう書いている。

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 私は自分で編輯するこの雑誌を、出来る丈(だ)け、立派なものにしたひと思ひます。

 けれども如何に、私が自惚(うぬぼ)れて見ましても本当に貧弱な内容しか持つことが出来ません。

 私一個の微力では勿論どうしても読者諸君を満足させるやうな大家の執筆を乞うことは出来ません。

 目次にならんだ人達はまだ世間の表に立つていゐない人の方が多数を占めて居ます。

 私自らはこの雑誌自身に単なる苗床としてより以上の何の価値も求めやうとはしません。

 此処に芽を出した苗がどんな処にうつされ、どの苗がどう育つてゆくかーー未成品ーーと云ふことに興味をもつて下さる方に初めてこの雑誌は雑誌自らの存在の意義を明らかにするのです。

 私はかう云ふ負け惜しみな理屈を楯に何と非難されても相変らず貧弱な雑誌を倦きずにこしらへてゐるのです。

 ーー編輯者ーー


(「読者諸氏に」/『青鞜』1916年1月号・第6巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p301)





『青鞜』同号に青山菊栄「日本婦人の社会事業に就いて伊藤野枝氏に与ふ」が載った。

『青鞜』前号の野枝の「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業に就いて」への反論である。

 菊栄は野枝の矯風会批判は認めながら、公娼制はなくならないとする野枝を批判、不自然な淫売制度の全廃を主張した。

『青鞜』同号に野枝は菊栄への反論を書いた。

 野枝の言わんとするポイントを拾ってみる。





 ●私があれを書いた時に主として土台にしたのは矯風会の人たちの云ひ分でした。

 ●私はそれ以外に深く考へることをしなかつたのは私の落ち度ですが彼(あ)の人たちからはさう云ふ深い事は聞きませんでした。

 ●根本の公娼廃止と云ふ問題はあなたの仰つしやるやうな正当な理由から肯定の出来る事ですが、私は矯風会の人達の云ひ分に対しては矢張り軽蔑します。

 ●先づ、何より先にあなたに申あげなければならない事は、私が公娼廃止に反対だと云ふ風にあなたが誤解してお出になるらしい事に就いて、私は左様(そう)ではありませんという云ふことです。

 ●……あなたはそれを男子の身勝手と云ふ簡単の言葉で片づけてお出になりますが、私は男子の本然の要求が多く伴つてゐると云ふ主張は退ける事が出来ません。

 ●……あなたは人間の本当の生活と云ふものがそんなに論理的に正しく行はれるものだと思つてゐらつしやいますかと私は反問したい。

 ●あなたはあんまり理想主義者でゐらつしやいます。

 ●「男子の本然の要求だからと云つて同性の蒙(こうむ)る侮辱を冷然看過した」とあなたはお責めになるけれども、看過(みすご)せない、と云つてどうします。

 ●私は本当にその女たちを気の毒にも可愛さうにも思ひます。

 ●けれども強制的にさうした処に堕ち込んだ憐れむべき女でさへも食べる為、生きる為と云ふ動かすことの出来ない重大な自分のために恬然(てんぜん)としてゐます。

 ●彼女等をその侮辱から救はうとするのは他に彼女等を喰べさせるやうな途を見付けてからでなくては無智な、何も知らぬ女たちにとつてはその御親切は却つて迷惑なものではないでせうか?

 ●「人間の造つた社会は人間が支配する。」と云ふお言葉は尤もに聞こえますがその人間を支配するものがありますね、その人間を支配する者が矢張り社会も支配しはしないでせうか。

 ●社会は人間が造つたのでせうけれど人間は誰が造つたのでせう?

 ●果して人間は何から何まで自分で自分の仕末の出来る賢い動物でせうか?

 ●まあ一寸(ちょっと)考へて見ても人間は時と云ふものに駆使されてゐます。

 ●権力者の造つた制度が不可抗力だなどゝ云つた覚えは更に私にはありません。

 ●権力者たちの造つた制度のなか/\こはれないのはせい/″\時の問題位なものです。

 ●それ丈けの制度の根を固める為めには権力者たちも相当な犠牲を払ひ骨折をしてゐるのですからいくら不自然だつて何の償いもなしにその株に手をかける事は許されない道理でせう?


(「青山菊栄様へ」/『青鞜』1916年1月号・第6巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p302~307)





 山川菊栄は後に、この野枝との論争についてこう回想している。


 その冬、私は野枝さんが『青鞜』に書いた婦人矯風会の廃娼運動に対する批判が、いかにも無責任な放任論に思われたので、『青鞜』に投書して批評しました。

 私は救世軍や矯風会の救済事業が万全の売春対策だというのでなく、売笑の根本的な解決は別として、封建時代そのままの遊郭制度、公然の人身売買、業者の搾取を放任すべきでないと考えたのです。

 私の家は麹町で四谷あたりへよく買物にいきましたが、そのころはまだ新宿の表通りが遊郭で、遊女屋の定紋つきののれんと格子窓の様子は浮世絵そのまま、入口にはうち水、もり塩、昼間は夜中のように静かでうす気味が悪かったものです。

 品川の遊郭も同様でしたし、深川に住む友達の案内で二、三の友達と洲崎の遊郭をこっそり見学したのもそのころ。

 まだ張見世のあった時代で、電灯の光をあびて、らんまに墨くろぐろ「初見世」と大字の張紙のある下に赤いきもので坐っていたおしろいの娘の顔は、生きながらの獄門、さらし首のようでした。

 それは私の子供のことから新聞でよくみた娼妓の逃亡、自由廃業、業者と警察や有力者とのなれあい、自廃をたすける人々への暴力ざたなどを思わせずにはおかず、これを国家公認の制度として維持することは絶対に許すべきでないと思われました。

 ところが野枝さんの批評は、そういう問題の核心にはふれず、ただ矯風会の廃娼運動は無意義だ、不徹底だという一言でかたづけていたので、私は黙っている気にならなかったのでした。


(山川菊栄『おんな二代の記』_p215~216)





『青鞜』一九一六年一月号「編輯室より」から野枝の言葉を拾ってみる。


 ●もう私が雑誌を譲り受けまして丁度一年になります。どうかしたい/\と思ひながら微力で思つた十分の一も実現することがなく無為に一年を過しました。

 ●今月号も新年号の事とてどうにかしたいと思つてゐましたが何しろ、私が帰京しましたのが十二月五日か六日だつたのにそれから一週間ばかりの間は咽喉をはらして食事をすることも話をすることも困難になつて何も出来ませんでした為めに、……今度もまたおはづかしいものをお目に懸けます。

 ●けれども私も身軽になつてかへつて来ましたからこれからは少し懸命に働きたいと思つてゐます。

 ●平塚さんは九日にお嬢さんをお産みになりました。哥津ちやんも一日ちがひに男のお子さんをお産みになつたさうです。まだ会ひません。

 ●平塚さんのお産をなすつた翌日位に何でも新聞記者が訪ねて行つたのを附添の人が知らずに上げました処、「御感想は?」と聞いたさうです。

 ●私はあんまりの事に本当に怒りました。何と云ふ無作法な記者だらうとまだお見舞いの人も遠慮して得ゆかないお産室に、一面識もない者が新聞の材料をとりにゆくつて、何と云ふ人を侮辱した仕方でせう。

 ●私は頭が熱くなる程、腹が立ちました。

 ●平塚さんは洗面台の上にのせた花の鉢を指さして、「この花と私の感想を交換するつもりで来たのですよ、私は苦しいと云ふより他何の感想もありませんつて云つてやりました」と話されました。

 ●私はさうした侮辱も黙つて許してお聞きになる平塚さんの気持を考へてゐると涙がにじんで来ます。

 ●私は「雑音」と云ふ題で……長篇を書きはじめました。青鞜に載せるのが私の望みでしたけれども……大阪毎日に連載することにしました。

 ●それは私の見た青鞜社の人々について私の知るかぎり事実をかくのです。私はそれによって幾分誤解された社の人々の本当の生活ぶりが本当に分るやうになるだらうと思ひます。

 ●それでいろ/\なものを見、考へてゐますと、私の入社当時から今日までにも本当に、おどろくべき変化が何彼につけて来てゐます。

 ●あんなにさはぎまはつてゐた紅吉(こうきち)さんは今は御良人と静かな大和に、子供を抱いてしとやかな日を送るやうになつたのですもの、あの文祥堂の二階で皆してふざけたり歌つたり、平塚さんのマントの中に入れて貰つて甘へたりした私が二人の母親に、他の皆も母になつたりした事を考へますと僅かの間にと、本当におどろいて仕舞ます。

 ●驚くと云ふよりは不思議な気がします。

 ●岡田八千代様、長谷川時雨(しぐれ)様のやうな立派な方が何と云つてもまだ未成品の私共と一緒に筆をとつて下さることを本当にうれしく感謝いたします。


(「編輯室より」/『青鞜』1916年1月号・第6巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p309~311)



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:59| 本文

第175回 婦人矯風会






文●ツルシカズヒコ




「死灰の中から」によれば、大杉は七月末に野枝が出産のために帰郷したことは知っていた。

 大杉は忙しかったので、野枝が帰郷する一ヶ月ほど前から彼女に会う機会はなかった。

 十月、大杉は第二次『近代思想』を復活号として発刊した。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、宮嶋資夫が調布に移転して発行人となり、編集人・大杉、印刷人・荒畑である。

 しかし、『近代思想』は十一月号、十二月号と連続して発禁になった。

 十二月十五日、大杉と保子は逗子町桜山に移転した。

『近代思想』発行人としての、保証金減額のためである。

 大杉はこの夏以降の野枝との関係については、こう書いている。

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 七月の末に彼女はTと一緒に九州へ行つた。

 又妊娠してゐるやうだつたから、多分郷里で生むつもりで行つたんだらうと思つた。

 彼女からは、此の逗子に来てからは、ただ一度はがきが来ただけだつた。

 僕も其の時に一度だけ、はがきを出しただけだつた。

 時々僕は、彼女の二通の手紙を出しては彼女に親しんだ。

 しかし、先きに云つた程の恋の熱情も起らず、又其の熱情を生んだセンテイメンタルな幻想も余程薄らいで了つた。

 僕は毎週一回、二三日づつ上京して、友人の家を泊り歩いてゐた。

 そして……僕の家に出入りし、僕等の集会にも来、雑誌の手伝ひもしてゐた、T新聞婦人記者I子とあはい恋に戯れてゐた。


(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』)





「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業に就いて」解題(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)によれば、大正天皇即位の大典を前に、一九一五年四月に開かれた日本基督教婦人矯風会第二十三回大会において、同会は席上に醜業婦を同席させない、六年後に公娼を全廃するという二項目を決議した。

 野枝は「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業に就いて」を『青鞜』十二月号に書き、上流階級の婦人たちによって組織された婦人団体の慈善を「虚栄のための慈善」と批判し、その一例として「婦人矯風会」をあげ、同会の決議に異議を唱えた。

 そもそも野枝の売買春に対する考えは、そう簡単にこの世の中からなくせるものではないというところからスタートしている。





 ……実は偉大なる自然力の最も力強い支配の下にある不可抗力である。

 それは到底わづかな人間の意力や手段では誤魔化せない正真正銘のねうちを失ふことのない力である。

 ……あゝした業が社会に認められてるのは誰でもが云ふ通りに矢張り男子の本然要求と長い歴史がその根を固いものにしてゐる。

 それは必ず存在する丈けの理由を持つてゐるのである。


(「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業に就いて」/『青鞜』1915年12月号・第5巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p292)


 公娼と私娼に関しては、「婦人矯風会」はまず公娼廃止を主張しているが、野枝は公娼より私娼の方が社会の風俗をよりいっそう乱すと主張している。

 ……いまはしい恐るべき病毒の伝染と云ふこと、それから世間の子女をたやすくさういふ商売に導き入れると云ふこと、一寸(ちょっと)考へた丈けでもよほど社会に悪影響を及ぼす力は私娼の方にありさうに私には思はれる。

(「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業に就いて」/『青鞜』1915年12月号・第5巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p293)


 要するに野枝は、この時点では公娼制度を必要悪と考えていたのだろう。

 この野枝の書いた文章をきっかけに、『青鞜』の最後を飾る廃娼論争が起きることになる。
 




 野枝と辻がふたりの子供を連れて帰京したのは十二月五日、六日、そのあたりである。

 らいてうが第一子、長女・曙生(あけみ)を出産したのは十二月九日だった。

 難産だったため、らいてうの病室には面会謝絶の札が出されたが、それを無視して毎日のように産褥のらいてうに新聞記者が取材に押しかけた。

 恋愛の自由、新しい性の道徳を唱え、因襲結婚に反抗し、法律上の結婚を拒否しているらいてうが、ついに私生児を生んだ……というニュースのネタになったのである。

 野枝も憤っている。


 見舞いに来てくれた伊藤野枝さんはひどく憤慨して、「なんて失礼な非常識な奴でしょう。私がいるとき来たらうんと言ってやる」と、涙さえ浮かべていました。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p583)





 大杉は毎週日曜日に開かれるフランス文学研究会の講義をするため、毎週一回、二、三日ずつ上京し友人の家を泊まり歩いていた。

 大杉はフランス文学研究会と平民講演会に出席していた神近と顔を合わせることが多くなり、ふたりの仲は急接近した。

『日録・大杉栄伝』によれば、大杉は十二月二十日に広尾の神近の家で半日過ごし、十二月二十六日には神近の家に泊まった。

 神近が大杉に惹かれている自分を意識したのは、このころからだった。





(※十二月二十日)私共は静かに話しました。

 大杉さんはその前夜あつた文士の或る会合で、ある先輩が自分と私との関係が可笑しいと云ひ出した事だの……自分の気持の話をされました。

 そして大杉さんに対しては好く戯談を云つてゐた私が「噂を事実にやりますかね」と軽く諧けたのも私は云ひ落しますまい。

 ……半分は平生の軽い戯談と、半分は打つ突つて行かうと為る気持で云つた事も。

 半日を種々な話に過して、一緒に家を出かけました。

 途中で用を足してから逗子に帰るあの人を新橋に見送りました。

 恋人同士の様だと笑い乍ら。

 それで次の日曜日(※十二月二十六日)に私は大杉さんと二人になる機会を造へ様と決心しました。

 その日曜日は丁度雑誌の校正の出る日で、私は以前から校正丈は手伝つてゐましたから、仏蘭西語が済むと一緒に印刷所に出かけました。

 そして仕事を少しやつて、大杉さんの親しい日本橋の或る料理屋に食事に行く事にしました。

 かうして私は極めて静かな気持で恋愛に入つて行きました。


(神近市子「三つの事だけ」/『女の世界』1916年6月号/安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』_p93~94)





 この年の秋、大杉が初めて麻布区霞町の神近の家に泊まったときのことを、神近はこう回想している。


 ……庭木戸の鈴が鳴って、ヒョッコリ大杉栄氏がはいってきたのである。

 秋の日はつるべ落としといわれるとおり、あたりは早くも暮れそめていた。

「尾行はまいてきた。ただおなかがへった」

 私はありあわせのパンに果物程度の簡単な支度をしてあげ、紅茶をいれた。

 むろん、それを食べてすぐ帰られるものと思っていたのだが、大杉氏はなかなか腰をあげようとせず、やがてポツリといわれた。

「きょうは泊まっていってもいいんだ」

 ……なにか精神的な借りがあって、無下には断わりきれないような感じだった。

 あるいは、無意識のうちに大杉氏に恋をしていたのかもしれない。

 その日以来、何度も同じ状態がくり返された。


(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p144~145)




★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』(新泉社・1973年10月1日)

★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第174回 御大典奉祝






文●ツルシカズヒコ




 一九一五(大正四)年十一月四日、野枝は郷里の今宿で次男・流二を出産した。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、野枝は出産後、西職人町(現・福岡市中央区舞鶴二丁目)、福岡玄洋社そばにあった代準介・キチ夫婦の家に一ヶ月ほど滞在した。

 十一月十七日、野枝は原稿用紙に向かい、らいてう宛ての書簡形式の原稿「らいてう氏に」を書いた。

 それによれば、野枝は当初、流二を里子に出すつもりだった。

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 ……子供の事では随分迷ひました。

 けれども結局矢張り同じ他人(ひとで)をかりるにしても自分の近くでないとどうしても安神(あんしん)出来さうにもありませんので連れてかへることにしました。

「里子にやるとにくむやうになるから、それではどちらの為にもいけないから」沢山の例をひいて誰も彼も不賛成をとなへますし、良人(おつと)も此度は本当に父親らしい愛をもつて子供に対してゐて、矢張り不賛成なのです。

 私も随分気づよくなつて、たとへ三四ケ月でも、留守中の停滞してゐる仕事を片づける間丈(だ)けでもおいて来やうと思つたのですけれども一日一日とだん/\さう云ふ決心もいろいろ考へて見ますと不安になつて来ますので捨てました。

 そして連れてかへることにしました。

 その代りになるべく時間をとられないやうにしつけやうと思つてゐます。

 幸ひに、今度の子はおどろくほど手がかゝりませんので、これならと云ふ気もします。

 一日中下にねてゐますので、おむつの世話とお乳を与(や)りさへすればそれでいゝのです。


(「らいてう氏に」/『青鞜』1915年12月号・第5巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p297)





「らいてう氏に」から、他の野枝の言葉を拾ってみる。


 ●私は一週間目から産褥をはなれて居ります。

 この辺は御大典奉祝の「ドンタク」で大変です。

 東京も大変でせう。

 ●今まであがきがとれないやうな苦しむでゐましたけれども全くあれは体のせいだつたと思ひます。

 ●……これからはどんなにでも働けるやうに体も心もかるくなりました。

 ●かへりましたら新年号の編輯に全力をつくさうと思つて居ります。

 ●……岩野さんの「愛の闘争」が丁度私のお産した朝、四日につきました。

 皆がはら/\するのをその日から三日かゝつてよみました。

 ●四月ばかりの間ですがもう一年も東京からはなれてゐたやうな気がします。

 かへりには彼処(あそこ)にもこゝにもよりませうなんて云つてゐましけれども此の頃はたゞ一心に東京へかへりつく事ばかり考へてゐましてもう特別急行で何処にもよらないつもりに二人ともなつてゐます。

 ●……下の関からは特別急行で廿六七時間でつくとしてもあそこまでにざつと六七時間かゝりますからどんなに急いでも卅時間以上かゝるのですものね……こんどかへりましたら本当に働きますわ……

 ●せめて新年号は少しはいゝものにしたいと思つて居ります。

(大正四、一一、一七)


(「らいてう氏に」/『青鞜』1915年12月号・第5巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p297~299)





「御大典奉祝」とは十一月十日に京都御所で行なわれた大正天皇の御大典のことである。

『東京日日新聞』社会部記者だった神近市子は、新聞記者としてこの御大典を取材した。

 社長室に呼び出された神近は、社長から直々に御大典取材の命を受けたのだった。


「外国からもたくさんの来賓が見えるだろう。その取材にはおおいに働いてもらわなくてはならない。そのためには服装その他の準備が必要だろうから、これで支度をしなさい」

 私は三百円という大金を渡された。

 私はその金で服装をととのえ、十一月に京都御所の紫宸殿(ししんでん)で行なわれる即位礼を目ざして西下した。

 むろん、私などは式典には出られなかったが、そこに集まってきた高官や外国からの賓客にインタビューして、記事を東京に送るのが仕事だった。

 ……いちばん印象に残っているは、尾崎行雄外務大臣夫妻の談話をとったことだ。

 尾崎氏は先妻を亡くされ、後妻はアメリカ婦人だった。

 京都ホテルに訪ねていくと、夫妻で快く会ってくださり、御所での式典のようすを詳細に話してくださった。


(『神近市子自伝 わが愛わが闘い』_p134~135)





 神近は尾崎行雄を「外務大臣」としているが、「法務大臣」の誤記であろう。

 また、尾崎行雄の後妻はアメリカ婦人ではなく、イギリス婦人である。
 
 取材を終えた神近は、当時まだ珍しかった自動車に乗り慰労休暇を楽しんだ。


 日本ではじめての自動車四台が『朝日新聞』と『毎日新聞』とに輸入され、京都市民を驚かしていたとき、それを勝手に使って、どこでも見物してくれというのである。

 私はその貴重な自動車で、二条城や苔寺や三十三間堂や嵐山など、最高の京都見物をしたり、外人客を連れて奈良に遊んだりした。


(『神近市子自伝 わが愛わが闘い』_p136)


 このとき、神近は奈良の安堵村在住の富本憲吉に嫁いだ紅吉にも会い、ふたりは時の経つのも忘れて、その後のお互いの生活を語り合った。





 御大典が行なわれた十一月十日、大杉栄と妻の保子は弓技をした。


 天皇即位式の日で、午後三時半に国民一斉に万歳三唱して奉祝することとされている。

 調査書によれば、大杉は掘保子と三時に家を出て、伝通院前の内田大弓場へ行き、ちょうど三時半ごろに矢を射はじめ、一時間ほど弓技をした。

 大仰な即位式への反発、当てこすりである。


(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p163)



尾崎行雄夫人2



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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