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2016年05月12日
第165回 フランス文学研究会
文●ツルシカズヒコ
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、『平民新聞』を出せなくなった大杉と荒畑は、そのころサンジカリズム研究会を発展させた平民講演会を主宰していた。
平民講演会は労働者を引きつけ新入会者を受け入れ、運動を前進させる橋頭堡だった。
大杉らは平民講演会の会場を確保するため、水道端の大下水彩研究所を借りて平民倶楽部と命名。
大杉が大下水彩研究所の家賃を稼ぐために始めたのが、「仏蘭西(フランス)文学研究会」だった。
……生徒に宮嶋夫妻、神近市子、青山菊栄、尾竹紅吉、西村陽吉、山田吉彦(きだみのる)らがいた。
……十月ころ、慶応の学生・野坂参三が、サンジカリズム研究のためにフランス語をマスターしようと……研究会に出席している。
(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p156)
神近は当時、『東京日日新聞』社会部の記者だった。
その職を得たのは前年(一九一四年)、紅吉と文学雑誌『蕃紅花』(さふらん)を創っているころだった。
『神近市子自伝 わが愛わが闘争』によれば、神近は紅吉の紹介で『東京日日新聞』小野賢一郎記者に会い、ジャーナリズムの道を歩むことになった。
神近が大杉と初めて面会したのは、新聞記者としての取材だった。
宮嶋資夫夫人の麗子(旧姓・八木)は『蕃紅花』時代の同人仲間だったので、宮嶋夫妻の家に出入りしているうちに、神近は次第に社会主義に興味を持ち始めた。
そのうち宮嶋夫妻と一緒に平民講演会やフランス文学研究会にも参加するようになったのである。
山川(青山)菊栄が「フランス文学研究会」の回想をしている。
ある日神近市子さんが来て、大杉さんのフランス語の夏期講習会に出てみないかと誘われ、私はその前から独学でフランス語を少しかじっていたのでいくことにしました。
クラスは二つ。
上級には私のほかに一人か二人の男の学生。
テキストはフランスの社会学者タルドの『ロア・ド・ソシアール』でしたが、下読みをしていくのは私ひとり、ときどき、ここはこれでいいのかしらと思って大杉さんにたしかめると、居眠りから目をさまして、どこだ、どこだというしまつ。
足をはこぶだけばからしいので会期の二週間を待たずにやめました。
(山川菊栄『女二代の記ーーわたしの半自叙伝』/山川菊栄『おんな二代の記』_p214)
山川はこの年(一九一五)の秋、神近に誘われて平民講演会にも参加した。
大杉、神近両氏は入口でチラと見えたきりきえてしまい、六畳くらいのすすけた室に知らない男の人ばかり十五、六人もいたでしょうか。
みな和服で、講師の荒畑氏の話に熱心に耳をかたむけ、話がすむとあちこちから質問が出、まじめでなごやかな、気持のいい会合でした。
狭い座敷に人が多く、タバコの煙がたちこめたので、少しあけてくれ、という声がして縁側に向かった障子があけられる、まもなく誰かが「寒い、しめてくれ」といったので、「利害の一致はむつかしいなあ」というと皆が笑い出す。
この夜の講演は階級的利害の一致による労働者の団結権、団体交渉の問題だったからでした。
(山川菊栄『女二代の記ーーわたしの半自叙伝』/山川菊栄『おんな二代の記』_p214~215)
野坂参三は友人に誘われ、その友人と「フランス文学研究会」に二回くらい参加した。
二階に上がると、八畳の座敷の真ん中には、写真で知っている大杉栄がすわっていて、すでに二人の若い女性と一人の男性とが、彼をかこむようにして雑談をしていた。
わたしは、友愛会に関係を持つ学生で、フランス語の勉強をしたい、と自己紹介すると、彼は特徴のある大きな目をパチクリさせ、すこしどもりながら、歓迎する、といった。
そして、先客の三人の相弟子を紹介した。
二人の女性は神近市子、青山菊栄(のちに山川)だった。
二人とも、顔立ちはしっかりしていたが、凄味が感じられた。
男性は、当時帝大学生だった秦豊吉(のちに帝国劇場の社長)であった。
大杉の講義は、ABC(アベセー)……の発音からはじまり、一人ひとりに発音させて、それをていねいに直してくれた。
なかなか厳格だった。
たしかソレルのものの抜粋を……テキストにしたが、きわめて難解でチンプンカンプンだった。
第一回目も第二回目も、教室内の雰囲気が、わたしには異様に感じられた。
そのうえに、大杉栄や二人の女性たちから、わたしたちが何か異邦人のように見られているのに気がついた。
しかし、わたしの方も、彼女たちが、煙草(シガレット)をプカプカふかし、男のようなしゃべり方をするのが、気にくわなかった。
当時の「新しい女性」にありがちな、たかぶったところも感じられた。
(野坂参三『風雪のあゆみ(一)』)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)
★山川菊栄『女二代の記ーーわたしの半自叙伝』(日本評論新社・1956年5月30日)
★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)
★野坂参三『風雪のあゆみ(一)』(新日本出版社)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第164回 三面記事
文●ツルシカズヒコ
『青鞜』七月号「編輯室より」から野枝の言葉を拾ってみる。
●……それで前号にも申しましたやうに八月は一月やすみまして九月の紀念号からしつかりしたものを出したいと思ひます。それで九月号には堕胎避妊についてのお考へを成るべく多数の方から伺ひたう御座います……何卒読者諸姉のまじめなお考へを伺ひたいと思ひます。
●私は七月中旬迄には一度九州の実家へかへらうと思つてゐます。
九月号の原稿は七月十日過ぎならば左の所あてにお願ひいたします。 福岡県糸島郡今宿村 伊藤野枝
●……廿日頃まではいろ/\な印刷所をかへたりする用事で原稿がかけないで廿日すぎてからは毎日のやうに気分がわるかつたり何かしてすつかりおくらして仕舞ひましたので何も書けませんでした。……九月にはどうかしていゝ雑誌を出したいと思つてゐます。
●平塚明(はる)氏は四ツ谷南伊賀町四一にお越しになりました。
●大杉栄氏は小石川区水道端二ノ十六に仏蘭西(フランス)文学研究会をおいて毎週土曜日の夜高等科では一回読み切りの小説脚本、講演等を講義し猶別に初等科をおいて仏語を初歩から教授なさるさうです。
(「編輯室より」/『青鞜』1915年7月号・第5巻第7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p247~248)
野枝は『新公論』七月号では「三面記事評論」欄で新聞の三面記事の評論をやっている。
『大阪朝日新聞』の三面にこんな記事が載った。
大阪市内の某校の女教師は母と一緒に住んでいたが、そのうち養子を迎え結婚した。
しかし、夫婦仲がうまくいかず、争いが絶えなかった。
ある日の午後七時ごろに買い物に出かけ、十時ごろ帰宅すると、外出の時間が長いと夫に小言を言われ、大喧嘩になった。
翌日もその続きがあり、結局、女教師は二階に上がって縊死した。
野枝はこんな感想を書いた。
実に下らない事に死んだものだとしか私には思はれない。
始終そんなに争つてばかしゐたのなら何故に離縁でも何でもしないのだらう何も死ななくてもよさそうなものだと思はれる。
三面記事としてはつまらない記事だ。
こんなつまらない記事を女教師の縊死だなどゝ大げさに書くことはあんまり気のきいたことでもない。
一体私は新聞紙の報道を信じることがどうしても出来ない。
三面の一寸(ちょっと)した報道にもはやく報道すると云ふ方にばかりかたむいて、真実を報じやうと云ふ堅実な考へはまるでないやうに思はれる。
(「女教員の縊死」/『新公論』1915年7月号・第30巻第7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p253)
七月十一日、野枝は山田邦子に手紙を書いた。
宛先は「東京代々木」、発信地は「小石川区指ケ谷町 青鞜社」。
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の「書簡 山田邦子宛」解題によれば、山田は『女子文壇』の投稿家として活躍していたが、文学への希望を父に反対されたため『女子文壇』の編集者の河井酔茗を頼って家出し中央新聞社に入社。
同社の記者の今井健彦と結婚して退職したが、この年(一九一五年)は『青鞜』にも多くの作品を発表していた。
野枝は九月に出す『青鞜』四周年紀念号の原稿を依頼した後に、山田に愚痴をこぼしている。
私は今の処、本当に友だちといつてはないのです。
平塚(らいてう)さんも遠くに行つて越して仕舞ひましたし、ろくに手紙も来ませんし書きません。
あの方は本当に立派な方ですけれど、あの方にいつまでも優越感をもたせてゐなくてはおつき合ひの出来ない方です。
……私も子供が出来てエゴイステイツクになつたと非難されて遠ざけられて居ります。
……私はあの方に私の手を引かれて育てられたことは決して何時になつても忘れませんし、たつた一人の私の近しいたよりになる人と思つてゐましたのですけれど、そんな風です。
私は本当につらひのですけれど、これも自分のゆくべき道ならば仕方がないのです。
……一度私の仕事として引きうけた雑誌をなげ出して仕舞うことは出来ません。
……つまらないぐちを思はず書いてしまひました。
何卒おゆるし下さい。
(「書簡 山田邦子宛」/安成二郎編『大杉栄随筆集』明治大正随筆選集11・人文出版部・1927年/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p256)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第163回 ロンブローゾ
文●ツルシカズヒコ
野枝が物書きとして順調にステップアップしていく一方で、辻の評判は芳しくなかった。
辻は、前年一九一四年の十二月、ロンブローゾ「『天才論』の訳著を植竹書院から植竹文庫第二篇として出版した。
英訳本『Man of Genius』の重訳である。
出版にこぎつけるまでには佐藤政次郎、生田長江、岩野泡鳴、小倉清三郎らの協力があった。
そもそも一九一二年の秋には訳し終わっていたのだが、佐藤政次郎に紹介された本屋がつぶれ、その後出版社がなかなか見つからなかったのだ。
辻の作家デビュー作となった『天才論』は反響を呼び、たちまち十数版を重ねるベストセラーになった。
辻も決して仕事をしていなかったわけではなかったが、世間から辻はダメ亭主と見られがちになり、そうした世間の思惑から夫婦不仲説が流れた。
野枝はそんな噂を否定しようと奮闘した。
辻の名誉回復のためでもあるが、ダメ亭主と一緒にいると思われることは自分のプライドが許さなかったからだ。
私が私の良人よりも多く名を知られてゐると云ふことの為めに私達の関係について屢々(しばしば)侮辱が加へられる。
一体名を多く知られると云ふことがどれ程その人の価値を高めることになるだろう。
私が名高いと云ふことの為めに、私が何も良人の価値を蹴落しはしない。
……日本社会の浅薄さを思はないではゐられない。
……私はたゞ私の偽らない感想を筆で書くと云ふこと丈けしか出来ない。
それは誰にでも出来ることなのだ。
私は少からず買ひかぶられてゐる。
……今はあまりに一般婦人の内生活のレベルが低くい為めに、少しばかり私があたりまえへなことを考へてその感じたりしたことを書けばそれが珍らしがられるのだ。
……私には格別の智識も才能もない事丈けはたしかだ、たゞいくらでもさうした智識を得やうとする欲望は持つてゐる。
……私の生活がたゞ他の人々の生活にくらべていくらか真実を多く持つてゐると云ふことしかちがつてゐないやうに、私の書くものはたゞ虚偽をまじえないと云ふこと丈けは自信と誇りにもなるけれども他の点は平凡すぎる程平凡である。
それだのに世間の人は……良人には何時も軽い軽侮の影が投げられてある。
私はそれには何時も不快を感じさせられる。
私は自分よりも低いものや同等のものを恋愛の対象にしたくない。
私の家庭に少しはいつて来た人は屹度彼を私より低くねぶみすをする人はあるまいと思ふ。
彼は世間的の地位や名聞に対して非常に冷淡で、何時でも自由を欲してゐる為めに自由を拘束されるやうな位置や名聞は却つて邪魔な位に思つてゐる厄介と云へば厄介な強情な人間である。
私が彼よりもずつと浅い小さなものでありながら名が多く知られていると云ふことに対しては実際苦しんでゐる。
といつて私は決して彼のもつてゐるものが光らないからと云つて彼のねうちを軽く見る程無理解ではない。
彼がそのまゝそれを握つたまゝ死んだとしても彼のねうちは少しもちがはない。
よく知りもしないくせに彼是(あれこれ)云ふこと丈けはつゝしんで貰ひたいと思う。
……つまらない憶測をしたり、よくわかりもしない人から聞きかぢりを面白さうな読み物の種にすると云ふ人々の態度を憤らずにはゐられない。
(「偶感二三」/『青鞜』1915年7月号・第5巻第7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p245~246)
「私信ーー野上彌生子様へ」は、弥生子が野枝に宛てた私信に対する公開の返信だが、弥生子が野枝に宛てた私信は野枝と辻の関係がうまくいっていない、野枝と大杉の関係が接近しつつあるという噂の真偽を確かめる内容だっと推測できる。
野枝は「私信ーー野上彌生子様へ」の中で、その噂を全否定し、とかく世間からの評価が低い辻の名誉回復を試みた。
『青鞜』六月号に掲載された「私信ーー野上彌生子様へ」と、同七月号に掲載された「偶感二三」を読んだ大杉は、こんなことを思っていた。
……N子は雑誌Sで二度自分の家庭の事を書いた。
其の一つは、TがN子の従妹の、ちょっと郷里から出て来てゐるのと関係した事実に就いての感想であつた。
もう一つは、ある親しい友人に答へて、自分の家庭に何にか大きな動揺があると云ふ、友人間のうはさに就いての感想であつた。
N子は、此の前者の事実に就いては、到底回復することの出来ない大きな創を負ふたやうだつた。
しかし後者のうはさに就いては、Tに対する測る事の出来ない深い愛を説いて、全然其のうはさを打消してゐた。
そして、多分此の後者の文章だつたと思ふが、Tに対する謂はゆる『愚図』の世評に就いても、切りに弁解に努めてゐた。
『いよ/\もうおしまひだな。』
僕は直ぐに斯う直覚した。
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/『大杉栄全集 第12巻』)
大杉には辻がもう数年間なんの職業もなくほとんどなんの収入もない、といってたいして勉強しているのでもなしに、ただぶらぶらと遊んでいるように見えた。
大杉はそういう辻に対する不平を野枝の口から聞いたこともなかったし、野枝が誰かに漏らしたという話も聞いたことがなかった。
世間の辻に対する悪評に、野枝は沈黙を守っていた。
これは、彼女のTに対する愛と信、と云ふだけでは説明が出来ない。
彼女の人並はづれた見え坊から来る自尊心と意地つ張りとには、矢張り其の点では誰にも負けないつもりの僕までが窃かに驚嘆してゐた。
『彼女の意地つ張りが今其の絶頂に達したのだ。』
僕は遠からず彼女の此の意地つ張りが破裂するのを予想しない訳には行かなかつた。
そして僕は一人微笑んでゐた。
しかし又、彼女の此の自尊心と意地つ張りを思う時、僕は彼女の二度までの手紙に、ただの一言の返事もしてゐないのが堪らなく不安にもなるのであつた。
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/『大杉栄全集 第12巻』)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第162回 日常生活の日誌
文●ツルシカズヒコ
『新日本』一九一五年六月号(第五巻六号)に掲載された「日本婦人の観たる日本婦人の選挙運動」は、アンケートに回答するスタイルの記事で、野枝も回答を寄せている。
他の回答者は鳩山春子、矢嶋楫子(かじこ)、木村駒子、与謝野晶子、松井須磨子、津田梅子など。
以下、質問は『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「日本婦人の観たる日本婦人の選挙運動」(アンケート回答)解題から引用、野枝の回答は「結論」を意訳。
質問一/あなたは、日本婦人が選挙運動にたづさはることを、どうお考へになりますか。
加わってならないという理由はありません。
しかし、この度の総選挙に五、六人の婦人が携わったようですが、ああいう手段として使われながら、得々としてひとかどの運動をしたようを顔をしている人を気の毒に思います。
質問二/単に我夫であり、我子であり、、親族知人あるが故に、其政見の如何を問はず、其選挙運動を助けるというふ事は果たして適当な事でせうか。
社会問題にも政治問題にも興味を持つどころか、興味を持つに必要な知識さえ与えられず、それを不満に思わない婦人が多いのに、自分一個の政見を把持することができる婦人がいるのかどうか、はなはだ覚束ないと思います。
質問三/戸別訪問をしてあるくと云ふことに就いてのお考は、如何ですか。
戸別訪問は最も拙劣です。
質問四/婦人が選挙運動に携はる前には、政治的教養を必要としますまいか、選挙運動に携はるより前に先づ、政談演説自由傍聴の道を開く方が急務とお考へになりませんか。
社会的、政治的な方面に興味を持てる教養は身につけたいと思います。
今のところそういう方面に興味を持っている婦人はいないようです。
教育の欠陥が最大の理由です。
質問五/婦人が政治に携はるとして、其夫子等と政見を異にした場合は、どうすればよいとお考になりますか。
現実からかなりかけ離れた質問です。
しかし、もし私がそういう場合に遭遇したら、お互いの意見を尊重します。
(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p231~233)
野枝は『新潮』七月号に「私が現在の立場」を寄稿している。
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の解題によれば、『新潮』同号の「口絵」には一(まこと)と一緒に写っている野枝の写真も掲載された。
野枝のメジャー誌デビューである。
文芸誌『新潮』の創刊は一九〇四(明治三十七)年である。
私たちの最初の行動は外面的な反抗の行為で現はれた。
さうして世間の注目を引いた。
前に私達の重(おも)に考へたり、また書いたりした事は主として、私たちの先輩に対する不平であつた。
けれど、今私はすべて私の日常に這入つて来る種々な事象をどう取り入れるかと云ふことについてのみ考へてゐる。
私の書くものはその営みの或る一小部分の記録に過ぎないのだ。
本当に、それは平凡な女の日常生活の日誌に過ぎない。
私の書くものには何の技巧もない。
たゞ有りのまゝである。
さうして、私の書くものは今迄文学的作品として取り扱はれて来た。
併し私の気持では決してさう云ふ方面から価値のあるものではない。
私の書くものはすべての人がーー文字をもつたすべての人が書ける事柄であらねばならない。
それを何故私が公表するか、と云へば私の書くことは事実だ。
私の出遭つた事柄だけは曲げることなく偽はることなく書いてゐる。
殊に出遭つた後でその態度の間違つてゐたことを見出せばそのまゝ間違つてゐたと云ひ、適当であつたことはそのやうに書いてゐる。
婦人と男子は敵味方抔(など)と呼ぶものでは決してない。
私は理解ある人は決して婦人の味方だなどゝ云ひはしないだらうと思ふ。
たゞ公平な眼で見て貰ひさへすればいゝ。
婦人の位置が男子によつて堕(おと)されたとは云ふけれどもそれは婦人の方にも責めは当然負ふべきである。
私たちが目覚めたからと云つて直ぐに新時代が来たと云ふことは出来ない。
私たちが今ゆめ見てゐる世界は私達の幾代後に来るかわからない。
私達は一生さうした空想によつて努力を続けてゆくやうなものであるかもしれない。
併し、私はそれでもいゝ。
たゞ只管(ひたすら)に自分の日々の生活に出来る丈け悔いを残さないやうに努力してゆくことが出来さへすれば。
遂に私は一生万遍なき日常生活の平凡な記録を書くことのでみ終るかもしれない。
けれどもそれでもいゝ。
たゞ私がそれに嘘をまじえなかつたと云ふ自信さへあれば。
(四、六、一四)
(「私が現在の立場」/『新潮』1915年7月号・第23巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p250~252)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index