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2016年04月26日

第127回 貞操論争






文●ツルシカズヒコ



 一九一四(大正三)年の『青鞜』を語る上で欠かせないのが、西崎(生田)花世と安田皐月の間で起きた「貞操論争」である。

 発端は生田長江主幹の文芸評論誌『反響』九月号に、花世が発表した「食べることと貞操と」という告白的な文章だった。

 その所説が平塚らいてう『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』に載っている。

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 女が食べるために、ことに自分だけでなく、養育の責任ある弟妹などがある場合はなおさら、他に生活手段がないとき、女の最後のものを食に代えることは、やむを得ないこととして許されるべきである。

 食べるということが第一義的の要求であって、自分一個の操のことは第二義的な要求である。

 在来の道徳が処女を捨てさせまいとするのは、それが決して罪悪だからではない。

 処女であることが、結婚の有利な条件だからに過ぎない。

 だから結婚の場合の不利さえ覚悟の上なら、貞操を売って生活するのも、また自由ではないか。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p533~534)





 皐月が『青鞜』誌上で花世に反駁した。


「自分一個の操の事」を考へないで何処に生活があるのだらう。

 何で食べる事が必要だらう。

 操……と云ふものは人間の、少くも女の全般であるべき筈だ。

 決して決して決して部分ではない。

 部分的宝ではない。

 これ丈けが貞操で、これからが貞操の外だなどゝ云ひ得るわけがない。

 人間の全部がそれでなければならない。

 女の全部がそれでなければならない。

 何物を以つても何事に合つても砕く事の出来ないものが操である筈だ。


(安田皐月「生きる事と貞操と」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号_p2~3)






 下町の「ことぶき亭」という寄席の女中をするなど、パンを得るために重労働を強いられていた花世は、パンのために「貞操を売る自由」を主張したが、皐月にとって貞操とパンを交換することは自己を侮辱し、女性を侮辱することであり、いやしくも自我に目覚めた女性の声としては呆れ返るほど腹立たしいことだった。

 私は私を生かす為に生きてゐる。

 只其為に生きてゐる。

 私は生田氏の一文に余りに驚き余りに呆れて、どうしても書かずに居られなくて書いた。

 九月号のこの記事が今迄何とも云はれなかつたと云ふ事丈けでも、「どうせ女だ。女と云ふものは食べられなくなれば其那者(そんなもの)さ」と云はれて居る様な不快を感ずる。


(安田皐月「生きる事と貞操と」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号_p9)





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、『平民新聞』第三号の製本が仕上がったのは一九一四(大正三)年十二月十八日、夜十時過ぎだった。

『平民新聞』を印刷していたのは銀座の福音印刷だったが、警官十四、五人が福音印刷を取り巻いて厳重な警戒をしていた。

 タクシーで突破する方法を思いついた大杉は、吉川守圀、渡辺政太郎、荒畑寒村と新聞を抱えてタクシーに乗り込み、まだ発禁命令がなく手が出せない警官を尻目に運搬に成功した。

『平民新聞』第三号は翌、十二月十九日に発禁処分になったが、持ち出すことには成功した。

 しかし、吉川と渡辺が運んだ分は、神田のある菓子屋に隠したのだが、翌日になってその二階に警部補が下宿していることがわかった。

 尾行つきの彼らは取りにゆけない。

 渡辺がその話を野枝にすると、野枝はすぐに俥で駆けつけ自宅に隠した。

 そのことを大杉が知ったのは、ひと月くらい後だった。





★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:06| 本文

第126回 身の上相談






文●ツルシカズヒコ



 野枝が『青鞜』の編集発行人になる件について、『読売新聞』が記事にした。


「原始女性は太陽なり」で婦人の自覚を促した「青鞜」もこの頃幹部の間に意見の扞格(かんかく)を生じたので愈々(いよいよ)平塚らいてう氏は同誌より退隠し、伊藤野枝氏が全部の責任を帯びて今後益々健闘すると云ふが事情に精通した人は野枝氏の立場に可なり同情を持つてゐるらしい。

(『読売新聞』1914年11月27日)


 野枝は誤解を回避するために、速攻で『青鞜』にこう書いた。


 廿七日の読売新聞に社の内部で何かゴタ/\でもあつて私が青鞜をやることになつたとか何とか妙な事が書いてありましたが決してそんなことはありません。

 委しいことは来月号に書きます。


(「編輯室より」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p142)

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 野枝は『青鞜』の発行を自分に継続させてほしいと、らいてうに懇願した。


 創刊後もう三年以上も続けて来てまださう行きつまつたと云ふほど迫つてもゐないのに廃刊にするのは如何程考へ直してみても惜しい、殊にこの創刊後とやかく云はれ続けて来たけれどもそれでも幾多の若い人達を助けて来たことを思へば猶更捨てられません。

 私自身が先づ一番に青鞜によつて育てられました。

 歌津ちやん、がそうです数へ出すときりのない位です。

 これからどんな人が生まれるかも知れません。

 私はそのことを思ひますととても思ひ切つて投げ出す気にはなれません。

 殊に……或る時ふと目に触れた私共に対する批評の中に『彼等は人々の好奇心によつて生まれたものだ。人々の好奇心が失くなつて存在しやう筈がない。』と云ふ言葉が雷のやうに私の頭を横切りました。

 私はあやふく涙が出さうになりました。

『どんな苦痛と戦つてもやつてゆく!』

 私は固く/\決心したのでした。


(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p153)





 野枝は『青鞜』十二月号に二本の原稿を書いた。

 ●「再び松本悟郎氏に」(※「悟郎」は「悟朗」の誤記)

 ●「雑感」

「再び松本悟郎氏に」は、松本悟郎「伊藤野枝氏に」(『第三帝国』第二十四号・十一月十五日)への反論である。

 野枝は自分と松本との見解の違いを明確にした。

 野枝にとっては「社会自身は私には無意味な、問題にならないものです。それが自分の生活に関はつて来るときにはじめて問題になる」が、松本は「社会と自分の生活に交渉があるとかないとか云ふ馬鹿な事はない。社会と自分と引きはなして考へることは出来ない」と考えている。

 この見解の相違は仕方ないとして、野枝はさらにこう述べた。


 私は自分のことやその他、思索する時に、かなり社会とは没交渉になつてゐます。

 それはあなたのやうな一も社会二も社会と何でも社会によつて事を運ぼうとするやうな忠実な社会賛美者には到底不可解だと思ひます。

 私は現代の社会に対しては思ひ切つて不満をもつてゐる反逆者の一人であることを信じます。

 そうして私はあなたとは違つた意味で「我々は一切の過去其物だ」と云ふ哲理を賛美します。


(「再び松本悟郎氏に」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p135)





「雑感」で野枝は『読売新聞』の「婦人附録」にまた憤っている。

 
 読売の婦人附録の愚劣さに毎朝不快を感じる。

 就中(なかんずく)私を憤らせるのは身の上相談である。

 先づ問ひの方だ。

 あんなくだらない事まで他人に相談しなければ仕末のつかないやうないくじのない人があゝもゐるかと思うと腹立たしくなつて来る。

 実に下らない人達だ。

 けれども答へる人に至つては更に言語道断である。

 こんな人に身の上相談を持ちかける人も人だがこんな答へに満足してゐるやうならまだ相談しない方がましだ。

 そう云ふ人達ばかりだからあの附録が宣言とはまるでかけはなれたありふれた婦人雑誌とすこしも違はない愚劣なものなのも不思議ではない。


(「雑感」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p139~140)





「雑感」では社会主義者、無政府主義者にも言及している。

「私は現代の傾向を要約して『量』(コンテイテイ)であると云ひたい。

 群集と群集精神とは到る処にはびこつて『質』(クオリテイ)を破壊しつゝある。

 今や私どもの全生活ーー生産、政治、教育ーーは全く数と量との上におかれてゐる」

 というエマ・ゴールドマンの言葉を引き、野枝はこう書いた。


 本当に、さうだ。

 多数者の横暴は現今に於ては常に全く正義とその位置をかへてゐる。

 私はまだソシヤリストでもないしアナアキストでもない。

 けれどもそれ等に対して興味はもつてゐる。

 同情も持つてゐる。

 それは正しい思想であるからは、同情をもつのは当然である。

 この人口の稠密(ちゅうみつ)した日本に社会主義者と目される人が三千人とはゐないようだ。

 そしてそれ等の殆んどすべてが圧迫をおそれてゐるやうな人達ばかりださうだ。

 心細いことだと私は思ふ。
 
 真実に主義の為めに殉じ得る人は数える程しかいない。

 平民新聞が二度出して二度発売禁止の厄に遇つたことなどあまりに政府の小胆を暴露するものである。

 私はどう見ても彼等はたヾソシヤリスト、アナーキストと云ふ名に怖れを抱いてゐるとしか思はれない。

 私は彼等の横暴を憤るよりも日本に於るソシアリストの団結の貧弱さを想ふ。

 あの大杉、荒畑両氏のあれ丈けの仕事に、何等の積極的な助力を与へることも出来ないあの人たちの同志諸君の意久地(いくじ)なさをおもふ。

 更に私達婦人としての立場からそれ等の主義者の夫人たちがもつと良人(おつと)に同化せられることを望む。

 夫人同士の結合が良人達の団結をどの位助けるものかと云ふことを考へられるならばもう少し広い心持ちになられて欲しい。

 私が今迄直接間接に聞き知つた夫人達の行為は或は態度はあまりにはがゆいものであつた。

 私達もこれからはたヾ「妥協せざる熱心と勇気と決断」に依つて、私達の正当な位置を取りかへさなければならない。

 そうしてやがて私達の「質」が「数」と「量」をもあはせ収め得るであらう。

(三、十一、二七)


(「雑感」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p140~141)





 大杉は野枝の書いたこの文章をいちいち首肯しながら読んだ。

 大杉は野枝と面会したときに、自分たちの主義とか運動とか同志とかについての深い話はせず、電車の飛び乗り飛び降りをして尾行の刑事をまくとか、笑い話ぐらいしかしなかった。

 それなのにどこで見聞きしたのか?ーー大杉はそれが不思議だった。





★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 20:58| 本文

第125回 引き継ぎ






文●ツルシカズヒコ



 一九一四(大正三)年十一月、平塚明『現代と婦人生活』が出版されたが、野枝はその「序」を書いた。


 らいてうさま、

 ほんとうに私は嬉しうございます。

 私はあなたの第二の感想集が出版されるのだと思ひますとまるで自分のものでも出すやうな心持ちがいたします。

 最近の私達の生活を知つてゐるものは私達自身きりですわね、私たちは私たちの周囲の極く少数の人をのぞく他の誰からも理解や同情など云ふものを得ることは出来ませんでしたね、まるで私だ(ママ)ちの周囲は真暗でしたもの。

 疑惑と中傷と誤解と威圧とそして侮蔑と嘲笑と揶揄とが代る/″\に私達を一番親しく見舞つてくれましたわね、けれどもその中からこのあなたの論文集が生まれたのですわね……。

 あなたの……最近の生活の努力によつて生れた尊い思想の断片として私は私の能ふるかぎりの尊敬をこの書に捧げます。

(三、一一、八)

 小石川にて 野枝


(「序に代へて」/『現代と婦人の生活』・反響叢書第二編・日月社・1914年11月27日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p132)

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 十一月十三日の夜、らいてうは御宿から上京し、十一月十五日の朝、野枝宅を訪ねた。

 自分に『青鞜』の編集や経営の一切を譲ってほしいという野枝がらいてうに書いた第二信の手紙は、らいてうの上京と行き違いになったが、御宿かららいてうの実家に廻送されたので、らいてうはその手紙を読んでいた。

 ひと月ぶりに野枝の顔を見たらいてうは、野枝は相変わらず元気いっぱいでピチピチしていると思った。

 野枝はらいてうに『青鞜』を引き継ぐ決意を力強く語った。


「一生懸命やってみますから、ひとつ委せて下さい。あなたはなにもしないでいいんです。ただ毎月書くことだけはかならずして下されば。しかし雑誌の署名人だけはあなたに御願いします。責任は何処までもわたくしたちが負います、ご迷惑になるようなことはしないつもりです。編集の方は辻がやるから大丈夫です」

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p552)





 らいてうは辻と野枝夫妻の決意はうれしかったが、経営面など楽観しているころがあるのではないかと危惧し、いろいろ注意した。

 野枝は雑誌を簡素化し、金銭も切り詰め、自分たちの生活の形式も変えて対応したいと自信たっぷりだった。

 しかし、辻にしても野枝にしても事務的な仕事をこなし、継続していけるタイプの人間ではないーーらいてうはそれを知っているだけに、危惧の念は去らなかった。

 らいてうは名だけの署名人の件は断り、原稿も書きたいときに書かせてもらうことにした。

 二日後、野枝がらいてうの上駒込の家を訪れて事務引き継ぎを行ない、野枝は翌年の一月号から『青鞜』の編集人兼発行人を務めることになった。





 青鞜社の所有品全部ーー寄贈の図書、雑誌類、英語や日本語の辞典や書類、名簿「青鞜」の合本、本箱、机、文房具など一切合財、野枝さんの引越し先、小石川竹早町の家へ運んでもらいました。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p553)


 らいてうは『青鞜』には、こう書いている。


 十七日の昼近くに野枝さんが社に来ました。

野枝さんの眼には自信と勇気と決心の色が輝いて居ました。

 私は野(ママ/※野枝)さんに譲り渡し(ママ/※渡した)社の責任と仕事と、所有物の総てを手渡しました。

 只創刊号から三週(ママ/※周)年紀念号までーー丁度三年間の『青鞜』各一部を私の手に残して。

 午後、社の荷物は野枝さんのお宅に運ばれました。

 私は長い間の重荷をやつと卸したやうな気持がしました。

 そして私の心には野枝さんに対するある感謝の念が湧いて来ました。


(平塚らいてう「青鞜と私」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号_p133)





★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 20:17| 本文

第124回 平民新聞






文●ツルシカズヒコ



 大杉と荒畑寒村が編集発行する、月刊『平民新聞』創刊号が発行されたのは、十月十五日だった。

 しかし、即日発禁になり、この日の正午、印刷所から持ち運ばれるや否や直ちに全部を押収された。

 全紙面が安寧秩序に有害だというのが発禁の理由だった。

 起訴はせず、印刷直後に発禁、押収して経済的に追いつめるのが官憲の手口だった。

 野枝は『青鞜』で果敢に官憲の批判をした。

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 大杉荒畑両氏の平民新聞が出るか出ないうちに発売禁止になりました。

 あの十頁の紙にどれ丈けの尊いものが費やされてあるかを思ひますと涙せずにはゐられません……。

 ふとして私は新聞を読むことが出来ました。

 ……書かれた事は主として労働者の自覚についてヾある。

 私は書かれた理屈が労働者ばかりについてヾなくすべての人の上に云はるべきものであると思ふ。

 そしてそれが労働者についてのみ云はるゝときに限って何故所謂その筋の忌憚にふれるのか怪しまないではゐられない。

 私は此処に出来ることならその一部丈けでも紹介したいけれどもあの十頁すべてが忌憚に触れたのださうだ。

 だからまた転載した罪をもつて傍杖(そばづえ)でも食ふやうな事になると折角私が骨を折つて働いたのが無駄になるから止めと置く。

 けれども大杉荒畑両氏にも心から同情いたします。


(「編輯室より」/『青鞜』1914四年11月号・第4巻第10号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p131)





 大杉は野枝のこの文章を心からありがたいと思った。

 そして大杉は『平民新聞』十一月号・第二号の「発売禁止の反響」の中にこれを転載するようにと、荒畑に言った。

 荒畑はいわゆる「新しい女」に妙に反感を持っていたが、すぐにこう書いた。


 「凡ての新聞雑誌が大隈内閣の言論圧迫に満足して、本誌の発売禁止に関しては全く口を噤み、本誌の存在すら黙殺しつゝある時、青鞜誌上に独りこの文を見るは、吾々の寧ろ意外とする処である」

(『青鞜』1914年11月号・第4巻第10号「編輯室より」解題/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p462)


 しかし、『平民新聞』は第二号も発禁になった。





 らいてうによれば、野枝がらいてうに宛てた手紙には、こんな主旨のことが書かれていたという。


 自分がつくった雑誌があまり不出来なので、自分にあいそがつきた、出来るなら十二月号の編集はお断りしたい。

 尤もこの仕事が自分の生活とピッタリくっついてしまえばいいのだが、あなたの代理としてやるのはやりにくくて困る。

 もしあなたが『青鞜』の編集、経営のすべてを私共の手に委して下されば、もう一度覚悟し直して、辻と一緒に出来るだけやってみてもいいと思う。

 この際、むしろ、思いきって、『青鞜』をあなたの個人誌としてあなたの生活と仕事を統一して再出発されるがいいと思う。

 とにかく冷静なあなたの判断を待ちます。

 そのうちには、私の考え方もちがってくるかもしれません。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p550)





 野枝はらいてうに宛てた手紙について、こう書いている


 十一月号の編輯をしてゐる間に私はいろいろなことを考へました。

 私は充分に働かうといたしましたけれど家のことや子供に大部分の時間をそがれてどうしても思ふやうに動けませんでした。

 そうして遅れながら雑誌が出来上つたとき私は私の仕事の間抜さ加減がいやになつて仕舞ひました。

 そのみすぼらしさがかなしくなりました。

 私は何を考えるひまもなく直ぐに御宿の平塚氏の処へ長い手紙を書きました。

 それは重(おも)に雑誌が不出来なこと…こんな事では駄目だから十二月号の編輯もお断はりしたいと云ふこと……。

 それから……思ひきつて平塚氏に雑誌をすつかりあなたのものにして……経営なすつたらどうでせう。

 私はそれが一番最上の方法だと思ひます。

 けれども……続けていゆく上にあなたが真実に苦痛をお感じになれば……私に全責任を負はして頂いて私の仕事としてもよろしう御座います。

 然し今のやうな状態では……私のやつてゐることがどつちつかずで……あなたに対する心づかいが私自身を不快にしていけませんからとても十二月号は出来さうもありません。

 と云ふやうなことを書き送りました。


(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p151)






 野枝の手紙の内容はかなり錯綜していたが、らいてうは野枝に返事を書いた。


 十二月号は、あなたが一たん引受けたことであり、とにかく今のままでやって下さい。

 無理なことはよくわかっています。

 これからのことは今考えています。

 わたくしの考えがまとまるまでしばらく待って下さい。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p550)





 らいてうは『青鞜』を出し続けることに伴う雑事に振り回されることが苦痛だった。

『青鞜』以外の雑誌に原稿を書いて、原稿料を稼ぐ必要にも迫られていた。

 らいてうは奥村とふたりで勉強したり、原稿を書いたりという自由な生活を望んでいたので、『青鞜』はここできれいに廃刊すべきだと考えた。

 しかし、苦労して育ててきた雑誌の未来を、自分ひとりの考えで断つのも残念に思われたので、ともかく、らいてうは野枝に会いよく話してみようと思った。

 らいてうから返事を受け取った野枝は、十二月号はいったん引き受けた仕事なので編集作業にとりかかることにしたが、次第に『青鞜』の仕事を自分が引き受けてもよいと考えるようになった。

 そして、らいてうに第二信を書いた。


 私はこれから十年ひとりで忙しい思ひをした処でまだ三十だ。

 まとまつた勉強はそれからで沢山だ。

 十年のうちには少しは手伝ひをしてくれる人位は出さうに思はれます。

 そう思つて私は私の仕事にしてやつて見る気になりました。


 ……私は私の心持をありのまゝに書きました。

 ……私はいろいろな誤解をのぞく為めすべての責任は私が背負ひます。

 ただ署名人にかゝるやうなことは決していたしませんから署名人にはあなたになつて頂きたいと云ふことを書きました。


(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p152)




★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index






posted by kazuhikotsurushi2 at 14:57| 本文

第123回 人間問題






文●ツルシカズヒコ




 一九一四(大正三)年十月に奥村と千葉県の御宿に行ったらいてうは、当初、上野屋という旅館に宿泊していたが、しばらくして漁師の家の広い部屋を借りた。

 野枝が書いた『青鞜』十二月号(第四巻第十一号)「編輯室より」(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)によれば、らいてうが滞在した漁師の家は「千葉県御宿村須賀、長尾浅吉方」である。

 らいてうは御宿海岸が気に入った。


 つよい日の光を反射して白く見える大きな砂丘が、波浪のような豊かな曲線をえがいていくつもつづき、その面に、雲が紫色のかげを大きく落としてゆっくり流れてゆきます。

 砂丘と砂丘の間に坐っていると、まるで砂漠のなかにひとりいるような孤独感が迫ってきます。

 でも足もとを見れば、菊のようで、もっと花びらの厚ぼったい黄色い花が、日をうけて、逞しく金のように光ってあちこちに咲いていますし、遠くには、青草をはむ牛の姿ものんびりと目に映ります。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p547)

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『青鞜』にはこんな文章を寄稿している。


  野枝さん、

 何か書いて御送りしたいと思つて……原稿紙をもち出して浜に出て来た処です。

 まだ五日ばかりですが私の皮膚はもう大分黒くなりました。

 それもその筈です、かうして殆ど終日浜にゐて、海や山や雲を見ながら日なたぼつこをしてゐるのですもの。

 先刻(さつき)から真裸(まつぱだか)な浜の子が二三人私のまはりに突つ立つて、不思議さうに私の書いてゐるのをしばらく見守つて居ました……。

 ……白い蝶々が二つもつれながら飛んで来ました。

 そして今、私のペンの先で戯れて居ます。

 波の音は静かに、そしてリズミカルに寄せては退き寄せては退きして居ます。

 どうしてこの地球上に今大戦争が起りつゝあるといふやうなことが信じられませう。

 号外の呼声もあの鈴の音も私にはもうあんまり遠ひことのやうに思はれますもの。


(平塚らいてう「御宿より」/『青鞜』1914年11月号・第4巻第10号_p50~52)





 このらいてうの滞在先に、野枝から『青鞜』十一月号と厚い手紙が届いた。

 野枝は『青鞜』同号に以下の原稿を書いている。

 ●「人間と云ふ意識」

 岩野清「個人主義と家庭」(『青鞜』第四巻第九号)を読んだ、野枝の論考である。

 自分の家族とのしがらみを断ち切り婚家から出奔した野枝だったが、辻家の姑、小姑との関係が深刻になってきたことによる葛藤が書かれている。

 注目すべきは、野枝の思考に「社会問題」という視点が入り込んできたことである。


 私は今こそ本当に直接にヒタと本当の問題に出会(でく)はした。

 それは社会と云ふ大きなものに包まれたいろ/\なものについての疑問である。

 それは痛切な私の問題である。

 それは無論他人の問題をも含んでゐるに違ひない。

 一人の私が直接した問題であり数万数億の人の面前に迫つてゐる問題である。

 そうして私は真実に自分の孤独と云ふことが今迄考へてゐたやうに狭くも何ともないことを発見した。

 その孤独は自分一人丈けの孤独でなくあらゆる人をとり巻いてゐる孤独であつた。

 もつと広い深いものであつた。

 あらゆる事物を包含した偉大な孤独であつた。

 私の今迄の考へはあまりに狭く小さかった。

 私は今迄足元ばかりを見詰めてゐた。

 漸く私は人達の所謂社会問題を自分の問題として考へることが出来るやうになつた。

小さな私の問題が拡がつた。

そして深い根ざしをもつた。


(『青鞜』1914年11月号・第4巻第10号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p125~126)





 ●「松本悟郎氏に答ふ」(※「悟郎」は「悟朗」の誤記)

『第三帝国』(第二十二号・十月二十五日)に掲載された、松本悟朗「青鞜社同人に与ふ」に答えたもの。

 野枝は社会問題について、こんな発言をしている。


 ……それが自分の生活に関はつて来る時にはじめて問題になるのです。

 ……私にとっては何をするのにも自分の要求から出たことでなくては満足が出来ません。

 自分の本来の心からでたことと他動的な事との差はその熱情の点に於てまた力の点に於て、忍耐の点に於て大きな懸隔があるとはお思ひにはなりませんか、所謂社会の為めの社会改良と自分の為めの社会改良……その差は殊によくわかります。


(『青鞜』1914年11月号・第4巻第10号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p127~128)


 そして、野枝は今後、自分がどこへ向かっていこうとしているのか、その回答をした。


 先づ根本から改革してゆかなければ何の効果もありません。

 婦人問題と云ふよりも私はまだ人間問題だと思ひます。

 私の漸く社会と云ふものに向つてあいて来た目に、久しい以前から私の心の隅にちヾこまつてゐたものと一緒に個人主義を根底としたアナーキズムに向つてあるものをもとめやうとしてゐます。


(『青鞜』1914年11月号・第4巻第10号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p129)






『青鞜』の業務をひとりでこなさなければならなかった野枝は、その大変さをこう書いている。


 私はすつかりまごついてしまつた。

 相談する人もいない。

 加勢を頼む人もいない。

 こんな時に哥津ちやんでもゐてくれるとなど愚痴つぽいことも考へる。

 広告をとりにゆく、原稿をえらぶ、印刷所にゆく、紙屋にゆく、そうして外出しつけない私はつかれきつて帰つて来る、お腹をすかした子供が待つてゐる、机の上には食ふ為めの無味な仕事がまつてゐる。

 ひまひまを見ては洗濯もせねばならず食事のことも考へねばならず、校正も来ると云ふ有様、本当にまごついてしまつた。

 その上に印刷所の引越しがあるし雑誌はすつかり後れそうになつてしまつた。

 広告は一つも貰へないで嘲笑や侮蔑は沢山貰つた。

 私はすべてのことを投げ出したくなつてしまつた。

 そんな訳なのでこの号は本当に間がぬけて手落ちがあるけれどこの号丈けはどなたもがまんして頂きたい。


(「編輯室より」/『青鞜』1914年11月号・第4巻第10号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p130)




★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:05| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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