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2016年04月25日

第122回 根本の問題






文●ツルシカズヒコ



 野枝の胸中に今まで抑えに抑えていた辻に対する微細な不満が、頭をそろえて湧き上がってきた。

 野枝が言いたいことを言い、したいことをすれば、家の中の人たちの不平や不満は、どれもこれも辻に向かうに決まっていた。

 野枝はそういう経験をいくつもしてきた。

 それを繰り返すのが嫌なので、辻から穏やかに話して欲しかった。

 野枝が苦しんでいるのを知らないわけでもないのだし、そのくらいの話を義母や義妹にしてくれるのは当然だと野枝は思っていた。

 辻は妻のそういう心持ちを知ってか知らずか、素気なく突き放した。

 彼はしたいことがあれば、言いたいことがあれば、勝手に自分でしろと言った。

 彼はいつも何に対しても、そう主張する。

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 だから、辻と話しても無駄であり、自分で解決するよりは仕方がない。

 辻は日常に起こる些細な交渉に対してすら、できるだけ避けたがっていた。


『面倒くさい、いゝ加減にやつてくれ』

 さう云つて大抵の事は、逸子や母親にまかしてゐた。

或場合には、面倒くさい事以上の不快や損が、その結果の上に表はれて来る事が当然に解つてゐてさへ、矢張り彼は、そのまゝ其処に座りきつきりにしてゐた。

『お前は懐手をしながら勝手なことばかし云つてゐるんだもの、ちつとは、自分で手を出して御覧、それで世間が通つてゆくものだかどうか。』

 母親も時々は、彼のさうした態度に怒つて云つた。

『俺は世間なんか相手にしやうと思はないよ』

『さうはいきませんよ、そんなに威張つてお前、ちつとも威張る丈けの事をしないぢやないか、お前がそんな勝手な太平楽を並べるのだつて、皆世間へ向つては私たちが代りをしてやつてるからぢやないか』


「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p316~317/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p290)


 辻はコンヴェンショナルに対する野枝の遠慮や気兼ねを叱っているのかもしれないと思ったこともあるが、実際は妻と家の人たちとの間の面倒ごとに入って話をするのが煩わしいだけなのだーーそう考えて、野枝はまた彼に対する腹立たしさを呼び戻すのであった。





 野枝の苦しみの原因は、一緒の家にいて始終顔を見合わせているから問題になるような、些細なことばかりだった。

 そういう家庭内の些事(さじ)に煩わされ、自分のしたいことをやれずに苦しむことが、野枝にはつくづく馬鹿馬鹿しいこととしか思えなかった。

 けれど、家族の他の人々にとっては、そんな些事が一大問題になるのだった。

 そして野枝がそうした些事にインデイファレントであれば、辻にはそのことがさらに大問題になる。

 そして、野枝もまたその問題から逃れられなくなる。

 些事とはいえ、それはやはり彼女の考えをすぐに擾(か)き乱してしまうだけの可能性は持っていた。

 辻も野枝もコンヴェンショナルなものに反抗心や憎悪を持っているのは、お互い理解している。

 けれど、辻はその反抗心や憎悪を直接それに向けず、できるだけ没交渉でありたいと願っている。

 その理由は到底、自分の力がまだ及ばないからだという。





 それなら諦めてそれに屈するからと言えば、憎悪は持ち続けているのだが、辻は憎悪をもって戦おうとはしない。

 辻についてここまで考えた野枝は、この問題は自分にとっても根本の問題であることに気づいた。

 野枝は辻の家族と一緒に暮らすようになって、習俗に対する反抗心や憎悪を隠して生きてきた、それは事実だ。

 しかし、隠すくらいなら捨ててしまう方がいい、でなければ堂々と主張すればいいのだ。

 後者を選択した場合、自分が辻の家族と暮らし続けることは、彼らとの軋轢が格段に増え、自分とは違って習俗や情実に従って生きている人を犠牲にしてしまう。


『どうしても、この家からは出なければならない。』

 逸子は、考へれば考へる程その覚悟を強いられた。

 出来る丈けの努力をして、家族の人達に対抗して、自分の考へを押し立てるとしても、かれ等の力も強い。

 その周辺の考へも後盾てになる。

 その上に、嫁と姑小姑と云ふ悪い概念を持つた関係にある。

 それ等のいろんな事から云つて、この争ひは何時まで続くかしれない。

 その位なら、もつと根本的なものに迫つてゆく、大きな広い闘争の仲間入りをした方がどの位いゝかしれない。

 効果の上から云つても、自分の気持ちの上から云つても、大変なちがひだ。

 少々の批難位はなんでもない、

『出よう、出よう、自分の道を他人の為に遮ぎられてはならない。』


「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p324~325/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p294~295)





 野枝の考えはひとつのところばかりに帰って来るーー。

 現在の人間生活のすべてに不自由と不合理が当然なものとしてついて廻っているのだ。

 それに立ち向かおうとすれば、ただ初めから終りまで苦しまなければないない。

 諦めてとうてい及ばないとして見逃してしまうか、苦しみの中にもっと進み入るか……。
 
 野枝はそこまで決心がつくと、そのテキパキした考えに対する自信がさらにまたその決心を強めた。

 場合によっては辻と絶縁をしてもいい、そして学生時代に帰って勉強しようと思った。

 子供は野枝が連れて出るしかないが、それは子供をそう不幸にはしないとも思えた。

 考えの整理がつき頭がスッキリした野枝は、家の日課を滞りなく果たしながら、具体的な計画について二日ばかりは熱心に考え続けた。

 今の平穏な空気を故意に乱すでもあるまいと、腹の決まった野枝はそのままそっとして機会を待った。

 毎日、気持ちのいい秋晴れが続いた。

 野枝は朝から忙しく洗濯や掃除に立ち働いて、折々は子供の相手になってやりながら、呑気らしく子守歌を歌ったりした。

 夜は疲れた体を横にすると、そのままぐっすりと眠りこんだ。

 子供も秋風に肌心地がよくなると、目に見えておとなしくなった。

 四、五日すると母親は陽気な笑顔を見せて帰って来た。





 家の中には隅々まで和(やわ)らかな気分が広がつてゐて、逸子のねらつてゐるやうな、険悪な機会は、何処にも潜んではゐなかつた。

 一度は確つかりと考へ固めた彼女の決心が、知らず/\の間に、ほぐれ始めた。

 けれど逸子は、そんな事にはふり向きもせずに、一日々々と近づいて来る冬仕度についての、考への方が、遥かに大事な事でゝもあるやうに一生懸命に、あれ、これと、考へては手を下ろして行つた。

 日が傾いて、よく乾いた洗濯物を腕一杯に抱へて、家の中に這入つて来る彼女の顔には、何の不満らしい曇りもなく、疲労に汗ばんではゐても晴れやかな眼をして子供をあやしたり、母親の話相手になつたりしてゐた。


「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p327/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p296)




★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 20:01| 本文

第121回 小石川植物園






文●ツルシカズヒコ



 野枝が西原から金策をしてきた日の翌朝。

 辻も野枝も義母の美津も、それぞれに不機嫌だった。

 野枝は朝の仕事をひととおりしてしまうと、机の前に座って子供の相手をしながら読書を始めた。

 野枝にとって読書が最も寛(くつろ)げるときだった。

 書物に引きつけられた母親に物足りなくなった子供が、いつのまにか茶の間の方に逼(は)って行った。

「坊や、おとなしいね、母ちゃんは何してるの。また御本かい、本当に仕様のないお守りさんだね。昼日中、子持ちが机の前で本を読んでいるなんて、とんでもない話だ。することは後から後からといくらでもありますって、坊やそうお言い。あんまりお呑気がすぎますよ」

 野枝は頓着なしに、そのまま強情に机の前から離れないでいた。

 遅く目を覚ました辻は、ひとりで朝食をすませ、しばらく縁側にしゃがんでいた。

 ふと野枝の方に向いた辻は、

「お前の方ではどうにかならないかい」

 と、できるだけ平気な顔で聞いた。

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『駄目ですよ、あなたはまた他人に押しつける気でゐるんですね。偶(たま)にはひとをあてにせずに何とかしなさいね、あんまりだわ』

 逸子はプン/\しながら隣室にも聞こえるやうな声で冷たく云ひ放つた。

『何て意気地のない男だらう』

 さう云ふ考へが何の前置きもなく、今、かつとした気持の後から浮んで来ると、何時か書物に向けた注意は離れて仕舞つた。

 心の底からこみ上て来る忌々(いまいま)しさを耐へかねて、彼女は書物を伏せると一刻も家にぢつとしてゐられないやうな気持ちで一杯になつた。

 帯をしめ直して子供を抱いて立ち上ると、そのまゝツカ/\玄関まで出たが、思ひ返して懐から財布を出すと子供を其処に待たしておいて幾枚かの紙幣を机の上に置いて後もふり向かずに出て行つた。


「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p309~310/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p286)





 野枝と子供が小石川植物園で散々遊び疲れて帰ったのは、もう日暮れに近い時分だった。

 野枝が予期したとおりに、美津の姿はもう見えなかつた。

 辻は陰欝な顔をして庭先に突っ立っていた。

 それを見ると、野枝の気持ちは急に暗いところに引き込まれるように沈んだ。

「ああ、つまらない!」

 野枝はもう何もかも投げ出してしまいたいような、やるせなさを感じて焦(じ)り焦りした。

 彼女は子供にまで遣り場のない気持ちを当たり散しながら、すぐに可哀そうになって一緒に泣き出しそうになったりした。

 夕飯がすむと、疲れた子供と一緒になってうつらうつらしているうちに眠ってしまった。

 二時間ほどの眠りから醒めた野枝のぼっとした頭の隅の方から、昼間の不快さがもたげ始めた。

 彼女は体を起こし衣紋(えもん)を直しながら、もう昨日からのことについては何も考えまいと思い、茶の間に入りお茶を飲んだ。

 そして壊れかかったた髪のピンをさし直したりして、ようやく机の前に座った。

 野枝は昼間に伏せたままの書物を開いて読み始めたが、先刻の眠りで疲れた頭はもうすっかり緩みかけていて、読んでいる文字はなんの意味もなさずに、バラバラに眼に映るだけだった。

 その気持ちのうつろな隙を狙って、考えまい考えまいとしていることがチョイチョイと頭をもたげ出す。

「なぜ、こうなのだろう……」

 とうとう野枝は机の上から眼を離すと、いろいろな考えが一度に押し寄せてきた。

「あの金にどんな顔をして手を触れたろう?」
 
 そんなことをまず思い、あの人は自分では決して嫌なことをしないですますことばかり考えている、意気地がないというよりは横着で手前勝手な人間のように、野枝には思えてくるのだった。





『何んだ、まだこれを読んでしまはないのか、こんなものに幾日かゝるんだ?』

 谷は逸子の机の傍に座ると直ぐ、書物の頁を返しながら云つた。

『毎日々々、用にばかり追はれてゐて、読む事も何も出来るもんですか、あなたとは違ひますよ』

 今が今まで考へてゐた、谷に対する感情をそのまゝむき出しに。弾き返すやうに云つて逸子は口を一文字に引き結んで黙つた。

 思ひがけないやうな返事に出遭つた谷はムツとしたやうに後の言葉をそのまゝ引つこめて暫く無言でゐたが、やがて穏やかな調子になりながら話かけた。

『そんなに、用と云ふ用を皆んな、お前がしなくつても済むだらう? いちんちあくせくして騒がないで、何とかもう少し時間の出るやうな工夫をすればいゝじゃないか』

『そんな事は、今更あなたの指図を受ける迄もないんですけれど、そんな事とても駄目です』

『何故だい、家の中の用はお糸だつて、お母さんだって、やれない事はないんだし、骨の折れないものを読む位の事は、守りをしながらでも出来るだらう? 夜だつ、かうして相応に時間はあるぢやないか』

『さう、はたで見てゐるやうなものぢやありませんよ。どうして、皆書物をよむのは無駄話をするよりもぜいたくな道楽だ位にしか思つてはゐないんですもの。その為めに時間を拵(こしら)へるなんて、飛んでもない事ですわ、少しばかり時間を見出したつて何の役にも立ちやしない。夜は夜で疲れてしまつてとても駄目です。こんなぢや、私もうどうなるか分りやしない。皆はずん/\勉強してゐるのに、私ひとりは取り残されてゆくんだわ』


「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p312~313/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p288)





「まさか道楽だとも思ってやすまい」

「思ってやすまいって、今朝だって、あんなに言っていたのがわらないんですか」

「そんなら、黙っていないで、道楽でないとよく話してやればいいじゃないか。黙っていたんじゃ、いつまでたってもわかりはしないよ」

「そう思うんなら、あなたが話して下さいな。私じゃ駄目なんですから」

「自分のことは自分で話せばいいじゃないか、なぜ駄目なんだい?」

「私が言ったんじゃ変に取られるばかりです。あたり前のことだって、あの人たちにゃ、何ひとつ、私の口からは言えないんですよ」

「そんな馬鹿なことがあるもんか。それはお前の余計なひがみだ。言わないでいるだけ、自分の損じゃないか。言いたいことはずんずん言い、したいことはどしどしかまわずするさ。下らない遠慮をしているから馬鹿をみるのさ」

「私とあの人たちの間と、あなたとあの人たちの間は別ですよ。ひがむわけじゃありませんけれど、あなたが言いたいことを言ったり、したいことをして、たとえ一時は怒ったり怒られたりしたって、その場きりですみますけど、私じゃそうはゆかないんです。あたり前なことひとつ言っても、十日も廿日も不快な顔ばかりしていられたり、辛らいことを聞かされるのじゃ、やりきれませんからねえ」

「じゃ仕方がない、どうともお前のいいようにするさ」

 辻はそう言ったままプイと立って行った。

 同時に野枝の頭の中では、彼の冷淡な思いやりのなさへの怒りが、火のやうに一時に炎(も)え上がった。




★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 19:16| 本文

第120回 毒口






文●ツルシカズヒコ



「お前さんも、あんまり呑気だよ。用達しに行ったとき、遊びにいったときとは違うからね。子供を他人に預けてゆきながら、いつまでもよそにお尻をすえていられたんじゃ、預かった方は大迷惑だよ。もう少し大きくなれば、どうにか誤魔化しもきくけれど、今じゃ一時だって他の者じゃ駄目なんだからね、そのつもりでいてもらわなくちゃ」

 ただ美津の不機嫌な顔を見るのが嫌なばかりに、ようやくの思いで金をもらいに行き、どうにか持って帰って、まだ座りもしない前からいきなり、そうした言葉を美津に投げつけられ、野枝は心外ともなんとも言いようのない口惜しい腹立たしい気持ちでいっぱいになった。

 一時間や二時間くらいかかるのは初めからわかりきっているのだし、場合によっては、もつと延びるくらいのことは考えてくれてもよさそうなのに……。

 こんなことなら少々不機嫌でいられても、行かなければよかったとさえ野枝は思った。

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 野枝はこの上いやな言葉は聞きたくなかったので、

「どうもすみません」

 と簡単に言ったきり、子供を抱いて次の間に入った。

 美津の気持ちはいつまでたっても直らないと見えて、耳を覆いたいような毒口が後を追っかけて来た。

 とうとう野枝もたまらなくなって言った。


『彼処(あそこ)まで、行つて帰るだけだつて二時間はかゝります。私だつて用足しに行つて、無駄な時間なんぞ呑気につぶしてやしませんよ。頼まれたつて落ちついてなんかゐられやしません。用の都合で一時間や二時間遅れる位の事はあたり前だと思つて行かなくつちや。さう用を足しに出る度に一々小言を言はれたり、当たられたりしちやたまりませんわ、好きで出てる訳ぢやないんですからね』

『あたりまへさ、好きで出られてたまるもんかね』


「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p304/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p283~284)


 野枝はそのまま黙ってしまった。

 普段、耐えている言いたいことのありったけがこみ上げて来るのをじっと抑えて、無心に乳房に吸ひついている子供を抱きしめながら、

「もう、あんなこと言われて金なんか出すものか」

 と思い、机の上の財布に目をやった。

 その中には義母の必要を充分にする金額の三、四倍もの金が入っていた。





 先刻まではその金でどんな嫌な思いをしたにしろ、もう自分の手で自由に使うことのできる金だと思うと、強い口をきいている美津に対して、なんとなく皮肉な嘲笑を投げたくなるのだった。

「いくらでも、なんとでも言うがいい。そのくらい言えば、金をくれとはまさかに言えまい」
 
 意地の悪い野枝の考えは、それからそれへと募っていき、もう少しなんとか言いたいことを言って、この金でどこか旅行でもしてこようかしら、それとももうこのままこんな煩さい家は出てしまおうか。

 そんなことまで野枝は考えていた。

 辻は朝出かけたままで、夕飯過ぎまで帰らなかった。

 美津と野枝はふたりとも意地悪く黙りこくって、いつまでも不機嫌な顔をし合っていた。

 夜になると野枝は子供を早く寝かして、そのまま机の前に座って、四、五日も前から半ば読んでそのままになっている書物を開いた。

 座ると不思議に険しい気持が去ってゆったりと落ちついた気分になり、久しぶりでしみじみと、書物に対することができたような快さを感じた。





 夜もふけてから、辻はぼんやり帰って来た。

 美津はまだ茶の間で、彼の帰りを待っているらしかった。

 野枝は帰って来た辻の顔をちょっと見ただけで、そしらぬ顔で書物に目を落とした。

 辻はさっさと茶の間に入っていった。


『何処を歩いてたの今時分まで』

「彼方此方(あちこちさ)さ』

『それで、何とか出来たかえ』

『駄目だ』

『それぢや困るぢやないか、お前は本当にどうしてさうなんだらうね。あんまり意気地がなさすぎるぢやないか、たんとのお金でもないのに。』

『明日どうかするよ』

『明日ぢや間に合ひはしませんよ』

『ぢや仕方がないや』

『仕方がないつて、それぢや済みませんよ、だから、朝もあんなに念を押しといたんだのに、お前のやうに当てにならない人間はありやしない。』

『だつていくら念を押したつて間に合はないものは仕様がないや、それよりはお茶を一杯おくれよ』

『お前はそれで済ましてゆけるけれど、お母さんは困つて仕舞ふぢやないか、お前が何時までも、さうやつて意気地なくのらくらしてゐるから、何だつて彼だつて皆家の中の事に順序がなくなつて仕舞うぢやないか、お前が第一確(し)つかりしてゐないからこの年になつて、嫁にまで馬鹿にされるのだよ、自分さへのんきにしてゐれば、他人はどうでも構まわない気かもしれないけれど、そうはなか/\ゆきませんよ』


「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p306~307/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p285)





 美津は今までひとりで長いこと考えためていたことを、また片っぱしから辻の前に並べようとしていた。

 だが、それはやはり今朝、散々並べたてた愚痴となんの違いもなかった。

 けれどやがて、なにをどう言っても平気な顔で聞いているのかいないのかわらないやうな辻の態度に、なんの手応えも感じなくなった美津は独り言のような調子から涙声になって黙ってしまった。

 野枝は同じ愚痴を聞きたくもないと思いながら、どうしてもそれが耳について、いったんそこに向いた注意がどうしても、書物の上に帰って来なかった。

 野枝の固く閉じた先刻の気持ちは、どこまでも開かないで遠い冷たい気持ちで次の間の話を聞いていた。

 野枝の心の奥底の方のどこかでは、いい気味だというような笑いさえ浮べているのであった。






★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:54| 本文

第119回 自己嫌悪






文●ツルシカズヒコ



「ああ、またどうしても行かなければならないのか……」

 上野高女五年時のクラス担任だった西原和治の家を訪れると、いつも西原は野枝が黙っていても察して金を出してくれるが、そういう用事で西原に会わなければならないことが、野枝はたまらなく苦痛だった。

 辻は口もきかずにブラリと家から出て行った。

 その後姿を見送りながら、野枝はまた西原のところへ行こうか行くまいかと迷っていた。

 美津がどうしても都合してくれという金が、そうまで必要な金でないことはわかっていた。

 神田へはいつものように知り合いの家で四、五日、呑気な日を送るために行くので、少々の手みやげを買う金や、小遣いや、雇人たちへのわずかな心づけが入用なのであった。

 野枝はそれよりもまだもっと苦しい必要に迫まられるときがあるのだと思うと、なるべくなら嫌な思いをして西原のところに行きたくはなかった。

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 けれど、明日にも美津がどうかして出かけようとしているのに、それが出かけられないとなると、またつまらない不快な愚痴や嫌味を聞かねばならない、それも苦しかった。

 野枝は辻がどうかしてくれるかもしれないとも思ってみたが、それは自分が嫌な思いをしないですましたいという願望であり、ああしてブラリと出かけたところで、金策に出かけたのではないことはよくわかっていた。

 辻も自分もまだ一人前の人間じゃない、自分たちの歩く道さえまだ定まってはいない。

 満足に食べていくことさえできないのだ。

 それだのに、子供を連れて、年老いた母親にすがられて、どう彷徨しなければならないのだろう?

 これから先、どんなに母親を苦しめ、自分たちも苦しまなければならないことか?

 考えつめていくと、野枝の目にはその将来の惨めさに対する涙がしみ出すのだった。

「このままでは仕方がない。どうにかしなければ……」

 現在の生活のどこかに間違いがあることに気づきながら、それから出ることができないのは、第一には野枝の辻に対する愛には別段なんの変化もないからである。

 しかし、彼との関係が断てない間は、彼を通じての間接の関係を奇麗に断ってしまえないことも事実だった。





 またもうひとつ、野枝にとって新たな絆を持った子供は離しがたいものであり、辻の係累にとってもそうだった。

 そうなると、辻と子供とに執着がある間は、野枝はこの不自由から逃がれることは到底できないのであった。

 といって、辻を棄て子供を棄てて、自分の自由を通すことができるかどうかーー野枝にとって、問題はまたいっそう大きくなってくるのだった。

 辻と別れることも、子供と別れることも、本当に自分の行くべき道の障碍となる場合には止むを得ないーー野枝はここまで考えてみた。

 しかし、それを実行に移せるか否かは、自分の本当の道に対する所信によって決せられることである。

 所信――それがまた、困難なひとつの考へごとだった。

 何かのきっかけから、野枝が一生懸命にそういふことを考えているうちに、時間はずんずん経っていった。

 そして、日が暮れ夜が明けると、先刻、あるいは昨日、ムキになって感じた不自由や不平や不満は、もうそれほど近くに迫ってはいないのだった。

 野枝の思考はそこで中断する。

 そして、また不平が頭をもたげ出すと、初めから考へ直していく。

 こうして、結局どうすることもできずに、引きずられて来た。

 野枝はその不甲斐なさをたまたま反省することがあっても、それは自分の力が及ばないような矛盾や不条理や運命だと、大ざっぱに諦めてしまうよりほかはなかった。





 野枝が西原のところを訪れると、西原は嫌な顔も見せずに金を都合してくれた。

 西原に金を都合してもらうたびに、野枝はまともに西原の顔を見ることができないような片身の狭い思いを募らせ、卑屈になっていくような自分に対する自己嫌悪が胸に迫ってきた。

 あれほど意地を張って今宿の両親と争ったのだって、こういう生活をするためではなかったのだ。

 本当に一生懸命に勉強して、並みの親がかりの女たちとは少しは違った道を歩いてみせるためだった。

 こうした暮らしをするくらいなら、あれほどの辛い思いをして両親に楯つくまでもなかったかもしれない。

 もしこれがありのままに国許にでも知れたら、どんなに非難を受けることだらう?

 野枝の気持は重く沈んでいった。

 今こうして、母親のために嫌な用事をたしに来ていても、細かな家内の人々の感情のいきさつまでは、なかなか他人には明かせなかった。

 西原がこうして、なんのいわれもない金を惜し気もなく野枝のために出してくれるのも、少しでも野枝を自由にしてやりたいためだった。

 けれど、野枝が苦労して金策をしてきても、家内の人たちにとって、それは極めて当然のことだった。

 といって、野枝はそういうことを明らさまに西原に告げることもできなかった。

 こうして顔を合わすたびに、西原は何も他のことは口にせずに、ただ野枝が家庭生活の中に引き込まれてしまうことだけを気づかってくれる。

 西原は今まで、野枝の行為に対して非難がましいことを言ったことは一度もなかった。

 いつでも黙って、見ていた。

 それだけ、野枝の方でも彼に対しては、いい加減な態度ではいられなかった。





 云ふがまゝに、嫌やな顔も見せずに、出してくれた金を受取ると逸子はほつとした。

『どうだい、少しは勉強するひまは出来るかい?』

 龍一は重い唇を動かしてきいた。

『駄目です。一日中、用事に遂(お)はれ通しですわ、これぢや仕様がないとおもつてゐるのですけれど』

『子供がゐちやそれもさうだらうが、他の人と違つて、あんたは何とかして勉強だけは続けなきやいけないよ……』

『えゝ』

『谷さんの仕事が、早く見つかるといゝね、そしたら、少しは楽になれるだらう。何しろ毎日の食ふことの心配からしなくちやならないやうぢや、なか/\落ちつく事も出来まいね』

『えゝ、これでその方の心配がなくなればずつと違いますわ、だけど彼の人も何時の事だかあてにはならないんですもの、私も、もう少し何とか考へなければならないと、おもつちやゐるんですけれど』

 彼女は、何時までも龍一と、そんな話をつゞけるのは、何んとなくだん/\に自分の肩身を狭めるやうな辛さを感じるので思ひ切つていとまを告げて帰つた。



「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p300~303/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p281~283)




★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:16| 本文

第118回 義母






文●ツルシカズヒコ




 野枝は『新日本』一九一八(大正七)年十月号に「惑い」を寄稿している。

 創作のスタイルで書いているので仮名を使用しているが、「谷」は辻、「逸子」は野枝、「母親」は辻美津(ミツ)、乳飲み子である「子供」は一(まこと)である。

「谷が失職してからもう二年になる」とあるので、時の設定は一九一四(大正三)年である。

 辻一家はこの年(一九一四年)の夏に北豊島郡巣鴨町上駒込三二九番地から小石川区竹早町八二番地に引っ越したが、「逸子はつい二三ケ月前までゐた郊外の、殊更に澄み切つた秋の空気が、忘れられないのであつた」とあるので、季節は十月〜十一月ごろと推測できる。

「惑い」には家計のやりくりに苦しむ逸子に金銭援助をしてくれる「龍一」という人物が登場するが、堀切利高『野枝さんをさがして』は、この「龍一」のモデルは野枝の上野高女時代の恩師である西原和治だと推測している。

 以下、「惑い」に従って話を進めてみたい。

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 野枝は窓から真っ青な秋空を見上げながら、この日の朝に交わされた辻と義母・美津とのやりとりを思い浮かべた。

「本当にどうかしてもらわないじゃ困るよ、明日はぜひ神田の方に出かけなきゃならないんだからね」

 美津はそう言って、辻の生返事にしきりに念を押していた。

 といって、彼女が決して辻を当てにしているのではないことは、次の間で聞いている野枝にはよくわかっていた。

 そして、また苦しい金策をしなければならないのだなと思うと、野枝はなんとも言えない嫌な気持ちになった。

 月々の決まった入用の金にもこと欠いて苦しみ通しているのに、たとえわずか五円ばかりの金でも、きっと出来るという当ては、いつも馳け込む女学校時代の恩師である西原和治のところをおいて、他にはまるでなかった。

「なにも明日にかぎったことじゃないんだろう? 神田なら――」
 




 辻はいつものように、気のりのしない調子で相手になっていた。

「そんな呑気なこと言っちゃ困りますよ。もうこの間から行かなきゃならないはずのが、延び延びになってるんじゃないか。明日はどうしても行くはずにしてあるんですよ」

「金がないと行けないのかい?」

「あたり前ですよ、そんなこと」

「俺だって別に当てがあるわけじゃないんだから、きっと出来るかどうかわからないよ」

「それじゃ困るじゃないか。たまに頼むんだもの、なんとかしてくれたってよさそうなもんだね」

「だけどなにもそう、神田に行くのに大騒ぎすることはないじゃないか、たいした用があるんじゃなし、遊びに行くのに――」

「誰がわざわざ肩身の狭い思いをして、遊びになんか出かけるものか。お母さんはいくら落ちぶれても、長いつき合いの人たちに義理を欠くようなことをするのは御免ですよ。第一、お前の恥になるじゃないか」

「俺は恥になろうと何しようと、ちっともかまわないよ。お母さんももういい加減に、あんな下らない交際は止めてしまっちゃどうだい?」

「余計なお世話だよ、そんなことまでお前の指図を受けてたまるもんかね。それよりは少し自分のことでも考えてみるがいいや。なんだい本当に、親に散々苦労をさして、一人前になりながら、たった一人の親を楽にさすことも知らないで、大きな顔をおしでないよ。親を苦しめることばかりが能じゃないよ。いつまでもいつまでもブラブラしていて、世間の手前も恥ずかしい。私しゃお前のおかげでどこに行っても、肩身を狭めなきゃあならない。全体どんな了見でいるのか知らないが、親のことなんかどうなってもいいのかい。お母さんが行く先々で、お前のことをなんて言ってるか知ってるかい。そのうちにゃあ、少しはどうにかなると思うから口惜しい思いをしながらも耐えているものの――いつまでも呑気にしていられたんじゃあ、私の立つ瀬はありゃしない。よく考えて御覧、下らない奴からなんとかかんとか言われて、お前だってそれで済ましちゃいられまい。ワタシャそんな意気地なしには生みつけやしないよ」





「お母さんは生みつけない気でも、俺はこういう人間なんだよ。下らない奴の言うことなら、なにもいちいちと気にする必要はないじゃないか」

「下らない奴に言われないでも済むことを、いろいろ言われるから口惜しいんじゃないか。お前はかまわないだろうけれど、お母さんは嫌だよ」

「お母さんも随分わからないなあ。下らない、何も知らない奴に言われなくてもいいことを言われるのだから、何言われたってかまわないじゃないか。何が口惜しいんだい? 相手にならなきゃあいいじゃないか、すましておいでよ。だから下らない奴とのつき合いなんか、よせってんだよ」

「お前さんと私とは違うって言ってるじゃないか。お前さんはいくらでもすましておいでよ、ワタシャ嫌だよ」

「じゃ勝手にするさ」

「ああ、するとも。だからどうとも、もっと私の肩身の広いようにしておくれ」

「俺がそんなこと知るもんか」

「知らないとは言わさないよ。どうしてそんな口がきけるんだい! お母さんの肩身を狭くしたのはお前じゃないか」





「冗談云つちや困るよ。お母さんさえ馬鹿な真似をしなきやあ、何一つ不自由しないでも済むんじやないか。俺があたり前なら勉強ざかりを十年も棒にふつたんだってお母さんが無茶をやつたせいぢやないか! お母さんはもう若いときから、散々勝手な真似をして来たんぢやないか。俺だって偶(たま)にや自由な体にでもならなくつちややり切れるもんか。世間の奴らが何を云やがったって、俺は嫌な奴に頭を下げて少しばかりの金を貰ふよりは、少々食ふに困つたつて、かうやつてる方がいゝんだからそのつもりでゐてくれ。楽をしやと思ふなら俺の事なんか当てにしないでゐても貰ひたい」

「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p281/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p271)


「まあ、本当に呆れた了見だね、お前はそれで済ます気でも、世間がそれじゃ通しませんよ。俺を当てにするなって、それじゃ誰を当てにすればいいんだい? 私ばかりじゃないよ。お前には子供もいるんですよ、子供はどうして育つんですよ、親や子供の面倒も見られないでどうするつもりなんだい。金もないくせに、一生懐手で通すなんてことができると思うのかねえ。そんな了見じゃ、これから先だってどんなひどい目に遇わされるか知れたもんじゃない。本当になんて言い草だい!年老(としと)った私がこれから先、幾年生き延びると思うの。明日にもどうかわからないものを捕へて、俺を当てにするななんてよく言えた。それじゃ、まるで死んでしまえって言うようなもんじゃないか。死ねならワタシャいつでも死んで見せるけれど、今までなんのために苦労して来たと思うのだい! まあそんなことを言っていいものかどうか、ようく考えてみるがいい」





 もう相手にはしないというように、辻は黙ってしまった。

 勢いこんだ美津の言葉もだんだんに愚痴っぽい調子になり、いつか震えるような涙声になって聞こえなくなった。

 野枝は黙って聞いていた。

 こうした機会に繰り返される義母の愚痴はいつも同じだった。

 野枝はそれを聞くのが堪らなく嫌だった。






★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:17| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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