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2016年03月23日
第43回 南郷の朝
文●ツルシカズヒコ
青鞜社内からも非難され追いつめられた紅吉は、らいてうの短刀で自分の腕を傷つけた。
いったいどういう激情に動かされたものか、自分を責めようとする激動の発作からか、紅吉は自分の左腕に刃物をあてたのでした。
厚く巻いた繃帯をほどいて、その傷を眺めたとき、それはわたくしに対して示された、紅吉のいじらしい愛の証しを語るもののようでありました。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p379)
と、らいてうは後に淡々と語っているが、らいてうが紅吉に繃帯を取って傷を見せてもらう場面をリアルタイムで書いた文章には、らいてうの紅吉への強い「愛情」が表れている。
「見せて、見せて、ね、見たい。見たい。」
私の心は震えた。
……紅吉は只一人を守らうとする恋の為に私の短刀で……柔らかな肉を裂き、細い血管を破ったのだ。
私は何でもそれを見なければならない。
長い繃帯が一巻/\と解けて行く。
二寸ばかりの真一文字に透明な皮膚の切れ目からピンク色の肉が覗いている。
もう血は全く出ない。
私は膓(はらわた)の動くのを努めて抑へた。
そしてぢつと傷口を見詰めながら、真直に燃える蝋燭の焔と、その薄暗い光を冷たく反射する鋭利な刀身と熱い血の色とを目に浮べた。
「血はどうしたの? すすつて仕舞つた?」
「とつてあります。」
傷口は石灰酸で消毒された。
私は又もとのように心を入れて繃帯した。
私は自分の身体の震へるのに注意した。
(らいてう「円窓より」/『青鞜』1912年8月号・第2巻8号_p80~81)
そんな折りも折り、結核を発病した紅吉は、茅ヶ崎の南湖院に入院した。
一九一二(大正元)年七月十四日のことである。
南湖院は日本女子大の校医である高田畊安(こうあん)が経営するサナトリウム(結核療養所)で、らいてうの姉である孝や保持も入院したことがあった。
地名の南湖は「なんご」と読むが、高田が濁音を嫌い「なんこいん」と命名した。
保持は青鞜社の仕事をやりながら、南湖院の事務の手伝いなどをしていたので、紅吉の入院中の面倒をみることになった。
らいてうも茅ヶ崎に来た。
当時、南湖院の付近には旅館がなかったので、見舞う人や予後を養う人のための貸間があり、らいてうは南湖下町の「良助」という漁師の家に一間を借り、九月発行の『青鞜』一周年記念号を編集することになった。
そこへ荒木郁が訪れ、『青鞜』創刊の肝いりと言われる生田長江が妻を伴い避暑にやって来た。
さらに、らいてうの日本女子大・家政科時代からの親友で、尼崎で教師をしていた木村政子も学校の夏休みを利用してやって来た。
入院中の紅吉も、らいてうが借りている部屋に押しかけてきたので、あたかもその部屋は『青鞜』編集部が移ってきたような賑わいになった。
紅吉はらいてうのそばにいられる幸福にひたっていた。
毎日五時頃から紅吉は遊びに行きます。
食事と診察と深夜(よなか)だけ病院にゐて、あとは、みんならいてうの家で邪魔ばかりしてゐる。
毎日海岸に寝ころむでゐるものですから真黒になつて丁度「ぐるみ」の様になつてゐます。
らいてうも紅吉のおかげで大変に日に焼けました、東京に帰つたらきつとみんなが驚くでしよう。
今こんな暑ついのに毎日一生懸命に一葉全集を読むでゐます。
その内になにか書くつもりなんでしょう。
(紅吉「南湖便り」/『青鞜』1912年9月号・第2巻9号_p223)
らいてうが一葉全集を読んでいたのは、『青鞜』十月号に寄稿した「女としての樋口一葉」の原稿を執筆するためだった。
そうしたある日、生田先生御夫妻を誘ってみんなで馬入川(ばにゅうがわ)の河口に出かけ、船遊びや釣りをたのしんで半日を賑やかに遊びました。
その日、南郷(馬入川が海へそそぐ河口あたりの地名)の弁天さまの境内で、記念写真をとったものが、大正元年九月の一周年記念号に載っております。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p380)
船遊びや釣りに行く前に弁天さまの境内で撮った写真は、「南郷の朝」と題して『青鞜』一周年記念号である九月号に掲載された。
長江夫妻、らいてう、荒木郁、紅吉、保持、木村政子が写っている。
青鞜社の伸び伸びとした自由な雰囲気が伝わる写真である。
「醜聞」にも負けず、創刊一周年を前に溌剌としている青鞜社の空気が感じ取れる。
明治天皇の崩御は七月三十日であるが、それからまだひと月も経っていないころ、『青鞜』は青春の真っ只中にいた。
らいてうはこう回想している。
「天皇」を意識することも、社会に目を向けることも少ないこのころのわたくしたちでしたから、茅ヶ崎の海べの香にみちた一周年記念号には、世を挙げての諒闇(りょうあん)色といったものは、なにひとつ反影されていないのでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p390)
らいてうはこの「南郷の朝」という写真を見ると、思い出すことがあると書いている。
船遊びや釣りをした後、らいてうたちは長江夫妻と別れて、らいてうが借りている部屋に集まった。
そのとき荒木さんが「生田先生はどうもわるい病気らしい」といい出しました。
生田先生が毎月一回くらいお留守になられ、帰ってこられるときっと顔のどこかに小さな、小さな絆創膏の貼られていることや、手先の動きがどこかぎこちなく不自由そうなのを、先生御自身がふだん「リューマチ」というふうに説明されていることは知っていました。
けれども荒木さんのいう意味の「病気」とは考えおよばなかっただけに、「そんなこと軽率にいうもんじゃない」と、みんなで荒木さんをたしなめました。
「だって、あのマッチをする手つきを見たら分かることでしょう。確かにそうです」と、荒木さんはいつまでも自分のいい出した「病気」説を主張してやまなかったのでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p390)
荒波力『知の巨人 評伝 生田長江』(p119)によれば、長江がハンセン病を発病したのは一九一〇(明治四十三)年の夏ごろだった。
紅吉「南湖便り」によれば、らいてうたちが写真撮影をし、船遊びをしたのは八月二十一日か二十二日ごろだった。
…生田先生と一所に弁天さまの境内で写真を写つしたのです。
漁師の子供がうぢやうぢや出て来て、いろんなことをからかふものだから紅吉は本気になつて怒りだしたのです、そんな時パチンとやられたもんだから紅吉は不良少年のようにとれたのです。
らいてうは、毎日不良少年、不良少年つて呼むでゐます。
らいてはまるつきりロゼツチの描く女の様です、白雨は一番叔母さんらしくすましこむだのです。
写真を写すとすぐ馬入川に出かけました。
あつちこつちの岸に舟をつけて釣りをやつたのです。
荒木さんは鰻ばかり釣り出すので、その度に紅吉は蛇だ蛇だと云つて真青にになつてゐました。
いつも釣れそうになつたり、魚が集りそうになつたら紅吉は水を動かしたり場所をがたがた換へて仕様がないことをやり出すのです。
「はぜ」が一匹はねたといつちや、ばたばた動くのでみんなが大弱りしてゐました。
この日一日で生田先生もらいてうも、叔母さんも荒木さんも真赤に焼けてしまいました。
(紅吉「南湖便り」/『青鞜』1912年9月号・第2巻第9号_p223~224)
※南湖院 ※馬入川
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★荒波力『知の巨人 評伝 生田長江』(白水社・2013年2月10日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第42回 吉原登楼
文●ツルシカズヒコ
紅吉こと尾竹一枝は菊坂の女子美術学校を中退後、叔父・尾竹竹坡の家に寄寓していたが、一九一一(明治四十四)年十一月に実家のある大阪に帰郷していた。
紅吉がらいてうの存在を知るきっかけとなったのは、森田草平が『東京朝日新聞』に連載(一九一一年四月二十七日〜七月三十一日)した小説「自叙伝」だった。
森田は塩原事件(煤煙事件)を題材にして小説「煤煙」を『東京朝日新聞』に連載(一九〇九年一月一日〜五月十六日)したが、「自叙伝」は「煤煙」の続編である。
『青鞜』創刊前から、紅吉は塩原事件(煤煙事件)のヒロインのモデルであるらいてうに憧れ、崇拝の念を持っていた。
私が一番最初平塚さんを知つたのは草平氏の自叙伝を読んだ時なんです。
その時私は随分、様々の好奇心を自叙伝通して平塚さんの上に描いておりました。
そしてどうも不思議なすばらしい人だとも考へ、恐ろしい人のやうにも考へ、女として最も冷つこい意地の悪い人のやうにも思つてをりました、そして読み終つた日などは、すぐにでも東京に出て面会して私の解釈がどうだか見きはめたいとまで好奇心を一ぱいもつてをりました。
(尾竹紅吉「自叙伝を読んで平塚さんに至る」/『中央公論』1913年7月増刊・婦人問題号「平塚明子論」_p175~176)
紅吉は大阪から、青鞜社の社員になりたい旨の熱い手紙をらいてうに書いた。
らいてうが入社了承の返事を出し、紅吉が社員になったのは一九一二(明治四十五)年一月だった。
それからたびたび、らいてう宛てに熱い手紙が来るようになり、編集部では大阪の「へんな人」と見られていた。
一九一一年十二月に社員になった小林哥津は、知り合いを通じて紅吉と面識があり、紅吉の印象をらいてうにこう語っていた。
……小娘のような口振りだが男のようなたいへんな大女、声が大きくてあたりかまわずなんでもいう女(ひと)、白秋の詩が大好きな十九歳の娘ーー「そりゃあずい分変わった女(ひと)よ、恐い女だわ」
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』_p364)
大阪から上京した紅吉が哥津に連れられて、らいてうの書斎を訪れたのは一九一二年二月十九日だった(らいてう「一年間(つづき)」/『青鞜』一九一三年十二月号・第三巻第十二号)。
尾竹紅吉「自叙伝を読んで平塚さんに至る」によれば、「東京にロダンの展覧会を見に来たとき平塚さんに初めてお目にかゝつたのです、丁度二月の十八日でした」。
らいてうは二月十九日と書き、紅吉は二月十八日と書いている。
「ロダンの展覧会」というのは、白樺主催第四回展覧会のことである。
『白樺』一九一〇(明治四十三)年十一月号は特集「ロダン号」だったが、ロダンから白樺同人に彫刻作品三点が贈られ、一九一二年二月に白樺同人が公開したのである。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』(p366)によれば、らいてうに初めて面会した紅吉は以後、青鞜社の事務所にも顔を出すようになり、編集の手伝いや表紙絵やカットの仕事などをするようになった。
久留米絣に袴、あるいは角帯に雪駄ばきと粋な男装で、風を切りながら歩き、言いたいことを言い、大きな声で歌ったり笑ったり、因習とは無縁な生まれながらに解放された人、紅吉。
らいてうは紅吉に好感を抱き、紅吉は他の社員からも可愛がられた。
一九一二年五月、尾竹越堂は一家で上京し、中根岸に居を構えた。
紅吉は第十二回巽画展に「陶器」と題する二曲一双の屏風を出品し、褒状三等を受けた。
五月十三日、紅吉は『青鞜』の仲間を中根岸の自宅に招き祝いの会を開いた。
その祝いの席でらいてうと紅吉は抱擁し接吻した。
紅吉は『青鞜』にらいてうへの想いを書いた。
不意にあらわれた、年上の女、
私は只それによつて、生きて行きそうだ、又、行かねばならぬ、
冷たいと思はせて泣かせられる時も来るだらう、けれど私は、恋しい、
私は如何なる手段によつて私自身の勝利が傷けられても、
その年上の女を忘れる事が出来ない、
DOREIになつても、いけにへとなつても、
只、抱擁と接吻のみ消ゆることなく与へられたなら、
満足して、満足して私は行かう。
(「或る夜と、或る朝」/『青鞜』1912年6月号・第2巻第6号_p115~116)
らいてうも「ふたりの紀念すべき五月十三日の夜」のことを書いた。
紅吉を自分の世界の中なるものにしやうとした私の抱擁と接吻がいかに烈しかつたか、私は知らぬ。
知らぬ。
けれどあゝ迄忽に紅吉の心のすべてが燃え上らうとは、火にならうとは。
(「円窓より」/『青鞜』1912年8月号・第2巻第8号_p82~83)
紅吉は五月十三日の「青鞜ミーチング」で、みんなで日本酒、麦酒、洋酒を飲んだことも書いた(「編輯室より」/『青鞜』一九一二年六月号・第二巻第六号_p121)。
たちまち『読売新聞』や『中央公論』で非難された。
さらに追い打ちをかけるように、紅吉が絡んだふたつの「醜聞」が報道された。
当時、日本橋区小網町鎧橋筋にあったレストラン兼バー、メイゾン鴻の巣は若い文士や画家たちに人気があった(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』p373)。
六月、紅吉は『青鞜』に載せる広告を取りにメイゾン鴻の巣を訪れ、比重によって色わけされるカクテルを見せられて「五色につぎ分けたお酒を青いムギワタの管で飲みながら」(『青鞜』第二巻七号_p109)と書いた。
そして七月の初旬。
紅吉、らいてう、そして青鞜社発起人のひとり中野初が吉原見学に出かけた。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p374~375)によれば、そういうところを見ておくのも、社会勉強になるのではないかと誘ったのは紅吉の叔父・尾竹竹坡だった。
竹坡のお膳立てで吉原でも一番格式が高い妓楼「大文字楼」に上がり、「栄山」という花魁(おいらん)の部屋に通された。
寿司やお酒が出て、栄山を囲んで話をした。
その夜、らいてうら三人は花魁とは別の部屋に泊まり、翌朝、帰った。
堀場清子『青鞜の時代』(p112~113)によれば、七月十日の『万朝報』が「女文士の吉原遊」を記事にした。
『国民新聞』は「所謂新しい女」のタイトルで四回連載(七月十二日〜十五日)を組み「五色の酒」や「吉原登楼」に言及したが、それは噂話を面白おかしく暴露的に綴った中傷記事だった。
世間は青鞜社を非難した。
得体の知れない男が面会を強要したり、脅迫状が届いたり、らいてうの家には石のつぶてが投げられた(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p376)。
青鞜社の社員からも、紅吉と彼女をかばうらいてうへの非難の声が起こった。
塩原事件で受けた心の痛みを知るらいてうは、紅吉をかばい叱咤激励した。
私の少年よ。
らいてうの少年をもつて自ら任ずるならば自分の思つたこと、考へたことを真直に発表するに何の顧慮を要しよう。
みずからの心の欲するところはどこまでもやり通さねばならぬ。
それがあなたを成長させる為めでもあり、同時にあなたがつながる青鞜社をも発展させる道なのだ。
(らいてう「円窓より」/『青鞜』1912年8月号・第2巻第8号_p85)
発起人のひとりで、らいてうが雑誌創刊を最初に相談し、青鞜社の事務を一手に引き受け、社員から「おばさん」と親しまれていた保持研子(やすもち・よしこ)からも、らいてうに叱責の手紙が届いた。
君達三人は吉原に行つたさうだ。
随分思ひ切つた惨酷な真似をしましたね。
私は君達が行つた深い理由は知らないが、何だか自分が侮辱されたやうで悲しかつた。
さうしてたまらなく不快だつた。
(らいてう「円窓より」/『青鞜』1912年8月号・第2巻第8号_p78)
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p378)によれば、小学校や女学校の教師からは職を失うことを恐れ、『青鞜』の購読中止を申し出る人もいたし、青鞜社の事務所を置くことを家の人から断られた物集和子が、藤岡一枝というペンネームを使い始めたのもこのころからだった。
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★堀場清子『青鞜の時代ーー平塚らいてうと新しい女たち』(岩波新書・1988年3月22日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第41回 同性愛
文●ツルシカズヒコ
野枝が円窓のあるらいてうの書斎を初めて訪れた日の夜、青鞜社員の西崎花世が友達ふたりを連れてやってきた。
ひとりは西崎が下宿している家の主婦で、もうひとりはやはり社員の小笠原貞だった。
『元始、女性は太陽であった(下)』(p397~402)によれば、らいてうが西崎に初めて会ったのは一九一二(大正元)年十月十七日、「伊香保」で開催した『青鞜』一周年記念の集まりだった。
鴬谷の「伊香保」は当時、会席料理の有名店で文人墨客がよく利用していたが、紅吉の叔父・尾竹竹坡も常連だったので、竹坡の紹介でこの店にしたのだった。
西崎は四国の徳島にいたころから長曽我部菊子というペンネームで、河井酔茗が編集する『女子文壇』の投書家として鳴らしていた。
文学に精進する決心をして上京し、食べるために雑誌の訪問記者などをしていた。
人一倍小柄な体を地味な着物に包んで、目立たない束髪に結った西崎は、らいてうにおよそ若さなど感じさせない「生活とたたかっている人」という印象を残している。
「伊香保」での一周年記念の集まりの後、西崎はらいてうの円窓の書斎に顔を出すようになっていた。
西崎は四国徳島のお国訛で粘っこい話し方をした。
らいてうに近寄ってくる人に対して誰彼となく嫉妬する紅吉は、小柄な西崎を毛嫌いして「小たぬき」という綽名をつけた。
『元始、女性は太陽であった(下)』(p413~414)によれば、西崎と同様に『女子文壇』で育てられた小笠原貞も文学を目指していたので、ふたりは親しかった。
小笠原は絵の勉強もしていたので、青鞜叢書第二編『青鞜小説集』(一九一三年二月/東雲堂発行)の木版の装幀(自画自刻)を手がけた。
らいてうの記憶によれば「色白の、ほっそりした美しい人、日本的なつつましい感じの娘さん」だった。
紅吉はらいてうと哥津の間に座り窮屈らしい体つきをしながら、ばかに丁寧な挨拶をして、まじまじと西崎の顔に見入っていた。
向き合って座っていた哥津と野枝は、そっと目で笑い合った。
西崎たちが来る前に、らいてうが話したことを思い出したからである。
「西崎さんと話しているとね、だんだんに夢中になってくると、こんなふうに膝でこちらにいざり寄って来て、しまいにはこちらの膝をつかまえて話すのですもの、なんだか少し薄気味悪いような人よ」
紅吉はその話をとてもおもしろがって聞いていた。
それを思い出したのだ。
七人の会話はなかなか打ち解けなかった。
イライラし始めた紅吉は、哥津の手を引っ張り寄せて捻ったり揉んだりした。
「紅吉はどうしたの、なんだか落ちつかないじゃないの」
らいてうがたしなめるように紅吉の方を向いた。
「もう帰ります。西崎さん、ここを開けますから、ここにいらっしゃいまし。私はもう帰ります」
「なんだって急に帰るなんて言い出すの、いやな人ね」
哥津は肥(ふと)った紅吉の手をグイグイ引っ張りながら、おかしそうに笑った。
野枝も笑わずにはいられなかった。
「さっきから帰ろうと思っていたんです。西崎さん、本当にここにいらっしゃい。私は本当に帰りますから」
「それじゃ、お帰んなさい。さっきからだいぶ帰る帰るが出ているんですから、もう帰ってもいいでしょう」
紅吉はらいてうにこのように強く出られると、すぐに当惑してしまうのだった。
帰っていいか悪いか、まだいたいような帰りたいような。
そんなとき、子供のような紅吉はいつでもそばにいる哥津のほっそりした肩や背中を、大きな肥った手で力まかせに打つのだった。
紅吉と明子とは世間にさへ同性愛だなどゝ騒がれてゐた程接近してゐた。
明子は本当に、紅吉を可愛がつてゐた。
紅吉は世間からはたゞ多く変り者として取扱はれてゐたが、彼女は子供らしい無邪気と真剣を多分に持つてゐた。
彼女が並はづれて大きな体をもつてゐながら何となく人に可愛いゝと云ふ感を起させるのはそれだつた。
彼女は何時でも何か新しいものを見つけ出さうとしてゐた、一寸した動作にも、言葉にも、其処に何か驚異を見出したいと云つたやうな調子だつた。
で彼女の気まぐれが時々ひどく迷惑がられることがあつた。
明子は何時でも彼女に愛感をもつてゐた。
紅吉ももまた夢中になつて明子の傍を殆どはなれることもないやうに、二人の間は非常に強い愛をもつて結ばれてゐた。
併し紅吉が病気になつて、その夏湘南のある病院に行つてゐたとき其処でーー紅吉の言葉を借りて云へばーー「ふたりの大事な愛に、ひゞがはいつた」のだ、「ひゞはもう決してなほりつこはない」と紅吉は主張してゐた。
紅吉の大事な愛に「ひゞ」を入れたその明子の恋愛事件が紅吉の子供らしい嫉妬を強くあほつた。
それに其頃、これも矢張り紅吉の気まぐれから明子と他に一人二人を誘つて紅吉の叔父がよく知つてゐると云ふ吉原の或る花魁(おいらん)の処に遊びに行つたのが大げさに新聞に報道されて問題になつた為に、小母(おば)さんと皆が呼んでゐる、クリスチヤンで、一番道徳家の保持(やすもち)が制裁と云ふ程の強い意志でもなく紅吉に退社をすゝめて、紅吉もそれを承諾して雑誌にそれを発表してから直(すぐ)だつたので、それも紅吉には明子の仕事から周囲から、いくらか遠くなると云ふことが不安なのだつた。
(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年1月3日・1月6日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p15~17/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p131~132)
紅吉に打たれた哥津は痛さに肩をすくめながら、
「まあ痛い、本当にひどいわ、私はなにもしないのに」
またかというふうに顔をしかめながら、冗談らしく紅吉を睨みつけるのだった。
らいてうはそちらには目もくれずに、静かな調子で向こうの三人に話しかけていた。
哥津が調子を変えるように言った。
「野枝さん、あなたの頭はずいぶん寂しい頭ね、なんだか私、有髪(うはつ)の尼って気がするわ。私、結ってあげましょうか?」
「そう、じゃ結ってちょうだい」
「ええ、ハイカラな頭に結ってあげるわ。私、学校にいたときはよくハイカラな頭に結ったのよ」
哥津は気軽に座を立って、自分の懐中から櫛を出して、野枝の頭をとき始めた。
前を三七に分けて編みながら根を低く下げた、本当は洋服でも着なければ似合わないような頭になった。
「本当にずいぶんハイカラな頭ね」
野枝はらいてうの本棚の上に載っていた鏡を手にとって、面変わりのしたような自分の顔と頭を驚いたように眺めた。
「よく似合いますよ」
らいてうも話をやめて微笑みながら言った。
「本当によく似合うでしょう、野枝さん。これからこういうふうにお結いなさいよ」
哥津は得意らしく、それでもまだなにか思うようにいかないところがあるのか、チョイチョイいじりながら鏡を覗きこんだ。
みんなが野枝の頭を眺めていた。
紅吉はひとりつまらなそうにしていたが、突然、お腹の底から跳ね出したような声を出した。
「小笠原さん、あなたは油画をおやりになるのでしょう」
「ええ、描くというほどじゃありませんけれど、好きでただいい加減なことをやっていますの」
西崎はいつのまにか、らいてうをつかまえて、ねっつりねっつり話している。
それを見て不快そうに黙りこくっていた紅吉は、なにかじれったそうに膝をむずむずさせだした。
野枝と哥津は顔を見合わせては忍び笑いをした。
とうとう紅吉は頓狂な堪えかねたような声で、
「西崎さん、ここにいらっしゃい。私はそっちにゆきます。ここはらいてうさんのそばですから」
「いいえ、それにはおよびません。ここで結構です。どうぞおかまいなさらないで」
西崎は丁寧にそう言って紅吉に頭を下げた。
らいてうは「仕方がない」といったような顔をしながら、吸っていた「敷島」の灰を落としていた。
紅吉は少しも落ちついてはいられなかった。
このおおぜいの人が、自分の帰った後まで、らいてうのそばに居残っていることが堪えられないような気がして、思い切って立ち上がることもできなかった。
※女子文壇2 ※女子文壇3
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index