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2016年03月22日

第40回 円窓






文●ツルシカズヒコ




「雑音」第一回は『青鞜』一九一二年十二月号の編集作業のシーンから始まっている。

 野枝が本郷区駒込曙町一三番地のらいてうの自宅を訪れたのは、おそらく十一月も半ばを過ぎたころだろうか。

 野枝が三畳ほどの円窓のあるらいてうの書斎に入るのは、そのときが初めてだった。

「いらっしゃい、この間の帰りは遅くなって寒かったでしょう」

 らいてうは優しく微笑みかけ、火鉢を野枝の方に押しやった。

 この日は小林哥津も来ることになっていた。

「哥津ちゃんはまだお見えになりませんか」

 そう訊ねた野枝の目が本箱の中の書籍の背文字を追った。

「ええ、まだ。ダンテはわかりますか。この次までにね、林町の物集さんがあの本が不用になっているはずですからね、行って借りていらっしゃい。ところはね、千駄木の大観音をご存知? ええ、あすこの前を行ってねーー」

 らいてうは万年筆で地図を書きながら、

「本当に、行ってらっしゃい、本がなくちゃね」

「ええ、ありがとう」

 野枝はそれだけ言うのがやっとだった。

「物集さん」は青鞜社の発起人のひとり、物集(もずめ)和子

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 当初、青鞜社の事務所は、本郷区駒込千駄木林町(はやしちょう)九番地の物集の自宅にあったのだが、『青鞜』一九一二年四月号(二巻四号)に掲載された荒木郁の小説「手紙」が発禁になり、刑事が物集邸に来て『青鞜』を押収したことなどがあり、同年五月半ばごろ青鞜社は本郷区駒込蓬萊町の万年山(まんねんざん)勝林寺に事務所を移転したのだった。

 この寺をらいてうに紹介してくれたのは、らいてうが懇意にしていた浅草区松葉町の臨済宗の禅寺、海禅寺の住職・中原秀岳だった。

 このころ、青鞜社では講師を呼んで講義をしてもらう勉強会を再開していた。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p393)によれば、火曜と金曜の週二回、生田長江「モーパッサンの短篇」と阿部次郎「ダンテの神曲」である。

 しかし、『白樺』一九一二年十月号に掲載された『青鞜』の広告には、阿部次郎「ダンテの神曲」が水曜日、生田長江「モーパッサン」が金曜日とある。

 らいてうは物集が持っているダンテの『神曲』を、借りてきなさいと野枝に言ったのである。

 物集は青鞜社から離れたので、『神曲』が不用になっているはずだからだ。

 
 これから歩き出さうとする私を導いてくれるのは明子(はるこ)の手より他にはなかつた。

 明子もまた、最近にすべての繫累(けいるい)を捨てゝたゞ自分の道に進んでゆかうとする若い私の為めに最もいゝ道を開いてやらうとする温かい親切な心持を私に投げかけることを忘れなかつた。

 私にとつてはこの明子の同情は何よりも力強い喜びであつた。

「私は、この人のこの親切を、この同情を忘れてはならない、この人の為めにはどんな苦しみも辞してはならない。」

 私はさうした幼稚な感激で一杯になつた。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年1月〜4月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p7/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p127)





「今日は紅吉も来るかもしれません。それに晩には西崎さんと小笠原さんがいらっしゃるはずです」

「まあそうですか。ではずいぶん賑やかですね。紅吉さん、私が以前、図書館で見ていたころとはずいぶんお変わりになりましたよ」

 野枝は尾竹紅吉のことを上野高女時代から見知っていた。

 夏休みの間、毎日のように通った上野の帝国図書館でよく見かけていたのだ。

 厖大な体を持った彼女は、本を読まずいつもスケッチブックを広げていた。

 ふたりは同じ根岸に住んでいたので、図書館以外でもちょいちょい顔を合わせた。

 ふたりは一緒になると無言のまま意地を張って歩きっこをした。

「あの方があらい紫矢絣の単衣に白地の帯を下の方にお太鼓に結んであの大きな体に申し訳のように肩上げを上げていたのを本当に可笑しいと思って見ていました。その格好で道を歩きながら、いつも歌っているから、ずいぶん妙な人だと思いましたわ。あの方の叔父様やお父様が画家として名高い方だということも、そのころからわかっていました。あの方の今のお住居は以前、私の叔父の住居だったこともあるのです」

「そうですか、でも紅吉がお太鼓になんか帯を締めていたことがあるのですかね」

 らいてうが可笑しそうに笑った。

「じゃそろそろ仕事を始めましょうね。原稿はたいていそろっていますから、頁数を決めましょう。この社の原稿紙三枚で一頁になるのですから、そのつもりで数えて下さいね」

 教えられたとおりに、野枝は一枚一枚数えていった。

 広い邸内はひっそりしていて、縁側に置いた籠の中の小さな白鳩が喉を鳴らす音が柔らかにあたりに散る。

 後ろの部屋のオランダ時計がカチカチ時を刻む。

 静かだ。

 本当に静かだ。

 らいてうはうつむいて原稿紙にペンを走らせている。





 小刻みな下駄の音が門の前で止まったと思うと間もなく、くぐり戸が開いて、けたたましいベルの音がして、内玄関で案内を乞う声がした。

「哥津ちゃんですよ」

 らいてうがペンを置いて、そこの敷布団を直した。

「ごめんください、こんにちは」

 哥津はスラリと長い体をしなやかに折って座りながら、格好のいい銀杏返しに結った頭をかしげて、らいてうと野枝に挨拶をした。

「他にまわるところがあったものですから、つい遅くなりましたの。もうお始めになってるの。目次やなんかお書きになって? そう、じゃ私が書くわ」

 明るい調子で話す哥津が来てから、急に場は賑やかに伸びやかになった。

「野枝さんて、もっと若い人かと思った。二十二、三には見えるわ。着物の地味なせいかもしれないけど」

「哥津ちゃん、今度は何か書けて?」

「ええ、だけどずいぶんつまらないものよ。私小説は初めてですもの、なんだか駄目よ」

「でも、まあ見せてごらんなさいよ」

 哥津は派手な模様のついたメリンスの風呂敷の中から原稿を出して、らいてうの前に置いた。

 野枝は哥津とらいてうの隔てのない会話を聞きながら、その前に哥津が『青鞜』に書いた「お夏のなげき」という戯曲のひとくさりを思い浮かべていた。

 ちなみに一幕ものの戯曲「お夏のなげき」のラストは、こうである。


 子供の声ーー清十郎殺すなら……お夏も殺せ……。

 お夏の声ーー向こう通るは清十郎ぢやないか、笠がよくにたすげの笠……


(小林哥津「お夏のなげき」/『青鞜』1912年10月号・第2巻第10号_p)





 静かな通りに突然、ソプラノで歌う声がした。

「あ、紅吉が来たわ」

 哥津は一番に耳をそばだてた。

 らいてうが静かに微笑んだ。

 紅吉が三人の笑顔に迎えられて入ってきた。

「編集ですか、手伝いましょうか。だけど私はもう社員じゃないからいけないんですね」

 座るとすぐ、紅吉は原稿紙とペンを持ちながら、あわててそれを下に置いて三人の顔を見まわした。

「あのね、今月号の批評読みましたか。カットが誉めてありました、プリミティブだって。あなたの詩に使ったカットね、野枝さん、あれはね、特別にあなたのあの詩のために私が描いたんですよ。南国情緒が出ているでしょう。ねえ、哥津ちゃん、本当にあの詩のために描いたんですね」

「ありがとう、あんなつまらない詩のために、すみません。平塚さんからもうかがいましたの。私の詩にはすぎるくらいです、本当に」

「哥津ちゃんはどう思います」

「いやな紅吉、私あのときちゃんと誉めてあげといたじゃないの」

「そうそう、すいません」

 可愛らしく頭を下げる紅吉の大きな体を見ながら、哥津と野枝は心からおかしがった。





 紅吉は『青鞜』十月号に掲載された野枝の詩「東の渚」のカットを描いたのだが、「東の渚」は見開き始まりの三頁で、各頁の上に横長の地紋のようなカットがあり(一点描いたものを流用)、絵柄は花壇に咲いているアールヌーボ風のチューリップである。

 らいてうは若い三人の対話から離れて、哥津の原稿を読んでいた。

 鋭い紅吉はらいてうが熱心に原稿に目を通しているのを見ると、すぐ立ち上がりかけた。

「今日は邪魔になりますからもう帰ります。野枝さん、今度、私の家に遊びにいらっしゃい」

 原稿に目を通しているらいてうが、顔を上げて穏やかに言った。

「今来たばかりのくせに、なんだってもう帰るの」

「だって編集の邪魔になるじゃありませんか。それに私はもう退社したのに、ここにいると誤解されるから」

 真顔に答える紅吉の顔を、野枝はあきれて眺めた。


尾竹紅吉2 ※尾竹紅吉3 


★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:12| 本文

第39回 青鞜






文●ツルシカズヒコ



 一九一二(大正元)年九月十三日、明治天皇の大喪の礼が帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)で行われた。

 乃木希典と妻・静子が自刃したのは、その日の夜だった。

 野枝がらいてうから送ってもらった旅費で帰京したのは、「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば九月の末だが、秋たけなわというような「日記より」の文面やサボンの旬は十月ぐらいからなので、野枝の帰京は十月に入ってからかもしれない。

 野枝は結局、まわりの人間を諦めさせたのであろう。

 末松家との協議離婚交渉に当たったのは代準介だった。


 再び、代とキチは上京し、ノエの説得を試みるも、結果、翻意ならず。

 代はノエの気性を知悉しており、元の鞘に戻す事を諦める。

 代はけじめをつけるために、腹にさらしを巻き、紋付袴の正装で末松家を訪れる。

 大喪の最中であり、「姦通罪」で訴えるのも時節柄破廉恥であると説き、これまでの学費費用や結納金ほか諸費用を倍返しする。

 男の面子を潰したのであるから、当然である。

 末松家は受け取らぬという。

 そこを代は三拝九拝して受け取ってもらう。

 心にねじり鉢巻をしての謝罪だった。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p75)


 末松福太郎と野枝の協議離婚が正式に成立したのは、一九一三(大正二)年二月十一日だった。

 紀元節で「よき日」だったからだ。

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『青鞜』一九一二年十月号(第二巻第十号)の「編輯室より」には、「新に入社せられし方……伊藤野枝」とあり、野枝が青鞜社員になったことを告げている。

『青鞜』の「芳舎名簿」には「伊藤野枝 福岡県三池郡二川村濃瀬(ママ) 阪(ママ)口方」とある。

 二川(ふたかわ)村大字濃施(のせ)は、野枝の叔母・坂口モトの婚家で渡瀬(わたぜ)駅前で旅館を営んでいた。

「芳舎名簿」は名古屋市在住の青鞜社員・青木穠(じょう)が書き写した青鞜社の名簿。

『青鞜』十一月号(第二巻第十一号)には野枝の詩「東の渚」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)が載った。


 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p51~53)は「東の渚」は野枝が今宿の郵便局に勤務していたころの心情だと見ているが、『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』(p408)は、野枝が「結婚問題の整理に故郷へ帰ったとき、海を見ながら涙を流したという、ひとときを歌ったもののようです」と解釈している。

「東の渚」の末尾に「東の磯の渚にて、一〇、三」とあり、つまり十月三日時点で野枝はまだ今宿にいたのであろう。

 とすれば、「東の渚」はらいてうの解釈が妥当だと思える。

 野枝は後に『大阪毎日新聞』に「雑音」(サブタイトルはーー「青鞜」の周囲の人々「新しい女」の内部生活」)を連載(一九一六年一月三日から断続的に同年四月十七日まで)するが、「雑音」は一九一二(大正元)年晩秋から一九一四(大正三)年ごろまでの『青鞜』の内部を描いている。

「雑音を書くに就いて」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』p125)によれば、野枝が青鞜社に入社し内部でらいてうの手伝いをするようになったのは、一九一二(大正元)年十一月からだった。

 当初は青鞜社への誤解をときたいという執筆動機があったが、それは捨てて、「自伝をかくと同じやうな心持で……自分の大事な記録としてかきたいと云ふ風に考へ」、自他ともに「私の良心が許すかぎり正直にかざりなく書きたいと思つてゐます」と書いている。

 らいてうは野枝の生活の援助も考慮していたが「十円ほどのお小遣いを上げるのが、当時の青鞜社ではやっとのこと」(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』p407)だったという。





 野枝さんが再度上京したのは九月ごろであったかと思います。

 十月ごろには編輯室に、生きいきした、いつも生命力にあふれるような姿を見せるようになり、紅吉、哥津、野枝の三人は、三羽烏といった格好で、社内を賑わすようになりました。

 なにがおもしろいのか、三人寄ればキャッキャッと笑い声が上がり、哥津ちゃんも野枝さんも、紅吉のふっくらとした大きな手で背中をよくぶたれていたものです。

 ……こうして野枝さんが加わってから、編集室の空気はいっそう活気づいたものとなり、わたくしは心ひそかに野枝さんを将来有望な人として見守っていたのでした。

 実際面であまりあてにならない紅吉と違って、野枝さんはいちばん若いにかかわらず、役に立つ人として、社内のだれからも親しまれてゆきました。

 紅吉のように、複雑で、わからない部分をもっている人でなく、打てば響くという実践的なところが、一番年下のこの人を頼もしく思わせたのでしょうか。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』_p407~408)





 小林哥津は明治の浮世絵版画家、小林清親の五女。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』(p360~361)によれば仏英和女学校(現・白百合学園)在学中に、『青鞜』発起人のひとり木内錠子(ていこ)に誘われ社員になった。

 背が高く浅黒いきりっとした顔、浅草育ちの哥津は東京の下町娘といった風情で、書くものにも下町趣味が色濃く出ていた。

『青鞜』掲載の原稿を取りに来た哥津を田村俊子がこう描写している。


 十八九の娘さんで、根の抜けたやうな横仆(たお)しになつた銀杏返しがばら/\になつてゐる。

 素足で、白飛白(かすり)の帷子(かたびら)を着て 濃い勝色繻子と黄色つぽい模様の一寸見えたものと腹合せの帯を小さく貝の口のやうにちよいと結んで、洋傘を開いて……。

 美人だの、美しいのと云ふよりは美い容貌と云ひ度いやうな顔立をしてゐる。

 細おもてゞ顔が緊つて、鼻がほそく高くつて、眼がぴんと張りをもつて、険を含んでいる。

 江戸芸者の俤(おもかげ)を見るやうなすつきりした顔立ちだつた。


(田村俊「お使ひの帰つた後」/『青鞜』1912年9月号・第2巻第9号_p219~220)


 尾竹紅吉は日本画家、尾竹越堂の長女。

 紅吉の叔父たち竹坡、国観も日本画家で紅吉は名門尾竹一族の愛娘だった。

 大阪の夕陽丘女学校を卒業後、東京菊坂の女子美術学校に入学したが中退。





女子美術学校2 ※尾竹紅吉2

※尾竹紅吉3ーー中山修一著作集2『富本憲吉とウィリアム・モリス』(紅吉関連写真




★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:12| 本文

第37回 野生






文●ツルシカズヒコ



 出奔した野枝に対する親族のフォローが気になるが、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p74)によれば、代準介とキチが上京し野枝に翻意を促したが「ノエと辻はすでに深い関係となっており、しばらく間を置き、熱の冷めるのを待つことにした」とある。

 平塚らいてう宛てに、九州の未知の少女から長い手紙が届いたのは、 一九一二(明治四十五)年晩春のころだった。

 切手三枚を貼ったペン字の重たい封筒だった。

 差出人は「福岡県糸島郡今宿 伊藤野枝」。


 それは自分の生い立ち、性質、教育、境遇ーーことに現在肉親たちから強制されている結婚の苦痛などを訴えたもので、そこには道徳、習俗に対する半ば無意識な反抗心が、息苦しいまで猛烈に渦巻いておりました。

 そして、自分はもうこれ以上の圧迫に堪えられないから、最後の力をもって肉親たちに反抗して、自分に忠実な正しい道につこうと決心している。

 近いうち上京してお訪ねするから、ぜひ会ってほしいと書いてありました。

 細かなペン字で、びっしり書きこまれたこの長い手紙は、ひとり合点の思いあがった調子ではありましたが、文章もよく、字も立派なこと、生一本の真面目さによって、青鞜社にくる多くの手紙のなかで格段に印象に残るものでした。


(『元始、女性は太陽であったーー平塚らいてう自伝(下巻)』_p404)

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 野枝の「あきらめない生き方・その三」の始動である。

 またしても野枝は手紙を書く文才、すなわち「手紙作家」の才によって、らいてうに強烈なインパクトを与えたのである。

 野枝からの手紙が来てから何日後かに、本郷区駒込曙町の自宅にいたらいてうは、女中さんからこう告げられた。

「伊藤さんという方がお見えになりました」

「どんな方?」

「十五、六ほどのお守(も)りさんのような方です」

 
 ……この人があのしっかりした手紙を書いた人とは、どうしても思われません。

 小柄ながっちりとしたからだに、赤いメリンスの半幅帯を貝の口にぴんと結んだ野枝さんの感じは、これで女学校を出ているのかと思うほど子どもらしい感じでした。

 健康そうな血色のいいふっくりした丸顔のなかによく光る眼は、彼女が勝気な、意地っぱりの娘であることを物語っています。

 その黒目勝ちの大きく澄んだ眼は、教養や聡明さに輝くというより、野生の動物のそれのように、生まれたままの自然さでみひらかれていました。

 話につれて丸い鼻孔をふくらませる独特の表情や、薄く大きい唇が波うつように歪んで動くのが、人工で装ったものとはまったく反対の、じつに自然なものを身辺から発散させています。

 生命力に溢れるこの少女が、初対面のわたくしに悪びれもせず、自分のいいたいだけのことを、きちんと筋道立てていう態度には……情熱的な魅力が感じられるのでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』_p404)





 野枝は苦痛と闘い、婚家を飛び出し、上野高女の英語教師だった辻の家に世話になっていることなど、らいてうに書いた手紙の内容をより具体的に話した。

 らいてうは勇敢に因習に立ち向かう野枝に対して、青鞜社がなんらかの力になるべきであると思った。

 らいてうに会ってみることを野枝に勧めたのは、辻だった。

 
  僕は新聞の記事によつてらいてう氏にインテレストを持ち「青鞜」を読んで、頼もしく思つた。

 野枝さんにすすめてらいてう氏を訪問させて相談させてみることを考へた。


(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p9/『ですぺら』_p184/『辻潤全集 第一巻』_p389)

 
 野枝が住所を今宿にしたのは、その方がらいてうの同情を誘えると考えたからだと言われている。

『青鞜』の創刊は前年、一九一一(明治四十四)年九月であるが、創刊からの読者だった辻に勧められて、野枝も『青鞜』を読んでいただろう。





 一九一二年(明治四十五)年)七月二十日、明治天皇の病気を報じる号外が出た。

 七月三十日、午前〇時四十三分、明治天皇崩御。

 実際の崩御は七月二十九日、二十二時四十三分だったが、諸々の都合で翌日にしたという。

 山川菊栄は後に、この日をこう回想している。


 明治四十五(一九一二)年七月三十日の夜は、すばらしい月夜でした。

 その日、明治天皇は世を去りました。

 私はひとりで二階に寝ていましたが、あけ放した窓からは月の光が水のように蚊帳の中まで流れこむ。

 ああ明治は終った、明日からは新しい日がくる、今日までのあらゆるいやなことが一夜のうちにこの月の光に洗い去られて、明日からはすばらしく美しい、明るい日がくる、と私はかってな夢をえがいて、子供のころの遠足の前夜のようにうきうきした気分で寝入りました。


(山川菊栄『女二代の記ーーわたしの半自叙伝』/山川菊栄『おんな二代の記』_p192~193)





「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、明治が終わり大正になった七月末ごろ、野枝は今宿に帰郷していた。

 自ら末松福太郎との離婚の話し合いをするためである。

 出奔事件の解決がまだついていないので、一度郷里に帰りトラブルを解決してくるといって、平塚らいてう宅を辞した野枝は、今宿かららいてうに手紙を書いた。


 それには、帰った日から毎日のように理解のない周囲の人たちから残酷に責め立てられ、以前にも増した苦しみで逃れる道がない。

 幾度も死の決心をしたが、このままでは死ぬこともできない。

 このごろはもう極度の疲労のため、体をこわしている。

 ひとり海岸に出て、涙を流すばかりだというようなことが、思い迫った調子で書いてありました。

 とても普通の手段では抜けられないから、家人の隙を窺って再度の家出をしようと思うが、その旅費をなんとか都合して送ってほしいということでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』_p405~406)



★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『辻潤全集 一巻』(五月書房・1982年4月15日)

★山川菊栄『女二代の記ーーわたしの半自叙伝』(日本評論新社・1956年5月30日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第36回 染井






文●ツルシカズヒコ



 辻潤宅で辻と野枝の共棲が始まったのは、おそらく一九一二(明治四十五)年の四月末ごろである。


 僕はその頃、染井に住んでゐた。

 僕は少年の時分から、染井が好きだツたので一度住んで見たいと兼々(かねがね)思つてゐたのだが、その時それを実行してゐたのであつた。

 山の手線が出来始めた頃で、染井から僕は上野の桜木町まで通つてゐたのであつた。

 僕のオヤヂは染井で死んだのだ。

 だから、今でも其処(そこ)にオヤヂの墓地がある。

 森の中の、崖の上の見晴しのいい家であつた。
 
 田圃には家が殆(ほと)んどなかつた。

 あれから王子の方へ行くヴァレーは僕が好んでよく散歩したところだつたが今は駄目だ。

 日暮里も僕がゐた十七八の頃は中々よかつたものだ。

 すべてもう駄目になつてしまつた。

 全体、誰がそんな風にしてしまつたのか、何故そんな風になつてしまつたのか?

 僕は東京の郊外のことを一寸(ちよつと)話してゐるのだ。

 染井の森で僕は野枝さんと生れて始めての熱烈な恋愛生活をやつたのだ。

 遺憾なきまでに徹底させた。

 昼夜の別なく情炎の中に浸つた。

 始めて自分は生きた。

 あの時、僕が情死してゐたら、如何に幸福であり得たことか! 
 
 それを考へると、僕は唯だ野枝さんに感謝するのみだ。

 そんなことを永久に続けようなどと云ふ考へがそも/\のまちがひなのだ。

 結婚は恋愛の墓場ーー旧い文句だが如何にもその通り、恋愛の結末は情熱の最高調に於て男女相抱いて死することあるのみ。グヅ/\と生きて、子供など生れたら勿論それはザツツオールだ。

 全体僕の最初の動機は野枝さんと恋愛をやる為(た)めではなく、彼女の持つてゐる才能を充分にエヂュケートする為めなのであつた。

 それはかりにも教師と名が付いた職業に従事してゐた僕にその位な心掛はあるのが当然な筈(はず)である。

 で、それが出来れば僕が生活を棒にふつたことはあまり無意義にはならないことだなどと甚(はなは)だおめでたい考へを漠然と抱いてゐたのだ。


(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p7~9/『ですぺら』_p179~183/『辻潤全集 第一巻』_p387~389)

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 辻の母は美津(光津ともいった)は、会津藩の江戸詰め家老・田口重義とその妾某女との間に生まれたが、重義と別れた某女が美津を連れ子として辻四郎三の後添いに入り、美津は養女となる。

 辻の父・六次郎は埼玉の豪農茂木家に生まれたが、茂木家は維新前は幕臣だったらしい。

 六次郎は美津と結婚し辻家の養子婿となった。

 六次郎も美津も明治前の生まれのようだ。

 祖父の四郎三は明治維新までは浅草蔵前で札差をしていたので裕福だった。

 辻の本名は潤平で弟・義郎(一八九二年生)と妹・恒(つね/一八九六年生)がいた。

 義郎は若くして家を出て洋服職人として自活していた。

 井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(P56)には、染井の森の緑がしたたる五月初めごろ、上野高女の同窓生四、五人が辻の家を訪ねたとある。

 辻の家族一同は彼女たちを心よく迎い入れ、美津は三味線を弾き、辻は尺八を吹き、みんなは歌って「越後獅子」などを合奏した。

 小町娘と言われた恒も、野枝と一緒にいそいそと給仕をしたりしてもてなした。

 帰りに一同は染井の「ちまき」という汁粉屋に入ったのだが、辻が家を出るとき、野枝が辻の背に羽織を着せ掛けたしぐさが、ひどくなまめいて、友人のひとり神達つやはそれが心に残ったと回想している。

「あたしたちは野枝さんが先生とああいう仲だったとまったく気づきませんでした。そうした男女のむつみごとなんかなんにもしらないボンクラでした」





 美津は江戸町人の伝統文化を身につけた粋人で、三味線の名人でもあり小唄もうまかった。

 野枝も祖母と父の血筋を受け継ぎ、三味線や唄の才があったようなので、その点、野枝は辻家のノリに合っていたかもしれない。


 角帯をしめ、野枝さん丸髷に赤き手柄をかけ黒襟の衣物(きもの)を着(ちやく)し、三味線をひき怪し気なる唄をうたつたが……。

 大杉君もかなりオシヤレだつたやうだが、野枝さんも、いつの間にかオシャレになつてゐた。

 元来、さうであつたかも知れなかつたが、僕と一緒になりたての頃はさうでもなかつたやうだ。

 だが女は本来オシヤレであるべきが至当なのかも知れぬ、しかし御化粧などはあまり性来上手な方ではなかつた。

 僕のおふくろが世話をやいて、妙な趣味を野枝さんに注入したので、変に垢ぬけがして三味線などひき始めたが、それがオシャレ教育の因をなしたのかも知れなかつた。


(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p17~19/『ですぺら』_p203~208/『辻潤全集 第一巻』_p400~404)


 野枝の青鞜社時代の友人、小林哥津(かつ)も下町生まれだが、『自由 それは私自身』(P53)によれば、彼女も美津の粋さが好きで、春には竹の子ご飯に春菊のおひたしをちょっと出してくれる、質素でもそんな雰囲気が好きだったという。


小林哥津さんの「清親考」



★『辻潤全集 一巻』(五月書房・1982年4月15日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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