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2016年03月21日
第35回 出奔(七)
文●ツルシカズヒコ
野枝が出奔したのは一九一二(明治四十五)年四月だったが、その二年後『青鞜』に「S先生に」を寄稿し、出奔したころの上野高女の教頭・佐藤政次郎(まさじろう)の言動を痛烈に批判している。
佐藤に対する批判の要点を現代の口語風にまとめてみた。
先生は倫社の講義中、興奮すると腐敗した社会を罵倒しました。
先生の講義によって、半眠状態だった私の習俗に対する反抗心が目覚めました。
私は先生に教わったとおりに、全力で因習に反抗した結果、出奔したのです。
それなのに、私に反抗を教えてくれた先生の、そのときの対処はどうだったでしょう。
先生は傲慢にも私を徹頭徹尾、子供扱いしました。
そして先生の態度は不徹底で私にも、私の両親にも、両方に親切を見せつけ、どちらからもよく思われようとしました。
先生は社会に対抗して生きていける方ではなかったのです。
先生の講義は、現実社会に妥協して生きて行かざるを得ない苦しさ、その憂さ晴らしだったのです。
それに関しては、同情しますが、問題は先生にその自覚がないことです。
先生は辻に宛てた手紙に、こう書きました。
「私は感情的で、早い話が手紙を書く前と後ではあなた(辻)に対する感情が違う、感情の移りやすい私は過度に激昂したり、にわかに気の毒になって下らない妥協をする幼稚な悪癖があるのです」
またこうも書きました。
「人を見ても大づかみに値踏みをしたり、早飲み込みの侮蔑をしたりすることが多い。人を尊重せぬ悪弊と深く悔います」
「悪癖」という一種の病気にしているところが笑えますが、病気なのに辻や西原先生の態度について、自分を一段高いところに置いて批判しているようですね。
先生には自分が本当に悪癖を持っているという自覚がないんですよ。
先生は言論ではーー私たちに講義してくれたときーー社会とか道徳とか習俗などを極力排斥したように思います。
しかし、実際問題に直面したときには、先生はあそこまで道徳とか習俗に固執していました。
先生は型にはまったことが嫌いで、それを非難していましたが、先生自身が型にはまった生活から抜け出られないのです。
道徳なんて都合次第でできたものじゃないですか。
だから都合次第で破戒してもよいものだと思います。
人間の本性を殺したり無視したりする道徳は、どんどん壊してもよいと思います。
破戒する力を与えられていない人は仕方ないにしても、そうい確信を持っている人はどんどん破戒して進んだ方がよいと思います。
既存の道徳を破戒できない人は、道徳それ自体を恐れているのではなく、道徳を取り巻いているものたちを恐れているのです。
先生だって現今社会の道徳に偉大な権威を認め、満足しているわけではないでしょう。
ただ、その道徳を奉じている社会の群集の勢力が、先生の生活に及ぼす不利な結果を恐れているのですよ。
私はあの事件で一足飛びに大人になり、学校で聞いた先生方の講義が何の役にもたたないことを知りました。
あの事件のとき、先生は私の心の中に渦巻いている大きな矛盾を肯定させようとしました。
私にいくらか影響を与える周囲というものをつきつけて。
先生が日ごろ言っていたこととはまるで違う態度で、社会というものを説く先生が焦(じ)れったかったです。
しかも、先生は俗悪な社会の道徳や習俗に対して何の苦痛も抱かずに接しながら、一方では高遠な理想を説いていて、その理想と愚劣な現実をやむを得ないという、アッサリした言葉で片づけて平然とすましていました。
古き理想主義に徹底することもできず、俗な生活にも満足できず、一生ボヤっと過ごしているのかと思うと本当に淋しい気がします。
教育者や学校教育に対する辛辣な批判である。
言行の不一致を批判しているのである。
体を張って因習と闘ってきた野枝が、あの事件から二年後に佐藤に言論でリベンジしたのである。
佐藤は野枝より十九歳年上であるが、『青鞜』の「新しい女」の代表として頭角を表し始めていた野枝の、旧世代の男性教育者に対する批判という意味もあっただろう。
しかし、野枝は佐藤から受けた恩や親しみに対する感謝の念を忘れたわけではなく、「S先生に」の最後をこう結んでいる。
学校時代の無責任な楽しさは思ひ出しても気持ちのいいものです。
先生のお宅にゐました頃ーーそれももう二度とは返つて来ない楽しい月日です。
何だかあの先生のお宅で林檎をかぢりながらいろんなお話を伺つたときのやうな子供々々した、なつかしい親しみをもつて先生に甘へたいやうな気持になります。
かうなつて来ると、あんなにくまれ口をきいた大人になつた自分が悪(にく)らしくなつて来ます。
そのうちに、こんな理屈を云つたことは全く忘れたやうな顔をして、先生のお書斎に子供になつて甘へに行きます。
そのとき何卒(なにとぞ)悪(に)くらしい大人の私をしからないで下さいますやうに今からお願ひして置きます。(三、五、一五)
(「S先生に」/『青鞜』1914年6月号・第4巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p82)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第34回 出奔(六)
文●ツルシカズヒコ
野枝は上野高女のクラス担任だった西原和治が送ってくれた、電報為替で旅費を工面し上京した。
上京したのは「十五日夜」に辻が書いた手紙が福岡についた後であるから、一九一二(明治四十五)年四月二十日ころだろうか。
とにかく、野枝としてはぐずぐずしていると拘束されてしまうので、できるだけ迅速に東京に旅立ちたかっただろう。
上京した野枝は北豊島郡巣鴨町上駒込四一一番地の辻潤宅に入った。
辻はその家で母のミツ(美津)と妹のツネ(恒)と同居していた。
上野高女の教師の職を辞め、野枝を受け入れた辻は、その間の事情をこう記している。
卒業して国へ帰へつて半月も経たないうちに飛び出してきた野枝さんは僕のところへやつて来て身のふり方を相談した。
野枝さんが窮鳥でないまでも若い女からさう云ふ話を持ち込まれた僕はスゲなく跳ねつけるわけにはいかなかつた。
親友のNや、教頭のSに相談してひとまづ野枝さんを教頭のところへ預けることにきめたが、その時は校長始めみんなが僕らの間に既に関係が成立してゐたものと信じてゐたらしかつた。
そして、野枝さんの出奔は予(あらかぢ)め僕との合意の上でやつたことのやうに考へてゐるらしかつた。
国の親が捜索願いを出したり、婚約の男が怒つて野枝さんを追ひかけて上京すると云ふやうなことが伝えられた。
一番神経を痛めたのは勿論校長で、若(も)し僕があくまで野枝さんの味方になつて尽す気なら、学校をやめてからやつてもらひたいと早速切り出して来た。
如何(いか)にも尤(もっと)も千万(せんばん)なことだと思つて僕は早速学校をやめることにした。
……たうとう野枝さんと云ふ甚だ土臭い襟アカ娘のために所謂(いわゆる)生活を棒にふつてしまつたのだ。
無謀と云へば随分無謀な話だ。
しかしこの辺がいい足の洗い時だと考へたのだ。
それに僕はそれまでに一度も真剣な態度で恋愛などと云ふものをやつたことはなかつたのだ。
さうして自分の年齢(とし)を考へてみた。
三十歳に手が届きさうになつてゐた。
一切が意識的であつた。
愚劣で、単調なケチ/\した環境に永らく圧迫されて圧迫されて鬱結してゐた感情が時を得て一時に爆発したに過ぎなかつたのだ。
自分はその時思う存分に自分の感情の満足を貪り味はうとしたのであつた。
それには洗練された都会育ちの下町娘よりも、熊襲(くまそ)の血脈をひいてゐる九州の野性的な女の方が遙かに好適であつた。
(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p6~7/『ですぺら』_p176~179/『辻潤全集 第一巻』_p385~387)
堀切利高編著『野枝さんをさがして』(p21)によれば、辻と一緒に西原も上野高女を辞めるはずだったが、ある事情(その事情は不明)でそうしなかった。
校長も教頭・佐藤政次郎(まさじろう)も、辻と野枝はすでに関係ができていて、野枝が婚家から出奔して辻の家に入るのは、あらかじめふたりが合意していたことであると見ていたようである。
辻も野枝も心外だったろう。
辻としては、因習を打破しようとして窮地に追い込まれている教え子を救うべく尽力しているうちに、自然にふたりは恋愛感情を持つようになったのだ、と周りに解釈してほしかったにちがいない。
野枝も「出奔」で、辻との恋のためだけに家出したと思われることが不快だと書いているが、彼女としても出奔はまず因習打破のための実際行動であり、辻との恋はその過程で成立したのだと、主張したいのである。
順序が逆で辻と恋愛に陥ったから出奔したとなれば、それこそ姦通罪に問われかねないので、野枝にとっては重要なことだった。
『野枝さんをさがして』(p75)によれば、佐藤も西原も結局、一九一五(大正四)年に上野高女を去るが、西原はその後、雑誌『地上』を創刊。
野枝は『地上』に寄稿した原稿で、上野高女五年時の自分と西原についてこう言及している。
もつとも私の苦しみのひどかつた時代であり最も私の学校生活の幸福な時代でありました。
……私の一生の前半生に於ける最大の危機でもありました。
来るべき爆発に対する恐怖時代でありました。
私のこの最大の危機に於いて兎にも角にももがきもだへてゐる私をとう/\無事に私の学校生活を終らして下さいましたのが西原先生でございました。
もしもあの最後の一年間に於いて先生がお出にならなかつたら私の性来の一徹な狂ひ易い感情は抑へるものゝないまゝに私の持つたあらゆる無分別と自棄を誘つて真直に自身を死地に導いたに相違ありません。
(「西原先生と私の学校生活」/『地上』1916年3月20日・第1巻第2号/堀切利高『野枝さんをさがして』_p26~27)
上野高女時代の野枝と言えば、辻との出会いにスポットを当てられがちだが、野枝にとって西原の存在も大きかった。
『地上』には辻も寄稿しており、西原、辻、野枝の三人の交流は、三人が上野高女を去った後も続いていたようだ。
★『辻潤全集 一巻』(五月書房・1982年4月15日)
★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第33回 出奔(五)
文●ツルシカズヒコ
一九一二(明治四十五)年四月十五日付けの辻の手紙は、こう続いている。
然し問題は兎に角汝がはやく上京することだ。
どうかして一時金を都合して上京した上でなくつては如何(どう)することも出来ない。
俺は少くとも男だ。
汝一人位をどうにもすることが出来ない様な意気地なしではないと思つてゐる。
(「出奔」/『青鞜』一九一四年二月号・第四巻第二号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103)
野枝の脳裏をいろいろなすべての光景が一度になって過ぎて行った。
今までまるでわからなかった国の方の騒ぎも、いくらかかわるような気もするし、学校での様子などもありありと浮かんできた。
そうして若し汝の父なり警官なり若しくは夫と称する人が上京したら逃げかくれしないで堂々と話をつけるのだ。
九日附の手紙をS先生に見せたのも一つは俺は隠くして事をするのが嫌だからだ。
姦通など云ふ馬鹿々々しい誤解をまねくのが嫌だからだ。
イザとなれば俺は自分の位置を放棄しても差支ない。
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))
野枝の目は「姦通」という忌まわしい字の上に落ちて止まった。
「本当にそうなのかしら……」
野枝は身震いしたが、末松福太郎が憎らしいよりも滑稽になってきた。
あの男にそういうことが言える確信が、本当にあるのかおかしくなってきた。
「私妻」などと書かれたことの腹立たしさよりも、麗々しく書いた男が滑稽に思えてきた。
俺はあくまで汝の身方になつて習俗打破の仕事を続けやうと思ふ、汝もその覚悟でもう少し強くならなければ駄目だ。
兎に角上京したら早速俺の処にやつてこい。
かまはないから、俺の家では幸にも習俗に囚はれてゐる人間は一人もゐないのだから。
母でも妹でも随分わけはわかつてゐる。
そうして俺を深く信じてゐるのだ。
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))
いろいろな感情が一時に野枝をかき回し、それが鬨(とき)の声を挙げて体中を荒れ狂うように走った。
遠慮せずにやつて来るがいゝ、だが汝はきた上でとても俺の内に辛抱が出来ないと思つたら、何時でもわきに行くがいゝ俺は全ての人の自由を重んずる。
兎に角東京へくれば道はいくらでもつく、そんなに心細がるなよ、だが汝は相変らず詩人だな、まあ其処が汝の尊いところなのだ。
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))
野枝は辻の愛をこんなにも早く受けようとは思いもしなかった。
ただ彼女の気持ちをときどき不快にするのは、辻との恋のためだけに家出したと思われることだった。
彼女はなんとはなしに、自分にまで弁解がましいことを考えていた。
けれどもそれもひとつの動力になっていると思えば、そんなことはもう考えていられなくなり、今すぐにでも上京したくなった。
俺は近頃汝のために思ひがけない刺戟を受けて毎日元気よく暮してゐる。
ずいぶん単調平凡な生活だからなあ。
上京したらあらいざらひ真実のことを告白しろ、其上で俺は汝に対する態度を一層明白にする積りだ。
俺は遊んでゐる心持をもちたくないと思つてゐる。
なんにしろ離れてゐたのぢや通じないからな、出て来るにも余程用心しないと途中でつかまるぞ、もつと書きたいのだけれど余裕がないからやめる。(十五日夜)
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))
野枝は目を据えて東京に着いたときのことを、いろいろに想像してみた。
そして、上京するまでの間に見つかるなどということを、それまで少しも考えなかったので、急に不安で胸が波打った。
辻からの手紙を読み終えた野枝は、しばらく唖然としていた。
空っぽになった頭に、早く行きたいという矢も盾もたまらない気持ちが、いっぱいに広がった。
いつにない楽しい気持ちで、電報為替をじっと見つめながら、鏡を出して頭髪に差したピンを一本一本抜いていった。
「出奔」に書かれている辻の手紙の文面は、辻が実際に野枝宛てに書いた手紙の文面だと考えてよいのだろう。
そうなると、このとき野枝が辻に宛てて書いた手紙の文面も知りたくなるが、残念ながら、その手紙は空襲で焼失し現存していない。
しかし、辻のハートを一気に鷲づかみにする文面だったのだろう。
「あきらめない生き方・その二」も、野枝の手紙文を書く文才が、新たな道を切り拓いたことになる。
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第32回 出奔(四)
文●ツルシカズヒコ
辻からの手紙、四月十三日の文面にはこう書いてあった。
今日帰ると汝の手紙が三本一緒にきてゐたのでやつと安心した。
近頃は日が長くなつたので晩飯を食ふとすぐ七時半頃になつてしまふ。
俺は飯を食ふとしばらく休んで、たいてい毎晩の様に三味線を弄ぶか歌沢をうたう。
或は尺八を吹く。
それから読む。
そうすると忽ち十時頃になつてしまふ。
何にか書くのはそれからだ。
今夜はこれを書き初める前に三通手紙を書かされた。
俺は敢て書かされたと云ふ。
Nヘ、Wへ、それからFヘ、なんぼ俺だつてこの忙しいのに、そう/\あつちこつちのお相手はできない。
それに無意味な言葉や甘つたるい文句なぞを並べてゐるといくら俺だつて馬鹿/\しくつて涙がこぼれて来らあ。
人間と云ふ奴は勝手なものだなあ。
だがそれが自然なのだ。
同じ羽色の鳥は一緒に集まるのだ、それより他仕方がないのだ。
だが俺等の羽の色が黒いからといつて全くの他の鳥の羽の色を黒くしなければならないと云ふ理屈はない(十三日)
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p101)
「Nへ、Wへ、それからFへ」三通手紙を書かされたとあるのは、野枝失踪に関する始末書のようなものか。
Nは西原、WとFは校長と教頭だろうか。
学校へ「トシニゲタ、ホゴタノム」と云ふ電報がきたのは十日だと思ふ。
俺はとう/\やったなと思つた。
しかし同時に不安の念の起きるのをどうすることも出来なかつた。
俺は落ち付いた調子で多分東京へやつてくるつもりなのでせうと云つた。
校長は即座に「東京へ来たら一切かまはないことに手筈をきめやうぢやありませんか」と如何にも校長らしい口吻を洩らした。
S先生は「知らん顔をしてゐようじやありませんか」と俺にはよく意味の分らないことを云つた。
N先生は「兎に角出たら保護はしてやらねばなりますまい」と云つた。
俺は「僕は自由行動をとります。もし藤井が僕の家へでもたよつて来たとすれば僕は自分一個の判断で措置をするつもりです」とキツパリ断言した。
みんなにはそれがどんな風に聞えたか俺は解らない。
女の先生達は唯だ呆れたといふ様な調子でしきりに驚いてゐた。
俺はかうまで人間の思想は異ふものかと寧ろ滑稽に感じた位だつた。
S先生はさすがに汝を稍や解してゐるので同情は充分持つてゐる。
だが汝の行動に対しては全然非を鳴らしてゐるのだ。
俺はいろ/\苦しい思を抱いて黙つてゐた。
その日帰ると汝の手紙が来てゐた。
俺は遠くから客観してゐるのだからまだいゝとして当人の身になつたらさぞ辛いことだらう、苦しいことだらう、悲しいことだらうと思ふと俺は何時の間にか重い鉛に圧迫されたやうな気分になつて来た。
だが俺は痛烈な感に打たれて心は勿論昂(たかぶ)つてゐた。
それにしても首尾よく逃げおうせればいいがとまた不安の念を抱かないではゐられなかつた。
俺は翌日(即ち十二日)手紙を持つて学校へ行つた。
勿論知れてしまつたのだから秘(かく)す必要もない。
そうして手紙を見せて俺の態度を学校に明かにする積りだつたのだ。
で、俺は汝に対してはすこしすまない様な気はしたがS先生に対しても俺は心よくないことがあるのだから。
(十四日)
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p101~102)
S先生は佐藤教頭、N先生は西原のことであろう。
「十五日夜」の辻の手紙によれば、四月十二日、辻宛てに末松福太郎から極めて露骨なハガキが舞い込んだ。
「私妻伊藤野枝子」という書き出しだった。
野枝はたぶん上京しただろうから、宿所がわかったらさっそく知らせてくれ、父と警官と同道の上で引き取りに行くという。
さらに自分の妻は姦通した形跡があるとか、同志と固く約束したらしいというようなことが書いてあった。
辻は野枝が去年の夏、結婚したという話は薄々聞いていた。
しかし、どういう事情でなされた結婚なのかは知らなかった。
……汝が帰国する前になぜもつと俺に向つて全てを打ち明けてくれなかつたのだとそれを残念に思つてゐる。
少くとも先生へなりと話して置けば俺等はまさか「そうか」とその話を聞きはなしにしておくような男ぢやない。
それは女としてそう云ふことは打ち明けにくからう。
しかしそれは一時だ汝が全てを打ち明けないのだからどうすることも出来ないぢやあないか。
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p102~103)
野枝は夏休み明け以降の、ほとんど自棄のような生活を思い浮かべていた。
野枝は何度かその苦悶を西原先生に訴えようとした。
しかし、考えることの腹立たしさに順序を追って話の道筋を立てることができなかった。
そしてなるべく考えないように努めた。
そのころは、野枝にとって辻は、そんなことを面と向かって話せる相手ではなかった。
煩悶に煩悶を重ね、焦(じ)り焦りして、頭が動かなくなるほど、毎日そればかり考えていても、考えは決まらなかった。
月日だけが遠慮なく過ぎ去り、とうとう西原先生にも打ち明ける機会がなくなった。
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index