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2016年03月17日

第19回 西洋乞食






文●ツルシカズヒコ



 一九一一(明治四十四)年四月、新任の英語教師として上野高女に赴任した辻は、さっそく女生徒たちから「西洋乞食」というあだ名をつけられた。

 辻がふちがヒラヒラしたくたびれた中折帽子をかぶり、黒木綿繻子(くろもめんしゅす)の奇妙なガウンを来て学校に来たからである。

 辻は貧相な風貌だったが、授業では絶大な信用を博した。


「アルトで歌うようにその口からすべり出す外国語」。

 しかも、話題は教科書の枠をこえて文学、思想にひろがった。

 国木田独歩『武蔵野』バイロンの『恋愛詩』、本間久雄の文芸評論など、彼の話題はつきることがない。

 ことに東京下町に住んで若く世を去った樋口一葉の作品引用は毎度のことで、彼が片手をポケットに、片手を「三日月」といわれた長いあごにあて、「これは例の……」といいだすと、女生徒たちはいっせいに「一葉さんでしょう」と機先を制するのだった。

 辻は苦笑して、「じゃ……やめましょう」と頁をめくった。

 尺八やピアノをひいて各国の国歌をうたわせてくれるのも生徒に喜ばれた。

 辻は立派な教育者だった。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p44~45)

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 辻が生徒の間で人気を博し始めたころのことを、野枝はこう書いている。


 ……その重味をもつた気持のいゝアルトで歌ふやうにその唇からすべり出す外国語はその発音に於てもすべての点で校長先生のそれよりもずつと洗練されてゐて、そして豊富なことを認め得た。

 それにまたその軽いとりつくろはぬ態度とユーモアを帯びた調子がすつかり皆を引きつけてしまつた。

 新任の先生の評判はいたる処でよかつた。

 その男に対する町子の注意はしばらくそれで進まなかつた。

 たゞ町子はそのころ学校で発行した謄写版刷の新聞を殆んど自分ひとりの手でやつた。

 それに先生は新しい詩や歌についての一寸した評論見たやうなものをくれたりした。

 それで可なりに男との間が接近して来た。

 それからまた暇さへあれば尺八の譜を抱へては音楽室に入つてピアノに向つてゐるのが一寸町子の注意を引いた。


(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p267~268/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p111)





 辻はこのころの野枝をこう記している。


 野枝さんは学生として模範的ぢやなかつた。

 だから成績も中位で、学校で教へることなどは全体頭から軽蔑してゐるらしかつた。

 それで女の先生達などからは一般に評判がわるく、生徒間にもあまり人気はなかつたやうだつた。

 顔もたいして美人と云ふ方ではなく、色が浅黒く、服装はいつも薄汚なく、女のみだしなみを人並以上に欠いてゐた彼女はどこからみても恋愛の相手には不向きだつた。

 僕をU女学校に世話をしてくれたその時の五年を受け持つてゐたN君と僕とはしかし彼女の天才的方面を認めてひそかに感服してゐたものであつた。
 
 若(も)し僕が野枝さんに惚れたとしたら彼女の文学的才能と彼女の野性的な美しさに牽きつけられたからであつた。

 恋愛は複雑微妙だから、それを方程式にして示すことは出来ないが、今考へると僕等のその時の恋愛は左程(さほど)ロマンティックなものでもなく、又純な自然なものでもなかつたやうだ。

 それどころではなく僕はその頃、Y――のある酒屋の娘さんに惚れてゐたのだ。

 そしてその娘さんも僕にかなり惚れてゐた、

 僕はその人に手紙を書くことをこよなき喜びとしてゐた。

 至極江戸の前女(ママ/江戸前の女)で、緋鹿(ひか)の子の手柄をかけていいわたに結つた、黒エリをかけた下町ッ子のチャキ/\だつた。

 鏡花の愛読者で、その人との恋の方が遙かにロマンティックなものなのだつた、この人の話をしてゐると、野枝さんの方が御留守になるから、残念ながら割愛して他日の機会に譲るが、兎に角、僕はその人とたしかに恋をしてゐたのだ。

 僕は野枝さんから惚れられてゐたと云つた方が適切だつたかも知れない。

 眉目シュウレイとまではいかないまでも、女学校の若き独身の英語の教師などと云ふものは兎角(とかく)、危険な境遇に置かれがちだ。


(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p5~6/『ですぺら』_p173~175/『辻潤全集 第一巻』)






「Y――のある酒屋の娘さん」について、野枝はこう書いている。


 おきんちやん――女の名――は吉原のある酒店の娘だ。

 町子のゐた学校の二年か三年までゐたのだ。

 調子のいい人なつこいやうな娘だつた。

 町子は四年からその学校に入つたのだからよくはしらなかつたけれど、後の二年の間におきんちやんはよく学校に来たので――それも町子の級にゐたとかで、調子よく話かけられたりして後にはかなりな処まで接近したのであつた。


(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p265~266/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p110)


「惑ひ」解題(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p401)によれば、おきんちやんは新吉原京町の酒屋の娘の御簾納(みその)キンがモデルで、御簾納は結婚後の姓である。





 このころの野枝について、以下、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』から抜粋引用。


 代はノエの根性を好もしく思っており、隣家の作家村上浪六に紹介する。

 村上も上京を薦めた張本人として目に掛ける。

 代は霊南坂の頭山邸にも、千代子はもちろんノエも娘同様に同道し紹介している。

 ノエは高等小学校卒ゆえに、人より二年遅れた英語力を、辻の力を借りて一気に取り戻そうとする。

 逆に辻は、学園新聞「謙愛タイムス」のノエの記事やエッセーを読み、その文才に瞠目する。

 辻はノエに特段目をかけるようになり、時流の小説や欧米の翻訳物も推薦し指南していく。

 千代子はお嬢様育ちでどこかおっとりしており、ノエに級長を奪われたことを意に介していない。

 根岸の家の二階の八畳に千代子、隣の六畳にノエ。

 襖一枚で仕切られており、境いの欄間から洩れる灯りは両人とも深夜まで及んだと聞く。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』p_61~62)



★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★辻潤『ですぺら』(新作社・1924年7月11日)

★『辻潤全集 一巻』(五月書房・1982年4月15日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 23:04| 本文

第18回 遺書






文●ツルシカズヒコ



 一九一一(明治四十四)年四月末、下谷区下根岸の代家に野枝宛ての一通の分厚い手紙が届いた。

 この時、野枝は上野高女五年生である。

 差出人は周船寺(すせんじ)高等小学校の谷先生だった。

 それは長い長い手紙だった。

 書き出しはこうである。


 もう二ヶ月待てばあなたは帰つて来る。

 もう会えるのだと思つても私はその二ヶ月をどうしても待てない。

 私の力で及ぶ事ならばすぐにも呼びよせたい。

 行つて会ひたい。

 けれども、もう廿二年の間、私は何一つとして私の思つた通りになつたことは一つもない。

 私の短かい二十三年の生涯に一度として期待が満足に果たされたことはない。


(「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p119)


 自分の細かい近況、野枝に会いたくてたまらないこと、仕事が本当につまらなくなったこと、先のことを考えると何もする気にもなれないことなど、自分の最近の感情を打ち明けたものだった。

 暑中休暇に福岡に帰省する野枝に会う楽しみが、駄目になるかもしれないという。

 ーーあと二、三か月もすれば会えるけれど、それまでとても待てそうもない。だから、野枝に会ったら話さなければならないと思っていたことをここに書きます。あなただけに話しておきたいことを書きますーー。

 そういう前置きで書いてあったことは、彼女のここ数年の「苦しみ」だった。

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 それを読んだ野枝は理解に苦しんだ。

 なぜなら、谷先生は他人に誉められたり尊敬されたりすることに苦しんでいたからだ。

 谷先生は小さいころから他人の機嫌を損ねるようなことのない人だった。

 大人に誉められれば誉められるほど控えめで、大人はさらに感心したが、彼女はそれをうれしいと思ったことはなかった。

 苦しくなってきたのは、小学校の教師になったころからだった。

 子供のころは他人の意志を尊重していればよかったが、教師になると自分の意志で決定決断しなければならないことがあるからである。

 しかし、子供のころからの習慣で他人を不愉快にしたり、怒らせたりすることがいやで、ついつい自分を引っこめてしまう。

 だが、自分のやり方が正しいと思うのなら、反対されようと、自分の意志を貫くべきではないかという自責の念にもかられる。

 谷先生は基督教の説教を聴くようになった。

 他人に対する寛大さや、愛他的な気持ちや、犠牲行為は、彼女にとってなんでもないことだったので、立派な信者だと誉められた。

 しかし、彼女はもっと深い力強い何かを教えてほしかった。

 彼女の苦しみは深くなった。

 自分の意志を尊重すると、他人の意志と衝突し、すべての人を敵にするようなハメに陥ったからだ。

 谷先生は勇気を持って謀反を起こせばよいのだと思うが、誉められるのも嫌だが、憎まれるのも恐いから、それができない。

 自分の不徹底と卑怯を嘲り、憤り、悲しむ。

 そして死ぬよりほかに道はないと思うほど、卑怯物で悪者で浅ましい人間だという。





 一字一句も読み落とすまいとして、貪るように読み進んでいくうちに、野枝には何だかわからないような(悲しいような、恐いような気のする)ことが書いてあった。


 私は毎日教壇の上で教へてゐる時、又職員室で無駄口をきいてゐる時、私が今日死なう明日は死なうと思つてゐる心を見破る人は誰もない。

 恐らくは私の死骸が発見されるまでは誰も私の死なうとしてゐる事は知るまい、と思ひますと、何とも云へない気持になります。

「それが私のたつた一つの自由だ!」と心で叫びます。

 本当に私のこの場合ひにたつた一つたしかめ得たことは、人間が絶対無限の孤独であると云ふことです。

 私の死骸が発見された処で人々はその当座こそは何とかかとか云ふでせう。

 けれども時は刻一刻と歩みを進めます。

 二年の後、三年の後或は十年の後には誰一人口にする者はなくなるでせう。

 曾(かつ)て私と云ふものが存在してゐたと云ふことはやがて分らなくなつてしまふのです。

 よりよく生きた処でわづかにタイムの長短の問題ぢやありませんか。

 人間の事業や言行など云ふものが何時まで伝はるでせう。

 大宇宙!

 運命!


(「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p120~121)





 そして、野枝には強者として生きてほしいという切なるメッセージが連ねられていた。


 たゞ私は最後の願ひとして、私は本当に最後まで終(つい)に弱者として終りました。

 あなたは何にも拘束されない強者として活きて下さい。

 それ丈(だ)けがお願ひです。

 屈従と云ふことは、本当に自覚ある者のやることぢやありません。

 私はあなたの熱情と勇気とに信頼してこのことをお願ひします。

 忘れないで下さい。


(「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p121~122)





 谷先生の長い長い手紙は、こう結ばれていた。


 よく今迄私を慰さめてくれましたね、本当に心からあなたにはお礼を申ます。

 随分苦しい思ひもさせました。

 すべて御許し下さい。

 混乱に混乱を重ねた私の頭です。

 不統一な位は許して下さい。

 ではもう止します。

 最後です。

 もう筆をとるのもこれつきりです。

 左様(さよう)なら。

 左様(さよう)なら。

 何時迄もこの筆を措(お)きたくないのですけれど御免なさいもう本当にこれで左様なら。


 (「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p122)





 不安になった野枝は大急ぎで返事を書いた。

 夢中になって長い返信を書いた。

 何を書いたか覚えてないほど興奮して書いた。

 自分が帰省するまでは、どんなことをしても無事でいてくれるようにと何度も何度も書いた。

 一九一一年四月末、谷先生からのこの手紙を受け取った野枝が、「遺書の一部より」と題して『青鞜』に掲載したのは一九一四年秋だった。

 さらに、野枝がこの手紙について言及した「背負ひ切れぬ重荷」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)が、『婦人公論』に掲載されたのは一九一八年の春である。

「曾(かつ)て私と云ふものが存在してゐたと云ふことはやがて分らなくなつてしまふのです」と谷先生は書いたが、野枝が残した文章により、彼女の存在は永遠に記憶に留められることになった。



★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 21:53| 本文

第17回 謙愛タイムス






文●ツルシカズヒコ



 一九一一(明治四十四)年一月十八日、大逆事件被告に判決が下った。

 被告二十六名のうち二十四人に死刑判決、うち十二名は翌日、無期懲役に減刑された。

 兵庫県立柏原(かいばら)中学三年生だった近藤憲二は、この判決を下校途中の柏原駅で手にした新聞の号外で知った。


 社会問題に無関心であった私は、そのなかに僧侶三人(内山愚堂高木顕明峰尾節堂)がいるのを見て、おやこんな中に坊主がいる、と思ったぐらいだ。

(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p158~159)


 大杉豊『日録・大杉栄伝』(p80)によれば、大杉と保子が、幸徳秋水や管野すが子ら死刑囚に面会に行ったのは一月二十一日だった。

 それが今生の別れになった。

 幸徳ら十一名の死刑が執行されたのは一月二十四日、管野の死刑執行は翌一月二十五日だった。

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 二月一日、徳冨蘆花は第一高等学校の弁論部に招かれ、同校で「謀叛論」と題する講演をした。


 社会主義が何が恐い? 

 世界の何処にでもある。

 然るに狭量にして神経質な政府(註ーーもちろん山県に操られる桂内閣のことである)は、ひどく気にさへ出して、殊に社会主義者が日露戦争に非戦論を唱ふると俄に圧迫を強くし、足尾騒動から赤旗事件となつて、官権と社会主義は到頭(とうとう)犬猿の間となつて了つた。

 諸君、幸徳等は時の政府に謀反人と見做(みな)されて殺された。

 が、謀叛を恐れてはならぬ。

 謀叛人を恐れてはならぬ。

 自ら謀反人となるを恐れてはならぬ。

 新しいものは常に謀叛である。

 我等は生きねばならぬ。

 生きる為に謀叛しなければならぬ。


(「謀叛論」/中野好夫『盧花徳冨健次郎 第三部』_p33~36)


 盧花はちょうどそのころ増築中だった新書斎に「秋水書院」と命名した。

「秋水書院」は現在、盧花恒春園に保存され、「謀叛論」の草稿も同園の盧花記念館に保存展示されている。





 三月二十四日、大杉は神楽坂倶楽部で開かれた第二回同志合同茶話会に堀保子と出席した。

 同志合同茶話会は、大逆事件後の「冬の時代」に運動再興の足がかりとするための集まりだった。

 以前に書かれた堺利彦、西川光二郎、幸徳秋水らの寄せ書きがあった。

 大杉は「春三月縊り残され花に舞ふ」と詠み、その寄せ書きに加筆した。

 四月、上野高女五年に進級した野枝は級長を務めた。

 西原担任の級の三年と四年の級長は野枝の従姉・代千代子だったが、代準介の自伝『牟田乃落穂』に「千代子、五年生となり級長を退きたり。これは野枝、反対の行動を執りたるに起因せるなり」(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p59)とあり、五年の級長に千代子がなることに野枝が反対し、自分がやるという意思表示をしたようだ。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』は、野枝の言動を「千代子を立てる性格ではなかった。級長を奪い、千代子の鼻を明かす、自己顕示欲の強い娘だった」(p60)と指摘している。

 辻潤は神経衰弱を理由に浅草区の精華高等小学校を退職し、教頭の佐藤と西原の縁故で四月から上野高等女学校に英語教師として赴任した。

 野枝は辻の第一印象をこう書いている





 男が英語の教師として学校にはいつて来たのは、町子が五年になつたばかりの時だつた。

 四月の始めの入学式の時に、町子の腰掛けてゐる近くに腰掛けた、見なれぬ人が英語の教師だと、町子の後からさゝやかれた。

 一寸(ちよつと)特徴のある顔付きをしてゐるのが町子の注意を引いた。

 併しそのことには長く興味をもつてゐられなかつた。

 つい式のはじまる先に立つて彼女は受持教師から、在校生の代表者として新入の生徒たちに挨拶すべく命令されてゐたので困りきつてゐた。

 やがて落ちつかないうちに番がまはつてきたので仕方なしに立つて二言三言挨拶らしいことを云つて引つこんだ。

 続いて新任の挨拶の時に一寸変つた如何にも砕けた気どらない様子であつさりとした話し振りや教師らしい処などのちつともない可なりいゝ感がした。

 式が終つて町子たちのサアクルでは此度のその英語の教師についての噂で持ちきつてゐた。

『何だか変に年よりくさいやうな顔してるわね。若いんだか年寄りだか分らないわね』

『あれで英語の教授が出来るのかしら、矢張り校長先生に教はりたいわね、あの先生何んだかずいぶんバンカラねえ』

『だつてそれは教はつて見なくつちや分らないわ。そんなこと云つたつて校長先生よりうまいかもしれなくつてよ』

『アラだつて何んだか私まづさうな気がするわ、校長先生のリーデイングはすてきね、私ほんとに気に入つてゐるの』

『Oさんはね、それや校長先生よりいゝ先生はないんですもの、でも風采やなんかで軽蔑するもんぢやなくつてよ、教はつて見なくちや、』

 そうしたとりとめもないたわいのない会話が取りかはされてゐた。


(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p266~267/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p110~111)





「惑ひ」は創作のスタイルをとっているが、「町子」は野枝であり「男」は辻である。

「町子たちのサアクル」とは、校内新聞『謙愛タイムス』を作っている新聞部のことであろう。

 堀切利高『野枝さんをさがして』(p70)によれば、「謙愛」は教頭の佐藤とクラス担任の西原の師である新井奥邃の私塾「謙和舎」の「謙和」と響き合うという。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』に、一九一二(明治四十五)年に撮影した「謙愛タイムス新聞部」編集員の写真が載っている。

 編集員は六人で野枝はもちろん、代千代子の姿もある。

 部員の卒業記念写真と思われる。

 野枝と同級だった花沢かつゑは、『謙愛タイムス』と辻についてこう書いている。


 その頃生徒達の手で校内新聞を発行することになりました。

 ガリ版刷り藁半紙一枚の物でしたが、校内の連絡事項や生徒達の作品などの発表をするのが重な刷り物で、編集には野枝さんの実力が大いに発揮されたのだと思います。

 その新聞は「謙愛タイムス」と呼ばれ、当時の下級生でありました村上やす子さんと石橋ちよう子さんが、腰に鈴をつけチリンチリンと配って歩いて下さいました。

 その頃英語の先生に新任していらっしゃった辻潤先生が私達の前に現われました。

 いかにも江戸ッ子らしい磊落さと、先生というような堅苦しさのない新鮮な感じに受け取れましたので、たちまち子供っぽい女学生達の人気の的になってしまったのは当然でした。

 私達も大好きでした。

 新しい英語の教え方に、皆は酔ったように英語の時間が好きになりました。

 放課後になっても、生徒達は学校にいるのが楽しくて仕方がありませんでした。

 辻先生はよく音楽室へこられまして、ピアノを弾いて下さったり、英語の賛美歌などを教えて下さったり、いつか時のたつのも忘れて……。


(花沢かつゑ「鶯谷の頃から」/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」)




★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★中野好夫『盧花徳冨健次郎 第三部』(筑摩書房・1974年9月18日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 17:08| 本文

第16回 上野高女






文●ツルシカズヒコ




 野枝が私立・上野高等女学校に在籍していたのは、一九一〇(明治四十三)年四月から一九一二(明治四十五)年三月である。


 当時の上野高女はどんな学校だったのか、そして野枝はどんな生徒だったのだろうか。

『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」に、野枝と同級生だったOGふたりの文章が載っている。

 一九六七(昭和四十二)年一月に発行された、「温旧会」という上野高女同窓会の冊子『残照』に掲載された寄稿を、一部省略して転載したものだ。


 一級が大体三十名位でしたから、第一回生の上級生から五回生迄全部で百五十名程でしたが、全校生が皆お友達で親しく勉強することができました。

 始業のベルが鳴れば皆別々の教室に行きますけれど、休み時間になれば皆仲良く狭い運動場で遊んでおりました。

 当時の校長先生は小林先生、教頭は佐藤先生、私達の五年生の時の担任は西原先生でした。

 ……中心は佐藤先生で、迫力に充ちた修身の時間は、おそらくあの鴬谷の上野高女に学んだ人達の心の底にしみ込んで、終生の心の指針となっている事と思います。

 五十数年経った今でも、折りにふれ時につれ思いだしては心の糧となっております……。

 野枝さんは素晴しく目のきれいな人で、いかにも筑紫乙女のそれらしく、重厚そのものといった感じの方で、又一面、粗野な感じの所もありましたが、何しろ文才にかけては抜群で、私共は足許へも及ばない程でした。

 又文字を書けばこれ又達筆で、一見女性の書いたものとも思われぬ程でしたので、或るお友達は野枝さんから手紙を貰った時、お母さまから男の人からの手紙と誤解されて困ったといっておられた事もありました。

 受持の西原先生は大いにその文才を認められ、何か特別に扱っていらっしゃったようでした。

 私共が、作文の時間に一生懸命貧弱な頭をしぼって考えたり書いたりしておりましても、いつも野枝さんは自分の好きな本を読んだりしていて、作文など提出した事がなくともいつも成績は優を頂いておられたとの事でした。


(花沢かつゑ「鶯谷の頃から」/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」)

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 野枝のクラス担任は国語教師の西原和治だった。

 教頭の佐藤政次郎と西原は哲学館時代からの親友で、ふたりはキリスト教思想人として知られた新井奥邃(あらい・おうすい)の門下生だった。

 佐藤の推挙で西原が上野高女の教師になったのは一九〇八(明治四十一)年である。

 西原と辻潤は千代田尋常高等小学校時代の教員仲間だった。

 年齢は西原の方が辻より六、七歳上だったが、ふたりは親しく交わった。

 堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(P30~)によれば、西原は教職のかたわら、佐藤が創刊した基督教的信仰をベースにした教育雑誌の記者をやっていた。

 辻は西原を通じてその教育雑誌に翻訳や雑文を寄稿していた。

 辻が英語の教師として上野高女に赴任してくるのは一九一一年(明治四十四)年四月であるが、それは佐藤、西原との縁故があったからである。





 上野高女OGの竹下範子は、こう記している。


 お納戸色(なんどいろ)や紫、えび茶などのカシミヤの袴を胸高にはき、紫矢絣(むらさきやがすり)の着物に大きなリボンをかけたおさげ髪そして靴をはいた当時としてはとてもハイカラなスタイル、今、昔じょ女学生として芝居や映画に現われるその姿に、私は自分の若き日のおもかげを追っていい知れぬなつかしさを覚えるものである。

 そのころの校舎は学校というには、余りにも小さいなんの設備もない貧弱なものであった。

 二階建木造建築、職員室、その他音楽兼割烹室、お裁縫兼作法室といってもそれはただ普通の住宅をちょっと改造しただけ、運動場といえば百坪あるか無きかのせまいもの、そこで体操をしたり遊戯をしたり、放課時間鬼ごっこやらいろいろの遊びをして結構楽しく五年間をすごしたものだった。

 先生方も小林校長先生始め、佐藤先生・西原先生……。

 それから印象的なのは日下部書記さん。

 お式の日にはいつでも陸軍大尉の礼装で帽子に鳥の羽をつけ意気揚々と登校されるその姿、得意満面の顔が何かほほえましく……。

 鐘を鳴らす小使のおばさんもあの階段わきのせまい部屋から何か話しかけているのではないかしら。

 購売(ママ)部ともいうべき学用品やお弁当のパンを売るお店のおばさんもまた想い出の人。

 唐草縞の着物に黒繻子の衿をかけたちょっと小意気なおばさん。

 リーチ先生、それは今なおご健在で有名な世界的工芸家バーナード・リーチ氏その人である。

 先生ご夫妻は上野公園桜木町に瀟洒たる居を構えて当時の美術学校でエッチングの研究をされながら私達に英会話を教えて下さったのだ。

 私達のクラスにはまた、卒業後有名になった伊藤野枝さんがいた。

 字がうまく、文才があり、頭がよく、なんとなく異色的存在であった。


(竹下範子「おもいで」/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」)





 井出文子は「温旧会」のメンバーである花沢嘉津恵に会い、野枝について直接話を聞いている。

 花沢嘉津恵と花沢かつゑは、同一人物だと思われる。

 花沢(旧姓・中山)は、野枝の「紋付きの事件」が忘れられないと語っている。

 当時、学校で式があるときには、生徒は黒木綿の紋付きを着るのが定番だった。

 野枝は十一月三日の天長節に紋付きを着てこなかった。

 元旦の式には野枝はどうするのかというのが、花沢ら仲良し七人組の話題になった。

 野枝は元旦の式に黒紋付きを着てサッソーとやって来た。

 花沢たちはびっくりしたが、よく見ると着物の紋はまだ染めていない、真っ白なお月様のような紋だった。

 
 そのころ、安い紋付きは「石持ち」といって、紋のところだけ白ヌキしてある反物を買い、そこだけ自家の紋に染めさせたんです。

 もちろん、お金のあるひとはそんなのを買いやしません。

 白生地を染め屋にもっていき、紋とともに染めさせるんです。

 そこであたしはほんとうに口がわるくて、「万緑草中の紅一点じゃなくて、白三点ね」といって皆と笑いました。

 それから二月にはいると紀元節(二月十一日)がありますが、野枝さんの白三点はどうなるかがあたし達七人組の関心事でした。

 で、その日になるとどうでしょう。

 野枝さんのお月様のような紋には、自分で書いたらしい二本の線が、キッパリとはいっていたんですよ。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p35~36)


「いじらしいほど勝気な野枝、貧しい実家や親戚に世話になっているという劣等感を、精一杯はねかえしていたのだ」と井出は書いている。

 確かに野枝の勝ち気さが出ているエピソードだが、野枝は貧しいからそうしたのかどうか、私は疑問を抱いている。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、当時の代家はお金に困るような経済状況ではなかったという。

 代千代子は黒木綿の紋付きを着て式に参列していたであろう。

 野枝も叔父叔母に頼めば、黒木綿の紋付きぐらいあつらえてくれたのではないだろうか。

 野枝は形式を重んじる式自体がそもそも嫌いで、そのためにわざわざお金を出して黒木綿の紋付きをあつらえたりすることは、お金の無駄だと考えていたのではないだろうか。

 付和雷同を嫌う野枝の気質というか、反抗心の表れだったと見る視点もありだと思う。

 この「紋付きの事件」は、おそらく野枝が四年時の二学期から三学期にかけてのエピソードだろう。



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 14:10| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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