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2016年03月15日

第15回 大逆事件






文●ツルシカズヒコ



 野枝が上野高女に通学し始めた一九一〇(明治四十三)年春、ハレー彗星が地球に接近中だった。

 七十六年周期で出現するハレー彗星が、地球に最接近したのは五月十九日だった。

 ハレー彗星の尾には毒ガスが含まれているという風説が流れ「この世の終わりになる」のではという社会不安が広がったが、過ぎてみれば何も起こらなかった。

 そのころ禅の修業に励んでいた平塚らいてうは、湯島天神近くの待合で浅草の臨済宗系の禅寺・海禅寺の住職・中原秀岳と結ばれた。

 らいてう、二十四歳である。


 ……未婚の娘として、そのとき自分のしていることが、不道徳なことだという気持ちはありませんでした。

 連れだって待合へ出掛けたことをはじめとして、その後のことはすべて自分の意志によることでした。

 ただ和尚に対する愛が、わたくしにそうしたことをさせたといっては、すこし嘘になるかもしれません。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(上巻)』_p285)

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 らいてうがこの初体験の三年前に「はじめての接吻」をした相手も中原秀岳だった。

 海禅寺で坐禅の修行を終えたらいてうが「まだ雲水のような純真な感じのこの青年僧に、不意に、なんのためらいもなく接吻をしてしまったのです」(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(上巻)』_p207)とあり、らいてうが突然、中原に接吻をしたのである。

 らいてうは本郷区の誠之小学校高等科二年を終えると、東京女子高等師範学校付属高等女学校(通称お茶の水高女)に入学、同校卒業後は日本女子大学家政科に進学した。

 らいてうは日本女子大在学中に禅の修行に励み、中原秀岳を識ったのも禅の修行を通じてだった。

 日本女子大卒業後、らいてうは成美女子英語学校などに通っていたが、同校講師の生田長江の肝入りで閨秀(けいしゅう)文学会が生まれ、その聴講生になった。

 青山菊栄も聴講生のひとりだった。

 一九〇八(明治四十一)年三月、らいてうは森田草平と那須塩原で心中未遂事件(塩原事件・煤煙事件)を起こすが、森田は閨秀文学会の講師だった。

 新聞はこの事件をスキャンダラスに取り上げ、『万朝報』が報じた「禅学令嬢」が人口に膾炙した。

 堀場清子『青鞜の時代』(p30)によれば、一番えげつない新聞記事は『東京朝日新聞』(一九〇八年三月二十八日)のコラム「六面観」で「あンな女は大久保村にやって乞食の手に抱きつかせるに限るよ」と書いた。

 日本女子大の「桜楓会」は、らいてうを除名した。

 堀場清子『青鞜の時代』が出版されたのは一九八八(昭和六十三)年三月だったが、らいてうの「桜楓会」からの除名は、この時点でも解除されていなかった。


 しかし私は、むしろ回復せぬままがよいと思う。

 女子高等教育に対する世間の敵意と攻撃を、除名の事実の継続によって、永遠に記憶すべきではなかろうか。


(堀場清子『青鞜の時代』_p30)


 しかし、堀場の願い虚しく、らいてうの「桜楓会」除名が解除されたのは、一九九二(平成四)年だった(wiki/平塚らいてう)。

 日本女子大卒というらいてうの学籍は生きていたが、「桜楓会」が彼女をOGとして受け入れるには八十四年の時を要したのであり、その間の「桜楓会」除名の事実も記さねばなるまい。

 現在、「桜楓会」HPの「卒業生の活動」には「平塚らいてう(3回生家政学部)『青鞜』を発刊、女性解放運動の先駆者」とある。





 ハレー彗星が地球に最接近してまもなく、宮下太吉新村忠雄らが検挙された。

 幸徳秋水管野スガらが検挙されたのは六月一日だった。

 大逆事件の検挙・逮捕が始まっていた。

 大杉栄は幸徳や管野らの検挙を千葉監獄の中で知った。

 大杉は新潟県の新発田本村尋常小学、新発田高等小学校を経て、北蒲原尋常中学校(現・新発田高校)に入学、同校を二年で修了し、名古屋陸軍地方幼年学校に入学。

 同級生と格闘をする暴力事件を起こし、名古屋陸軍地方幼年学校を三年途中で中退した大杉は、いったん郷里の新発田に帰郷。

 一九〇二(明治三十五)年に上京し、順天中学に入学した。

 順天中学入学の年、大杉の母・豊が卵巣膿嚢腫で急逝した。

 一九〇三(明治三十六)年九月、東京外国語学校仏語科に入学した大杉は、幸徳秋水、堺利彦らが結成した平民社の活動に関わるようになった。

 一九〇五(明治三十八)年の夏、東京外国語学校を卒業した大杉は、大杉豊『日録・大杉栄伝』(p32)によれば、そのころ「麹町区下六番町二十七番地(現在の番町小学校敷地内)」に住んでいた。

 大杉は「其頃僕は僕よりも二十歳ばかり上の或る女と一緒に下六番町に住んでゐたのだ」(「自叙伝」p)と書いているが、荒畑寒村はこう回想している。


 大杉は外語に通っていたころ、下宿のおかみさんといい仲になってたんです。

 そのうち、おかみが年上なもんだからいや気がさして別れたくなった。

 それで、堀保子を介して、おかみと手を切ってもらったんです。


(『朝日ジャーナル』○年○月○日号〜○年○月○日号連載/『寒村茶話』/『寒村茶話 朝日選書137』_p113)





 一九〇六(明治三十九)年の春、寒村は紀州田辺を引き払って堺利彦の家に寄寓し始めたが、そのころ堺家には堀保子(〜一九二四)、深尾韶(ふかお・しょう)、大杉も寄寓していた。

 保子は、硯友社同人で読売新聞などの記者をした堀紫山の妹であり、二年前に死別した堺の先妻・美知は保子の実姉だった。

 一九〇五(明治三十八)年、堺は延岡為子と再婚。

 山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫_p227)によれば、保子は堺が創刊した『家庭雑誌』の経営実務を担当していた小林助市と結婚したが、離婚した。

 大杉と保子が結婚したのは、一九〇六(明治三十九)年八月である。

 下宿のおかみと手を切る際に仲介役を務めた保子に、大杉が惚れて結婚を迫ったという。


 ところが、保子女史は深尾と婚約してるもんだから、なかなかウンと言わない。

 とうとう大杉はある晩、保子女史の目の前で自分の着ている浴衣に火をつけて、「さあどうだ」って迫ったといいます。

 さすがの保子女史もこれには参って、つい落ちちゃったというので、これこそ文字通りの「熱い恋」だなんて、みんなでしゃれを言ったもんですよ。


(『寒村茶話 朝日選書137』_p113)


 結婚といっても入籍はせず、夫婦別姓、保子の方が六、七歳年上の姉さん女房である。

 大杉は一九〇八(明治四十一)年六月、神田の錦旗館で開かれた山口孤剣の出獄歓迎会散会後、赤旗を振り回し(赤旗事件)、堺利彦、山川均、荒畑寒村、村木源次郎らとともに逮捕され千葉監獄に下獄、重禁錮二年六か月の刑に服していた。

 赤旗事件での入獄は大杉にとって四度目の入獄であり、父・東(あずま)の病死(一九〇九年十一月)を知ったのも千葉監獄入獄中だった。





 幸徳らが拘引された事件との関連の取り調べのために、大杉が千葉監獄から市ヶ谷の東京監獄に移されたのは、一九一〇年九月だった。

 大杉は東京監獄から妻・堀保子に宛て手紙を書いた。


 ことしは初夏以来雨ばかり降り続く妙な気候なので、内外にゐる日向ぼつこ連の健康が甚だ気づかはれる。

(獄中消息・千葉から【堀保子宛・明治四十三年十月十四日】/『大杉栄全集 第四巻』_p489)


 この年の八月、利根川・荒川・多摩川水系の氾濫により、関東平野は一面の水浸しになった。

 この「明治四十三年の大水害」により、東京市も下町一帯がしばらくの間、冠水した。

 不安な日を送りながら東京監獄に移監された大杉は、大逆事件の被告のほとんどを目撃した。


 丁度僕の室は湯へ行く出入口のすぐそばで、其の入口から湯殿まで行く十数間のそと廊下をすぐ眼の前に控へてゐた。

 で、すきさへあれば、窓から其の廊下を注意してゐた。

 皆んな深いあみ笠をかぶつてゐるのだが、知つてゐるものは風恰好でも知れるし、知らないものでも其の警戒の特に厳重なのでそれと察しがつく。

 或日幸徳の通るのを見た。

『おい、秋水! 秋水!』

 と二三度声をかけて見たが、さう大きな声を出す訳にも行かず、(何んと云ふ馬鹿な遠慮をしたものだらうと今では後悔してゐる)それに幸徳は少々つんぼなので、知らん顔をして行つて了つた。


(「前科者の前科話(二)」・『新小説』1919年2月号/「獄中記・千葉の巻」・『大杉栄全集 第三巻』_p316/『大杉栄全集 第13巻』)


 大杉が危うく難を逃れ、刑期を終えて東京監獄から出獄したのは十一月の末だった。


※堺利彦「赤旗事件の回顧」 ※森田草平記念館





★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(上巻)』(大月書店・1971年8月20日)

★堀場清子『青鞜の時代』(岩波新書・1988年3月22日)

★荒畑寒村『寒村茶話』(朝日新聞社・1976年8月25日)

★荒畑寒村『寒村茶話 朝日選書137』(朝日新聞社・1979年6月20日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 19:50| 本文

第14回 編入試験






文●ツルシカズヒコ




 一九一〇(明治四十三)年一月、前年暮れに上京した野枝の猛勉強が始まった。

 代準介は野枝を上野高女の三年に編入させるつもりだったが、野枝は経済的負担をかけたくないことを理由に、飛び級して四年に編入するといってきかなかった。


 代家は経済的に逼迫などはなく、どちらかといえば裕福で、そんな気遣いはいらぬ所帯である。

 ノエは学資の負担を建前とし、従姉千代子と同じ四年生に拘り、その意思を曲げなかった。

 ノエの心の中に、千代子への敵愾心が燃えていた。

 ノエの高等小学校の成績は確かにほとんど甲である。

 されども女学校と違い、高等小学校教育には英語が無い。

 数学も、算術である。

 ノエは加減乗除しか知らない。

 編入試験まで二ヶ月強、千代子の一〜三年の教科書を借り、英語と数学は千代子を教師として学ぶ。

 まずアルファベットを覚える。

 初歩の英文法を習い、単語と常用の熟語を覚えていく。

 数学は因数分解から入り、定理を習い、代数を解いていく。

 キチの記憶によれば、「二日徹夜をし、三日目に少し眠る」。

 そんな猛勉強を続け、千代子もそれに付き合っている。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p58)


 野枝の猛勉強ぶりを、岩崎呉夫はこう書いている。


「三日間も徹夜して一晩寝るとケロッとして、また二、三日も徹夜するのですからねえ」と、キチさんは述懐している。

「見ていて恐いぐらいの勉強ぶりでしたよ」

 ーーこの期間に、野枝はひどい近眼になった。

(もっとも眼鏡は、その後ときおりかける程度だったが)


(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p67) 

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 三月、野枝は上野高女四年編入試験に一番で合格した。

 四年編入に拘った野枝に「試験に落ちたら、すぐ田舎へ帰れ」と怒鳴った代準介は、呆れ顔でしばらく野枝の顔を見つめていたが、「おまえが男ならな……」と呟いた(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』p67)。

 堀切利高(一九二四〜二〇一二)編著『野枝さんをさがして』によれば、私立上野高等女学校は、一九〇五(明治三十八)年四月、五年制の上野女学校として、下谷区上野桜木町二番地(現・台東区根岸二丁目)に開校した。

 現在のJR鴬谷駅のそば、鴬谷の新坂を登った高台にあり、当初は鶯渓(おうけい)女学校と称したという。

 一九〇八(明治四十一)年に上野高等女学校となった。

 一九一二年に浅草区神吉町(現・台東区東上野四丁目)に移転、現在は中学・高校・短大・大学を含めた上野学園となっている。

 野枝が四年に編入学した当事の上野高女は一年から五年まで各学年約三十人、全校生徒数約百五十人、その多くは下町の娘たちであった。

 教育方針は教頭・佐藤政次郎(まさじろう/一八七六〜一九五六年)を中心に、良妻賢母を排し、教育の目標として四つの教育綱領を掲げていた。


 一、相愛共謙師弟友朋一家和楽の風をなすこと

 一、教育は自治を方針とし各自責任を以て行動せしむること

 一、つとめて労作の風を喚起し応用躬行せしむること

 一、華を去つて実に就き虚栄空名を離れて実学を積ましむること


(堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』_p69)





 井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p34~35)によれば、井出は野枝と上野高女で同級生だったOGに取材している。

 上野高女のカリキュラムは、だいたい文部省の方針に沿い、英語、数学、国語、漢文、倫理、作法、家事。

 教頭・佐藤政次郎が担任していた倫理の時間には『レ・ミゼラブル』や『小公女』の紹介、神崎与五郎の物語などが話され、時間のたつのを忘れさせるおもしろさだったと、OGたちは語っている。

「観察」と称して上野美術館、衛生試験場、淀橋の浄水場、三木長屋といわれる江東のスラム街の見学もあった。

 下谷、根岸、入谷、龍泉寺、吉原あたりの商家、問屋、小企業の町工場の娘たちが多く、みずみずしい桃割れ髪の娘たちが登下校し、学校の帰りに汁粉屋に寄るといった雰囲気があった。





 野枝が上野高女に入学した一九一〇年四月、神近市子も女子英学塾に入学した。

 前年、神近は長崎の活水女学校中等科を三年で中退し上京、麹町区にあった竹久夢二宅に寄宿しながら猛勉強をして、女子英学塾を受験し合格した。

 女子英学塾には神近の一学年上に青山菊栄が在籍していた。

 このころ、辻潤は浅草区の精華高等小学校の教員をしていた。

 辻は浅草区猿尾町の育英小学校高等科を卒業、神田区淡路町の府立開成尋常中学校に入学、同校中退後は神田区錦町の正則国民英学会で英語を学んだ。

 日本橋区の千代田尋常高等小学校の教員を経て、辻が精華高等小学校で教鞭をとるようになったのは一九〇八(明治四十一)からだった。

 野枝が上野高女編入の受験勉強に励んでいた二月、辻は父・六次郎を亡くした。

 六次郎は六年ぐらい前から心臓を患い、精神も病んでいた。

 六次郎の死は、井戸で自殺したとも伝えられている。

 辻はそのころ北豊島郡巣鴨町上駒込四一一の借家に住んでいた。

 この家に母と妹と三人で暮らした時代が最も平穏で幸福な時代であったと、辻は随筆「書斎」(『辻潤全集 二巻』_p158)で回想している。




★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『辻潤全集 二巻』(五月書房・1982年6月15日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 13:00| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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