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2016年07月17日

第297回 スパイ






文●ツルシカズヒコ




 荒木郁子と野枝は『青鞜』時代の仲間だったが、郁子の姉・滋子によると、荒木一家が営んでいた神田区三崎町の旅館、玉名館に野枝は大杉と魔子を連れて時々遊びに来ていたという。

 魔子が三つか四つのころだというから、魔子が数え年で三つとは一九一九(大正八)年のころだろうか。

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 失(な)くなった岩野泡鳴さんとも、よく私のうちで、落合ふこともありました。

 あんなにお互いの主義の違つた方々でしたのに、いつも、一緒に、トランプや花合せなどして、四五時間遊び続けてしまうことも、よくありました。

 岩野さんは例の調子で、声高に物を迎有(おつしや)るし、Oさんは静かに、調子を落着けて話をなさる、魔子さんが、トランプの札を掻き廻しに来るのを、野枝さんは、お母さんらしい鷹揚さでなだめて、魔子さんの持つてゐる餡子(あんこ)で、懐中(ふところじゆう)汚されても、大して気にもならないやうなのを私は、感心して見てゐたことがあります。

 その頃を限りに、野枝さんとは、逢ふことがありませんでした。

 魔子さんを乗せた乳母車を押して行く尾行連れの大杉さんの後から、私と門口(かどぐち)での一寸の立ち話しに遅れた野枝さんが追うて行く姿が、今更ながら、想ひに浮びます。


(荒木滋子「あの時の野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号)





 岩野泡鳴は翌一九二〇(大正九)年五月、腸チブスを病み東京帝国大学医学部附属病院に入院中に、林檎を食べて大腸穿孔を起こし死去した。

 荒木滋子には魔子と同じ生年の道子という娘がいた。

 大杉一家が玉名館を訪れた際、魔子と道子はふたりで遊んだことだろう。

 荒木道子はのちに文学座研究所に入り、女優としてデビューすることになる。

 道子の息子が、『空に星があるように』で一九六六(昭和四十一)年第八回日本レコード大賞新人賞を受賞した荒木一郎である。





 近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、一九一九(大正八)年十二月、暮れもだいぶ押し詰まったころだった。

 本郷区駒込曙町の労働運動社から、和田久太郎は二歳の魔子を乳母車に乗せて外出した。

 乳母車を持ち出した理由のひとつは、子守りと見せかけて尾行をまくためだった。

 電車道で振り返ると、尾行はついていない。

 和田はそのまま乳母車を押して下谷区上野桜木町の有吉三吉の家まで行った。

 大杉一派の集会が有吉宅で行なわれたりするほど、当時の社会主義者の間での有吉への信用は確かなものだった。

 有吉はそのころ自宅でゴムマリに花の絵を描く仕事をしていた。

 おもちゃ屋に出すのである。

「おい、いるかね?」

 和田はいつものように上がり込んだ。

 「よ〜う……」

 有吉は振り返っただけで、手を休めなかった。

「今夜また大阪に行こうと思うんだ」

「幾時の汽車だ?」

「八時ごろの見当でいるがね」

 和田はそのころ労働運動社の関西支局を受け持っていた。

「ところがね」

 和田は声をひそめて言った。

「いつか預けておいた『労働運動の哲学』をもらっていく。みんな出してくれないか。大阪でもだいぶ集まるようになったから、読ませようと思うんだ」

『労働運動の哲学』は大杉の著作で、西村陽吉の東雲堂書店から出版されたが、発行と同時に発売禁止になっていた。

 和田はいろんな話をしてから、有吉の家を出た。
 
 乳母車の底には本がぎっしり詰まっていた。

 その日の夕方、和田は尾行をまき、大きな風呂敷包みをかついで東京駅に現われた。

 手荷物にしようとして、扱所まで行くと、突然「おいッ!」と声をかけられた。





 和田君はギラリと眼鏡を光らせてふり返った。

 洋服の男が三人いる。

 和田君はちょっと狼狽の色を見せた。

「おいッ、ちょっとこちらへこい、その荷物を持ってくるんだ!」

 一人の洋服は、もう包みに手をかけていた。

 和田君はかみつくように怒鳴った。

「よけいなお世話だ、荷物を預けるのがどうしたというんだ!」

 荷物をはさんで開けろ開けないのおし問答がはじまった。

 駅の係員も、居合わせた人たちも、なり行きを見つめていた。

 やがて和田君は駅のそとまでつれ出された。

「人のいるとこがいやなら、ここで開けろ!」

 ずんぐりしたのが居たけ高になった。

「開ける必要はない、これは蒲団だ!」

「蒲団なら開けて見せたっていいじゃないか。ね、和田君」

 こんどは別のがなだめるようにいった。

「いや、開ける必要はない!」

「開けろといったら開けろ! いやにもったいぶりやがって!」

「いや、必要はない!」

「じゃ、開けるぞ!」

「おれは承知しない!」

 和田君は腕組みしたまま立っていた。

 なかは、和田君のいったとおり蒲団だった。

 そして、蒲団のなかにまるめこまれていたのは、なんと、おびただしくよごれた一枚の褌だった。

 和田君はニヤリと皮肉な笑いを浮かべた。

「そういうものを、ひと様の前でひるがえされるのは恥辱だからね」

「野郎、うまく引っかかりやがった」

 和田君は曙町に引き返してきていった。

 これは、当時一部の仲間の間に有吉の奴くさいぞといわれていた問題を解決するために、和田君がうった芝居だったのである。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p97~98)





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、年が明けた一九二〇(大正九)年一月一日、労働運動同盟会の例会が開かれた若林やよ宅で、有吉三吉が中村還一を刺すという事件が起きた。

 有吉が中村を刺したのは、中村が有吉をスパイだとする風評を流した恨みからだった。

 労働運動同盟会は、各地の同志に有吉が間諜であることを通知し、有吉との関係を絶った。




★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:21| 本文

第296回 豊多摩監獄(一)






文●ツルシカズヒコ



 一九一九(大正八)年十一月八日と九日の午後、野枝は神田区錦町の貸席、松本亭を訪れた。

 貸席は今で言えば、イベント会場などに使用される貸しホールである。

 日本印刷工組合信友会を中心とする活版工諸組合が、労働八時間制を要求して同盟罷工をしている渦中だった。

 罷工の中心となっている三秀舎は、信友会の組合員である婦人活版工たちの組織だったが、松本亭にその事務所を置いていた。

 十一月八日は信友会が「八時間労働制」を要求して同盟罷工に入ってから十二日目だった。

 そしてこの日の午後、組合と資本家との最初の会見が行なわれることになっていたが、前日から罷工破りが出始めていた。

 野枝は松本亭を訪れ、三秀舎などの婦人活版工たちから話を聞き、そのリポートを書いた。

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『ーーでも皆さん男の方とは違つて、いろんな面倒な事情もおありでせうに、よくこんな長い事結束をお続けになれましたはね』

 挨拶がすむと、私は斯んな風に話しかけた。

『いゝえそんなに仰しやられるとお恥かしいんです。折角彼方此方で皆さんが応援して下さいますのに、私共の方で昨日から工場に出た人がございますさうで、本当に真先きにこんな事になつてどちらにも申訳けがありません。せめて今日の資本家側との会見がすむまで待つて下さればよかつたんですけれど』

 聞いて見ると、男子側は八十人、婦人側は三人と云ふ数の人が裏切つたのだつた。

 私は竹の皮に包んだ二つの大きなおむすびを貰つて皆んなの仲間にはいつてたべた。

 そして夕方までおしやべりをしてゐた。

 其処で聞いた話では、其の人達の現在の労働時間は朝七時から晩の七時までの十二時間と云ふ長い時間で其の上に食事時間の休みもろくに与へられずに終日立ち通しの労働だと云ふ。

 殊に女には特別な生理状態の時もあれば妊娠と云ふ大事もある。

 聞いて見ると妊娠中などは恐い程足がむくんだりひきつつたりするし、体の冷える事も確かにひどいらしい。

『随分乱暴ですね……男の人達は……さう云ふ女の特別な事までは分らないでせうから、そんな事は女だけで相談してどん/\要求するんですね、腰掛けを貰ふとか、床に敷物を敷いて貰ふとか。ぢや、妊娠中なんて云つても何んにも特別な保護なんぞはしてくれないのですね。出産の際やなんかでもーー』

『えゝ、そんな事してくれるものですか。妊娠中だらうが何んだらうが、重いものは持たせるし、高い処には上らせるし……』

 婦人達は猶斯う云つてゐた。

『曾つては朝七時から夜十一時すぎるまで働く事を普通と考へてゐた事がある。現在の日曜毎の休みも私達には夢のようにしか思へなかつた程思ひもよらない事だつたのだ。本当に私達は楽に働けるようにしようなどゝは考へた事もなかつた。けども考へて見ると、私達は出来るだけ楽に働けるようにつとめなければならない。工場で現在の労働時間が八時間に短縮されても或は半分になつてくれても、自分達には決して短かすぎはしない。家庭の仕事を考へれば、私達はそれでやつと息づぎが出来る位のものだ』と。

 勿論文明はいろんな家庭内の雑務を省く為めの便利な設備や方法を教へてはくれる。

 けれどもそれもつまりは経済問題に関係して来る事で、さう云ふ文明の利器を駆使するには、労働階級はあまりに貧乏すぎ無知すぎる。

 そして此等文明の有難さは、一番怠惰な生活をしてゐる女達に時間がありあまり、最も忙しい生活をしてゐる女達を一層過労に墜(おと)し入れると云ふ奇妙な現象を呈せしめる。

 此の人達とは僅かに半日づゝ二日ゐたきりだつた。

 けれども……日本の婦人労働者の上に、たしかに一道の光明を見出すことが出来た。

 私は現在の知識階級の婦人達が自惚れてゐるように、或は押人売(おしう)りする同情には頼らないでも、もう暫く後には婦人労働者自身の力強い解放運動が実現される事を信ずる。


(「婦人労働者の現在」/「『新公論』1919年12月号・第○巻12号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p112~115)


 野枝はこの時の取材を元に、『労働運動』(一九二〇年一月一日・一次三号)に「罷工婦人等と語る」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)を寄稿したが、内容は「婦人労働者の現在」とほぼ同じである。

 ちなみに、このとき松本亭の女将をやっていた松本フミは加賀まりこの祖母である。





 十二月十八日、大審院で尾行巡査殴打事件の上告が棄却され、懲役三ヶ月が確定した大杉は、十二月二十三日に東京監獄に収監され、翌日、豊多摩監獄に下獄した。

 このときの警視庁警務部刑事課長・正力松太郎について、大杉はこう書いてる。


 ……僕を詐欺だの、家宅侵入だのと勝手な事をぬかして、引張つては放し、引張つては放して、とうたう傷害罪の古傷でぶちこんだ……男です。

(「一網打尽説」/『東京毎日新聞』1921年9月15、16、18日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)





 十二月二十四日、野枝は二女を出産した。

 大杉が収監された十二月二十三日、野枝は服部浜次の「日比谷洋服店」に寄り、大杉と面会するために裁判所まで歩いて行ったが、歩くのがすごく苦しかった。

 裁判所からの帰りもいっそう体のアガキがつかないので、また「日比谷洋服店」に寄って休んでから、帰宅した。

 夕飯をすませると、労働運動社の社員たちは『労働運動』三号の校正を始めたが、野枝は気分が悪いので蒲団に横になった。

 すると、一時間もたたぬうちにお腹が痛み出した。

 二時間ばかり経過を見て、夜の十時半すぎに安藤さん(産婆)に電話連絡をすると、安藤さんは助手を連れて来てくれた。





 此の前と同じ経過で、何時までたつても駄目なんです。

 お産婆さんは二人とも、私のおなかの上につつぷして眠つてばかりゐるのです。

 私は苦しくて本当に何と云つていいか分りませんでした。

 痛んで来るごとに、私は眼をつぶつては頭の中一ぱいにあなたの顔を見つめて、ぢつと自分の胸を抱いては苦しみを忍んでゐました。

 すると二度ばかり不意にひどい痛みが来ました。

 本当に目がくらむやうでした。

 すると、三度目に子供は出たのです。


(【大正九年一月三十一日・豊多摩監獄へ】・「消息 伊藤」・大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/「書簡 大杉栄宛」一九二〇年一月三十一日・『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p131)





 この手紙の書き出しは「中野に落ちついたさうですね。でも、昨日(一月二十八日/筆者註)近藤(憲二)さんに行つて頂いて様子も分りましたので安心しました。御起居いかに。寒さは随分きびしさうですね。東京とは十度も違ひますとの事、さぞかしとお察し致します」である。

 東京市内からすると、当時の豊多摩郡中野の郊外感がよく伝わる文面である。

 和田久太郎はこのころの野枝を、こう評している。


 大正八年……曙町へ移つて同志と共に第一次の月刊『労働運動』を発行してゐた頃は実に真剣だつた。

 信友会の行つた『八時間制要求』のストライキに応援して、解版(かいはん)女工さん達と焚出しや何にかに尽くしたのも此の頃だ。

 又、その年の十二月に大杉君が入獄して、直ぐその翌日次女の『サチ』を産み落したのだが、産後の疲れもいとはずよく原稿料も稼いだし、大杉君への差入れや何にや彼(か)やと眼覚ましく立ち廻つた。

『労働運動』にも多くの紙面を受持つて書いてくれた。


(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号)


加賀まりこ

中野刑務所




★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 15:40| 本文

2016年07月15日

第295回 婦人労働者の覚醒






文●ツルシカズヒコ



 一九一九(大正八)年十一月十三日、『労働運動』(第一次)第二号が発行された。

 この号から野枝は「婦人欄」を担当し、婦人労働問題に関わっていく。

「婦人欄」を担当するにあたっての「御挨拶」で、野枝は田中孝子、与謝野晶子、平塚らいてうについて触れている。

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 過日友愛会婦人部の演説会に臨まれた田中孝子女史が、自分もアメリカで多少の苦学らしい事をしたから、労働の生活は知つてゐるつもりだと云つて、男子側からノオノオを浴びせられた。

 これと同じ心理を与謝野晶子氏もまた持つて居られると見えて、九月七日の読売新聞の婦人附録に『山内みな子さんが新聞記者に話された言葉の中に「自分達と一緒に労働した経験を持たない婦人達の抽象的な女子労働問題は無効である。自分達の問題は自分達で決する」と云ふ勇ましい一節がありましたが……山内さんが、文章によつて労働問題を論じる私達もまた労働婦人の仲間である事を忘れて、排他的の態度を採られる事を遺憾に思ひます』と書いてゐられる。

 又、演説会当夜、平塚さんも私に『工場労働者以外のものは労働者でないやうに思ふのは間違ひだ』と云ふやうな意味の事を洩された。

 私は此の懸隔を面白いと思つて居ります。

 出来るなら、私は次号には、これに対しての婦人労働者側の徹底した意見を此の誌上で発表したいと思ひます


(「御挨拶」/『労働運動』1919年11月13日・1次2号/學藝書林『伊藤野枝全集 下巻』に初収録/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p108)





 野枝は自分の立場を、こう語っている。


 私も与謝野夫人の所謂(いわゆる)婦人労働者ではありますが、極めて怠惰な中産階級の下積になつてゐる一人です。

 私はまだ嘗つて一定の給料を貰つて資本家の下で働いた事もありませんし、勿論肉体労働の苦しみと云ふやうな事はお恥しい次第ながらありません。

 けれども私は人間が同じ人間に対して特別な圧迫を加へたり不都合をするのを黙つて見てはゐられないのです。

 自分でも自分相応に不平もあれば不満もあります。

 しかし婦人労働者諸氏の受けてゐる不当以上の不当な待遇はとても私共の比ではありません。

 私は現在の婦人労働問題を論じてゐるある種の婦人達のやうに、自分等は先覚婦人で、労働婦人を指導し教導するのが自分等の務めだと云ふやうなエライ考へを持つて、婦人労働者諸氏とおちかづきにならうとするのではありません。

 私はたゞ怠惰な自分が、多少とも諸氏の活動の道具ともなつてお手伝ひが出来る事があるならばと思ふだけなのです。

 此の婦人欄の為めに来月号からはもう一頁は是非とつて、そして出来る丈け婦人労働者諸氏の気焔を上げる場所にしたいと思ひます。

 私の方から種(いろ)んなお話を伺ひにも出ますが、皆さんも、若し少しでもお書き下さる事が出来れば、それのみでも埋める位のおつもりで御寄稿下さる事をお願ひします。


(「御挨拶」/『労働運動』1919年11月13日・1次2号/學藝書林『伊藤野枝全集 下巻』に初収録/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p108~109)





 野枝は「御挨拶」の他、『労働運動』一次二号に「婦人労働者の覚醒」「英国婦人労働組合」「婦人労働者大会」(前出)を寄稿している。

「婦人労働者の覚醒」は山内みな、野村つちの、大森せんらの目覚めた婦人労働者の尽力により、五百に満たなかった友愛会婦人部の会員が最近数ヶ月の間に二千数百の会員に達し、九月の友愛会の大会では婦人部独立の要求が入れられ、山内、野村が同会の理事に連なったと報告している。

 さらに七月の博文館印刷所、東京書籍会社、日本書籍会社の職工の同盟罷工に際し、婦人労働者が男子に伍して活動したと報告。

「英国婦人労働組合」は海外の婦人労働者情報である。

●労働婦人として強固な自覚を持ち自主的に訓練されているのはドイツの婦人労働者が第一位だが、労働組合を最も組織的に発達させたのは英国の婦人労働者である。

●「今回の世界大戦」が多くの婦人をまったく思いもしなかった種類の労働に誘い込み、戦争という非常事態が生んだ結果ではあるが、英国の婦人労働者の数は非常な勢いで増加した。

●六年前に三十五万だった英国の婦人労働組合員が、五十万以上になった。

●戦争中、婦人の労働が歓迎され賃金が急に上がって組合員であることの利益が一般に認められたことが、英国の婦人組合員増加の一因でもあるだろう。





 大杉が『労働運動』創刊号について言及している。


 創刊号が出た。

 評判はいろ/\だ。

 編集の体裁は申分ないが、印刷のきたないので打ちこはしだ、と黒うとの人は云ふ。

 編集のうまいのは近藤のお手柄で、印刷のまづいのは印刷屋のお手柄だ。

 近藤はあれ以下にはまづくは出来ず、印刷屋もあれ以上にはうまくは出来ないのだから、仕方がない。

 尤も、近藤の編集ぶりは、黒うとには受けがよからうが、白うとにはどうだか、と云ふ評判もある。

 しかし、根がおとなしい上品な近藤のことだから、とても大きな活字をばらまいたりする品の悪いまねは出来ない。


(「手前味噌」/『労働運動』1919年11月13日・1次2号/『大杉栄全集 第四巻』・編集室にて・『労働運動』/『大杉栄全集 第14巻』・編集室にて・『労働運動』)





 近藤憲二は『労働運動』の発行編集兼印刷人である。

 大杉は主幹という立場だったようだ。

 印刷のクオリティが低いのは、危険思想雑誌だから大手の印刷所が引き受けてくれないからだろうか。

「手前味噌」によれば、定価二十銭は高すぎるという一般的評価だったが、想定していた実売部数だとこの定価は仕方がなかったという。

 しかし、想定していたより実売部数が多かったので、定価を下げる代わりに四頁増にすることにした。



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 13:34| 本文

2016年07月13日

第294回 労働運動の精神






文●ツルシカズヒコ


 月刊『労働運動』(第一次)第一号が発行されたのは、一九一九(大正八)年十月六日だった。

 タブロイド版十二頁、定価は二十銭。

 大杉が創刊趣旨を書いている。

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 労働者の解放は労働者自らが成就しなければならない。

 これが僕らの標語だ。

 日本の労働運動は今、その勃興初期の当然の結果として、実に紛糾錯雑を極めてゐる。

 頻々として簇出する各労働運動者及び各労働運動団体の、各々の運動の理論も実際も甚だ明確を欠き、従つて又其の相互の間の理解も同情も殆ど全くない。

 局外者から観れば、日本の労働運動の現状は、全くの一迷宮である。

 そして恐らくは、これは、猶暫くの間の、大勢であらう。

 労働者の反資本家的感情が、混沌たる紛糾状態を描きつつ、向う見ずに狂奔して行くのも面白い。

 しかし又、其の間に、各々の力が自己の進路や他の力との衝突や平均を確実に意識して行きたいと云ふ努力を起すのも、やはり自然の事であらう。

 僕等は今、此の努力の促進を、日本の労働運動そのものの為めの僕等の首要な役目の一つだと考えてゐる。

 本誌は即ち其の機関なのだ。

 日本の有らゆる方面に於ける労働運動の理論と実際との忠実な紹介、及び其の内容批判、これが本誌の殆ど全部だ。


(「本誌の立場」/『労働運動』1919年10月6日・1次1号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』に「僕等の立場」と改題し初収録・編輯室にて・『労働運動』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』・編集室にて・『労働運動』)





 大杉にとって労働運動とは、資本家に賃金の増加と労働時間の短縮とを要求するにとどまるものではなかった。

 賃金の増加と労働時間の短縮は、人間が生き物として生きていくための最低限の生物学的な要求であり、初期の労働運動の二大属目だったが、今後の労働運動は労働者の人間的要求を満足させるものでなければならないと大杉は考えていた。

 資本家が労働者を支配しているのは工場内にとどまらず、資本家は労働者の実存を支配していると大杉は考えていて、労働者の人間的要求とはつまり、労働者の実存を資本家から自分の手に取り戻すことだった。





 僕等は、此の専制君主たる資本家に対しての絶対服従の生活、奴隷の生活から、僕等自身を解放したいのだ。

 自分自身の生活、自主自治の生活を得たいのだ。

 自分で、自分の生活、自分の運命を決定したいのだ。

 そして僕等は労働組合の組織を以て、此の僕等自身を支持する最良の方法であると信ずる。

 繰返して云ふ。

 労働運動は労働者の自己獲得運動、自主自治的生活獲得運動である。

 人間運動である。

 人格運動である。


(「労働運動の精神」/『労働運動』1919年10月6日・1次1号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第二巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第6巻』)





 大杉は労働運動社の社員紹介もしている。


 中村還一、年廿二、時計工、労働同盟会前幹事。

 和田久太郎、年二十七、人夫、新聞紙法違反で十ケ月の牢獄生活を終つて来たばかり。

 近藤憲二、年廿五、早稲田大学政治科卒業。

 伊藤野枝。

 大杉栄。

 外に目下傷害罪(尾行巡査を)で入獄中の活版工延島英一(年十八)も九月下旬出獄早々入社の筈。

 これだけの社員が、社の常連として毎日のやうに遊びに来る多くの労働者と一緒に、いつも社にゴロ/\してゐる。

 どなたでも、尤も二本足の犬だけは別だが、いつでもお遊びににお出で下さい。


(「読者諸君へ」/『労働運動』1919年10月6日・1次1号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』・編集室にて・『労働運動』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』・編集室にて・『労働運動』)


 十月十一日、東京地裁で大杉の尾行巡査殴打事件に懲役三ヶ月の控訴審判決が下った。

『労働運動』を立ち上げたばかりで、野枝の出産も間近だったので、大杉は弁護士と相談して即日上告し、服役を先延ばしにした。



★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『大杉栄全集 第二巻』(大杉栄全集刊行会・1926年5月18日)

★『大杉栄全集 第6巻』(日本図書センター・1995年1月25日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:27| 本文

第293回 婦人労働者大会






文●ツルシカズヒコ



 第一次世界大戦の講和会議によって創設されたのが国際労働機関(ILO)だったが、その第一回国際労働会議が一九一九(大正八)年十月二十九日、ワシントンで開催されることになった。

 その日本代表団の労働者代表が、政府の選出によって鳥羽造船所工場長・桝本卯平に決まったことから、友愛会をはじめとする労働団体の一大反対運動が起きていた。

 第一回国際労働会議では、婦人の深夜業禁止や産前産後の休暇など、婦人関係の議題が含まれることになっていたので、政府代表の婦人顧問として田中孝子が任命された。

 財界人の渋沢栄一の姪であった田中に対する、労働側からの風当たりも強かった。

 婦人顧問の田中に婦人労働者の実状や要求をよく聞いてもらう目的で開催されることになったのが、友愛会婦人部主催による婦人労働者大会だった。

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 婦人労働者大会が本所区の業平小学校で開催されたのは、十月五日の夜だった。

 平塚らいてうや野枝が来賓として招かれていた。

 『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(完結篇)』によれば、十月五日の夜は東京に台風が接近する前ぶれでひどい吹き降りだったが、横殴りの雨に濡れながら、らいてうは会場に出かけたという。

 あいにくの雨にもかかわらず、業平小学校の雨天体操場は五百人以上の聴衆に埋め尽くされ、半数以上は婦人労働者だった。

 司会は友愛会婦人部の常任書記・市川房枝、富士紡、東京モスリンなどの婦人労働者九名が演壇に立った。

 東京モスリンの女工で友愛会理事の山内みなが、演説のしんがりを務め、草稿なしで熱弁を振るった。

 らいてうは六年前の青鞜講演会を思い出していた。


 あのときの聴衆はこれよりは多かったとはいえ、その三分の二は男性で、婦人の姿は男子とくらべようもないさびしさでした。

 演壇に立つ人も……男性講師が主で……。

 あのときにくらべて、今こうして女工の代表が演壇に立ち、「夜業禁止」「八時間労働」など、自分たちの当面の訴えを、次つぎにくりひろげる姿に、わたくしはおどろくほど早い時代の変化と発展をおもうのでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(完結篇)』_p55~56)





 弁士の中にはまだ着物の肩揚げもとれない小娘もいれば、髪を銀杏返しに結い背に赤ん坊をおんぶした子持ちの婦人労働者もいた。

 演説は草稿の朗読ではあったが、「おッ母ァうめえぞ〜」といった野次にも臆することなく、自分の要求を主張する婦人たちの姿に、らいてうは感動を抑えかねた。

 山内みなの演説が終り、当時流行した霰(あられ)模様のお召しの着物、黒紋付きの羽織姿の田中孝子が壇上に立った。

「自分は決して労働生活を知らないわけでなく、アメリカでは女中のような経験もしたし、木の実取りをして働いたことある……」と話し始めると、猛烈な野次が聴衆の間から飛び交った。

 この騒ぎは司会役の市川房枝の仕切りでひとまず収まったが、騒ぎは閉会後の控え室に持ち越された。

 野枝が主役となった控え室でのこの騒動を、山内みなはこう回想している。





 控室へもどってきた田中孝子女史に向って、伊藤野枝さんは「あなたのようなブルジョア婦人は日本の婦人労働者のことなどうんぬんする資格はない、国際労働会議に行くことをおやめなさい」と、たいへんな剣幕で詰めよりました。

 田中さんも怒って、「あなたにそんなこと言われるおぼえはない」と激論になりました。

 市川さんは、「ここでそんな議論はこまる、やめて下さい」といってやめさせました。

 こんどは野枝さんは私のところにきて、「あなたは労働者だから、労働者はどうしたら解放されるか勉強しなさい、社会主義でなければだめだということがわかるでしょう、本を送ってあげます。」と言いました。

 書記の菊地さんがそばで聞いていて、「会社はだめです、この子がクビになります。友愛会本部へ送って下さい」といった。

 本部へ送ってきたのですが友愛会では私に見せませんでした。

 その後しばらくたってから、会長鈴木文治氏が「みなちゃん、社会主義者に近づいてはいけないよ、おそろしい連中だから」と言いました。


(『山内みな自伝 十二歳の紡績女工からの生涯』)





 らいてうが野枝の姿を見るのは、三年前、あの日蔭茶屋事件が起きる二日前、大杉と野枝が茅ケ崎に住んでいたらいてうを訪ねて以来だったが、控え室の騒動をらいてうはをこう記している。


 ちょうどわたくしが帰りぎわにみんなに挨拶しようと控え室にいたときのことですが、突然、伊藤野枝さんが気色ばんだ見幕でそこに入って来ました。

 彼女は、そこにいるわたくしをジロリと睨みーーまさにそんな感じの一瞥をくれて、むろん部屋のなかのだれに挨拶するでもなく、いきなり田中孝子さんのそばに行くと、「婦人労働者の経験のないあなたに、婦人顧問をつとめる資格はないのだ。一刻も早くおやめなさいーー」といった意味の言葉を、烈しい見幕で浴びせかけました。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(完結篇)』p56~57)


 らいてうは野枝の憎体(にくてい)な言動にただ目を見張った。

 野枝は縞の着物に黒紋付きの羽織を引っ掛けていたが、らいてうはそんな格好の野枝を見るもの初めてだった。

 昔の娘らしいふくよかな面影がすっかり消え、ひどくトゲトゲしく、なんにでも突っかかり、誰にでも食ってかかるといったその日の野枝が、らいてうの目には未知の別人に映った。

 しきりに言い募る野枝をたしなめる気持ちもあって、らいてうはひとことだけ言葉をはさんだ。

「工場で働く労働者のほかは労働者でないように言うのは間違いでしょう……」

 罵倒といった感じで、自分のいいたいことを言うと、野枝はらいての言葉など黙殺したまま、プイと背を向けて出て行った。





 らいてうは、野枝が大杉のもとへ走ってから折りにふれて聞こえてくる噂を思い浮かべた。

 野枝が大杉の運動を助けて、あちこち金策に歩いていることはらいてうもしばしば耳にしていた。

 後藤新平からお金を引き出した話も、大杉との間に生まれた子供に「魔子」と命名したことも、らいてうは知っていた。

 なお、野枝は十二月に次女・エマを出産するが、らいてうはこのときに見た野枝のお腹がだいぶふくらんでいたと記している。

 その後、らいてうと野枝に再会の機会は訪れず、この日の遭遇がふたりの永訣(えいけつ)となった。

 野枝は婦人労働者大会について、こう書いている。





 十月五日、本所区業平(なりひら)小学校で友愛会婦人部主催の婦人労働者の演説会があつた。

 婦人労働者主催の此の種の演説会は先づこれが我国最初の催しであらう。

 恰(あたか)も此の夜はワシントンに送る労働会議代表者桝本卯平(ますもとうへい)氏の労働者大会が明治座で催された夜であつた。

 此の演説会も、政府側の婦人顧問田中孝子氏を招待して、大いに日頃持つてゐる不平不満を聞いて貰つて参考にして欲しいと云ふ、婦人労働者達の希望に出たものであつた。

 招待された田中孝子氏は後(おく)ればせに女工諸氏の大半の演説が済んだ頃出席して、最後にその婦人顧問を引き受けた覚悟に就いて説明があつた。

 当日広い会場の半数以上は婦人労働者諸氏によつて一杯に埋められた。

 恐らくは五百人以上の出席者であつたに違ひない。

 演壇に立つては、思ひ/\に、その要求がそれ/″\の理由をもつて提出されたが、帰する処は、労働時間の短縮、夜業廃止、の二つであつた。

 大部分の諸氏は多勢の聴衆の前に立たれたのは始めてである為めか、皆多少の臆し気味があつて、草稿の朗読で終つて、期待した真の熱烈な叫びと云ふ風なものははかつた。

 しかし、大多数の人達の要求が期せずして前記の二問題に落ち合つた処を観れば現在の紡織の婦人労働者が、何(いか)に最も苦しみつゝあるかは明瞭に看取する事が出来る。

 賃銀問題に就いて、其の能率の上から、男子と同等の額をと主張したのは山内氏一人のみであつた。

 政府が労働代表及び顧問に就いて婦人労働者を全く黙殺した事に対して確(し)つかりした批難を堂々と述べた野村つちの氏の演説と共に、当夜記者の印象に最も強く残つたのはそれであつた。


(「婦人労働者大会」/『労働運動』1919年11月13日・第1次第2号/學藝書林『伊藤野枝全集 下巻』に初収録/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p106~107)


 野村つちの(富士紡)は山内みな(東京モスリン)とともに、友愛会理事を務めていた。

 野枝はこの原稿を『労働運動』には無署名で寄稿、あくまで一記者としてリポートしている。




★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(完結篇)』(大月書店・1973年11月16日)

★『山内みな自伝 十二歳の紡績女工からの生涯』(新宿書房/1975年12月)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)





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第292回 東京監獄八王子分監






文●ツルシカズヒコ


 一九一九(大正八)年十月三日、懲役二年の刑を終えた神近市子が東京監獄八王子分監から出所した。

『読売新聞』が「淋しい笑顔を見せつゝ 神近市子出獄す」「好物のバナナを携へて露国の盲目文学者などが出迎へ」という見出しで報じている。

 風呂敷き包みを抱えた彼女の写真も掲載されている。

「露国の盲目文学者」とはワシリー・エロシェンコで、秋田雨雀らとともに自動車で迎えに行ったのである。

 市子は朝五時五十分に起き朝食を摂った。

 秋田やエロシェンコらが八王子分監に到着したのは朝七時だった。

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 一時間程経て三人は市子を伴つて獄門を出て来た、

『……残念乍(なが)ら今日は何も御話が出来ません、唯御挨拶丈けで御免を蒙ります』

 市子の辞(ことば)を受けて秋田雨雀氏は語る

『神近さんは当分静養し将来は創作家として立つことにならうが獄中でも創作は可なりあつたと聞いて居ります』


(『読売新聞』1919年10月4日)





 大杉と野枝のコメントも掲載されている。

 大杉のコメント。


 入つたものは死にでもしなければ出て来るにきまつてゐるのだから出て来ると聞いても格別変つた感想も無いよ。

 殺されてゐたら草葉の陰で恨めしいと思つてたかも知れないがね。

 何でも女子青年会で引き取りたがつてゐるとも聞いたがあんな耶蘇教などへ行くよりは、又行きもすまいと思ふうが、秋田雨雀君のグループに帰つて文学生活に入るのがあの人のために一番好いだろう。

 獄中で科学の本でも読んで来ると好いのだがワイルドの「獄中記」を訳したとかいふ話で読んだ物も恐らく思想的の本だらうと思ふ。

 たいして変つた女になつて来るとも思はないね。

 会ひたいなどとは思はないが偶然会ふ機会でもあつたら、さアその時どんな顔をするかね。


(『読売新聞』1919年10月4日)





 野枝のコメント。


 もう四五年も前に、あの人のお友達が神近さんは結婚をするのが一番いい、家庭の主婦になればチャンと落つく事の出来る人だから、其の方が始終動揺しなくていゝだらうなどゝ云つてゐた事もありますが、今後あの人がどうするとも私は別にそんな事に対しては思ふことはありませんね。

 まあ小説でも書いて文壇を賑やかすのが一番いゝでせう。

 随分私たちも材料になるかも知るれませんがね。

 私の家にでも遊びに来てくれたら一寸面白いおつき合ひが出来るかも知れませんね。

 大分周囲がやかましいから先(ま)づそんな事もありますまいが。

 でも彼(あ)の人の事だからフイとまた来ないとも限りませんよ。

 そんないたづら気でも彼(あ)の人が出して呉れるようだと、本当におもしろい人ですけれど……。


(『読売新聞』1919年10月4日)


 神近が「私の家にでも遊びに来てくれたら一寸面白いおつき合ひが出来るかも知れませんね」というコメントは、野枝の本心だったのではないか。





 十一月、神近は堀保子に謝罪した。

 保子のコメントを「市子と保子」という見出しで『読売新聞』が掲載している。


 二三日前の雨のビシヨ/\と降る日、突然一人でやつて来たのです。

 顔を見ると謝絶をするわけにも行かず座敷へ上げましたがオイ/\泣くので困りました。

 穴があれば入りたいと言ひましたが私も掘れるものなら穴を掘つてあげたいと思ひました。

 大杉を刺した時の模様を話して呉れと揶揄(からか)い半分に気を引いて見たら喋り出したので驚きました。

 何でも結婚をする心の準備がチヤンと出来てゐるといふことでした。

 私にも結婚を勧めましたがどんな気で言ふのでせうかね。


(『読売新聞』1919年11月28日)





『神近市子 わが愛わが闘い』によれば、市子は出獄した翌年、一九二〇(大正九)年、評論家の鈴木厚と結婚した。

 鈴木は市子より四歳年少、早稲田大学中退、資産家の養子だった。

 辻潤が市子を来訪したときに、たまたま同行してきたのが鈴木だった。

 市子は鈴木との間に三人の子供をもうけた。



秋田雨雀記念館





★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)



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第291回 ソシアルルーム






文●ツルシカズヒコ




 一九一九(大正八)年九月二十四日、延島英一が巣鴨監獄から出獄、大杉の家に同居して労働運動社社員になった。

 延島は五月に吉田一と銭湯に行く途中、小石川署巡査を尾行と見て暴行し、懲役三ヶ月を科せられて服役していた。

 野枝は『新小説』十月号に「台所雑感」を書いた。

「新思想と教養を背景に立てる婦人の台所感」欄への寄稿で、山田わか遠藤清子田中孝子も執筆している。

 野枝はまず当時の物価騰貴に触れている。

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 ……資本家はあんまり儲ける事ばかり夢中になつて物価をつり上げたり賃銀の出し惜しみをして平民共を困らせないように、政府は表面のごまかしばかりして、結局主婦達を窮地におしこめるなどゝ云ふことのないようにして頂きたい。

(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p98)


 まず前振りとして資本家や政府にチクリと苦言を呈したのであろう。


 私は家庭生活と云ふものには充分に興味を持ち得ます。

 衣食住、ともに自分の自由な趣味に応じて営むことが出来るならば、私はそれだけで充分享楽する事が出来ると思ひます。

 家政、育児、料理、どれにでも没頭する事が出来ます。

 わけて、料理をする事は私には一番興味深い事です。


(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p98)





 しかし、大杉と野枝の家には常に何人かの同志が同居しているし、ふたりの家は労働運動社という職場でもあるから、普通の家庭ではない。


 で私達は普通の家々とは全(ま)るで違つて、家庭と云ふものを完備さす為めに必要な努力をまるでしないと云つてもいゝ位です。

 たとへば、家具と云ふやうなものに対してもOも私も二人とも相応に趣味も持つてはゐますけれども、それを購入し、家の中をかざる為めに一生懸命に働く、と云ふ事は出来ないのです。

 何故なら私達の眼の前には、そんな事よりはもつと必要な他の事が迫つてゐますから。


(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p98)





 衣食住のうち、食にだけはゼイタクをしていると野枝は書いている。

 着物や家具にまわすお金を犠牲にしてでもである。


 ……私達はたゞたべる事だけに不相応なゼイタクをしてゐます。

 そして、その食物ごしらへをするだけが、私が現在の家庭生活での唯一の享楽です。

 ですから私は台所だけは何時でも不景気な風を吹かせないで愉快に皆んなの食物ごしらへの為めに働きたいと思ふのです。


(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p98)





 こんな作りの台所があったらいいのに〜。

 野枝には理想の台所があった。

 当時から応接間を西洋風にする和洋折衷の家が流行り始めていたが、野枝は逆に居間や客間は日本風で、食堂や台所が西洋風なものがいいと考えていた。


 大きなホールの片隅を台所に使つて大部分を食堂にして、炊事、食事に必要な一切のものをその室(へや)で間に合ふようにそなへておく。

 親しみの多い客位は其処に通せるやうな設備もしておき、相応に室内をかざつても置いたり、楽器位はそなへておくと云ふやうにすれば、第一台所を清潔にする事がどうしても必要になり、窮屈なおもひをしながら働くにも当らない、室の内の人々と話しながら笑ひながら愉快に仕事が出来るし、其処に導き入れられた他人に親しみを感じさせる事が出来ると云ふようないろんな便利がかなりあります。

 尤(もつと)も薪や炭の火を用ふと云ふやうな場合には、室内で火を燃すと云ふやうな乱暴も出来ませんが、水道瓦斯(がす)の便宜を持つ処ならば、こう云ふ台所は私には理想的なものだと思へます。

 いろんな情実をもつた家では、そんな事は考へられないでせうが、私共の家のように殆んど家族同様の同志の出入りの多い、そして礼儀作法など云ふものとは縁の遠いところでは斯う云ふソシアルルームは便利と云ふよりは必要かもしれないのです。

 で私は始終それを頭にえがいてゐます。


(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p99)





 今なら当たり前のダイニングキッチンである。

 和田久太郎は野枝の料理について、こう記している。


 野枝さんは料理が御自慢だつた。

 そして、実際にそれはうまいものだつた。

 僕等はその御自慢で先づ満腹したが、大杉君は野枝さんの手料理が何より嬉しかつたやうだ。


(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11・12月号)



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)




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2016年07月11日

第290回 出獄の日のO氏(二)






文●ツルシカズヒコ


 一九一九(大正八)年、第六回二科展は上野公園の竹の台陳列館(現在の上野公園噴水付近)で開催された。九月二日から一般公開だったが、林倭衛が出品した「出獄の日のO氏」が問題となった。

 八月三十日に警視庁の事前検閲があり、検事告訴され保釈中の刑事被告人の肖像が公衆の前に展示されるのを不快に感じた警視庁が、撤回命令を出した。

 二科会が抗議すると、八月三十一日、岡警視総監が来場し、撤回は命令ではないとしたが、二科会幹部に圧力をかけ、林が任意撤回したことにして「出獄の日のO氏」を引っ込めさせた。

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 九月一日、林は警視庁を訪れ、自ら任意撤回と公表したことに抗議、むしろ禁止命令を出せと迫った。

 警視庁の本間官房主事が改めて禁止命令を出すことを受け入れたので、二科会は「出獄の日のO氏」を再び展示し、大杉と野枝も鑑賞した。

 午後四時に下谷署から来た警部が撤去命令を発し、二科会はこれを受けて取り外した。

 理由は広い意味での安寧秩序の紊乱だった。

 大杉は撤回された絵が展示されていたところに立ち、「本物は絵よりもいっそう危険だぜ。これも撤回かい。僕は二科で日当を出せば、毎日でもここに立っているよ」と皮肉たっぷりに訴えたという。

『読売新聞』はこう報道している。





 ……林氏は呼ばれて今朝警視庁に行き本間官房主事に面会した、

 本間氏は林氏に妥協を申込んで、、命令によつて右の画を撤去する事なく作者が刑事被告人を描いたのが穏当でない事を覚つて自発的に撤廃されたいと語つた、

 併し林氏は断然之を拒絶したので結局話合の末陳列してよい事となつた、

 林氏が会場に帰つて来た時は既に本間主事が自動車で駆け付けて一旦撤去したのを再び掲げてあつた、

 この間に問題になつた此の作品のモデルたる大杉栄氏は伊藤野枝女史を伴つて見に来た、

 処が午後四時になつて下谷署から前田警部が突然やつて来て「私の職権を以つて撤去を命令する」旨を居合せた有島生馬氏に迄申し達した其の理由は広い意味での安寧秩序の紊乱であると云ふのであつた、

 林氏は「命令なら仕方がない、せめて特別室にでも入れる様にして貰へればいゝが結局は夫(それ)も駄目でせう」と諦め切つた言方であつた、

 有島氏は傍(そば)から「林君のあの絵は宛然(まるで)稲妻の様だつたね、今日の午後一時半頃から四時頃迄二時間半許(ばか)りピカツと光つた丈でね」と同情した、


(『読売新聞』1919年9月2日)


 同紙には、会場を訪れた大杉と野枝が、「出獄の日のO氏」が撤去されたところに立っている写真も掲載されている。





 九月二日、大杉は山崎今朝弥弁護士を通じて、警視庁警務部刑事課の課長・正力松太郎を告訴した。

 七月十九日、正力は警視庁詰めの記者に対して「(大杉が)日用品等の支払いをせず、家賃を支払う意志なく住居を借入れ、現住宅に無断侵入し……」などと語り、二十日の各紙はこれを報道した。

 この件に関して、日刊十五紙に謝罪広告せよと、正力に対して名誉毀損および名誉回復請求の告訴をしたのである。

 九月三日、大杉は「出獄の日のO氏」展示禁止処分に抗議するために警視庁に行き、本間官房主事に「弁護士・布施、山崎ほか五十名」による「鑑定書(依頼人・大杉栄)」を突きつけた。

「出獄の日のO氏」撤回命令は不法であり、刑法一七五条、治安警察法一六条、および美術展覧会規則にてらしても、禁止を命じうる法規はないという内容である。

 本間は苦し紛れに治安警察法一六条だと答えた。

 しかし、たとえ「安寧秩序ヲ紊シ」たとしても「公衆ノ自由に交通スル」場所においてという条件だから、適用はできないはずだ。





 大杉はこの日の夜、上野精養軒の二科会懇親会会場に赴き、有島生馬、林倭衛と面談、林担当の二科会幹部にも会って、警察の禁止理由を確認し、二科会として命令に従う必要はないのではないかと質した。

 再び展示をしないのなら、九月六日に大挙して押しかけ、一般公衆の通路として観覧料を払わずに通行するとまで詰め寄った。

 九月六日、警察が厳重な警戒体制をしいていたが、大杉は現われなかった。

 林や二科会に迷惑をかけるのは友誼上忍びないとして、大杉が実行を取り止めたのである。

 ちなみに「出獄の日のO氏」」は戦災を免れ、現存している(八十二文化財団所蔵)。


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第289回 出獄の日のO氏(一)






文●ツルシカズヒコ

 一九一九(大正八)年八月八日、大杉は東京監獄から野枝に第二信を書いた。


 シイツがはいつてから何にもかもよくなつた。

 あれを広くひろげて寝てゐると、今まで姿の見えなかつた敵が、残らず皆んな眼にはいる。

 大きなのそ/\匐つてゐる奴は訳もなくつかまる。

 小さなぴよん/\跳ねてゐる奴も、獲物で腹をふくらして大きくなつてゐるやうなのは、直ぐにつかまる。

 斯んな風で毎晩々々幾つぴち/\とやつつけるか知れない。

 蚊の防禦法もいろ/\と工夫した。

 差入の飯にもなれた。

 もう間違ひなく皆んな食べる。

 そして可なり腹へ入る。

 大便も日に一回になつた。

 もうこれで総てがこつちのものになつたのだ。

「あんなに痩せて、あんなに蒼い顔をしてゐちや」と大ぶ不平のやうだつたが、どうも致し方がない。

 あの暑い日に、二十人ばかりがすしのやうに押されて、裁判所まで持ち運ばれたのだ。

 途中、僕は坐る場所がなくて、人の膝の上に腰かけてゐた位だ。

 実際、向うへ着いた時には、自分で自分が死んでゐるのか、生きてゐるのか分らなかつた。

 二三時間ばかり寝て、漸く正気がついた。

 それから一日狭い蒸し殺されるやうな室に待たされてゐたんだ。

 けふも又裁判だ。

 ほんとうにいやになつちまうよ。

 面倒くさい事は何も要らないから、何とでも勝手に定めて、早く何処へでもやつてくれるがいいや。

 此処まで書いたら、いよ/\出廷だと云つて呼びに来た。

 さよなら。


(【伊藤野枝宛・大正八年八月八日】・「獄中消息 市ヶ谷から(四)」・『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』)

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 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば(以下、特に出典を明記しない記述は同書参照)、八月八日、大杉の巡査殴打事件第二回公判の開廷は八時の予定だったので、野枝や山川菊栄ら女性を含む同志二十数名が構内に参集して待機していたが、どういうわけか開廷は午後五時と大幅に遅れた。

 検事の論告求刑の際、裁判官が被告・大杉に起立して敬意を表するよう再三命じたが、大杉は拒否して応じなかったので、結局、検事が折れて裁判官も黙認したので着座のまま論告が行なわれた。

 大杉のこの異議申し立ては、検事の論告中に被告に起立を命じる官尊民卑の弊習を批判していた山崎今朝弥弁護士の示唆を実行したのである。

 布施辰治弁護士は「処罰を必要とすべき性質のものなら、誰が考えても当時直ちに処罰していなければならない訳ではないか。五月二十三日に告訴状が出されたというのなら、それがこの二ヶ月間警察に放置されていたのは、いったいどうしたわけなのか」と不当を追及した。





 八月九日、大杉の巡査殴打事件に傷害罪で罰金五十円の判決が下された。

 検事は控訴したが、裁判官は身体の自由を拘束する必要なしと判断し、保釈を許可した。

 八月十日、大杉は獄中から野枝に葉書を書いた。


 知れてはゐるだろうと思ふが、念のために云つて置く。

 保証金弐拾円で保釈がゆるされた。

 今日は日曜日で駄目だろうが、明朝早く其の手続きをしてくれ。


(【伊藤野枝宛・大正八年八月十日】/「獄中消息 市ヶ谷から(四)」・『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』)





 保釈金は大石七分が出した。

 八月十一日、大杉が保釈になり東京監獄を出獄、午後四時近くに服部浜次が自動車で迎えた。

 八月十三日、林倭衛が大杉宅を来訪し、その場で大杉の肖像画にとりかかり、半日ほどで描き上げる。

 右上にフランス語で「同志大杉出獄の日に」と書き入れた。

出獄の日のO氏」と題して九月一日からの二科展に出品されるが、警視庁の撤回命令が出て問題になる。

 八月中旬ごろ、大杉と近藤憲二が千駄木町の望月桂宅を訪問。

「出入りの同志が邪魔で落ちついて締切原稿が書けない。一寸避難して来たよ」と大杉が言って、望月の一閑張りの机を占領して原稿を書き始めた。

 原稿は『新小説』九月号に寄稿した「死灰の中から」と想定される。

 大杉は望月宅でこの原稿を書き終えてから、「十ノ廿松屋製」原稿用紙二枚にメモ書きをした。

 一枚は「東京労働運動同盟会」と題した「実際運動」の起案、もう一枚は北風会の改組と新機関誌発行の計画を練ったものだった。

 望月は半裸の大杉が机に向かっている姿を描き「ある日の大杉」と題した。

 大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』口絵では一九二〇(大正九)年作とされていたが、その前年に描かれたものだった。

 大杉の肖像画として有名な、林の「出獄の日のO氏」と望月の「ある日の大杉」の二枚の絵は、同時期に描かれていたのである。

 八月三十日、横浜の吉田只次宅に大杉、野枝、村木、和田、近藤、中村還一らが合流し宿泊、翌日の会合後、本牧の三溪園を散策した。


林倭衛



★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』(海燕書房・1974年)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)



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2016年07月10日

第288回 外濠






文●ツルシカズヒコ


 一九一九(大正八)年八月四日、東京区裁判所で大杉の巡査殴打事件の初公判が行なわれた。

『日録・大杉栄伝』によれば、野枝や荒畑ら同志三十余名が押しかけたが、傍聴席には付き添い(尾行)の刑事たちが詰めて席につけなかったので、ひと悶着が起きた。


 法廷はスパイで満員だ、猛者連は承知せず、怒叫(※叫怒の誤記か?)する、遂に裁判は一時中止になつて、全部を法廷から出し、改めて公判を開いた、今度は吾々同志で大部分を、占てしまふことが出来た。

(武田伝二郎「大杉君と僕」/『自由と祖国』1925年9月号 ※「伝二郎」は「伝次郎」の誤植と思われる。武田伝次郎

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『日録・大杉栄伝』によれば、そのために五時開廷、山崎今朝弥布施辰治らが弁護に立った。

 大杉は「尾行巡査は私を犯罪人扱いにし、隣近所まで迷惑をかけた。安藤巡査の態度が余りに図々しいので、藤山家から出ろと大声で言うと、命令は受けないと返事するので殴った」などと述べた。

『東京朝日新聞』はこう報じている。


 傍聴者中には例の伊藤野枝外(ほか)三十余名の友人等あり……

 大杉は『尾行巡査が他家(よそ)の室内にまで付纏(まと)ふので困る』とか

『本気に殴つたのでない好(い)い加減に殴つた』……と空嘯(そらうそぶ)き

 検事の問ひに向つては嘲弄的口吻(こうふん)を放ち『君と語るのは不愉快だ、主義に就(つい)ては語る必要なし』と怒号し

 検事が獄中来訪の事より説いて『是吾人を陥穴(おとしあな)に入れんとするものなり』と結び……

 ……午後六時十分閉廷


(『東京朝日新聞』1919年8月5日)





 八月五日、和田久太郎が東京監獄から出獄し、大杉の家に帰って来た。

 八月六日、野枝は獄中の大杉に宛てて手紙を書いた。


 あなたが留守になつてから、家の中は本当に気がぬけたやうになりました。

 はじめ二三日は何んだか寂しくて仕方がありませんでしたけれど、それから用に追はれ出すようになつてからは、寂しいも何んにもありません。

 夢中で一日が過ぎてしまひます。

 それでも夕方帰つて、家の中は一杯に取り散らかされたままに誰もゐない、何んだか森(しん)としてゐるなんていふ時には、妙に寂しい気がします。

 家主との厄介な事さへなければ、保釈などになつて帰つて来てまた改めて出直すなんて事になるよりは、此のまま早く済まして頂いた方が、私にはずつといいやうに思はれます。

 しかし、家の方はどうしても一ぺんあなたに出て頂かなくちや本当に困りますね。

 何しろ私はちつとも落ちつけないんで困るんです。

 早く保釈の事、何んとかきまらないでせうかねえ。

 家主さんも困るでせうが、私も本当に困つてしまふ。

 此頃、大抵ぬけ弁天で電車を降りて行きますけれど、どうかすると外濠をまはります。

 四ッ谷見附から牛込見附までの間は、私には懐かしいやうな恨めしいやうな、妙な一種の気持に襲はれて変なところです。

 あの頃のいろんな記憶のよみ返つて来る事が、何んだか私には一つの重苦しい感じになります。

 内的にも、外的にもあの頃の生活は一番複雑で負担の多い生活だつたと思ひます。

 あの頃のやうに可哀さうな自分を見出す事は他ではありません。

 あの頃のやうに悩んだ事はありません。

 けれど又、あの頃のやうに幸福に酔ふ事も、恐らくあの時を除いてはないでせう。

 時はどうしてこんなに早くたつて行くのでせう?

 私達の前にも、もうあの時とはまるで別の世界が開けて来ましたね。

 私達の喜びも、悩みも、かなしみも、総べてのものが、まるで違つた色彩をもつて来ましたね。

 でも、私達の生活がとにかく人間の生活の本当の深味へ一歩々々踏みこんで来たと云ふ事は、何処までも事実ですわね。

 私達はこれでほんの一寸でも立ち止まつてはならないのですね。

 私達の生涯が、どんなに長からうと短かかろうと、その最後まで両足を揃えて立ち止まつてはならないのですね。

 先達て、荒畑(寒村)さんの体が少々心配になる日がありましたので、山崎(今朝弥)さんへ様子を聞きに行きました。

 山崎さんの話に、大杉はどんな場合でも、ちやんと初めから終(しま)ひまで思慮をつくして事をする。

 たとへ他で何んと云つても無茶らしい事をするけれど、彼れにはちやんと損得勘定がしてある。

 だから、何をしても他から少しも心配する事はない。

 きつと損した以上の得をとらなければおかない。

 しかし、荒畑は用心深いやうでゐてカツとのぼせて後で馬鹿らしいと思ふやうな目に遭うから困ると云つてゐました。

 こんな事は常に自分達でも話し、他人からも云はれますけれど、此頃のやうな際には殊に強く響きます。

 此頃の荒畑さんが熱を持ち出した事と云つたらありませんよ。

 私達に対しても少しもこだはりのない態度を見せてゐます。

 これも、一つにはあなたが留守になつた事が大きな原因だと云はなければなりますまい。

 本当に私は嬉しく見てゐます。

 あなたもさぞ本望だらうとお察し致します。

 これで山川(均)さんが出て下されば申し分なしですね。

 あなたの留守も充分に効果が上るわけです。

 世の中の事と云ふものは本当にうまくしたものですね。

 荒畑さんが変つたと云ふので和田さんなんか驚いてゐますよ。


(【大正八年八月六日・東京監獄内大杉栄宛】・「消息 伊藤」・『大杉栄全集 第四巻』/「書簡 大杉栄宛 一九一九年八月六日」・『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p83~84)





 「抜弁天」は東京監獄(市谷富久町)の裏手にあった。

「あの頃のいろんな記憶」とは、小石川区竹早町の自宅から四谷区南伊賀町の山田嘉吉のもとに講読を受けに通っていたころの思い出である。

『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、『青服』を出版していた荒畑寒村と山川均は前年十月に入獄し、この年の二月に出獄、六月より毎月二回、服部浜次の日比谷洋服店楼上で労働組合研究会を開催していた。

 ここに友愛会、印刷工組合信友会、新聞印刷工組合革新会、交通労働などの労働者たちが多く集まっていた。


ぬけ弁天

外濠通り


★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:28| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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