2017年02月26日

第433回 オートミル






文●ツルシカズヒコ


 一九二三(大正十二)年九月十五日、乳母車に子供を乗せて出かけた大杉は、豊多摩郡大久保百人町の荒畑寒村宅を訪れた。

 寒村はロシアに亡命中で留守だったが、寒村の妻に「お玉さん、寒村がいないでも、僕らがついているから心配することはないヨ」と励ました(筑摩叢書34『新版 寒村自伝 下巻』)。

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 松下芳男「殺さるゝ前日の大杉君夫妻」によれば、『中央法律新報』編集長だった松下が、大杉宅を見舞いに訪れたのはこの日の午後だった。

 松下は郷里の新発田では大杉の家の背中合わせに住み、大杉の長弟・伸とは竹馬の友、大杉の三妹・松枝とは小学校の同級で、大杉は新発田中学の先輩でもあった。

 仙台の陸軍幼年学校から士官学校に進んだ松下は、大杉の『近代思想』に触れて「社会」への目を拓かれ、陸軍歩兵中尉時代に「社会主義に共鳴」した将校として新聞に報じられ停職処分を受けた。

 松下にとって大杉は、主義や運動に共鳴するところは少なかったが、最後まで親しい懐かしい、そして尊敬する先輩だった。





「大杉さんはいますか」

 煙草を吸いながらぼんやり縁側に座っていた服部浜次に、松下が声をかけると、服部が答えた。

「ああ、いるよ。入り給え」

 すると、服部のそばで遊んでいた魔子が大声で、

「パパー、パパー、お客様!」

 と、二階を見上げて呼んだ。

 大杉は原稿書きに疲れて昼寝をしていたが、しばらくして下りて来て、庭の籐椅子に腰かけた。

「大杉さん、まだ生きていましたね。僕は方々で大杉栄の暗殺を聞きましたよ」

 と、松下が言うと、大杉は充血したような目をむき出し、笑いながら、

「僕はこのとおりさ。僕も訪ねて来る人から大杉栄の暗殺を聞かされるけれども、どこかの大杉はやられても、この大杉はかくのごとくに健在さ、アハハハハ」

 と、こともなげに言い放ち、香の強い煙草を例のごとくスパスパやっていた。

「近ごろの流言やら騒ぎやらで、何か押し寄せては来なかったですか」

「いや、さっぱり。このへんは比較的静かなものさ」

「どこかへ出ましたか」

「焼け跡を見たいと思っているが、なにしろ君、歩くんだろう。たまらんから、家にばかりいるよ。でも、この間の晩、ちょっと散歩と思って提灯つけてこの付近を廻ったら、夜警していた連中が『大杉の旦那が夜警して下されば、主義者も鮮人も大丈夫だ』と喜んでいたよ」

 そこへ野枝が出て来た。

 野枝も出産後で外出をしていなかったので、外の話に興味を持った。

 日比谷の家を焼け出され、日比谷公園で何日か家族とともに野宿をした服部が、こんなことを言った。

「なにしろ自分の家が丸焼けになると、焼けない家が癪にさわるのは、どうも共通の心理らしいね。避難者の中にずいぶんこんな意味のことを言った、不届き者があったぜ」

「そんなやつが放火する気になるのかな」

「そうかもしれないね」

「今度の地震で、そんなにたくさん放火をしたやつがあったのかね」

 九月七日ごろ、松下が御茶ノ水付近を歩いていると、鉄道省の制服を着たふたり連れの男が、鎌倉の惨状について話していた。

 そしてひとりが、こんなことを言った。

「なにしろ鎌倉には大杉栄という社会主義の親分が住んでいたので、子分二、三十人を指揮してずいぶんあばれたそうだよ」

 松下がそのときの話をして、

「たくさん放火したと伝えられるのは、たいがいはこんな類いじゃないですかね」

 と、言うと、みんなが笑った。

「とにかく今度の流言蜚語はたいしたものさ。宇都宮師団の参謀長のごときは公然と、東京の騒乱を社会主義者と朝鮮人と露国過激派との三角関係によるのだと明言し、その地方の新聞は三段抜きで大々的に書いているのだから、助からんよ」

「いったい主義者の放火というが、どの連中がやったのかね」

 大杉は不思議そうに言った。

「さあ、わからんね。どうも郵便はきかず、電車はなし、同志の消息などちっともわからんので困るよ」

 服部が困ったような顔をして言った。

「わからんと言えば、僕の弟の勇がね、あの川崎にいる。どうもあれの家もむろん潰れたと思っているが、音信がないのでその生死さえ懸念していたところ、今朝ようやく無事だというハガキに接して安心したわけさ。ずいぶんひどくやられたらしい。明日にでも見舞い行こうかと思っておるところさ」

 みんなは地震以来のさまざまな珍談を語り合い、そして玄米食には誰も弱ったなどと笑い合った。





『僕は玄米飯は余り厭でもないよ』

 大杉君がそういつた。

『でも子供が食べないので気の毒ですよ』

 野枝さんはそういつた。

『此間の新聞にあつたぢあないか、一昼夜米を水にひたして、十何時間とか煮ればいゝつて……』

『ひたすのはいゝとしても、十何時間側に居て炊く人が大変ですわ』

 更に野枝さんは言葉を継いだ。

オートミルの様にしてやつたら、子供も食べるでせう。私、明日そうしませうかしら』

 其中にマコちやんが、蒸し甘藷を満たした鍋を抱いて来て、座敷中を持ち廻り、俗謡「何所までも」の節で、

『おいもの蒸かしたのはいりませんか、蒸かしたおいもはいりませんか』

 などゝ歌つたら、大杉君は

『マコ! おいもをお呉れ、みんなに一つ宛上げなさい』

 マコちやんは其言葉の通りにして、尚も持ち廻りを初めたら野枝さんから、

『マコちやん! 止めなさい!』

 と強く云はれたら、鍋を放りだした。

 甘藷は一面に散つた。

『マコ! 仕方のない児だね』

 野枝さんは叱りながら甘藷を拾ひ集めて、私共の前に置いた。

 私共は尚暫く語り合つた後私が辞さうとした時野枝さんは、いつた。

『お宅はどの辺? あの火葬場の付近ですか』

『エゝ、火葬場と小滝橋との中間です。どうぞ御閑の時御出で下さい』

『有り難う、私、火葬場付近ならよく存じてゐますわ』

 私は辞し去つた。

 ーーそしてそれは大杉夫妻と最後の別になつたのである。


(松下芳男「殺さるゝ前日の大杉君夫妻」/『改造』一九二三年十一月号)





 村木源次郎「彼と彼女と俺」(『労働運動』一九二四年三月号)によれば、村木が柏木の大杉の家を訪れたのは、九月十五日の夕方だった。

 村木と大杉は労働運動社の関係者がみんな検束されている話などをし、大杉は社の今後の展望を語った。

「みんなが出て来たら、大阪に本社を移して活動するも面白い。東京には俺一人頑張っていれば大丈夫だろう。こっちの通信は俺が送ってやるようにして。ひとつみんなが出て来たら相談してみたい」

 夕立の烈しく降る中、野枝と村木は柏木の家を一緒に出た。

 ふたりは神楽坂上で別れ、野枝は神楽坂にある叢文閣の足助素一を訪ね、村木は労働運動社に戻った。

 野枝が足助を訪ねたのは借金をするためだった。

 野枝は前日も叢文閣に足助を訪ねたが、足助は留守だった。

 この日、社にいた足助は「赤ん坊にやるミルクも買えない」という野枝に、二十円貸した(安成二郎「二つの死」/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』・新泉社・一九七三年十月一日)。

 大杉と野枝はこの二十円を手に、翌日、神奈川県・鶴見に避難している大杉の次弟・勇の見舞いに行くことになる。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、「この日夕刻、東京憲兵隊大尉・甘粕正彦は大杉を検束する目的をもって、特高課員の森慶治郎曹長と鴨志田安五郎・本多重雄両上等兵を連れて淀橋署へ行き、同署特高課の巡査部長・滋野三七郎の案内で大杉の家を確認した。その際、鴨志田を淀橋署に残し、大杉の監視に当たらせた」。




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2017年02月21日

第432回 栗鼠






文●ツルシカズヒコ



 石山賢吉『回顧七十年』(ダイヤモンド社/一九五八年)によれば、一九二三(大正十二)年九月十二日ごろ、大杉は石山に借金の申し込みをした。

「金がなくて困る。十円ばかり貸してくれ」ということだったが、あいにくモラトリアムが敷かれ、銀行から預金を引き出せなかったので、石山は手持ちの金十円から五円を都合した。

 大杉と石山は主義は互いに相入れなかったが、別懇の間柄だった。

 そのころ、大杉家は金欠で困っていたが、安成の妻が安成にこう言ったことがあったという。

「今日野枝さんが来ているとき、沢庵売りが来てうちで買いましたから、野枝さんにお宅でもいかがですかって言ったら、お金がなんにもないって蟇口(がまぐち)を開けて見せるんですよ。私、一円だけあげてきましたよ」
(安成二郎「二つの死」/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』_p266・新泉社・一九七三年十月一日)

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 安成二郎「かたみの灰皿を前に」と「二つの死」によれば、安成が大杉と野枝に最後に会ったのは九月十三日の夜だった。

 まだ省線が動いていなかったので、安成は新宿から歩いて来て大杉の家に立ち寄った。

 二階に上がると、いつものように野枝が珈琲を入れてくれた。

 大杉の家には珈琲をつぶす器具があり、大杉と野枝は自分たちの家庭の珈琲が自慢だった。

「こんなうまいやつは、どこ行ったって飲めないだろう」

 大杉は、よくこう言って自慢していた。

 地震で銀座が壊滅した後にも、大杉がそう言うので、

「今は銀座がないからね」

 と、安成が言うと、

「なに、銀座があったって飲めはしないよ」

 と、大杉は頑固だった。

 安成は大杉家の珈琲は少し味が薄いと思っていた。





 安成は家に引っ込んでいる大杉に、東京市内の様子などを話して聞かせた。

 地震発生から一週間ほどして、柏木のあたりには電燈がついた。

 電燈は灯ったり消えたりしたが、とにかく人々の気持ちを明るくさせた。

「電燈が来てなにしろ愉快だよ。銀座の真っ暗な焼け野から帰って来ると、ここらの田舎がまるで天国のようだ。こんなあべこべの世の中になったんだね」

 大杉も明るい電燈を楽し気に見ていた。

「この隣りの家の女中が」

 と、大杉が大きな目をくりくりさせて吃りながら言った。

 右隣りの家の裏庭が、そこから見下ろせた。

 台所の前に井戸があって、そこで女中の働いているのを、昼、安成も見かけたことがあった。

 「昨夜だ。この部屋の電燈がつくと、その井戸端で働いていた女中がふたりいたが、ひとりは近所の女中らしい。あっ、電燈だ、ついたついたと手を叩いて喜ぶんだ。消えたりついたりしたが、つくたんび、ついたついたとやるんだ」

 それは、手を叩いた女中たちよりも、大杉がその無邪気な女中たちの様子を何十倍も嬉しがっているようだった。

 野枝も大杉のそばに腰をかけて、微笑していた。

 ひと月ほど前に生まれたネストルが、部屋の隅の揺りかごですやすや眠っていた。

 いつも十日と産褥にいないという野枝は、栗鼠のように健康そうだった。

 安成は一時間ほどして、大久保百人町の自宅に帰った。

 安成も大杉が夜警に出ているのを目撃していたが、近所の植木屋などに、

「大杉の旦那が夜警に出て来られた」

 と、言って喜ばれて、大杉のいわゆる人望を集めている光景が不思議に思えた。





 安成が来訪した九月十三日、野枝は大杉の次妹・柴田菊に手紙を書いた。


 三日に書きました手紙はつきませんでしたでせうね。

 私共は郊外で高台でしたので、地震の被害も大しては被(こうむ)らず、火事にもあひませんでしたので皆んな、まづ無事でした。

 けれども、心配なのは勇さんの一家です。

 実は五日に事務所の方の人に頼んで横浜をさがして貰ひましたが、一昨日帰つての話に、まるで消息が分らないとのこと、それに川崎の会社は大分ひどく潰されてゐるさうです。

 私の考へでは、皆んな無事でゐてくれたら、勇さんのこと故きつと私の処までは何んとかたよりがある筈だとおもひますけれど、今日まで全く何んのたよりもありません。

 富子さんと宗坊の方は如何とも手の下しやうがありませんけれども、せめては勇さんの消息をと思つて大杉からは警察や新聞社方面へ頼んでゐますが今だに分りません。

 けれどもそんな悲観の中にも、ひよつとして、そちらへでも避難して皆んな無事なのではあるまいかと僅かな希望につながれてゐるのですけれどどうなのでせうか。

 もし御無事なら急いでおしらせ下さいませ。

 大杉が出かけられるといゝのですが、あまり先へは出かけられないのです。

 戒厳令のおかげで、少し外を歩いたりするとぢきに検束されますので。

 私はまだとても押しあいへし合ひの汽車にはのれず、歩くことも出来ませんーー事務所の方の人達はみんな検束されてしまひますし、一昨日横浜から戻つた人にもまだ会へないでたゞことづけを聞いただけな位で、その人も勿論ひつぱつてゆかれたのだと思ひます。

 そんなわけで勇さんの方は捜すにしても私共としては自ら手の出せない風なのでどうかして他でさがしてくれるのを願つてゐるやうな訳なのです。

 京浜間の電車が通るようになつたとかいふ話ですから、二三日したら女でものれるやうになるかもしれませんからそしたら出かけて見ます。

 けれども、あなたの方へ無事避難してお出でになればいゝのですけれども、あやめさんがどんなにか心配してお出でのことでせう、みんなに怪我があつたとは思ひたくはありませんが消息不明なので心配でなりません。

 此度の地震と火事の災害は本当に恐ろしいものです。

 私の家でも二家族の避難者をひかえてゐますが、私共も関係書店が全部滅茶々々なので、途方にくれて居ります。

 一二ケ月はしなくては、方針も整理もつかないやうな風らしいので、俄に貧乏でよはつてゐます。

 何しろ米は玄米しか食べられません上に副食物と云つたら野菜だけ、乾物もカンヅメももう今ではまるで何んにもありませんし、子供等のおやつのお菓子にも困る程で、大人はまだいゝのですが可愛想なのは子供等です。

 本当にそれはミジメなものです。

 けれども焼け出されたり一家離散したり怪我をした人々から見れば私共は本当にしあはせだとおもひます。

 何にしても私共の今の一番の憂慮の種は勇さん一家、殊に宗坊の消息についてのあやめさんの心配をおもひますとたまりません。

 勇さんの処も家は勿論焼けてしまつてゐるのでせう。

 三四日横浜にゐて、戸部(とべ)の警察で充分調べて来たのでせうとおもひますが、何処へ避難してゐなさるのでせう。

 川崎工場もまるで滅茶に潰れてゐるのですから無事であれば、よほどのしあはせです。

 しかし此度の地震では落ちついた人の方がよほどひどい目にあつてゐるやうですから心配でなりません。

 それでもいろんな話を聞くうちに不思議な助かり方をした方が多いのでさういう風にして運よく何処かで助かつてお出なのかもしれないとおもつたり、毎日あゝかこうかと悩まされて居ります。

 もしいよ/\あなたの方へも避難してお出でないとしましたら恐れ入りますけど、電報ででも進さんを呼んで頂けますまいか。

 そしてあの人に少ししつかりさがして貰ふ外はないと思ひます。

 中央線を来れば少しの徒歩連絡で来られるやうですから。

 何んだか、書きたいことは山ほどあるやうな気持がしますが今はまづとりあへず要事だけ。

 それからもし、勇さん一家がそちらへも行つてゐないとしましても、あやめさんにはなるべく力を落さないように、はつきりと分りますまではなるべく希望を持つてゐるようにあなたから力をつけてあげて下さい。

 お願ひします。

 九月十三日 野枝

 菊子様

 
 此の手紙を出さないうちに勇さんのたよりがありました。

 みんな無事で鶴見に避難してゐるさうです。

 私共も明日は行つて見ます。

 何よりも、三人の着物を都合してあげて下さい。

 宗坊の着物をと思ひますが私の方ではどうにも出来ません。

 また富子さんの着物も、私は避難者の家族にあてがつて何んにも残つてゐないで洋服でゐますので困ります。

 出来得るだけはやく着物をおねがひします。

 ではまた書きます。

 勇さんの処は

 神奈川県橘樹(たちばな)郡鶴見町字岸一八五八

 大高芳朗様方です。


(『東京日日新聞』一九二三年十月九日/「書簡 柴田菊宛」一九二三年九月十五日・『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、宛先は「静岡市鷹匠町三丁目一〇五番地」、水色のレターペーパー二枚、ペン書き。

 追伸の部分がいつ書かれたかは不明だが、封筒裏に「九月十五日」の記載があるので、九月十五日投函と推定される。

『東京日日新聞』(一九二三年十月九日)に「殺害される前日書いた野枝の手紙 義弟と宗一の安否を案じた優しい心遣ひ」という見出しで掲載された。

「川崎の会社」は大杉の次弟・勇が勤務する川崎の東京電気会社。

「富子さん」は勇の妻。

「私の家でも二家族の避難者をひかえてゐますが」は、服部浜次と袋一平一家が避難していること。

「戸部の警察」は、勇が住んでいた横浜市西戸部町の所轄の警察署。

 大杉の三弟・進は神戸に在住していた。

 この手紙が野枝の絶筆になった。



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2017年02月19日

第431回 奇禍






文●ツルシカズヒコ



 近藤憲二『一無政府主義者の回想』(p37)によれば、病身の村木を除く、近藤、和田久太郎ら労働運動社の関係者が保護検束の名目で駒込署に留置されたのは、一九二三(大正十二)年九月八日だった。

 所轄の駒込署には望月桂ら小作人社の関係者も引っ張られて来た。

 東京の各地で主要な社会主義者六十余名が検束されたが、なぜか大杉と山川均は検束されなかった。

 堺利彦はこの年の六月に起きた第一次共産党事件で検挙され、市ヶ谷刑務所の未決監にいた(山崎今朝弥『地震・憲兵・火事・巡査』)。

 荒畑寒村はロシアに亡命中だった(『寒村自伝』)。

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 近藤は駒込署に留置されていた「ある日」のことを、こう回想している。


 ある日、なにか気にくわぬことがあったのか、食いもののことからでもあったか、連中がみんなで騒ぎだすと、何ごとがおこったのかと留置部屋へとんできた巡査部長が、「あまり騒ぐと習志野の騎兵隊へ引き渡すぞッ」といったことがある。

 そのときには気づかなかったが、出てからその意味がわかった。

 純労働者組合の平沢計七、南葛労働の河合(ママ/「川合」の誤記)義虎らは習志野の騎兵隊に殺されたのである。

 いわゆる亀戸事件だ。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p38/平凡社・一九六五年六月三十日)





 大杉に対する界隈の物騒な噂が、魯庵の耳に度々入るようになった。

 大杉は外国の無政府党から資金を持って来て革命を起そうとしているとか、毎晩、子分を十五、六人も集めて隠謀を密議しているとか、「あんな危険人物が町内にいては安心ができないからヤッつけてやれ」とか、ある近所の自警団では大杉を目茶苦茶に殴ってやれという密々の相談があるとか、嘘か実(まこと)かそういう不穏の沙汰を、魯庵は度々耳にした。

 相当分別のある人までがそういう噂を信じて、魯庵と大杉とが交際あるのを知らないで、

「アナタのお宅の裏には大変な危険人物がいて、毎晩多勢集って隠謀を企らんでるそうです」

 と告げたものもあった。

 同じ近所のある口利きの男は、これも大杉と魯庵が友人関係であるのを知らないで、

「柏木には危険人物がある。大杉一味の主義者を往来に並べて、片っ端からピストルでストンストン撃ったら小気味がよかろう」

 とパルチザン然たる気焔を吐いて、いい気持ちになってるものもいた。

 こういう危険な空気が一部に醸されてるのを知ってか知らずか、大杉は一向平気で相変わらず毎日、乳母車を押していた。


 近所に住む大杉の或る友達が夫となく警戒したが、迫害に馴れてる大杉は平気な顔をして笑つてゐたそうだ。

 唯笑つてるばかりならイゝが、『俺を捕まへやうてには一師団の兵が要(い)る』ナドゝ大言してゐた。

 大杉には恁ういふ児供げた見得を切つて空言を吐く癖があつたので、此の見得を切るのが大杉を花やかな役者にもしたが、同時に奇禍を買う原因の一つともなつた。


(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思い出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)





 袋一平一家は柏木の大杉の家に世話になっていたが、袋の母と妻とふたりの男児の四人は、神戸の安谷寛一の家に世話になることになった。

 村木の紹介状を持って、袋が家族を安谷の家に連れて行った際、袋が安谷に大杉のこんなエピソードを語ったという。


 ……震災後十日ばかりたって誰か周囲も割合静かだったのでレコードをかけようかと云ったのがいたらしい。

 何しろ、袋もやはり鴬谷の方にいたのが上野公園に逃げ込んで柏木まで歩いて大杉のところに転りこんだような訳ですから、ごちゃごちゃしているその中の一人がそう云った。

 すると大杉が『とんでもない話だ。困っている人が沢山いるのにこんな場所でレコードをかける馬鹿があるか』と血相変えて怒ったということです。

 その話の続きではないけれども、『革命というのはこんな時にやるんじゃないか』と云った人があった。

 それにも『どさくさまぎれにどたどたとやるのが革命じゃないんだ。だから多くの人が家もなければ食う物もないといって右往左往しているときに変なことをして困っている人をなお困らせてはいけないんだ』と大杉が云ったと袋が話しておった。

 こんなようなわけでどさくさまぎれに爆弾を持って走り廻る恐れは全くなかったし、実際夜警か何かに出て近所の人にも感謝されていたというようですから、そう妙な殺され方はしなくともよかったんです。


(安谷寛一「大杉栄と私」/『自由思想研究』一九六〇年七月号)




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第430回 流言蜚語






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年九月三日、野枝は代準介に手紙を書いた。

 宛先は「福岡市住吉花園町」。


 未曾有の大地震で東京はひつくりかへるような騒ぎです。

 しかし私共は一家中無事ですから御安心下さい。

 恐ろしい地震につづいて三日にわたる火事で東京の下町は全部焼けてしまひましたさうです。

 火の手は私共の家からもよく見えました。

 私共も二日は外にゐました。

 今日は雨ですから家にはいつてゐます。

 恐いのは食物のない事です。

 お米はもう玄米しかなくそれをやつと二斗手には入れましたがそれさへもあとはもうないのです。

 一升八十銭とか九十銭とか云つてゐるさうです。

 何もかもまたゝく間になくなつてゆきます。

 御都合がつきますなら出来るだけ早く白米を二三俵が四五俵鉄道便で送つて頂き度うございます、当分の間は恐ろしい食糧難が来るとおもひます。


(『福岡日日新聞』一九二三年十月四日・二面/「書簡 代準介宛」一九二三年九月三日『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)


『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、この手紙は野枝の死後、『福岡日日新聞』(一九二三年十月四日・二面)に「恐ろしい震災を認めた野枝が最後の手紙 白米四五俵を送つて下さい 福岡の叔父に当てた依頼状」と題して収載された。

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 同日、野枝は今宿の父にも葉書(官製)を書いた。

 宛先は「福岡県糸島郡今宿」で、ペン書き。


 大変な大地震でしたが私共は幸ひにみんな無事でした。

 東京市中は三日にもわたつて目貫きの処が全部焼けてしまひました。

 全くの野原です。

 私共の方は市外なので火事をのがれたので無事にすんだのです。

 それでもまだ揺れるのはやみません。

 二日はそとにゐましたが今日は昼から雨で家の中にゐます。

 もう心配はあるまいとおもひます。

 またくはしくはあとで手紙をかきます。

 とにかく私共は無事で本当にしあはせです。

 九月三日


(『長崎新聞』一九二三年十月十日・二面/「書簡 伊藤亀吉宛」一九二三年九月三日/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)


『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、この葉書は野枝の死後、『長崎新聞』(一九二三年十月十日・二面)に「野枝より実父へ宛てた最後の葉書……」と題して写真版で掲載された。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、九月三日、野枝は代準介に電報も打っている。

 野枝から米を送ってくれという電報を受け取った代準介は、震災で東海道線が不通になり鉄道便では届かぬと考え、博多から船便で米五俵を送ったという。





 九月一日は、近藤憲二がアルスに入社して満一年目だった。

 この日、近藤はアルスに出社せず、朝から本郷区駒込片町の労働運動社で仕事をしていた。

 地震による労働運動社の被害は、棚の本が洪水のように崩れ落ちた程度で、二階で病臥していた和田久太郎も無事だった。

 九月二日の早朝、近藤が銀座のアルスの焼け跡に行った後、日比谷公園に立ち寄ると焼け出された服部浜次一家が避難していた。

 近藤の記憶では、近藤が駒込から柏木の大杉の家まで徒歩で行ったのは、九月四日ごろだった。


 柏木へは、服部浜次さん夫婦と、大杉の弟伸さんの友人袋一平君(今はソ連映画の評論家)が焼け出されており、大杉は「これで『日本脱出記』の原稿を催促されないで助かった」と、のうのうとしていた。

 その後、大杉の家をも一度(ママ/※「もう一度」だろう)訪ねたかも知れぬが、はっきりした記憶がない。

 たぶんそれが大杉たちと別れた最後であったろうと思う。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』/平凡社・一九六五年六月三十日)





 九月初旬のある晩だった。

 内田魯庵が夜警の提灯を持って家の角に立っていると、買い物帰りらしい野枝が通りかかって、魯庵に声をかけた。

 野枝は左手に大きな分厚い洋書を二冊抱え、右手に新聞と小さな風呂敷包みを下げていた。

「報知の夕刊をご覧なすって?」

「いえ」

 そのころはまだ新聞が配達されなかった。

「鎌倉は大変ですわ。八幡さまが潰れて、大仏さまが何寸とか前へ揺り出しましたって。ご覧なさいまし」

 と、野枝が手に持った新聞を魯庵に見せた。

 提灯の照明(あかり)でははっきり解らなかったが、魯庵がちょっと覗いてすぐ返すと、

「お宅へ持ってらしてご覧なさいまし」

 と、野枝がしきりに言ったが、買ってきたばかりで野枝もまだ読んでないようだったので、魯庵は新聞を野枝の手に無理に押し返した。

「夜警は大変ですわね。家から椅子を持ってまいりましょうか、いくらもありますから」

「いえ、家にも持ってくればあるんですが、面倒なもんですから」

「そうですか。でもおくたびれでしょうね。大杉もご近所同士で家の角へ夜警に毎晩出ておりますわ。町内のお付き合いですもの」

 と、野枝は笑った。





 能く大杉は夜警に出ると思つたが、実際毎晩ステツキを持つて、自宅の曲り角へ夜警に出てゐたのを見た。

 鮮人襲来の流言蜚語が八方に飛ぶと共に、鮮人の背後に社会主義者があるといふ声がイツとなく高くなつて、鮮人狩が主義者狩となり、主義者の身辺が段々危うくなつた。

 此騒ぎを余所(よそ)に大杉は相変らず従容として児供の乳母車を推して運動してゐた。

『用心しなけりやイカンぜ』と或時邂逅(であ)つた時に云ふと、

『用心したつて仕方が無い。捕まる時は捕まる』と笑つてゐた。

 後に聞くと、大杉に注意したものは何人もあつたが、事実此頃の大杉は社会運動からは全く離れて子守ばかりしてゐたから、危険が身に迫つてるとは夢にも思つてないらしかつた。


(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思い出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)




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2017年02月15日

第429回 キュウビズム






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年九月一日、関東大震災発生時、平塚らいてう一家は豊多摩郡千駄ヶ谷町九〇五の借家に住んでいた。

 年初から伊豆山の旅館住まいをしていた平塚一家は、この年の四月に帰京、同地に居を定めたのである。


 平塚家にはらいてう、奥村、長女・曙生(八歳)、長男・敦史(六歳)、一家四人が居合わせていた。


 ちょうど昼食の仕度に台所に立って、シチューをこしらえようと肉の罐詰をあけたり、じゃがいもやにんじんの皮を剥いたりしていたときのことです。

 ふと、代々木方面から四、五台の自動車が続いて走ってきたかとおもわれるような地響きを聞きました。

 次の瞬間、その間違いに気づくと同時に……地震と……はっきり知られるほど家がゆれ出したのです。

 まっすぐ立っていられないほどの大揺れで、見る間に本棚の上の置時計や写真立てがころげ落ち、本棚が倒れて、本が飛び散りました。

 襖も障子も外れて、壁土が舞い落ち、一瞬にして家のなかは、滅茶々々になりました。


(『原始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(完結篇)』/大月書店・一九七三年十一月十六日)

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 震動が少しおさまったので、らいてうが外に出てみると、あたりの家は軒並み瓦や壁が落ち、門や塀の倒れた家も少なくなかった。

 外に出たらいてうは、余震が続く中、立っていられないので道端の樹の幹に抱きついて身を守った。

 二、三時間すると、市内の勤め先から逃げ帰って来た近所の人々から、らいてうは市内の惨状を耳にした。


 そんな話の間にも、南の新宿の方角の空には、赤黒い煙が大きく広がってゆき、火勢の烈しさを物語るようでした。

 そして、夜とともに、東南の空いちめんが血の色に染められ……。


(同上)


 しかし、らいてう一家の借家は被害が少なく、壁の修理をした後、そのまま住むことができた。





 そのころ、辻潤は母・美津、長男・一(まこと)、愛人の小島キヨ(二十一歳)と、神奈川県橘樹(たちばな)郡川崎町に住んでいた。

 大地震発生時、辻は風呂屋にいた。


 裸形のまま夢中で風呂屋を飛び出して、風呂屋の前で異様な男女のハダカダンスを一踊りして、それでもまた羞恥(ダダはシウチで一杯だ)に引き戻されて、慌てて衣物を取り出してK町のとある路次の突き当りにある自分の巣まで飛びかへつてくるまでの間には久しぶりながらクラシックサンマァン(ママ/クラシックサンチマン)に襲われて閉口した。

 幸い老母も子供もK女も無事だつたが家は表現派のやうに潰れてキュウビズムの化物のやうな形をしてゐた。

 西側にあつた僕の二階のゴロネ部屋の窓からいつも眺めては楽しんでゐた大きな梧桐(あをぎり)と小さいトタン張りの平屋がなかつたら勿論ダダイズムになつてゐたのは必定(ひつぢやう)であつた。

 それから約十日程は野天生活をして、多摩川湯へはいりに行つた。


(辻潤「ふもれすく」/『婦人公論』一九二四年二月号/『辻潤全集 第1巻』 )





 死者行方不明者十二万余の被害をもたらした関東大震災。

 九月二日に東京市に戒厳令が宣告され、三日には東京府全域と神奈川県に、四日には埼玉県、千葉県に拡大された。

「朝鮮人、社会主義者が井戸に毒を入れた」などのデマが流布し、多数の朝鮮人や中国人が警察・軍隊・自警団によって虐殺される中、社会主義者の川合義虎平沢計七など十名が亀戸警察に連行され、習志野騎兵第十三連隊に虐殺されたのは九月三日〜五日だった(亀戸事件)。

 九月二日の朝、近所の川本(かわもと)の原に大勢の人が避難していると聞いた魯庵が様子を見に行った帰りに、大杉の家を訪ねると、大杉はまだ寝ていたのか魯庵の声を聞くと、起きて来た。

「よく家の中に寝たね」

 と魯庵が言うと、

「たいてい大丈夫だろうと度胸を決めて、家の中で寝た。もっとも……」

 と言いながら、大杉は塀の外を指して、

「あそこへ避難所をこしらえておいて、いざとなったらすぐ逃げ出す用意はしていた。アナーキストでも地震の威力にはかなわない」

 と笑った。


 九月の上半は恐怖時代だつた。

 流言蜚語は間断なく飛んで物情恟々(きょうきょう)、何をするにも落付かれないで仕事が手に付かなかつた。

 大杉も引籠つて落付いて仕事をしてゐられないと見えて、日に何度となく乳母車を押しては近所を運動してゐたから、表へ出るとは(ママ)番毎(ばんこ)に邂逅(であ)つた。

 遠州縞の湯上りの尻絡(しりからげ)で、プロの生活には不似合ひな金紋黒塗(きんもんくろぬり)の乳母車を押して行く容子は抱への車夫か門番が主人の赤ちやんのお守をしてゐるとしか見えなかつた。

 地震の当座、私の家の裏木戸は大抵明け放しになつてゐたので、能く裏木戸からヒヨツコリ児供を抱いてノツソリ入つて来ては縁端へ腰を掛けて話し込んだ。


(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思い出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)





 乳母車を押しながら、自宅近辺を徘徊していた大杉は、安成の家にも声をかけて行った。


 野枝さんの叔母さんが福岡へ連れて行つてゐた三番目の子のエマちやんも彼等の懐ろに帰つて来てゐた。

 児煩悩な大杉はその子と四番目のルイズちやんと、二人を乳母車に乗せては、夕方になるとそこらを歩いてゐた。

 そして何時も私の門口から声をかけた。


(安成二郎「かたみの灰皿を前に」/『改造』一九二三年十一月号/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』収録時に「かたみの灰皿」に改題)




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2017年02月12日

第428回 最後の写真






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年九月一日、午前十一時五十八分三十二秒、相模湾沖でマグニチュード七・九の地震が発生した。

 そのとき魔子は安成二郎の家でお昼を食べていた。


 地震の時は、恰(ちよう)ど皆んなで食事の最中であつたが、最初の震動が来ると、魔子ちやんと私の二人の子とが、わーツと泣き声を上げて洗足で外へ駆け出した。

 それで私は驚いて直にその後を追つかけ、三四間程のところでやつと三人を引き止めたが、おかげで私は二度目の大ゆれといふやつをちつとも見ずに仕舞つた。

 それ以来、魔子ちやんは私の家に来なかつた。

『どうして来ないの』といふと『をぢさんのところは地震があるから』と言つてゐた。


(安成二郎「かたみの灰皿を前に」/『改造』一九二三年十一月号/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』収録時に「かたみの灰皿」に改題) 

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 魔子はこう回想している。


 ……震災の時、私達は柏木に住んでゐた。

 その頃近所に父の親友のYさんが住んでゐられて(これもあとで本で読んだのだが、柏木の家はそのYさんがお世話して下さつたのださうだ)私と同じ年頃のお友達があるので、毎日かゝさず遊びに出掛けた。

 あの日も朝傘を持つて水玉模様の浴衣を着て足駄をはいて(と思ふのだが)出掛けた。

 毎日の習慣でYさんの家でおひるを食べ終つたかと思ふ頃、ガラ/\とやつて来たのだつた。

 どうやつて逃げたのかはおぼえてないが、とにかく間もなく父が例のしりつぱしよりでやつて来たのを、私が一番早く見つけて、飛びついて、すぐにその手にぶらさがり乍ら家へ帰つたのだ。


(伊藤真子「父 大杉栄の記憶」/『婦人公論』一九三五年七月号)





 この大地震が起きた直後の大杉の家の状況については、水上雪子の証言が残っている。

 地震の直後、雪子はとっさにルイズを抱きかかえてイチジク畑に走り込んだ。

 一九七〇(昭和四十五)年、雪子と伊藤ルイ(ルイズ)が四十七年ぶりに再会し、雪子がこう回想している。


「ルイちゃんを連れ出したあと、あっ、ネストルちゃんが二階に寝ていたと気づいて、慌てて駆け上がったんですよ。ほんとに間一髪でした。運び降ろしたとたんに、階段が崩れ落ちたんですからね。ーーええ、あの日は魔子ちゃんはいなくて、エマちゃんはモトおばさんが抱いて連れ出したから」

(松下竜一『ルイズーー父に貰いし名は』_p14/講談社・一九八二年三月十日)


『ルイズーー父に貰いし名は』によれば、「……福岡県今宿の、没落した料理屋の娘雪子は、上京して大杉家最後の女中となった。当時の雪子は髪が縮れおでこが出て、キョロッとした大きな眼までがルイズと姉妹のように似ていて、それを人にいわれるたびにルイズ贔屓になっていた」。

 雪子は甘粕事件後、大杉と野枝の遺児たちと一緒に郷里・福岡に帰ったが、大杉家の手伝いをしていたことをひた隠しにし、人に語らなかった。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九八二(昭和五十七)年にRKB毎日放送でドキュメンタリー番組『ルイズ その絆は』が放映されたが、その中にルイズ(伊藤ルイ)が雪子を探し、奈良の養老院を訪ねる感激の場面があるという。





 内田魯庵はこの日のことを、こう書き記している。


 九月一日の地震のあと、近所隣りと一つに凝(かた)まつて門外で避難してゐると、大杉はルヰゼを抱いて魔子を伴(つ)れてやつて来た。

『どうだつたい。エライ地震だネ。君の家は無事だつたかネ?』と訊くと、

『壁が少し落ちたが、大した被害は無い。だが、吃驚(びつくり)した。家が潰れるかと思つた。』

『下町はヒドからうナ。安政ほどぢやなからうが二十七年のよりはタシカかに大きい。之で先づ当分は目茶苦茶だ。』

「だが僕は、毎日々々セツ付かれて困つてたんだから、地震のお庇(かげ)で催促の手が少しは緩むだらうと地震に感謝してゐる、」と軽く笑つた。

 何でも大杉は改造社とアルスから近刊する著書の校正や書足しの原稿に忙殺されてゐたのださうだ。

 彼是れ小一時間も自分達と一緒に避難をしてゐたらう。

 余震の絶間なく揺(ゆ)る最中で、新宿から火事が出たとか、帝劇が今燃えてるとかいふ警報が頻りであつたので、近所隣りの人々がソワ/\して往つたり来たりしてゐた。

 そこへ安成二郎がコダツクを下げて来て、いゝ獲物もがなとソコラココラの避難の集まりを物色してゐた。

『どうだい、』と私は安成に向つて云つた。

『大杉に何処かソコラの木の下に立つて貰つてアナーキストの避難は面白からう。』

 大杉は笑つてゐた。

 安成が此写真を撮つたら好い記念だつたらうに、惜しい事をした。

(後に聞くと、夫から大杉の自宅へ行つて大杉夫妻を庭前で撮したのだが、名人だから光線が入つたのださうだ。)


(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思い出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)


「改造社とアルスから近刊する著書」とは、大杉の死後に発刊された改造社『自叙伝』(一九二三年十一月二十四日)とアルス『日本脱出記』(一九二三年十月二十五日)である。





 安成がコダツクを下げてやって来た場面を、安成本人はこう書いている。


 その日、地震がやゝ鎮まつてから、私はコダツクを下げて出かけて行つた。

 内田(魯庵氏)さんの家の前に、内田さんの家族の人達と一緒に大杉も立つてゐた。

 内田さんは読賣に大杉のことを書いて、『大杉に何処かソコラの木の下に立つて貰つて、アナーキストの避難は面白からう』と言つたが、私がさうしなかつたので『安成が此写真を撮つたら好い記念だつたらうに、惜しい事をした』といふやうに書いてゐるが、実はそれから内田さんに別れて、大杉と二人で彼の避難所へ行つて、そこに椅子を持ち出して腰をかけてゐる大杉と野枝さんを写したのだ。

 之が二人の最後の写真にならうとは、彼等も私も元より思ひも寄らないことであつた。


(安成二郎「かたみの灰皿を前に」)



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2017年02月10日

第427回 くらちゃん






文●ツルシカズヒコ



 大原社会問題研究所からドイツに留学していた森戸辰男が八月九日に帰国したので、大杉は森戸に葉書を書いた。


 御帰りのよしきのふ始めて新聞で知りました。

 ドイツへ行つたら是非御訪ねしたゐと思つてゐたのだが、/近日御訪ねしたいと思つてゐます。

 /八月十一日


(大杉豊『日録・大杉栄伝』から引用/広島大学文書館所蔵)


 大杉は自宅の住所を「淀橋町柏木三百七十一(大久保脳病院裏)」と記したが、森戸の家は東大久保なので、両家は徒歩圏内だった。

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 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、大杉から「男児誕生」の電報を受け取った代準介は、八月十六日に博多から上京した。

 野枝の叔母・坂口モト、三女・エマ、伊藤の親戚の娘・水上雪子(十八歳)も代と一緒に上京した。

 雪子は産褥中の野枝の家事育児の手助けのために、しばらく大杉の家に同居することになった。

 上京した代はいつものように手みやげを携え頭山満邸を訪問し、大杉の家で十日ほど過ごした。

 代は八月二十七日に東京を発ち、大阪で二泊、関東大震災が起きる前日、八月三十一日に博多に戻った。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、この月(八月)、大杉が横浜の次弟・勇を訪ねたという。

 大杉は代準介が博多に帰るのを見送りがてら、横浜まで行ったのかもしれない。

 大杉が横浜・西戸部町の勇の家に行くと、近所の友人(池田琴次郎)宅へ行っているというので、そちらに廻ると、二人はテニスに出かけて留守だった。

 大杉は二人が戻るまで池田宅で待ち、座敷で昼寝をし、扇子に揮毫をしていったという(大杉豊が池田の長男・潔から聞いた直話として『日録・大杉栄伝』に書いている)。

 野枝の父・亀吉も今宿から上京し、大杉家に泊まったことがあるという。

 大杉と野枝が虐殺された甘粕事件の直後、亀吉がこう語っている。


 大杉にしろ野枝にしろ世間では何と言つても、人間としては慈愛深い父母であり、子供でした。

 ことに大杉は私たちを実父母のやうに優しくして、東京を訪れたときなどは、床もとつてくれるし、ひげが伸びると床屋へ行けといふし、夜分は自分で枕元に火鉢や時計まで運ぶなど細かいところまで気を配つてくれたものです。


(長崎新聞一九二三年十月九日/大杉豊『日録・大杉栄伝』_p470より孫引き引用)





 安成二郎「かたみの灰皿を前に」によれば、八月二十三日ごろ、野枝は慶応大学病院に入院中の安成の妻を見舞った。

 安成二郎「挿話」によれば、安成の妻の経過は順調で八月いっぱいで退院することになったが、退院後直ぐの立ち働きを気づかった安成は、女中を求めることにした。

 安成が大杉の家に行って相談すると、

「くらちゃんはどうだろう」

 と、大杉が野枝を顧みて言った。

「そうですね、来るかもしれませんね。雪ちゃんへこの間、手紙が来ていたんですが、聞いてみましょうか」

 野枝は二階から下りて行き、すぐに上がって来て、

「来たがってるそうですよ、手紙を出してくれるように頼んでおきましょうか」

「え、どうぞ。僕は大杉君のような危険人物ではないと言ってやるようにして下さい」

 野枝の従妹の雪ちゃんは、大杉一家が労働運動社に住んでいたころも女中をしていたことあったが、くらちゃんは労働運動社の隣りの弁護士の家の女中だった。

 くらちゃんに対する弁護士の細君の扱いがひどいので、同情した雪ちゃんは大杉家の自分の部屋にくらちゃんを引き取り、面倒を見ていたことがあった。

 雪ちゃんのその行為は誰にも相談することのない独断だったが、大杉も野枝も気にとめることはなかった。

 野枝が安成に太鼓判を押すように言った。

「くらちゃんなら、それは大変な働き手ですから、いくら仕事があっても大丈夫です」

 くらちゃんは郷里の秋田に帰ってから体調を崩していたが、雪ちゃんが安成に言った。

「まだ体がしっかりしてないようですが、東京に出たいと言ってますから、すぐに手紙を出しましょう」

「私も秋田の人間ですからって言ってやって下さい」

 と安成は頼み、その日のうちに旅費の為替をくんで雪ちゃんに渡した。

 しかし、結局、くらちゃんは上京しなかった。

 十月の半ばごろ、なかなか上京して来ないくらちゃんに、安成が手紙を出すと、彼女の父親から葉書が届いた。


 クラは田舎なれど三名の御医者の手にかゝり、専ら快よくなるものと思居り候処、伊藤野枝さんの話を知らせたるに大いに落胆いたし、その後日増に重態となり……遂に本月十四日午前八時死去致し候。

 死ぬ三日前より昼夜の別なく魔子ちやん/\雪ちやん/\とお両人の名を非常によんで永眠仕り候……。


(安成二郎「挿話」/『秋田魁新報』一九二四年一月/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』)


 大杉と野枝が虐殺され、その打撃にへし折れそうになっていた安成の心も少し落ち着いて来ていたが、この葉書を見た安成の胸の底は疼き、何とも言えない気の毒なクラちゃんの一生を考えて暗然とした。





 野枝は『婦人公論』九月号のアンケート「人生に於ける恋愛の位置」に回答を寄せている。

 以下、抜粋要約および引用。

 
 ●込み入った難しい問題ですね。

 ●人それぞれの人生観、時と場合によって大きな相違があるのではないでしょうか。

 ●恋愛は人間に大きな転機を与えたり、生死の間を彷徨させるような動機をもたらします。

 ●しかし、恋は人生の第一義的なものだとすぐに言い切ってしまうことはできないでしょう。

 ●恋愛は人間を非常に強くします。恋の後押しがあれば、ずいぶん思い切った敵も平気で作り、その敵と戦いもします。義理も人情も平気で踏みにじります。

 ●一生の前途を棒に振って、喜んで死んで行くという不思議なことも敢行させます。

 ●恋愛はいい条件のもとにおいては、実に平凡です。なんの異常な力も生じません。そしてかすかに華やかだった色彩も徐々に薄れていきます。

 ●高調した恋の感情が異常な力を発揮するのは、その恋が不遇の場合に限られます。不遇な恋は猛然と反抗します。

 ●しかし、不遇におかれて生じる本能的な反抗心は、恋愛だけに限られたことではありません。

 ●ゆえに恋愛には何の価値もなく不道徳なものでさえあるという考えに反対するのは当然ですが、恋愛を人生最大の目的とする考えにも反対です。





『如何によく生きるか?』と云ふ人間の大事な問題が、どんな答へで解決するかによつて事はきまるのではないでせうか。

 そして私は今迄自分の『生命』を恋愛の為めに捧げた勇敢な人達が、つひに本当に現実的にはよく生き得なかつたといふ事実を挙げることが出来ます。


(「人生に於ける恋愛の位置」アンケート回答/『婦人公論』一九二三年九月号・第八年第九号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)


 ラストの引用文はちょっとわかりづらいが、野枝はこう言いたかったのであろう。

 恋愛に殉じて死んだりする人がいますが、つまり心中とかですが、それは現実逃避でしかありません。

 これは有島武郎の心中事件に対する、野枝の見解であろうと思われる。


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2017年02月09日

第426回 ネストル・マフノ






文●ツルシカズヒコ





 一九二三(大正十二)年八月八日、野枝は橘あやめに葉書(官製)を書いた。

 ペン書きで、宛先は「静岡市下二番町一五番地 伴野医院内」。


 転居

 東京市外淀橋町柏木三七一 野枝

 宗坊の病気は大したことはないさうだから心配しずに、御自分の体を大事になさい。

 いづれ勇さんのところへ行つて様子を見てからおしらせしたいとおもひます。


(「書簡 橘あやめ宛」一九二三年八月八日/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

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 八月九日、野枝が長男・ネストルを出産した。


 野枝さんはお産は何時も軽く済んださうだが、今度のネストル君は少し早産で、いつもよりは重いと言つていた。

 早産をしたのは、その二日程前の晩に、縁側でルイズちやんにお湯を使はせて、その盥の湯を庭へ捨てる時、『盥と一緒に庭に落ちて、ドシンと尻もちをついちやつたんだもの』と、野枝さんがあとで笑つて話した。


(安成二郎「かたみの灰皿を前に」/『改造』一九二三年十一月号/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』収録時に「かたみの灰皿」に改題)


 当時、大杉は「無政府主義将軍 ネストル・マフノ」(『改造』一九二三年九月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第二巻』/『大杉栄全集 第7巻』)を執筆中で、ネストルという命名は、この名にあやかったのである。

 この命名についても、安成は書き記している。


 ……名前はついたかと私がきくと、傍にゐた野枝さんに、ネストルにしようかネと、何度目かの相談といふ調子で大杉君が言つた。

 ネストルつて何だときくと、さういふ無政府主義者がゐるんだ、その人のことを此の間書いたからと彼は答えた。


(「大杉君の遺児達」/『改造』一九二四年十月号/安成二郎『無政府地獄 - 大杉栄襍記』)





 魯庵が銭湯で大杉に会ったのは、大杉一家が来訪した四、五日後だった。

 魔子を連れた大杉は、洗粉や石鹸などの七つ道具をそろえて、洗い場で体を洗っていた。

 この子煩悩のお父さんが、官憲から鬼神のように恐れられている大危険人物だとは、番台の娘も流しの三助も気がつかないだろうななどと思いながら、魯庵が表に出ると、湯屋の角の交番で飛白(かすり)の羽織を着た尾行が張番をしていた。


 ツイ眼と鼻の間にをりながら夫(そ)れぎり大杉は来もしなかつたし、私もお産があつたと聞いたが見舞ひにも喜びにも行かなかつた。

 が、大杉は始終乳母車へ児供を乗せて近所を運動してゐたから、能く表で出会つては十分十五分の立話しをした。

 魔子は毎日遊びに来たから全家(うちじゆう)が馴染になり、姿を見せない日は殆んど無かつたから、大杉や野枝とは余り顔を合わせないでも一家の親しみは前よりは深かつた。

(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思い出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)





 一九二三(大正十二)年八月十日から十五日の間のある日、佐藤春夫が日夏耿之介(ひなつ-こうのすけ)と堀口大學と一緒に銀座に出て、尾張町に近いレストラン「清新軒」に入ろうとすると、店から出て来る大杉と遭遇した。

 大杉はヘルメットを被り白い洋服の洋装で、魔子の手を引いていた。

 佐藤は日本を脱出した大杉がフランスから帰国したことは新聞で知っていた。

 しかし、帰国歓迎会の招待状をもらったが出席はしなかった。

 そのせいか、佐藤には大杉がいつもより珍しかった。


「や!」と私は呼びかけた。

 彼は生き生きした血色であった。

 私は言った「ひどく顔色がよくなった。よく肥った。若くなったね」

「うん、健康はいい」

「どこにゐるのーーやっぱり鎌……、いや西巣鴨とか、新聞で見たが……」

「いや、四五日前越した。柏木だ」

 私たちは軽く頭を下げ合って、別別の方向へ歩き出した。

「君が大杉を知ってゐるのは妙だね」と日夏耿之介が清新軒の卓上で言った。

「うん」と私は答へた「僕は十年ほど前から大杉とは口を利く間柄だよ」

 大杉は殺された時、白いリネンの背広服だったと新聞に書いてあった。

 私が最後に逢った時に見かけたあの同じ服装であったのであらう……。


(「吾が回想する大杉栄」/『中央公論』一九二三年十一月号/『佐藤春夫全集 第十一巻』・講談社・一九六九年五月三十日)





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第425回 柏木






文●ツルシカズヒコ



 安成二郎「かたみの灰皿を前に」(『改造』一九二三年十一月号/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』収録時に「かたみの灰皿」に改題)によれば、大杉一家が本郷区駒込片町一五番地の労働運動社から、豊多摩郡淀橋町字柏木三七一番地に引っ越して来たのは、一九二三(大正十二)年八月五日だった。

 この大杉一家の新居の住所は、現在の「北新宿一丁目十六-二十七」である(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 内田魯庵「最後の大杉」によれば、大杉と野枝が魔子とルイズを連れて魯庵の家を訪れたのは、八月六日だった。

 魯庵と大杉の交流が始まったのは、赤旗事件で入獄していた大杉が出獄したころだったが、ここ数年ふたりは没交渉だった。

 ふたりが最後に言葉を交わしたのは数年前で、銀座で遭遇したふたりは十五分くらい立ち話をした。

 そのとき大杉は野枝と一緒だったので彼女を魯庵に紹介したが、野枝は離れて立っていたので、魯庵にとってこの日の野枝との対面は、初対面のようなものだった。

 突然の大杉一家の来訪は魯庵にとって思いがけないことだったが、家人に二階に通すように言うと、白地の浴衣姿の大杉が現われ、その後に子供を抱いた大きなお腹の野枝と新聞の写真でお馴染みの魔子がついて来た。

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 之が魔子で、之がルイゼで、此外にマダ二人、近日お腹から飛出すのもマダあると云つて笑つた。

 以前から見ると面差(おもざし)が穏かになつて、取別けて児供に物を云ふ時は物柔(ものやさ)しく、恁(か)うして親子夫婦並んだ処は少しも危険人物らしくも革命家らしくも無かつた。

『イゝお父さんになつたネ、』と覚えず云ふと、野枝さんと顔を見合はしてアハゝゝと笑つた。

 ……昨日同番地へ移転(ひつこ)して来たと云つた。

 ツイそこの酒屋の裏だと云ふから段々訊くと、近頃まで何とかいふ女医が住んでゐた家だ。

『あの家(うち)は本はお医者さんで、移転(ひつこ)したてに家の塀の角へ看板を出さしてくれとタウルを半ダース持つて頼みに来た、』と云ふと、『そんなら僕も看板を出さして貰はうかナ』と云つた。

『アナーキストの看板ぢやタウルの半ダースぐらゐじや引受けられない』と云つて笑つた。

 魔子は臆面の無い無邪気な子で、来ると早々私の子と一緒に遊び出した。

 野枝さんの膝に抱かれたぎりのルイゼはマダあんよの出来ない可愛いゝ子で、何を云つても合点々々ばかりしてゐた。

 アツチもコツチもとお菓子を慾張つて喰べこぼすのを野枝さんが一々拾つて世話する処は矢張世間並のお母さんであつた。

 エンマ・ゴルドマンを私淑する危険な女アナーキストとは少しも見えなかつた。

『日本ばかりぢや騒がし足りないと見えて、仏蘭西までも騒がして来たネ。雀百まで躍りやまずで、コンナに多勢の子持になつても矢張浮気は止まんと見えるネ』と云ふと、『矢張時代病かも知れない』と大杉は吃りながら云つた。

『夫(それ)でも』と野枝さんは微笑みつゝ、『尾行が申しましたよ。児供が出来てから大変温和しくなつたと。』
 
 大杉が児供を見る眼はイツモ柔和な微笑を帯びて、一見して誰にでも児煩悩であるのが点頭(うなづ)かれた。

 野枝さんも児供が産れる度に、児供が長(おお)きくなる毎に青鞜時代の鋭どい機鋒が段々と円くされたらうと思ふ。


(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思い出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)


 野枝は子供を連れて先に帰ったが、大杉は昼になって迎えが来ても根を生やして、魯庵とあり合わせの昼食を一緒に食べ、三時ごろまで話し込んだ。

 大杉は思想上の立ち入った問題には触れず、フランスでの体験をしゃべった。





 中央線の大久保駅に近い大久保百人町の安成の家と、大杉一家の新居は三丁足らずの距離だった。

 八月二日に白馬山に登山に向かった安成が帰宅したのは、八月七日の早朝だった。

 安成の子供たちはまだ寝ていて、一緒の床に魔子も眠っていた。

 八月四日に野枝が魔子を連れて新居の掃除に来て、魔子はその日から安成の家に泊まっていた。

 八月八日、安成が大杉の新居を訪問すると、大杉は明るい二階の籐椅子に座り、落ち着いた顔で安成を迎えた。

 この日の訪問のことを安成は「二つの死」に記している。

「二つの死」はフィクションの形式で書いているが、安成自身が書いた解説によれば、文中の「杉村」は大杉、「近野」は近藤憲二のことである。





「これはなか/\好い家だね、探し方がうまいからね」と私は笑つて言つた。

「周囲に二階家が少いから、展望がきいて好いよ」と彼も愉快さうであつた。

「家主の方は簡単に行つたのか」

「ああ、近野の名で申込んだが、その時主人が留守だつたので、あとで電話できくと、住む人は近野さんで無く杉村さんでせう、杉村さんならお貸しゝます、といふ狐につまゝれたやうな返事なんだ」

「それは変だね、君のやうな男に好んで家を貸さうなんて、全く狐を馬に乗せたやうな話ぢやアないか、家主は何物かね」

「何んでも新潟県とかに寺を持つてる坊主ださうだが、何にしろ僕は人望があるよ」

 杉村はさう言つて、嬉しがつてゐた。

 裏庭には青桐が涼しさうな広葉を風にそよがせてゐた。

 前庭には大きな石などもあつて、何か四五本の植込みもあつたが、その石の傍に、一本の枯れ松が立つてゐた。

「あの枯れ松が下座敷から見るとそんなでも無いが、二階から見るとバカに目立つよ」

「さうだ、あいつはいけないね、切つて了へア好いぢやないか」

 が、とうたう最後まで、その枯れ松は切らずに立つてゐたのである。

 そんなことに、何かの不幸を予感するには、杉村の気持はあまりに明るかつたし、元々、私達は枯れ松などを担ぎはしなかつたが、やはり人智の及ばない何かゞこの世の中にはあるのかも知れないと、私はあとになつて其の一本の松の木にも心を暗くされたのである。


(「二つの死」/安成二郎『無政府地獄 - 大杉栄襍記』・新泉社・一九七三年十月一日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




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2017年02月06日

第424回  Science






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年八月一日、大杉と野枝の共訳書『科学の不思議』がアルスから出版された。

 ファーブルが子供のために書いた「ファーブル科学知識叢書」の第一編である。

 野枝は同書を辻一(まこと)に送った。

 一(まこと)は九月に満十歳になろうしていた。


 野枝さんは殺される少し以前に、アルスから出た大杉君と共訳のファーブルの自然科学をまこと君に送つてくれた。

 それが、野枝さんのまこと君に対する最後の贈り物で、片見になつたわけだ。


「ふもれすく」/『婦人公論』一九二四年二月号/『辻潤全集 第1巻』 ・五月書房・一九八二年四月十五日)

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『科学の不思議』は大杉と野枝が虐殺された後、『大杉栄全集 第九巻』に収録されたが、その編集後記(執筆は近藤憲二であろう)にはこう記されている。


 ……フアブルが児童のために書いた易しい科学書を、『フアブル科学知識叢書』として、大杉君が計画し、アルスから発行された叢書の一つで、野枝さんが原書 “Le Livre d' Histoires”(Récits Scientifiques)を英訳の“The Story Book of Science” から訳し、大正十二年八月に出版された。

 これは原稿を、大杉君がフランスに出かけるとき持つて行つて、上海滞在中に目を通したのである。


(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第九巻』/一九二六年三月二十日)


「Le Livre d' Histoires」の英訳は「The Book of Stories」、「Récits Scientifiques」は「Stories Scientists」。

『定本 伊藤野枝全集 第四巻』解題によれば、The United State Catalog--Books in Print(Fourth edition, N.Y., 1928)で確認すると、野枝が和訳した英訳本は『 Story- book of Science』(trs. by Bernard Maill, N.Y., London: Century, 1912)である。

 野枝は「訳者から」に、こう書いている。





 学問といふものは、学者といふいかめしい人達の研究室といふ処にばかり閉ぢこめておかれる筈のものではありません。

 今までの世間の習慣は、学問といふものをあんまり崇(あが)めすぎて、一般の人達から遠ざけてしまひすぎました。

 何の研究でも、その道の学者だけが知つてゐれば、他の者は知らなくてもいゝやうな風に極められてゐました。

 いや、知らなくてもいゝ、ではなくて、知る資格がないやうにきめられてゐました。

 けれども此の習慣は間ちがつてゐます。

 非常にこみ入つた六ヶ(むずか)しい研究は別として、誰れでも一と通りの学問は知つてゐなければなりません、子供でも大人でも。

 子供の為めのお伽話(とぎばなし)の本は、沢山すぎる程あります。

 けれども、お伽話よりは『本当の話が聞きたい』と云ふ、ジユウルのやうな子供の為めのおもしろい本を書いてくれる学者は日本にはあまりないのか、一向に見あたりません。

 私は此のフランスの親切な叔父さんのお蔭で、お伽話ばかりおもしろがつてゐる日本の子供達に『本当の話』がそんなにおもしろいものかと云ふ事が分れば本当にうれしく思ひます。

 そして又、沢山のお父さんや、お母さんや、叔父さんや、叔母さんや、姉さんや、兄さん達が、此の本で、小さい人達の目にうつるいろんな謎を、どういう風に片づけてやるべきものか、と云ふ事、またその事柄をも併せて学んで下されば大変しあはせです。


(アンリイ・ファブル著 大杉栄・伊藤野枝共訳『科学の不思議』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第九巻』/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)





 野枝が下訳をして大杉が手を入れて仕上げたのだろう、この共訳本はたしてどんな案配だったのか、興味があるので、英文原文とその和訳を対比してみよう。

 以下は「THE YEAR AND ITS SEASONS」という章の原文からの抜粋引用である。


 THE YEAR AND ITS SEASONS

"You told us," said Claire, "that at the same time the earth turns on its axis it travels round the sun."

"Yes. It takes three hundred and sixty-five days for that journey; it makes three hundred and sixty-five pirouettes on its axis in accomplishing a journey round the sun. The time spent in this journey makes just a year."

"The earth takes one day of twenty-four hours to turn on its axis; one year to turn round the sun," said Jules.

"That is it. Imagine yourself turning around a circular table the center of which is occupied by a lamp representing the sun, while you represent the earth. Each of your walks around the table is one year. To represent things exactly, you must turn on your heels three hundred and sixty-five times while you circle the table once."

"It is as if the earth waltzed around the sun," Emile suggested.


(『The Story Book of Science 』by Jean Henri Fabre)





 野枝と大杉はこの部分を、こう訳している。


「一年と四季」

『地球は自分で廻りながら、太陽のまはりを廻つて行くんだと云ひましたね。』とジユウルが云ひました。

『さうだ。其の一とまはりするのに三百六十五日かゝる。だから太陽のまはりを廻る間に、地球は自分で三百六十五回廻るのだ。そしてこの一まはりする間に過す月日が丁度一年になるんだ。』

『地球は自分が廻るには二十四時間の一日かゝつて、太陽のまはりを廻るには一年かゝるんですね。』とジユウルが云ひました。

『さうだ。お前が地球になつたとして、太陽の代りにランプを置いた丸テーブルのまはりを廻ると思つて御覧。お前がテーブルを一廻りするのが一年だ。そしてそれをもつと正確にやれば、テーブルを一と廻りする間に、三百六十五回踵(きびす)でグル/\廻らなければならないのだ。』

『まるで地球が太陽のまはりで踊つてゐるやうなものですね。』とエミルが云ひました。


(アンリイ・ファブル著 大杉栄・伊藤野枝共訳『科学の不思議』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第九巻』/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)





 「科学の不思議」はポオル叔父さん(Uncle Paul)が姪のクレエル(Claire)、ふたりの甥のジユウル(Jules)とエミル(Emile)に、科学の話を平易に語って聞かせるというスタイルの本である。

 抜粋引用した英文の冒頭は「said Claire」だから「クレエルが云ひました」が正しいのだが、訳文では「ジユウルが云ひました」と記されている。

 これは訳者のミスなのか、単行本や全集に収録する際のミスなのか不明だが、ケアレスミスであろう。



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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