2017年05月17日

第444回 お餅代






文●ツルシカズヒコ



 橘あやめ「憶ひ出すまゝ(栄兄さん夫婦と宗坊のこと)」は、あやめが大杉と野枝、および橘宗一について書いてほしいという依頼に応じたものだが、しかし、あやめは宗一について書くことはできないと冒頭で記し、その心境をこう述べている。


 最初の程は、親切にお見舞ひ下さいます人々から『宗(そう)一さんが……』の一言を云はれましたゞけで、直ぐ悲しさに身中が慄(ふる)へて了ひました。

 泣き崩れて了ひました。

 私のこの様子を見て傍(そば)の人達ちも『それでは貴女の体が持つまいからーー』と種々になぐさめて下さいますし、それに私自身でも『こんなに泣いてばかり居ては折角アメリカから養生に帰つて来て入院してゐ程の私の体が一さう悪くならう。ーーさうなつては猶さら夫に申訳けが立たない』と思ひ、気を取り直しまして、其の後ちは成可く誰れにも御会ひせぬやう、たゞ静かに寝てゐるやう、そして、なるだけ宗一の事は考へぬやう、憶はぬやうと心懸けて来ました。

 さうして、只今では少しく心も静まつて参りました。

 ですけれど、宗一のことを憶ひ出すまゝ、それを文字で記して行かうといたしましたなら、悲しい私は、二三行書きかけてゐるうちに必(き)つと泣き崩れて了ふことでせうーー。


(橘あやめ「憶ひ出すまゝ(栄兄さん夫婦と宗坊のこと)」/『女性改造』一九二三年十一月号・第二巻第十一号)

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 兄・栄については、まずこう記している。


 栄兄さんは学問の出来る偉い人なのだと、たゞぼんや知つて居ましたばかりで、兄さんの書かれた本などは全(ま)るで読んだことのありません。

 兄さんの主張なさる思想や、行動などが、どんなに悪いことなのか、いゝことなのか、私には少しも分りません。

 けれども、四五年前に一度久しぶりでアメリカから帰つて参りました時、いくら牢に入れられても少しもひるまず、ひどい貧乏な生活をしながら自分の主張のために活動せられてゐる兄さんを見ましては、『あゝ偉い人だーーと』感ぜずにはゐられませんでした。


(同上)





 あやめは一九〇〇(明治三十三)年生まれである。

 二歳の時に母・豊(とよ)を亡くし、継母や親戚の手で育ち、九歳の時に父・東(あずま)を亡くした。

 あやめは父の死に際して、初めて十五歳年長の長兄・栄の存在を知った。

 この時、長兄・栄は赤旗事件で千葉監獄に入獄中だったので、妻の堀保子があやめに面会に来た。

 一時、保子があやめを引き取り面倒を見ていた時期があったが、あやめは間もなく甲府の親戚に預けられた。

 大逆事件との関連の取り調べのため、千葉監獄から東京監獄に移監されていた大杉は、一九一〇(明治四十三)年十一月に出獄。

 出獄後、大杉は甲府の親戚に預けられていたあやめを引き取りに行った。



 
 或る日のこと、私が近所の子供たちとおもての柳の木の下で遊んで居りますと、がらがらつといふ響きと共に私の家の前へ俥(くるま)が着きました。

『あらつ俥が来たーー』と、子供心にたゞ何んとなく嬉しい様な気がして傍(そば)へ駆け寄つて見ますと、それは洋服姿の、大きな眼がぎろつと光つてゐるおつかない人でした。

 そして、其のおつかない人が私の顔ばかりをじろじろと見ますので、私はそつとお友達の後ろへ隠れて了ひました。

 これが千葉監獄から出たばかりの栄兄さんだつたので、私は此の時初めて栄兄さんの顔を知つたのです。

 私は栄兄さんに連れられてまた東京(家は大久保にあつた)へ参りました。


(同上)


 一九一六(大正五)年にあやめはポートランド在住の橘惣三郎と結婚、一九一七(大正六)年に宗一を出産、一九一八(大正七)年暮れに病気療養のために宗一を連れて帰国し、当時、田端に住んでいた大杉家に寄寓した。

 大杉一家はその後、西ヶ原、千葉県の中山、駒込と転居したが、その都度あやめも同居。

 あやめが帰米したのは一九一九(大正八)年秋だった。

 帰米したあやめは大杉一家と折々に文通するようになり、野枝からは「女らしい注意の行き届いた」手紙をもらうようになった。

 あやめはアメリカから大杉一家に送金したこともあったという。


 私は田端に居りました時に、栄兄さん達(た)ちがお正月のお餅を買へなかつた状態をつくづく見て来て居(ゐ)ますので、せめてお餅代なりともお送りしたいと思つて少しづゝ貯め始めました。

 いつの年だつたかよく覚えませんがそのお金を送つて、その後しばらくたつてからふと新聞を見ますと、『大杉栄は近頃非常な成金になつて逗子へ大きな家を構へた』といふ記事が載つております。

 それでは、あのお送りしたお金は正月のお餅代にならずに何にかのご馳走になつたことだらうと、私はその新聞を眺めながら独りでほゝえんだことでした。


(同上)





 大杉一家が逗子に引っ越したのは一九二一(大正十)年十一月だから、あやめが送金したのは、この年の暮れであろう。

 あやめが再度、病気療養のため宗一を連れて帰国したのは、一九二三(大正十二)年四月だった。


 ……栄兄さんはフランスへ行つて居(を)られる(※ママ)お留守で、野枝さん一人で何やかやと親切に世話をして下さいました。

 病院のことや何にやかやと、本当に親味の姉も及ばぬごめんどうを見て下さいました。

 女は女同志ーーと深く感じました。

 それらの親切が、胸の底からこみ上げて来る程嬉しく感じました。

 あゝ、しかしその野枝さんも今は殺されて了ひました。

 栄兄さんも殺されて了ひました。

 可愛い宗坊(そうぼう)までが惨(むごたら)しく殺されて了ひました! ーー十月十六日夜ーー


(同上)





『女性改造』一九二三年十一月号巻末の「文芸欄」に掲載された「或る男の堕落(遺稿)」は、例の吉田一(はじめ)の一件について野枝が書き残していた原稿を掲載したものである。

 アナからボルに転向したかつての同志についての記述だけに、その原稿の発表の場がなかったのか、あるいは発表のタイミングを計っていたのか、ともかく野枝の死後に未発表の原稿が発見され掲載の運びになったのであろう。


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2017年05月11日

第443回 可愛い単純な女性






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年十一月から十二月にかけて発行された主な雑誌で、大杉栄と伊藤野枝の虐殺に関して特集を組んだのは『女性改造』『婦人公論』『改造』である。


『女性改造』十一月号(第二巻第十一号)には、特に特集のタイトルはないが、野上弥生子「野枝さんのこと」、大杉栄・伊藤野枝「七年前の恋の往復」、橘あやめ「憶ひ出すまゝ(栄兄さん夫婦と宗坊のこと)」(目次は「憶ひ出づるまゝ」)を掲載。

 巻末の「文芸欄」には伊藤野枝「或る男の堕落(遺稿)」を掲載している。

「哀しき避難者の手記」という記事もあり、何人かの寄稿者に交じって、平塚明子が寄稿した「震災雑記」が掲載されている。

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『女性改造』同号の編集後記「読者諸姉へ」には、こう記されている。


「女性改造」も今月でほぼ復旧しました。

 殊に本月号には野枝さんの最後の作で、女史近来の力作と称せらるる遺稿や、殺された宗一少年の母である橘あやめ女史のとどろく胸を打ちおさへつゝ追憶の筆を執つて下さつた原稿、大杉夫妻の若き日の燃ゆるやうな恋文、我一流作家たる野上女史の追憶記などは他の雑誌には見られぬ異彩あるものであります。


(『女性改造』一九二三年十一月号「読者諸姉へ」)


「七年前の恋の往復」には、大杉と野枝が交わした手紙三通が掲載されている。

 大杉から野枝宛て・一九一六年五月二日野枝から大杉宛て・一九一六年六月六日、大杉から野枝宛て・一九一六年六月二十五日(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「戀の手紙ーー大杉から」の日付けは六月二十三日)、の三通である。

「七年前の恋の往復」のリードには、こう記されている。


 我武者と思はれる大杉氏にもかうしたこまやかな情の半面があつた。

 野枝さん神近市子さんとの三角恋愛はこの大杉氏の書翰により多く明瞭になります。

 この恋文は例の葉山事件前後(大正五年)野枝さんと大杉氏との恋愛の高潮時代に往復されたものです。

 そして上記の写真は、大地震の日柏木の大杉氏宅前の路次に避難中の氏夫妻を、安成二郎氏が撮影された二人の最後の写真です。


(『女性改造』一九二三年十一月号「七年前の恋の往復」)


「上記の写真」はタイトルとリードの上に掲載されている。





 野上弥生子「野枝さんのこと」は、冒頭に「野枝さんに就いて何か話せと云ふことでお引き受けしたけれども」とあるので、記者による口述筆記であろう。

 野上は『青鞜』を通じて野枝と出会い、自宅が隣接していたことによりふたりの交流が親密になり、野枝が辻家を出て大杉のもとに走り、葉山事件が起きて、それ以来まったく疎遠になったことなど、小説「彼女」(『中央公論』一九一七年二月号/『野上弥生子全集 第三巻』・岩波書店・一九八〇年)に記されていることをまず時間軸に沿って語っている。

「彼女」には記されていない、こんな記述がある。


 大杉氏とのことが起つたのは野枝さんがもう小石川の方へ引き越された後でしたからその過程に就いては私は何んにも存じません。

 たゞたつた一度その家へお訪ねした時に(二度目の赤さんに産着を持つて行つてあげたのだと記憶します)、野枝さんのゐた小部屋の机の上に大杉氏の訳した「相互扶助論」が置いてあつたのを覚えてゐます。

 発売禁止だけれども借りてゐるのだとか云ひました。

 でも誰から借りたのか私は聞かうともしなかつたし、野枝され(※ママ/「野枝さん」)も黙つてゐました。


(野上弥生子「野枝さんのこと」/『女性改造』一九二三年十一月号)





 さらに、野枝が辻との結婚を解消して辻家から出る決意をしたことを報告をするために、野上家を訪れた一件について野上が語っている。

 野枝が訪れたその日、野上家では謡会(うたいかい)が催されていたが、小説「彼女」ではその日が「四月下旬の或日」と記されているが、「野枝さんのこと」では「大正五年の三月」と記述されている。

 この一九一六(大正五)年春の野上家でのふたりの面会が、野上と生前の野枝との永久の別れになったが、「野枝さんのこと」によれば、一九二二(大正十一)年春にふたりは手紙を交わしたという。


 昨年の春であつたと思ひます。

 私たちは或る機会に一度何年ぶりかで手紙の往復をしました。

 野枝さんはいつもの情味のこもつた長い手紙でいろ/\書いて来ました。

 人間は本質的にさう変はるものではありません。

 私はあの頃と何んにも変はつてはをりません。ーーそんなことも書いてありました。

 それから又、考へると今直ぐにも訪ねて行(ゆ)き度(た)い気がするけれども、私のためにあなたの静かな生活を乱すことを思ふと気が引けて行(ゆ)かれません。

 私には尾行なぞがついてゐるものですからーーと云ふ意味を書いて、何処かで偶然の機会で逢へるのを待つてゐるとありました。


(野上弥生子「野枝さんのこと」/『女性改造』一九二三年十一月号)


 一九二二年春といえば、大杉がアルスに売り込んだファーブルの「科学知識叢書」の出版企画が通り、大杉と野枝はその準備に取りかかっていたころである。

 野枝はどんな手紙を野上に書いたのであろうか。

 翻訳仕事をすることになった野枝が、近況報告と久闊を叙する手紙を野上に出したのかもしれない。





 それから一年半後、甘粕事件で野枝が虐殺されたことを知った野上は、その悲しみをこう語っている。


 併(しか)しどんな偶然も決してこの地球上では私たちを出逢はせはしないと云ふことを知つた時の私の驚きと悲しみを想像して下さい。

 あの人に何の罪がありませう。

 あの人の社会主義かぶれなぞ、私の信ずるところが間違つてゐなければ、百姓の妻が夫について畑の仕事に出ると同程度のものにすぎないと思ひます。

 若(も)し大杉氏が貴族か金持であつたら、悦んで貴族や金持の生活をしたでせう。

 ーーこれは決して野枝さんを軽蔑しての意味ではなく、それ程にあの人は愛する人の世界に身を打ちはめて行(ゆ)ける人だと申すのです。

 あの人の一番美しいのはその点ではなかつたか。

 ただそれだけの可愛い単純な女性が、何故生かしておかれなかつたらうと思ふと、可哀想でなりません。


(野上弥生子「野枝さんのこと」/『女性改造』一九二三年十一月号)


 この期に及んでの野上の野枝に対する評価が、「ただそれだけの可愛い単純な女性」という夫唱婦随の良妻の枠にとどまっていることに注目したい。



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2017年05月03日

第442回 今宿の葬儀






文●ツルシカズヒコ




 一九二三(大正十二)年十月八日、事件の第一回公判が青山一丁目の第一師団軍法会議公判で開かれた。

 同日、事件の記事が解禁になり「外二名」が伊藤野枝と甥の橘宗一であることが発表される。

 十月十六日、福岡県糸島郡今宿村の野枝の実家近くの松林(松原)で三人の葬儀、埋骨式が営まれる。

 親族の他、東京の同志代表・川口慶助、村人など百名近くが参列し、遺骨は今宿海岸の墓地に埋葬された。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、その葬儀には右翼や在郷軍人らの反対が多く、警察が警備に当たった。

 右翼系国士の非情さに真の国士とは何かを考え始めていた代準介は、今宿や福岡博多一帯での葬儀反対を覚悟を持って一蹴し、執り行った。

 この時、陰に陽に葬儀を妨害から守ったのが松本治一郎だったという。

 今宿の松原で執り行われた葬儀の模様を『福岡日日新聞』が報じている。


「開会に先立ち野枝の伯父代準介は遺児ネストルを栄と改名し、之を喪主とする旨挨拶をなし、僧侶数名の読経につぎ、代氏は先ず野枝の叔母(モト)に抱かれたネストルの栄に代わって焼香をし、続いて海老茶色の洋装をした眞子、並びに灰色の洋装をした可愛らしきエミ子ルイ子等は、何れも親類の人達に抱かれ無邪気な眼を瞠(みは)って焼香場に導かれた」

(『福岡日日新聞』一九二三年十月十七日/矢野寛治『伊藤野枝と代準介』より孫引き引用)

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 野枝が十四、十五歳の時に作った短歌もその場で紹介された。


 死なばみな一切の事のがれ得て いかによからん等とふと云ふ

 みすぎとはかなしからずやあはれあはれ 女の声のほそかりしかな


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』)


「枝折れて根はなおのびん杉木立」と弔句した代は、野枝が上野高女入学を切望した際、妻・キチに「伸びる木を根本から伐れるもんか」と言ったことを思い出していたという。

 十月二十二日、代家に引き取られた真子が春吉尋常小学校一年生として初登校。

 一九一七年九月生まれの真子は満六歳で学齢前だったが、三月生まれとして届け出たのである。

 福岡市住吉花園町の代家は、代千代子(今宿村在住)の長女・嘉代子も預かっていたので、真子は嘉代子と一緒に春吉尋常小学校に通い始めた(嘉代子は四年生)。

 大杉が訳した『ファブルの昆虫記』や大杉と野枝の共訳ファブルの『科学の不思議』を、嘉代子は真子に読み聞かせたという。





 十月二十五日、大杉の著作『日本脱出記』(アルス)が発行されたが、収録原稿中「外遊雑記」と「同志諸君へ」は、大杉の死後に机の引出しから見つけ出された遺稿である。

 十一月二十一日から二十五日まで、軍法会議の第三回〜七回公判、重要証拠である「死亡鑑定書」が非審議になる。

 十一月二十四日、大杉の著作『自叙伝』(改造社)発行。

 十一月二十五日、伊藤野枝の追悼会が野上弥生子宅で旧青鞜同人によって開かれる。

 幹事は平塚らいてうと岩野英枝(故・岩野泡鳴夫人)。

 十二月八日、軍法会議で甘粕ら五名に判決が下る。

 東京憲兵隊大尉・甘粕正彦 懲役十年

 憲兵隊曹長・森慶次郎 懲役三年

 憲兵隊上等兵・鴨志田安五郎 無罪

 憲兵隊上等兵・本多重雄 無罪

 憲兵隊伍長・平井利一 無罪

 十二月十一日、大杉の遺骨は親族相談の結果、父・東の墓所である静岡県清水町の鉄舟寺に埋葬することにしたが、同寺住職・伊藤月庵は断ると言明した。



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2017年04月29日

第441回 煙草盆






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年十月二日、代準介、野枝の叔母・坂口モト、お手伝いの水上雪子、魔子、エマ、ルイズ、ネストル、そして大杉の末弟(三弟)・大杉進も神戸まで同行し、一行は大杉、野枝、橘宗一の遺骨を携えて福岡に向かった。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』は、代準介の自伝「牟田乃落穂」を引用し、一行のこの道中を詳述している。

 一行は十月二日、新宿駅発午後二時五十五分の中央線で名古屋経由で福岡に向かった。

 中央線を利用したのは、東海道線にまだ不通区間があったからである。

 塩尻(長野県)まで警視庁特高課員三人が付き添った。

 新聞記者たちが入れ替わり立ち替わり車中に押しかけ、質問するので、子供たちは泣き叫んだ。

 十月四日、午後一時三十二分に下関に到着し、野枝の妹・武部ツタがホームに出迎えた。

 船で門司に渡り、午後三時発の汽車で出発し、午後五時五十分に博多駅に着いた。

 その夜は全員、住吉花園町の代の家に泊まり、長旅の疲れを癒した。

 車中、代は大阪朝日新聞の記者に取材され、「後々のことは布施(辰治)、山崎(今朝弥)の両弁護士と同志の方に総てをお頼みして帰って来ました」(大阪朝日新聞・一九二三年十月五日)と答えている。

 帰福した代は野枝の父・亀吉と相談し、遺児たちを野枝の私生児として戸籍に入れ、同時に四児たちの改名をした。

 魔子は真実の「真子」、エマは笑みを絶やさぬように「笑子」、ルイズは両親の遺志を留めるように「留意子」、ネストルは大杉の名を与え「栄」と改名した。

 遺児たちの当面の落ち着き先は、魔子は代家で預かり、エマとルイズは今宿の野枝の両親のもとへ、まだ乳飲み子のネストルは代千代子(今宿に住む千代子もこの年に男児を出産していた)が預かった。

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 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、十月四日、改造社の提唱により識者が組織した「二十三日会」が、首相、陸相、戒厳指令官、軍法会議弁護士を訪問して、次のような建白書(下記三十二名が署名)を提出した。


一、大杉氏殺害の真相殊に同氏以外の被害者の氏名、年齢、被害場所、その他一切の事情を速に公表す可し

二、甘粕大尉に関する軍法会議は完全に之を公開す可し

三、右事件に関する新聞記事差止めの命令は直ちに之を解除す可し

 伊藤文吉、長谷川万次郎馬場恒吾堀江帰一、千葉亀雄、渡辺鐵蔵、吉野作造、吉阪俊蔵、 饒平名智太郎(よへな-ちたろう)、鶴見祐輔、中野正剛永井柳太郎大川周明、太田正孝、山川均、山本実彦、松木幹一郎桝本卯平福田徳三小村欣一小村俊三郎、小松原弥六、権田保之助、安部磯雄、秋山高、北玲吉城戸元亮末広厳太郎三宅雄二郎三宅驥一下村宏、鈴木文治


(大杉豊『日録・大杉栄伝』・社会評論社・二〇〇九年九月十六日)





 この建白書が提出された十月四日、ギロチン社田中勇之進が松坂駅前で、甘粕の弟・五郎を短刀で襲撃し、逮捕された。

 十月七日、大杉らの遺骨や遺品は本郷区駒込片町の労働運動社へ運ばれ、大杉の末妹・橘あやめも仮寓。

 遺骨はその後、神奈川県・鶴見の大杉勇宅へ引き取られた。

 大杉と野枝の家(豊多摩郡淀橋町柏木)の留守を守っていた勇夫妻が、この家から退去したのは十月九日だった。

 空家になったこの家を借りたいという人物が現われた。

 菊池寛である。

 以下、菊池が安成二郎に宛てた手紙である。


 拝啓

 今住宅に困つてゐるのです。

 ところが宮ア光男氏が来られて、大杉氏のアトの家を借りてはどうかとの事ですが、右の家は何うなつてゐるでせうか。

 若し借りられるやうなら、一見いたしたいと思ひます。

 甚だ突然で恐れ入りますが、御世話ねがへませんでせうか。

 十月七日 菊池寛

 安成二郎様


(安成二郎『無政府地獄 - 大杉栄襍記』_p298・新泉社・一九七三年十月一日) 


 安成によれば、この手紙は松屋の四百字詰め原稿用紙に筆で書いたものだったが、菊池は結局、この空家に転居はしなかった。





 安成は大杉と野枝の形見分けについて、こう記している。


 西洋の煙草盆とでも言ふのか、灰皿と、巻煙草を立てゝ置く容器と、それらを載せる盆と、チユーリツプの模様のある硬質陶器の三つ揃ひを、私は彼のかたみとして貰つた。

 十月六日の夜、勤め先きから帰つて、机の上にそれを見出した時、『これは好いな、一番好いものだなア』さう妻に言つたが、急に胸の疼くやうな堪らない気がして、私はそれを目の前から取り除いた。

 この煙草盆は彼の鎌倉の家には無かつた。

 逗子へ移つてから、洋館の籐のテーブルの上に置かれてゐた。

 それから駒込の労働運動社、柏木の最後の家と移るたびに、籐のテーブルの上にこの煙草盆は何時でも載つてゐた。

『あれは逗子で買つたんだね』翌る朝、村木源次郎君に会つた時、さう言ふと、村木君はさうだと言つた。

 大杉は煙草が好きで、よくマドロスパイプを啣(くは)へてゐたが、然し余り味覚の鋭い方では無かつたらしく、金口でも朝日でも手当り次第に吸つてゐた。

 野枝さんのかたみの支那扇は妻が貰つた。

 支那の芝居の絵らしい絵のある扇だ。

 いつか野枝さんが私の家へ遊びに来たとき、『逆輸入ぢやありませんか』と、それをとつて見ながら言ふと、誰とかゞ買つて来たのだから、本物だと言つたが、多分大杉がフランスからの帰りのお土産でもあらうか。

 その時野枝さんの言つた買つて来た人の名前は私の耳に残らなかつた。

 珈琲をつぶす器具が、も一つ私の家にかたみに贈られた。

 彼等は自分の家庭の珈琲が自慢であつた。


(安成二郎「かたみの灰皿を前に」/『改造』一九二三年十一月号/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』・新泉社・一九七三年十月一日/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』収録時に「かたみの灰皿を前に」を「かたみの灰皿」に改題)




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2017年04月17日

第440回 さよなら!






文●ツルシカズヒコ




 一九二三(大正十二)年十月一日、橘あやめと大杉進が米国大使館に行き、虐殺された米国籍の宗一の処置を訊く。

 米大使館は外務省と折衝し、係員が軍法会議を傍聴できることになる。

 九月八日に駒込署に保護検束された近藤憲二が、大杉らの死を知ったのは駒込署の留置部屋の中だった。

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 日は忘れたが、看取のおき忘れた新聞を見ると、戒厳司令官の更迭と憲兵司令官停職のことが出ている。

 おや、これは何かあったな、と思った。

 同時に、ある不吉なものが私の胸を流れた。
 
 そしてそれが、事実のように心のなかにひろがるのだ。

 一口にいえば第六感とでもいうのであろうか。

 そして十幾日がすぎた。

 十月二日の夕刻である。

 私は特高の部屋へ呼び出された。

 和田(久太郎)が面会にきているのだ。

「君だけ、あすの朝だしてもらうことに話がついた。君は何もわかっていないだろうが、大杉の子どもたちが、福岡の野枝さんの実家へ引きとられて出発することになっている」

 和田は身じろぎせず、私を見つめていった。

 私は「わかっている」と答えたが、実は何もわかってはいなかったのだ。

 ただ私の予感と和田君の言葉とを結びつけて、そのときはじめて一つの結論を得たにすぎなかったのである。

 留置部屋へ帰って、話があるから集まってくれというと、みんなが輪になった。

「いま和田がきてね……」と私がいいだすと、望月桂が「大杉がやられたんだろう」というのだ。

 二人とも十数日来、同じことを考えていたのである。

 そして、お互いそれをいいだし得ないでいたのだ。


(近藤憲二「大杉栄のこと」/『一無政府主義者の回想』_p39・平凡社・一九六五年六月三十日)





 十月二日、四人の遺児とそれに付き添う代準介・モト夫妻、お手伝いの雪子が、分骨した遺骨を携え福岡へ向かう(進は神戸まで同行)。

 近藤憲二「大杉栄のこと」によれば、近藤は十月三日の朝に駒込署から出してもらい、遺児たちを見送ったことになるが、これは近藤の記憶違いで近藤が駒込署から出してもらったのは十月二日朝であろう。

 内田魯庵がこのあたりの経緯をこう記している。


 告別式の済んだ跡の大杉の家は淋しかつた。

 遺子を中心として野枝さんの伯父さん老夫婦と大杉の実弟と、大杉の異体同心たる数四の同志に守られてゐた。

 刑事の眼は門前に光つて看慣れぬものは一々誰何したから、誰もイゝ気持がしないで尋ねるものが余り無かつた。

 愈々明日は一と先づ郷里へ引上げるといふ其前夜、長い汽車の旅の兒供眠気さましにもと些かの餞けを持つて私の妻が玄関まで尋ねた時も誰何され、何の用事かと訊問された。

 十月二日だつた。

 五人の遺子は野枝さんの伯父さん老夫婦に伴はれて此の恨の多い父の家を跡に郷里へと旅立つた。

 親しい友や同志に送られて行つたが、魔子は先きへ立つて元気よく『さよなら、さよなら!』と云つて駆けて行つた。

 パパもママも煙のやうに消へて了つた悲みをも知らぬ顔の無邪気の後ろ姿が涙ぐましかつた。


(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)



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2017年04月16日

第439回 遺骨






文●ツルシカズヒコ




 一九二三(大正十二)年九月二十七日の身内の告別式について、堀保子はこう記している。


 私は安成の奥さんと一所に淀橋の大杉家へ行つた、

 八畳の座敷の床の間には画家望月桂氏の筆になつた大杉が裸体で机に向かつてゐる一幅がかけてあつた。

 その前に皆さんから贈られたお花白木の机なぞ遺骨を迎へる準備ができてある、

 そのそばで村木さんや和田さんが四五人の来客に殺害当時のお話しの最中であつた、

 次ぎの六畳の座敷には二十日ばかり前に生まれたといふ男の赤ん坊が蠅になやまされてうるさそうに寝てゐる、

 私は安成の奥さんとほろ蚊帳をさがしだしてつゝてやつたりした、

 それから持つて行つた花を床に飾つたりして骨の来るのを待つた。

 そんな間にも大杉がきまりの悪そうな顔をして『ヤア』といつてそこらから出てくるやうな気がしてならなかつた、

 間もなく大勢の人に護られた三つの小さな白い箱が大杉を中にそれぞれ白木の机の上に並べられた。

 大杉のすべてはこの箱の中に納められてゐるのだと思へば気が変になるまで胸がワク/\した、

 次ぎから次ぎへといろ/\な思ひ出やら想像やらが車の輪のやうに急転した。

 一座はしんとして声を出すものもなかつた、

 それ/″\思ひ出にふけつてゐるらしい。

 子供達はついぞ見た事もないおばさんだといふ様な顔をして私を珍らしさうに見てゐたが、

 親戚のおぢさんの注意で一番上の子が私にお辞儀をした、

 そしてお骨に向かつておじぎをする、

 そんな事を繰返し/\幾度もやる、

 それをみた外の妹達も同じ様にやるので、

 一座の人々を涙の中に笑はせた、

 私はかうした子供達の頑是ない無邪気さに打たれて、

 人がゐなかつたら引よせて思ふ存分泣いてみたかつた。

 大杉の弟達にも久しぶりで逢つた、

 話しは後になつたり前になつたりいろ/\な事をくり返へされた、

 死体は何分日数もたつてゐるのでほとんど見分けがつかない、

 係りの人も『どんな風に殺されたのか分らない、甘粕の白状はこれ/\だ、どうかそう思つて三人の死体を引とつて貰ひたい』といつて衛戍病院の解剖の報告といふやうなものをくれたそうだ、

 死体は棺の中に全身包帯を捲いた、

 そして石灰でつめてあつたさうで其まゝ火葬に付してしまつた、

 私は非常に物足らなく思つた。

 そんな話をしてゐるうちに、

 子供達は思ひだしてか、

 折々『パパア……』といつてあたりをさがす、

 皆が『無理もない大杉は随分と子供を可愛いがつたしよく面倒をみたからね』といふ、

 実際大杉は以前から子供は好きであつた、

 よく『アナタが子供を生めば僕は家にゐて守をする』といつてゐたことまで思うひだされた。


(堀保子「小兒のやうな男」/『改造』一九二三年十一月号)

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 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』の記述に従い、九月二十三日に入京した代準介の動向を追ってみる(代準介の自伝「牟田乃落穂」からの引用は、同書からの孫引き引用)。

 上京中の代には特高課の刑事が常に付き添い、その移動には新聞社や通信社が車を提供したという。

 代は死体の引き取りすらままならない状況を鑑みて、頭山満や杉山茂丸に相談した。

 国士舘へ頭山を訪ねたのは九月二十四日の朝だった。

 九月二十七日の骨揚げでは、三人の遺骨は大杉家(大杉勇)と伊藤家で分骨された。

 実兄・栄夫妻と一粒種の実子・宗一を一度に惨殺された、あやめの悲嘆は「殆ど狂人の如く泣き入り五時間に渉るも鎮静せず」(「牟田乃落穂」)だった。

 代はあやめとは初対面だったが、彼女の病気のことも慮り、こう言って彼女を慰めた。

「此の突発せる惨事に逢い、実に同情に堪えず。然り乍ら前代未聞の大なる死なり、クリストと雖も裁きを受けて刑せらる。官憲即ち憲兵本部に拉致し、暗殺の上死体を匿す等、其の愧悪手段、実に言語に絶す。世界的大なる死なり。兹に諦めらるるは、肉親の執るべき処なりと談じたり」(「牟田乃落穂」)





「牟田乃落穂」には、内田魯庵についての記述もある。

「内田魯庵氏は明治大正時代の文豪に新派排撃の旗頭として論陣に立ち、(徳富)蘇峰先生と併称せられたる大家なり。予、固より氏を知らず、大杉邸の隣家にて生前の大杉とは懇親の間柄、死後は昼夜の別なく殆んど詰切の様なり。其風采金持風而も家主とのみ推定し、真(魔)子に家主さんなりやと問ふに、さうよと答ふ。依って毎日の話相手としたり。而して退京の前日多数の文士等集り来り、談話中初めて魯庵先生なることを知り、率直に心得違ひたりし事を述べ、併せて毎日無学者と文豪との説話等を謝したり。其一齣を先生の随筆に物せられたり、此は盲目蛇に恐れざると同じからん」

 代は頭山を人生の師と仰ぎ、頭山のために奔走してきたが、この事件を機に社会主義者の正義感、教養、知性、人格、弱者への愛情を知ったという。

 代は「牟田乃落穂」に、その感慨をこう記している。

「大杉事件当時……大杉邸へ来集の同志、文士、画家、弁護士等に面接せしに、個人としては何れも品性の高尚にして、実に異様の感に打たれり」

「而して、國士館に頭山先生の許に至れば、来訪者何れも国士型の人なり、是等の動作言語は聊か粗暴の嫌ありたり」





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2017年04月13日

第438回 葉鶏頭






文●ツルシカズヒコ




 一九二三(大正十二)年九月二十七日、朝八時から落合火葬場で骨揚げ。

 魔子、エマ、ルイズ三人の遺児と勇らの近親、岩佐、服部ら同志、安成、松下ら友人が骨を拾い、三つの骨壺に納め、遺骨は柏木の家の祭壇に置かれた。

 この夜の告別の集いには近親のほかは、近藤憲二など検束中の同志は列席できず、病身の和田久太郎と村木、服部夫妻が列席。

 友人知人は山本実彦、北原鉄雄、内田魯庵、足助素一、山崎今朝弥、布施辰治、安成夫妻、橋浦泰雄、佐々木孝丸、小牧近江、青野季吉、堀保子らが列席した。

 内田魯庵は、こう記している。

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 大杉は無宗教であつたが、遺骨の箱の前に三人の写真を建て、祭壇を設けて好きな葡萄酒と果物を供へた。

 其晩は近親と同志とホンの小数の友人だけが祭壇の前に団居(まどゐ)して、生前を追懐しつゝ香を手向けて形ばかりの告別式を営んだ。

 門前及び付近の要所々々は物々しく警官が見張つて出入するものに一々眼を光らした。

 折悪しく震災後の交通がマダ常態に復さないので、電車の通ずる宵の中に散会したが、罪の道伴れとなつた不運の宗一の可憐な写真や薄命の遺子の無邪気に遊び戯れるのを見て誰しも涙ぐまずにはゐられなかつた。


 大杉の一生を花やかにした野枝さんとの恋愛の犠牲となつた先妻の堀保子も、イヤで別れたので無い大杉に最後の訣別(わかれ)を告げに来て慎ましやかに控へてゐたが、恋と生活とに痩(やつ)れた姿は淋しかつた。


(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)





 橘宗一の母である大杉の末妹・橘あやめは、大杉の次妹・柴田菊とともに静岡市から駆けつけた。

 そのときのシーンを和田久太郎が鮮烈に記している。

 和田は一九二四(大正十三)年九月一日、福田雅太郎(大杉と野枝殺害時の戒厳司令官)をピストルで狙撃するが未遂に終わった。

 以下の文面は市ヶ谷刑務所に拘置中の和田が、あやめ宛てに書いた書簡(一九二五年九月四日)からの引用である。





 淀橋の家で、三人の遺骨を祭壇にのせて、ささやかな手向けの花などを立ててゐた時、貴女は柴田さんに連れられて入つて居らつしやいました。

 其処に居た服部(浜次)夫妻と安成(二郎)の細君と僕とは、ハツと胸を打たれて面を伏せました。

 吾々は貴女の顔を見るに堪えなかつたのです。

 と、貴女は入つて来るなり庭から『宗坊はゐますかツ』と叫ばれました。

 僕等がそれにどう答へることが出来ましよう……女達はすぐ『わつ』と声をあげました。

 それを聞いた貴女は『ぢやア、あれは本当なんですかツ……本当なんですね……宗……』と言ひさして縁先きへ崩折れてしまはれました。

 其処へ、二階から村木が降りて来ました。

 勇さんも降りて来られました。

 そして、『兎に角まあ……』と言つて、泣き入る貴女を二人で二階へ連れて行きました。

 僕は下に、ぢつと遺骨の傍で俯向いてゐました。

 そして、悲痛な腸をかきむしる様な貴女の泣き声を聞きながら、ガリ/\と歯を噛んでゐました。

 やがて一時間ほど経つて、貴女は二階から下りて来られました。

 僕はやはり何も言ふ事が出来ず、ただ心の中で『とんだ飛ばつちりで、申訳けがありません』と詫びながら、そつと目礼をしました。

 貴女は三人の遺骨の前へ行つて焼香をなさいました。

 そして、其処に祭つてあつた三人の写真を見つめてゐるうちに、再び『わつ』と泣き伏してしまはれました。

 無理のない事です。

 が、僕等は病中の貴女の体をどんなに気遣つたか分りません。

 貴女はまた、勇さん(大杉)や女の人達に連れられて、二階へ行かれました。

 僕はやはりぢつとして其の場に残つてゐました。

 傍には、服部の細君ときよ子さんが居ました。

 と其処へ、こんどは魔子ちやんがエマちやんと連れ立つて、ニコニコ笑ひながら入つて来ました。

 その後からは、まだ足つきの危ないルイちやんが、これもキヤツキヤツと嬉しさうに笑ひながら、よち/\とついて来ました。

 マコちやんエマちやんは、そうと遺骨の前に行き、ぴつたり並んでお線香を上げました。

 そして、二人で顔を見合せて悪戯さうに笑み交しては、合掌礼拝するのでした。

 それを見たルイちやんがまた、後ろでキヤツキヤツと喜びながら、四ツ這ひになつてお尻を突つ立て、頭でコツ/\と畳を叩くのでした。

 服部の親子は、もうさつきから子供達のすることを眺めて、泣いてゐました。

 エマちやんを探しに来た九州の伯母さんと、ルイちやんを探しに来た女中のお雪さんとは、襖の処へ突つたつたまゝ、子供達を指さして泣き出しました。

 僕も堪らなくなつて、玄関から前庭へ走つて出ました。

 其処には葉鶏頭が、秋の日を充分に受けて真つ紅に燃えてゐました。

 僕はその真紅な血のやうな葉鶏頭をぢつと見つめました。

 僕の眼からは泪は落ちませんでした。

 しかし、その葉鶏頭の血の色からは、しばらく眼を離す事が出来ませんでした。


(和田久太郎『獄窓から』・労働運動社・一九二七年三月十日/黒色戦線社・一九七一年九月一日)


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2017年04月01日

第437回 大杉外二名






文●ツルシカズヒコ




 九月二十三日、勇宛てに第一師団軍法会議から、事件の証人として召喚する旨の通知。

 大杉らの殺害を察知した近親者、同志、友人らが善後策を講じる。

 九月二十四日、勇と進と村木が憲兵司令部に遺体引き渡しの交渉。

 午後、福岡から上京した代準介も同行し、山田法務部長に面会。

「明朝九時に下げ渡す」との回答。

 勇は宗一の証人として軍法会議に出頭。

 午後三時、陸軍省が甘粕憲兵大尉が大杉外二名を殺害した旨の発表をする。

 そのニュースを朝刊が第一面の大活字で報じた日のことについて、内田魯庵はこう記している。

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 朝の食卓は大杉夫妻を知る家族の沈痛な沈黙の中に終わつた。

 今日も魔子は遊びに来るかも知れないが、『魔子ちやんが来ても魔子ちやんのパゝさんの咄をしてはイケナイよ、』と小さい兒供を戒めた。

 何にも解らない小さい兒供達が何事か恐ろし事があつたのだといふ顔をして、黙頭(うなづ)いてゐた。

 暫らくすると魔子果して平生(いつも)通り裏口から入つて来た。

 家人を見ると直ぐ『パパもママも死んぢやつたの。伯父さんとお祖父(ぢい)さんがパゝとマゝのお迎へに行つたから今日は自動車で帰つて来るの、』と云つた。

 お祖父(ぢい)さんといふのは東京より地方へ先きに広がつた大杉の変事を遠い故郷の九州で聞いて倉皇上京した野枝さんの伯父さんである。

茶の間へ来て魔子が私の妻を見て復た繰返した。

『伯母さん、パパもママも殺されちやつたの。今日新聞に出てゐませう。』

 私は兒供達に『魔子ちやんのお父さんの咄をしてはイケナイよ、』と固く封じて不便な魔子の小さな心を少しでも傷めまいとしたが、怜悧な魔子は何も彼も承知してゐた。

 が、物の弁へも十分で無い七歳の子である。

 父や母の悲惨な運命を知りつゝもイツモの通り無邪気に遊んでゐた。

 同い年の私の兒供は魔子を不便(ふびん)がつたと見えて、大切(だいじ)にしてゐた姉様や千代紙を残らず魔子に与(や)つて了つた。


(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)





 震災後十日間ほど野天生活をしていた辻潤は、その間、夜警に出たりしていたが、妊娠中のK女(小島キヨ)を彼女の実家に預けることに決め、老母と子供(一/まこと)をK(川崎)町からあまり遠くないB町の妹のところへ預けて、辻とK女は西へ向かった。

 名古屋でK女を汽車に乗せた辻は、それから二三日して大阪に行き、金策などしながら一週間ほど暮らした。

 辻が「大杉外二名」を報じる号外を手にしたのも、大阪滞在中だった。


 夕方道頓堀を歩いてゐる時に、僕は初めてアノ号外を見た。

 地震とは全然異なつた強いショックが僕の脳裡をかすめて走つた。

 それから僕は何気ない顔つきをして俗謡のある一節を口吟(ずさ)みながら朦朧とした意識に包まれて夕闇の中を歩き続けてゐた。

 妹の家に預けてあるまこと君のことを考へて僕は途方にくれた。

 それから新聞を見ることが恐ろしく不愉快になりだした。

 だから不愉快になりたい時はいつでも新聞を見ることにきめた。


(辻潤「ふもれすく」/『婦人公論』一九二四年二月号/『辻潤全集 第1巻』 )





 九月二十五日、勇、進、代準介、山崎今朝弥、安成二郎、服部浜次、村木の七人が、遺体引き取りのため憲兵隊本部へ出頭後、車で三宅坂の陸軍衛戍病院へ向かう。

 午後二時、陸軍衛戍病院に到着。

 中へ入れるのは親族と友人二名とされ、服部と村木は外で待つ。

 遺体は釘打ちされた寝棺に納められていたので、蓋を開けさせると、棺の中は防腐用の石灰で埋まり臭気芬々(ふんぷん)。

 掻き分けて指を差し込むと、スブッと中に入るくらい腐乱していた。

 棺は火葬のため軍用の幌付き自動車で落合火葬場に運ばれた。

 村木と安成が同乗。

 火葬場は大震災で倒壊しているうえに、多数の横死者が運ばれて渋滞。

 安成が三つの棺に「栄」「野枝さん」「宗ちゃん」と名前を墨書。

 九月二十七日払暁、荼毘に付された。





 安成二郎はこの間の経緯について、下記のように回想しているが、引用文中に「近藤憲二」とあるのは間違いである。

 近藤はこのころ駒込署に検束されているからだ。

 近藤ではなく村木か服部のことだと推測される。


 三君の死体は二十日に井戸から上げられ、第一師団で解剖に付した後、三宅坂の衛戍病院に置かれた。

 それを二十五日に遺族に引渡すといふので、近藤憲二君と私とで受取に衛戍病院に出かけた。

 三つの棺を置いた部屋に大勢の軍人がゐた。

 棺にはちやんと蓋をして釘づけになつてゐた。

 そのまゝでは受取れない。

 近藤君が蓋を明けることを要求した。

 軍人はぐぢ/\したが、強硬に云ふと兵隊に釘を抜いてあけさせた。

 しかし棺の中一杯にぎつしり石灰で埋まつて臭気を発してゐた。

 近藤君は石灰に手を突込んで死体に触れて見た。

 そのまゝ蓋をし、陸軍のトラツクに三つの棺を積み、私たちと兵隊が何人か乗つて、落合の火葬場に向つた。

 よく晴れた残暑の日の午後であつた。

 トラツクが四谷見付を通るとき、交通整理で一寸停止した。

 するとそこでバスから下りた宇野浩二君と邂逅し、宇野君は私達のトラツクにカメラを向けた。


(安成二郎「大杉君の死」/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』_p116・新泉社・一九七三年十月一日)




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2017年03月30日

第436回 号外






文●ツルシカズヒコ




 この第436回以降は、一九二三(大正十二)年九月十七日以後、つまり大杉と野枝の死後について記述してみたい。

 時間の経過と出来事は、大杉豊『日録・大杉栄伝』の記述をベースにしている。

 九月十八日、大杉の次弟・勇夫妻が衣類などを受け取りに淀橋町柏木の栄宅を訪問した。

 留守宅では三人が帰らないのは鶴見の勇宅に泊まったと推測していたので、淀橋署に捜索願を出した。

 この日の報知新聞夕刊に、大杉夫妻と「長女」三名が麹町分隊に留置されているという記事が載った。

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 九月十九日、勇は三人が検束されているという記事を読み、大手町の憲兵隊司令部へ行き、面会と宗一の引き取りを要求するが、「そんな者は来ていない」と門前払いされる。

 内相・後藤新平が警察情報により事件を知る。

 首相・山本権兵衛が陸相・田中義一に調査を指示、発覚して陸軍は軍法会議と小泉司令官らの処分を決める。
 
 甘粕らに拘引状、予審開始。

 九月二十日、東京朝日新聞記者から勇へ、栄は憲兵隊によって殺され、他の二人も殺された可能性が高いという知らせがある。

 勇は再度、憲兵隊司令部に行き問い質すが追い払われた。

 大阪朝日新聞と時事新報が号外で「甘粕憲兵大尉が大杉栄を殺害」の報道、以後、報道が禁じられた。

 午後一時半、三人の遺体は憲兵隊本部の古井戸から引き上げられ、三宅坂の東京第一衛戍病院へ送られ
た。

 死亡鑑定のため、田中隆一軍医が午後三時半から二十一日午前十一時二十六分まで死体解剖を行なう。

 陸軍が東京憲兵隊分隊長・甘粕正彦が違法行為を犯したとして、以下の処分を発表。

 戒厳司令官・福田雅太郎を更迭、憲兵司令官・小泉六一と東京憲兵隊長・小山介蔵を停職。

 大杉が検挙されたという風説を内田魯庵が耳にしたのは、九月十六日の午前中に大杉と野枝が出かけるのを目撃してから二、三日後だった。

 魯庵は風説を一笑に付していたが、九月二十日ころの夜十一時すぎに、安成が来て「大杉が行方不明となりました」とひどく興奮して話した。

「十六日に鶴見へ行ったきりで帰って来ません。家でも心配して八方捜しているのですが、さっぱり行方が解りません。検挙されたならどこかの警察にいそうなもんですが、どこの警察にもいません。警察では検挙したものを検挙しないと秘すことは絶対にないので、警察にはいないようです」

 安成は満面に不安の色を浮かべて魯庵に話した。

 魯庵も不安に堪えられなくたった。





 安成は、其日恰も戒厳軍司令官を初め二三の陸軍の重職が交迭し、一大尉一特務曹長が軍法会議に廻されたといふ明日発表される軍憲の移動を話して、恁(こ)ういふ重職の交迭は決して尋常事(ただごと)では無い。

 余程の重大な原因が無ければならない。

 当局者の言明に由れば数日前に突発した事件に関聯するといふが、その突発事故といふのは何だか、マダ発表を許されないと堅く緘黙(かんもく)してゐる。

 が、ウッカリ当局者が滑らした口吻に由ると不法殺人であつて、殺されたものは支那人や朝鮮人で無いのは明言するといふのだ。

『どうもそれが大杉らしいのです、』と安成は痛(ひど)く昂奮してゐた。


(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)





 九月二十一日、勇が淀橋署と警視庁へ行き、安否確認の要求をするが明確な回答を得ず。

 九月二十二日、村木が布施辰治弁護士と警視庁へ行き、大杉ら三人の調書依頼書を提出。

 神戸在住の大杉の三弟・進が、あやめからの依頼で静岡経由で宗一の衣類を持って柏木の大杉宅に着く。

 この間、魯庵の家には魔子が相変わらず遊びに来ていた。


 兒供の事で周囲の不安には一向感じないらしく、毎日来ては家の兒供と一緒に歌を歌つたりダンスをしたりして無邪気に遊んでゐた。

 大杉の家もヤゝ人出入(ひとでいり)が繁く取込んでゐらしく想像されたが、安成も夫(それ)ぎり見えないので、不安を感じながら身辺の雑事に紛れてゐると、或時魔子がイツモの通り遊びに来てゐると家から迎へが来て帰つた。

 暫らくすると復た来て、新聞社の人が来て写真を撮つたのよと云つた。

 新聞社が兒供の写真を撮りに来たといふは尋常では無いので、恐ろしい悲痛な現実に面する時が刻々迫つて来たやうな感じがした。


(同上)





 責任ある役人が大杉の弟に口外した言葉から、安成二郎が大杉の死を確信したのは九月二十二日だった。


 ……私は打ちのめされた。

 がっかりして家に帰ると、私は声を上げて泣いた。

 杉村(大杉のこと。以下同)の殺される時の気持を考へると、たゞもう可哀さうであつた。

「まだわからない、確かなことはまだ解らない」と妻が何と言つてよいか言葉を知らないやうに傍でくり返してゐた。

 とにかく、杉村の親しい友人達に、彼がいよ/\地上から消えるやうに滅んだことの通知をすることになつて、私がその仕事を割当てられた。

「明日、少し早く起してくれ」さう妻に言つて、私は間もなく床についた。

 十年来、絶えずしげ/\と往来したといふのでは無いけれど、杉村はいつも、私の心の中に生きてゐた、会はずにゐても、彼がこの世に存在してゐることは、強い心頼みであつた。

 私が数多くの友人を求めずに、殆ど孤独で居られたのも、二三の真実の友人があるからであつた。

 そして其の一人の杉村を今奪はれて了つたのである。


(「二つの死」/安成二郎『無政府地獄 - 大杉栄襍記』_p256・新泉社・一九七三年十月一日)





 大杉と野枝の殺害事件発生後、野枝方の近親者の責任者として、その事後の対処に当たったのが代準介だった。

 代準介はその一連の経過を自伝「牟田乃落穂」に記しており、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』に詳述されている。

 大杉が殺害されたという新聞報道があった九月二十日、東京の報知新聞や都(みやこ)新聞から、代準介宛てに電報が入った。

 大杉、野枝、遺児(まだ宗一とは判明していない)三名が、憲兵隊麹町分署で殺害されたという電文だった。

 代は戒厳令下の東京府内に立ち入る許可を得るため、即座に警察と福岡県庁に行き上京許可証を取った。

 福岡日日新聞(一九二三年九月二十八日)に、代キチ、代準介、野枝の父・亀吉のコメントが載っている(取材日は九月二十一日と思われる)。

 代キチは震災直後、米や小児用のミルクを送ってくれという野枝からのハガキや電報が届いたとコメントしている。

 代準介は八月上旬に三女・エマを連れて上京し震災前に帰福、大杉の実弟にだけ任せておくわけにはいかないので自分も上京したい、天津にいる次女・幸子以外の三女一男は無籍なのでその処置もしたいとコメントしている。

 亀吉は、大杉は二度亀吉宅を訪れたことがある、八月中旬にネストルが生まれたという手紙をくれた、おまえらのしていることはよく解らないないと言うと、野枝は言ってもあなたがたには解らない、三十までは自由にさせてくれ、野枝は強情なところもあったが小遣い銭を送ってくれたりだいぶ優しくなったなどのコメントをしている。





 代準介と野枝の父・亀吉が相談した結果、東京事情に詳しく頭山満にも人脈のある代が、一人で上京することになった。

 亀吉も代と一緒に上京した旨の記述や書籍があるが、亀吉は上京していないので、『伊藤野枝と代準介』はその間違いを指摘している。

 たとえば、井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・ちくまぶっくす20・一九七九年十月三十日)に「九州の実家からかけつけた野枝の父と代準介は、遺児たちをつれて、十月二日に九州に旅立った。」(p212)という記述があるが、これは間違いである。

『伊藤野枝と代準介』によれば「魔子が子供の頃、代準介のことを『おじいちゃん』と呼んでいたので、記述に誤解が生じたのであろうと思う」。

 代は船で下関に渡り、大阪に立ち寄り、食料や幼子たちへの菓子、棺桶まで買い込んだ。

 棺桶類の大きい荷物はすべてチッキにして東京に送った。

 東海道線は小田原あたりが壊滅的状況で不通なので名古屋まで行き、中央線に乗り換えた。

 代が入京したのは九月二十三日だった。



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2017年03月27日

第435回 梨 






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年九月十六日、大杉たち三人は日比谷を経て往路と逆に帰ったと推測される。

 大杉たちが薩摩原(三田四国町)で下車したときから、尾行が三人を見失った。

 鴨志田が憲兵隊本部に戻ると、佐藤特高係長にお前が淀橋にいると思い、甘粕と森らは淀橋に行ったと言われ、車で淀橋署に駆けつけた。

 江崎は日比谷経由で柏木の大杉の家に行ったが、大杉が不在なので淀橋署に戻った。

 江崎と鴨志田はほとんど同時に張り込み中の甘粕のところへ行き、大杉らがまもなく帰宅することを伝えた。

 甘粕は森、本多、平井利一を従えていた。

 五時半ごろ、大杉、野枝、宗一が柏木に着き、自宅まで二、三分の角にある八百屋で野枝が梨を買い出て来たところを、甘粕らの憲兵隊に検束された。

 甘粕が「調べることがあるから憲兵隊まで同行してもらいたい」と詰め寄ったので、大杉は「用事があるなら行ってもよいが、一度家に帰ってからにしてもらいたい」と言うと、言下に拒否された。

 大杉は淀橋署に停めてあった車に、野枝と宗一は鴨志田が乗って来た車に乗せられ、七時ごろ大手町の憲兵隊本部に連行された。

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 瀬戸内晴美(現・寂聴)が、大杉ら三人が連行されたこのシーンを目撃したという女性から、手紙を受け取ったのは、瀬戸内が『文藝春秋』に「諧調は偽りなり」を連載中の一九八一(昭和五十六)年十二月だった。

『文藝春秋』の創刊以来の愛読者であり「諧調は偽りなり」にも目を通しているという玉井協子は、在米十二年、シアトル郊外に在住、「間もなく八十歳になります」というから当時、満年齢は七十九歳、一九〇二年生まれだろうか。


 あの日はまだ残暑がきびしく流れる汗にまみれ乍ら、私は柏木の当時郡役所通りとよばれる青梅街道の北側の通りを大久保駅方面に歩いて居り、右へ曲ると淀橋第一小学校、今一つは左の方へと三つ股になっている角に公衆電話のある二三軒先の果物店へ参りました。

 どこにもある小さな店で中央と両側に商品を並べてその間が通路になって居ります。

 私より先にその頃としてはまだ珍しいハイヤーが止っていてそこから降りたであろう客が三人店内に居り、洋装の婦人が右奥の方で贈物らしい立派な手かごをとみこうみしておりました。

 婦人の洋装などこの田舎町で身(ママ/筆者ツルシ註)かけたことのない当時二十一歳の至って旧式に育てられた無智な私は忽(たちま)ちこの姿に目を奪われました。

 時たま街中で見かける洋装は大方無地か細い柄ですのにこれは白地に大柄なワンピースで美しいとはいえない平顔にベッタリと厚化粧して智的な感じはなく三十歳代の感じでした。

 同伴の男性はチラッと視た丈(だけ)でどんなだったか殆ど印象に残りませんが婦人よりずっと上品で紳士的でした。

 好奇心に満ちた年頃の娘とて洋装ばかり注目していたので男の子がいたのは見ていますが、これもさっぱりどんな様子だったか記憶にありませんで、その洋装に似合わない厚化粧やら深い夏帽子との調和も考えられずみんなチグハグと私の眼にうつりました。

 唯この三人が親子とも夫婦とも思われず、好感を持てないのに何となくはなやかフンイキが漂い、帽子のツバに手をかけ乍ら車にのり込んで走り去ったあとの淋しさというかホッとためいきをつきたい気分になりました。

 私は店内へ一歩入った所に佇(た)って、多分ポカンと唇でもあけてこの情景をみていた事でしょう。

 後日新聞で、あれは死の首途の数時間前の彼等だったと覚り、読みかけのおくの細道の塚も動けの句に慟哭する芭蕉と一緒にひとの命のはかなさ、測り知られぬ運命等に涙していつになってもこの情景が目に灼きついて忘れることが出来ません。

 其後私は遠方へ移りこの店の前を通る事もなく、どうなったか存じませんがあの辺は明治末年現在の安田ビルあたりに煙草専売局が出来たについて発展した処とて土着の人が多く、戦災は最後の五月二十五日の大空襲を被った処で避難先もなく大部分小屋など建てて居残りましたから今もあるかもしれませんし、付近の古老に知っている人もありますでしょうーー略ーー


(瀬戸内晴美「諧調は偽りなり」・『文藝春秋』・一九八三年五月号/『諧調は偽りなり』・文藝春秋・一九八四年三月/『諧調は偽りなり』・文春文庫・一九八七年四月十日/『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』・新潮社・二〇〇二年一月十日/瀬戸内寂聴『諧調は偽りなり 伊藤野枝と大杉栄(下)』p229~232・岩波現代文庫・二〇一七年二月十六日)


 玉井の手紙には地図まで書き込んであったという。

 津田光造(辻潤の妹・恒の夫)も、大杉が憲兵隊本部に引っ張られて行くのを目撃したという(小牧近江『ある現代史』/法政大学出版局/一九六五年 )。

 大杉は八時半ごろ憲兵司令部応接室で、野枝は九時半ごろ元憲兵隊長室で、宗一は同時刻ごろ特高課事務室で、次々に扼殺された。





 安成二郎「甘粕の供述」によれば、扼殺される直前、甘粕に話しかけられた野枝は甘粕とこんな会話を交わした。


 私は室内を歩行しながら、

 戒厳が布かれてバカなことであると思つてゐるであらうと言ひましたら笑つてをり答へませぬから、

 兵隊なんかバカに見えるであらうと言ひましたれば、

 今日兵隊さんで無ければならぬやうに言ふではありませんかと答へ、

 自分等は兵隊で警察官であるから君達から見れば一番いやな者であらうと言ひ、

 且つ君達は只今より一層混乱に陥ることを好んでゐるであらうと言ひましたれば考へ方が違ふのでありますから致し方ありませんと笑ひながら答へ、

 ドウセ斯様(かよう)な状況を原稿の資料にするであらうと言ひましたれば既に本屋から二三申込を受けてゐると答へました。


(「甘粕の供述」/安成二郎『無政府地獄 - 大杉栄襍記』・新泉社・一九七三年十月一日)





「甘粕の供述」によれば、十時半ごろ、三人の死体は裸にされ、菰で包み麻縄で梱包され、憲兵隊内の火薬庫のそばにある井戸の中に投げ込まれた。

 三人の遺体が投げ込まれた井戸には、震災で破壊された火薬庫の煉瓦が多数投入され埋められた。

 翌、九月十七日、三人の遺体が投げ込まれた井戸には、甘粕の指図により人夫によってさらに尿糞や塵なども投げ込まれ、井戸は全く埋没してしまった。

 三人の着用していた衣服、およびオペラバッグ、手提袋、帽子、靴下、下駄などは、同日の夕方、甘粕が築地に巡視に行った際、自動車に積み込み、逓信省の焼け跡の石炭が燃えている中に投げ入れて焼却した。

 扼殺される前に、大杉と野枝が肋骨が骨折する激しい暴行を受けていたことが判明したのは、五十三年後の一九七六(昭和五十一)年だった。

 同年八月二十六日の『朝日新聞』が、三人の死体解剖をした軍医・田中隆一の残した「死因鑑定書」が発見されたと報道し、その事実が公になったのである。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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