2016年04月17日

第96回 あの手紙






文●ツルシカズヒコ



 辻が第一の手紙、第二の手紙を読み終えると、それを野枝に渡し、野枝も読み返した。

 それほど怒っているふうでもない辻が、野枝に尋ねた。

「こりやみんな、本当で書いたんだな?」

「この二通とも書いた気持ちは本当です。決して虚偽ではありません」

 そこにどんなことが書かれていても、今さらなんのことはないというような平気な顔をしていた辻が言った。

「もうこれでお互いに、嫌な思いを後に残したくないと思います」

 ふたりの男を前にして、野枝は大きな声を出して笑いたいような、小さな声で歌でも歌いたいような気持ちになった。

 こんな男のところに野枝がつくのかと思ったとき、目をギラギラさせていた荘太の怒りは抑え切れなくなり、その怒りは野枝に向けて爆発した。

「その手紙を書いていたのが本当の気持ちでいながら、こんな行動を取っているあなたなら、僕は蔑視して捨てます!」

 野枝は思わず吹き出しそうになった。

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 今回の件に関して、野枝と荘太はお互いに「事実」を世に発表することにした。

 お互いに相手から届いた手紙を相手に一時返却することにし、それを写し終えたら返却することにした。

 それから辻は野枝を下へ残し、荘太と一緒に二階へ上がり、木村荘八と少し話した。

 荘太が辻に問わず語りに言った。

「それにしても辻さん、野枝さんが見なかったあの手紙、どうしたんでしょうね……」

「さあ……市外だと届かないことがよくありますから……」(「牽引」p39)

 辻と一緒に外に出た野枝は、二、三町も歩くと、今ごろあの二階でみんなでわいわい自分たちにありったけの侮蔑と嘲笑を投げかけているだろと思うと、反対に気持ちのいいほど嘲笑してやりたいような気がした。

 紀尾井町のあたりを歩いているとき、野枝の頭の中は真っ白に空っぽになった。





 この事件の顛末について、荘太は『生活』八月号に「牽引」を書き、野枝も『青鞜』八月号に「動揺」を書いて、ジャーナリズムの注目を集めた。

「動揺」は野枝がらいてうにこの事件の顛末を報告するというスタイルで書かれているが、野枝は俄然、書き手として注目される存在になった。

 荘太は辻の荘太に対する第一印象について、こう書いている。


 髪をきれいに分けて、というのはかれの見間違えだ。

 ……髪に櫛目を入れて分けたということはない。

 ぼうっと伸ばしていただけである。

 金縁の眼鏡のほうは、近視で掛けていたのだが、縁は金なら厳寒のところに行っても、耳に凍りつかぬと聞いていて……実用の意味で掛けていたのだったが、この金縁がそう見えるかと思ったら、それでいやになって……売っぱらって、黒の赤銅縁に代えた。


(木村艸太『魔の宴』/朝日新聞社/一九五〇年)


 辻はこの事件を、短くこう回想している。


 野枝さんはそのうち「動揺」と云ふながい小説を書いて有名になつた。

 僕の長男が彼女の御腹(おなか)にゐる時で、木村荘太とのイキサツを書いたもので、荘太君はその時「牽引」と云ふやはりながい小説を書いた。

 荘太君のその時の鼻息はすばらしいもので、その中で僕は頭から軽蔑されてゐるのだ。

 僕はその時も、野枝さんの気持ちを尊重して別れてもいいと云つたのだが、野枝さんがイヤだと云ふのでやめにしたのであつた。


(「ふもれすく」/『婦人公論』一九二四年二月号/五月書房『辻潤全集 第一巻』)





 この事件の顛末について、らいてうはこう総括している。


 ……こうして事件はともかく解決されたのだが、日頃の野枝さんを知つてゐる私にはあの解決の仕方は野枝さんとしては少し恥づかしいものではないかと思ふ。

 野枝さんが今少し強くて、あの激動の中にあつてもなほよく自己を最後まで保つてゐられる人だつたなら、T氏にあゝ迄干渉されずとも(T氏は決して好んで干渉する人ではない。)あんな不面目な位置に(自分のしでかした事件の解決をT氏に委ねて、自分はT氏に引きずられて出かけたといふやうな)身を置かずともいくらも自分で処置する方法はあつたらうと思ふ。

 それはともあれ……あの事件は野枝さんに少し荷が重すぎた。

 あれ丈の激動をもち答へる丈の力はまだ野枝さんにはなかつた。

 ……いたづらに精力を浪費するのみで、あれ程の苦悶も比較的価値なき苦悶に終つた処のあるらしいのは惜しいことだつた。

 けれども私はあの一篇が野枝さんにとつてどれ程の力であるか、又どれ程の真実をもつてかゝれたものであるかといふことは信じて疑はぬものである。


(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』一九一三年十一月号)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 21:11| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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