2016年04月17日

第95回 二通の手紙






文●ツルシカズヒコ


 一九一三(大正二)年七月二日の朝、野枝は腫れぼったい目を押さえて目覚めた。

 午前十時ごろ、野枝と辻は家を出た。

 ふたりが麹町区平河町の木村の下宿に着くと、野枝は不思議なくらい心が静まっていた。

 荘太の下宿の女中が取り次いだ。

「一昨日の伊藤さんがいらっしゃいました」

 荘太が取り散らかしてあったそこらを片づけるうち、障子を開けて入って来たのは、思いがけない辻だった。

 すぐその後に野枝が続いた。

 三人は向かい合わせに座った。

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 前夜遅くまで起きて書いたものを荘太に渡した辻は、きっぱりと言った。

「とにかくこの事件の解決は昨晩、私どものふたりの間だけではついたのです」

 そして辻は野枝の方を見て、

「お話したらよいだろう」

 と彼女を促した。

 荘太が野枝の顔をジッと見ると、野枝はうつむいて目を落とした。

 荘太には一昨日の晩とはまるでその顔が違って見えた。

 頬が真っ赤に紅潮し散々泣いたという目つきだった。

 辻は一昨日の苦悶の色とは一転、勝ち誇ったような顔をしていた。

 荘太はことが失われたことを一瞬に悟り、ただ「間抜けな奴だ」と思って冷やかに野枝を見た。



 

 野枝はうつむいて黙っていた。

 荘太が辻の書いたものを読もうとすると、辻が言い添えた。

「お読みになるうち不快に思われるようなことが書いてあるかもしれません」

「僕も先日あなたにいい感じを持てませんでした。とにかく拝見してみます」

 荘太は一昨日に読んだ続きから読み始めた。

 辻がちょっと便所に立ったとき、荘太が野枝に尋ねた。

「じゃあ、あなたは僕を離れようとするんですね」

「私と辻とは離れることができないのです。おしまいの手紙に書いた気持ちが少しはぐれてしまいました」

 野枝はそのまままた黙ってしまった。

 荘太が辻の書いたものを読み終えると、辻が言った。

「これでなんにも後に残さず、お互いに理解し合ってお別れしたいと思います」

 ここで荘太は、野枝が辻に無断で出した二通の手紙を問題にした。

 この二通の文面に辻が目を通さなければ、荘太の言動に誤解が生じる可能性があると主張したのである。

 辻もぜがひでも見たいと思った。

「その手紙を拝見させていただきます」

「今、僕のところにありません。弟のところへ置いてきてあります」

「じゃあ、弟さんのところへご一緒に参りましょう。弟さんにもお会いしたいし」

 三人は赤坂一ツ木の木村荘八の下宿に向かった。





 野枝は急に腹が立った。

 荘太が野枝に近づいてきたのは、要するに自分の物語を創りたかったからだと知ったからである。

 荘太が二通の手紙を『生活』の編集所である荘八のところに預けたのは、第三者の冷静な目で見た見解を知りたかったからだ。

 野枝の前を荘太と辻が歩いていた。

 その後ろ姿を見ながら、野枝はふと荘太の親友だという福士幸次郎の手紙の一節を思い起こした。


……そのハスと云ふ人には気の毒だが今の処我々には何の関係もない人だ。

 ハスの事などは問題じやないと思ふ……


(木村荘太「牽引」/『生活』一九一三年八月号)


 というような乱暴で思慮の足りない言葉を思い出して、取り巻き連中の言いそうなことだと可笑しくなった。

 荘八のところに着くと、階下に四、五人の若い男がいた。

 彼らが二階に上がると、荘太が二通の手紙を持って降りてきた。

 野枝には荘太の顔が怒気を含んでいるように見えた。

 実際、荘太は怒り心頭に達していた。


 こんな態度や、行動をしていて、雑誌なんかになにを書いていたのだ?

 殊に、今日、ひとりで来ればよいものを、男と一しょに、しかも男に引っ張られるようにしてやって来て、自発的にひと言もものをいわず、エレン・ケイの訳も男のだと知らせたのも、好意的に見ていたが、こんな代役問題だって一種の世を欺いたようなもので……はじめて会ったとき、男のことをいわなかったのも、行動、態度にはきはきせぬ欠陥的なものがあってそうさせていたかのようにも……見えてきさえもする。


(木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』)

●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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