2016年04月17日

第94回 筆談






文●ツルシカズヒコ



 辻が野枝に渡した紙の前半に書かれていたのは、こんなことだった。

 荘太の第一印象がよくなかったこと。

 母を迎えに行くはずだった野枝が、夕方まで帰って来なかったこと。

 野枝が辻に内緒で出した手紙があるらしいことに憤りを覚えたこと。

 電報をかけてまで至急、野枝に会おうとする荘太の態度も了解できない。

 辻が母のところから帰宅しても、野枝がまだ帰宅していなかったので絶望したこと。

 眼鏡をかけて帰宅した野枝を見て「女の浅薄」さを感じ、野枝の弁解に腹が立ち情けなくなったこと。

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 後半に辻はこう書いた。


 ……私とおまへの間は絶対でなければならない。

 ……私は正直におまへの心持を知り度と思つた。

 おまへは俺と生活するより以上によい生き方が出来ると信ずる男があれば俺はその時おまへを止める資格はないと思ふ。

 ……今迄は汝が確に俺を愛し俺と一緒によく苦しんでくれたことは私にはよくわかつてゐる。

 僕等の関係は常に進まなければならないと思ふ。

 出来得る丈相互に深く触れ合はなければならないと思つてゐる。

 ……私は果たしておまへを自由に手放して昨夜の様におそく迄おまへの外出をゆるしてすましてゐることが出来るであらうかといふ事をつくづく考えて見た。

 それは今の私には到底出来さうもない。……

 おまへは家事の些細な仕事は到底自分の進んで行く道の大なる邪魔になると思ふなら、而して又子供を養育すると云ふやうな煩雑に耐え得ないと信ずるなら、又そんな事をする為めに自分の欲してゐる生き方をさまたげられるといふ様な念を絶えず頭に持つてゐるなら私はどうしたらよいだろう。

 幸ひにして母でも健康である間は家事のことはまかして置かれるけれど一端病気にでもなつた時はおまへはどうしても家事のために自分を犠牲にしなければならない。

 そのときおまへは何の苦痛もなく矛盾もなくそれをやつて行かれるであらうか私はそんな事まで考へ初めたのだ。


(同上)





 読みながら堪らなくなった野枝は、すぐに鉛筆を持って書いた。

 前半は事実関係についてである。

 荘太に書いた最後の手紙については辻に何も言っていなかったこと。

 その手紙には自分の方から会いたいと書いたこと。

 そのとき荘太に心を動かされていたのは本当だったこと。

 荘太からの返事が来たとき、それを辻に見せて自分が最後に書いた手紙の内容も話して詫びようと思っていたこと。

 電報に応じて出かけたのは、辻が帰宅するまでに戻って話せばよいと思ったから。

 帰宅が遅れたのは体調が悪く保持の家で寝ていたりして出かけるのが遅くなり、荘太が下宿に戻ったのが午後七時ごろになってしまったから。

 荘太が出したという最後の手紙を野枝は受け取っていないこと。





 後半、野枝はこんなことを書いた。


 ……手紙で感動したのとはまるで反対に相対していましても私の心はさう騒ぎはしませんでした。

 ……あなたと私との間の固い結合に対する試みじやないかといふやうな気ばかり致しました。

 ……木村さんのいふことをだまつて聞いてゐました。

 そして何に対しても返事は致しませんでした。

 唯あなたと私との愛に就いて聞かれたときは真実で深い愛着があるといふ事を明言いたしました。

 帰つて来るまで別に大して違つた気持ちは持つてゐませんでしたけれどもたヾあなたが非常に私に憎悪の感を抱いて怒つてらつしやるとわかつたとき……自分の気持ちが分らなくなつてしまひました。

 私の木村さんに対する苦しい気持ちはまつたく自分でいけないのだから仕方がありません。

 ……たヾ私はあなたにどうしていゝかわかりません……。

 私はいまあなたからはなれて行く位なら生きてゐない方がましです。

 生きられません。


(同上)





「おまへの態度はよく分かった。

 しかしおまへが俺に対して与えた傷は容易に癒されさうもない。

 私の木村氏に対する感情も余程変わつたものになつて来た。

 ……若し木村氏が友人として交際することを許してもらいたいと云ふとき私はそれを拒みたい。

 ……強いて自分をごまかして又後になつてつまらない結果をもたらしたくない。

 おまへはそれをハツキリ拒絶する事が出来るか」

「無論そうでなければなりません。……」

「それでわかつた。……明朝早く行かう」

「明日午前に来てくれと云つて来ましたからあなたがさしつかえなければ行きます」

「おまへは会つて木村氏が何と云つてもハツキリ拒絶する勇気があるか」

「きつとあります」

 野枝は鉛筆を置いて辻と顔を見合わせると、思わず軽い微笑が浮かんだ。

 筆談中には締まっていたふたりの心が、緩みほぐれながら絡み合った。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:28| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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