2016年04月16日

第90回 牽引






文●ツルシカズヒコ



 麹町区平河町の荘太の下宿で、荘太と野枝は向き合っていた。

 野枝宛ての手紙を彼女に渡さなかった辻ーー野枝もふたりの男の価値はおのずからわかるはずだと、荘太は思った。

 荘太は昂然として語り、ふたりの男の選択は野枝にあるはずだと迫るような語気で話した。

 荘太はこの日の朝、福士幸次郎から手紙を受け取った。

 荘太と野枝のラブを絶賛する文面だった。

 荘太は感動のあまり涙を流した。

 荘太はその手紙を野枝に見せた。

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 自分は君のラヴが之れ程まで立派に出た事に就いて今迄知らない幸福を感じてゐる。

(無車君のC子さんとも違ふと思ふ。 思ひ切つて言ふならあれは無車君といふ人の人格のラヴだと思ふ。君のはさうでない。もつと覚めた意識が互ひに愛になつてる。いふ迄もない事だが。)

 それだけ君のラヴが人事でない気がする。

 万人のものだといふ気が更 にする。

 君一人の幸福でないといふ気が痛切に来る。

 女の人のハス(夫)はそれは気の毒だ。

 然し自分はこの結末がきつとよい事を信じてゐる。

 ハスの問題は後廻しにしてもいいと思ふ。

 気にする事は少しもないと思ふ。

(ハスに呉れといふ事は決して crime ではない。 今の処それは最上だ。君の出づべき当然の道だと思ふ。一番立派な事だと思ふ。)


(木村荘太「牽引」/『生活』一九一三年八月号)





「無車」は武者小路実篤のこと、「C子」は一時、青鞜社の社員であった竹尾房子(宮城ふさ)、この年の二月に武者小路と房子は結婚していた。

 野枝はこの手紙についてこう書いている。


 ……その手紙の中に白樺のM氏とかなりに青鞜社で迷惑を感じたC子氏の恋に比較されてあるのを読んで私は嫌な気がした。

 ……それ等の若い人たちの噂からうはさを生んで飛んだ違つた色を帯びたローマンスにでもなつて、また青鞜社の名でも出されては、困るというやうな事まで考えました。


(「動揺」/『青鞜』一九一三年八月号・第三巻第八号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)





 野枝が読み終えると、荘太が言った。

「僕は今強くあなたを愛しています」

 野枝は黙って肯いた。

 荘太は懐ろに入れていた野枝の最後の手紙を出して尋ねた。

「僕はこの手紙をあなたが書いた気持ちをよくお伺いしたいのです」

「……ええ」

 と野枝はしばらく間を置いてから言った。

「私いろいろお話したいことがあったのですけど、今日さっきの電報でただビックリしてしまったものですから、今、ちっとも何だかわからなくなってしまっているのです」

 荘太は野枝が自分に牽引されていると解釈していた。

 自分は辻より優良で、野枝の真の幸福は自分の手中にのみあると思っていると言った。

 ただ自身が欲するままに圧倒して、野枝を奪いたくない、ただ自然な結合の前に謙虚に跪きたいのだと長く話した。

 野枝の額にたらたら汗が流れ始めた。

 野枝はしきりにハンカチでそれを拭いた。

 荘太が尋ねた。

「で、あなたには辻さんに対する愛があるのですね」

 野枝が即座に答えた。

「ええ、あります」





 荘太はまたいらいらした。

 どうにでもなれという気になった荘太は、なおも話し続けた。

 自分の過去や現在についても打ち明けた。

 野枝の書く才能を買っていた荘太は、自分が伍するグループで野枝の才能を開花させてみたかった。

 荘太は仲間たちのことを話し、女には今またさらに進んだ問題が展けている、そのためにはただ女が飛躍することだ、僕はそのすべてを備えていると語った。

 荘太は高村光太郎の詩「失はれたるモナ・リザ」のモデルであり、光太郎の愛人だった吉原の娼婦を自分が奪った話もした、嵐のように湧き起こる創作意欲に駆られて書き始めた小説も野枝に見せた。

 野枝は終始、俯いて聞いていた。

 荘太の話す調子が軽くて口早やなので、まとまったものとして頭に入って来なかった。

 パッショネイトな言葉で語られても、本体のパッションが何も野枝には伝わらなかった。

 多血質で動かされやすい野枝だったが、荘太の饒舌には共鳴するものがなかった。

 とにかく、野枝の気分は逸れてしまった。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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