2016年04月15日

第84回 ドストエフスキイ






文●ツルシカズヒコ



 一九一三(大正二)年六月二十六日、その日の朝、野枝は疲れていたのでかなり遅く目を覚ました。

 野枝はこの日もまた校正かと思うとウンザリした。

 しかし、今朝は手紙が来ていないのでのびのびとしたような気持ちになり、辻に清子と昨日歩いたことなどを話した。

 野枝は昨日と一昨日に書いた手紙を入れた封筒を持って出て、それをポストに入れた。

 野枝は苦しい手紙を書いたことが遠い遠いことのように思われ、書いた内容ももうはっきり覚えてはいなかった。

 このあたりの野枝のことを、らいてうはこう批判している。

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 ……「動揺」の中の野枝さんは只無暗に激動して、騒ぎ立てゝゐる野枝さん丈で、そこにはさして深酷な苦悶も見えなければ、根本的は思索の跡もない。

 果たせるかな野枝さんはその手紙を書き終ると出来る丈考へまいとして眠て仕舞つた。

 そして翌日目覚めた時はもうそんなことを殆ど忘れて只木村氏から手紙の来てゐないのでのび/\としたやうな気持で、T氏と平気で話などしてゐた。

 のみならずそれを投函する時はもう何を書いたことか自分にも分らない程だつた。

 しかも他日その手紙について尋ねられた時は「何を書いたか覚えがない。」と当然のことのやうに答へた丈で、その無責任を自ら咎めるやうな心は左程動かなかつた。

 忽ちかつと逆せ上るかい(ママ)思ふと、あとはケロリとして「私の知つたこぢやない」といつたやうな処や、「あゝもういやなこつた、疲れて仕舞つた」といつてポカンとしてゐるといつたやうな処が少しもなくない(ママ)。


(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』一九一三年十一月号)





 野枝が文祥堂に入ると、保持が一階で電話をかけていた。

 野枝はホッとして保持の電話が終わるのを待って、一緒に二階に上がった。

 野枝は少し残っていた前日の校正をすませると、自分が書いた手紙が先方に届いたときのことを考えた。

 あんなに激しいことを書いた自分は、いったいどうしたんだろうと思った。

 辻にとっても快い内容ではないような気がして、なんだか急に不安になってきた。

 その日の校正は早く片づいたので、野枝は哥津と一緒に文祥堂を出た。

 野枝は不安をかき消すため、いっそ荘太のところに行って直接解決しようかとも思ったがやめて、哥津の家に行った。

 哥津の家で哥津の父、小林清親の絵を見せてもらったり、清親の話を聞いている間、野枝の不安は消えていた。

 日が暮れたころ、野枝と哥津はふたりで神楽坂の縁日に行き、そこから野枝は電車で帰宅した。





 まさか今日は荘太からの手紙は来ていないだろうと思っていたが、先に帰宅していた辻から荘太の手紙を渡され、野枝はまあよく書く人だと思った。

 辻と離ればなれになっていた昨年の夏から秋にかけて、野枝は書かずにはいられなくて辻に毎日のように手紙を書いた。

 辻の返事が少ないと恨んだことを野枝は思い出し、荘太に対してすまないような気がした。



 今は十二時を過ぎました。

 私は対象を求めてゐました。

 自分の愛を語り得る異性の対象を求めてゐました。

 併し私は容易(たやす)く誰れにでも自分を語り自分の愛を濺(そそ)ぎ度くないと思つてゐました。

 私は自分の貴い孤独をも出来るだけ尊重したいと思つてゐました。

 その私です。

 今あなたに宛てゝこの手紙を書いてゐるものはその私です。

 若しもあなたと僕との関係がオオル、オア、ナツシングのものだとすれば私は非常に淋しく思ひます。

 今日私にはその離れる方の予感が多いのです。

 コワレフスキイの自伝の中にソニアの姉がドストエフスキイの愛を退ける処があります。

 私はふとその処をば今朝読みました。

 そのドストエフスキイの言葉にかういふ言葉 があります。

“Anna Ivanovna, don’t you understand that I loved you from the first moment I saw you, nay, before I saw you, when I read your letters? I love you not as a friend-no, passionately, with all my heartーー”

 私は今可なり先日お会ひした時の話がはぐれてゐた事を感じます。

 私の為めには小林さんの傍にゐた事が悪かつたのてす。

 あなたは随分よく私に解りました。

 けれども私はあなたに何を語つたでせう。

 私があなたに語り度いのは、直接あなたに御伝へしたいのは霊魂です。

 自分の霊魂の言葉です。

 六月廿五日夜半


(「動揺」/『青鞜』一九一三年八月号・第三巻第八号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)





 読み終わると、野枝は何だか恐ろしくなった。

 これほどまでに鋭敏に、荘太の神経が自分の上に働いているかと思うと、ぞっとした。

 野枝は思わず辻の傍らにすり寄って息をつまらせた。

 野枝は最初に荘太に会ったときに、何も感じることができなかったことが不思議だった。

 自分が鈍なのか、荘太になんの期待もしていなかったからなのか……。

 野枝は床についてから、一番はじめからの自分の気持ちとその変化を考えてみた。

 荘太がドストエフスキーの言葉として書いた英文の部分を、ちなみに野上弥生子はこう和訳している。


 アンナさん、あなたは私が初めてあなたを見た瞬間からあなたを愛したのが分からないんですか。

 否や、まだ逢はないうち、あなたの手紙を見た時から愛したのです。

 私はあなたを愛します。

 友達としてじゃありません。

 ーー決してそうじゃない。

 烈しく、私の胸一杯で愛するのです。


(野上弥生子『ソーニャ・コヴァレフスカヤ―自伝と追想』岩波文庫)





 この日の午後、荘太は野枝からの手紙を受け取った。

 分厚い封書だった。

 封を切ると、ペンで原稿紙に書いてあるのと厚く重なる数枚の半紙にいっぱい墨で書いてあるのと、手紙が二通入っていた。

 読み終えた荘太は自分のとるべき態度を考えた。

 野枝にはすでに愛する男がいるが、会ったときに野枝はそれを言わなかった。

 荘太はここに問題の核心があると思ったが、ふたりだけで会っていればそんなことも起きなかっただろうとも思った。

 野枝が荘太に言いそびれたのは、自分にとってあながち不快なことばかりではないかもしれないとも考えた。

 手紙で友達としてお付き合いしたいと言ってきているように、最初から突っぱねたくないという配慮とも考えられる。

 荘太は野枝の長い手紙の本気な書き方に好感を持ち、それは自分に信頼感を持っている証でもあると思った。

 男が荘太の書いたものを知っていて、その男が野枝に会うように勧めたことにも好感を覚えた。

 荘太は自分の愛は野枝に通じているし、野枝も荘太の愛に酬いてくれているが、三人にとっての最上策は自分が身を引くことだと結論づけた。


ソフィア・コワレフスカヤとフョードル・ドストエフスキー


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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