2016年04月15日

第82回 校正






文●ツルシカズヒコ



 一九一三(大正二)年六月二十五日、その日は『青鞜』七月号の校正を文祥堂でやる日だった。

 朝、野枝は荘太に宛てた手紙を包みの中に包んで仕度をしていると、また荘太からの手紙が来た。

 荘太は二十三日に続けて書いた二通の手紙に番地を書き落としたから、野枝の手元へは届いていないだろうと思いますと書いているが、野枝は二通とも受け取っていた。

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 私はこれからあなたと交渉し得ずに自分が一番いゝ生き方をし得るといふ事をどうしても想像する事が出来ません。

 あなたの若しお気が向ひたらば御序での節に汚い処ですが御立ち寄りなすつて下さい。

 至極貧しい蔵書ですが何か御参考になるようなものもあるかも知れません。

 直接に言ひます。

 私は烈しくあなたを恋するようになるかも知れないと思ひます。

 私はいつか自分があなたの手を執るべき日の事を夢見ます。
 
 二十四日ひる


(「動揺」/『青鞜』一九一三年八月号・第三巻第八号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)





 野枝の頭は何かに覆われてしまったかのように真っ暗になったが、ぐずぐずしているわけにもいかないので、手紙を持ったまま出かけた。

 野枝は電車に乗ってもそのことばかり考えていた。

 なんのためにこんなに苦しんでいるのだろう。

 馬鹿馬鹿しくなったり、一生懸命な荘太を気の毒に思ったり、最初に会ったときに言うべきことを言わなかった自分を責めたりした。

 辻と同じくらいの荘太の熱情を理解することができなかったら、荘太は野枝のことを無智な女と思うだろう。

 辻との愛がどんなに熱烈であっても他の愛を受け容れないことで、侮蔑されたり憐れまれたりすることも野枝は嫌だった。





 文祥堂の二階に行くと、哥津はまだ来ていなかった。

 野枝は荘太から今朝届いた手紙を、もう一度読んでみた。

 野枝は荘太の愛に動かされている自分に改めて気づいた。

 荘太の愛を無視することはできないが、同時にふたりの人を愛することもできない。

 どちらかの愛を却(しりぞ)けるしか方法はない。

 今のところ辻を離れては生きていけない。

 荘太を却(しりぞ)けるしかない。

 わかりきったことだ。

 しかし、苦しい。

 なぜ心が動く?

 そうだ、天が辻と自分の愛に試練を与えているのだ。

 無智だと言われても侮蔑されてもいい。

 荘太の愛を明らかな態度で断ろう。

 あの返事じゃだめだと思った野枝は、じっとしていられなかったので、ペンを手にして書きかけたがどうしても書けなかった。





 そのうち校正がいっぱい出てきた。

 野枝は一生懸命やろうとしたが、なかなか集中できなかった。

 しばらくして哥津と岩野清子が一緒に校正室に入ってきた。

 ちなみに、野枝はこのときの校正のことをこう書いている。


□校正つて本当に嫌やな仕事です。厄介な仕事です。出ない間ボンヤリして機械の廻る音を聞いてゐますと気が遠くなつてしまひます。一昨日歌津ちやんは眠つてしまひました。こゝの校正室は風通しがよくていゝ気持ちに眠れるのです。

□今日は岩野さんがゐらしたのですけれども歌津ちやんとしんこ細工を見に行くつて出ていつてしまひました。


「編輯室より」/『青鞜』一九一三年七月号・第三巻第七号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)


「一昨日」というのは六月二十三日、荘太が来た日のことだろう。

 この号の「編輯室より」には、野枝のこんな発言も載っている。


□先月号の表紙の裏に広告を出したのが大変に感じを悪くしました。青鞜ではあんな事をした事はないのです。あれは書店が禁を犯したのです。以後はきつとあんな感じの悪い事は致さないつもりです。

□街路がどれも勢いよく葉を出しました。あの御徒士町(おかちまち)の通りのツン/\したプラターヌスの葉も真青になりました。

□歌津ちやんはお芝居や寄席や新内や歌沢で日を暮してゐます。私は、うちにゴロ/\して、いつからいてうと岩野さんと歌津ちやんと私と四人で堀切に行つたときに買つて貰つた小さな独楽をまはして遊んでゐます。

□小母さんのうちにはいろ/\な花が咲きました。大変きれいです。いまに小母さんの家は花でかこまれるでせう。


(同上)





「先月号の表紙の裏」の広告というのは、『青鞜』六月号(第三巻第六号)の表紙二(表表紙の裏)の広告であろう。

 宝石を身に着けた貴婦人のイラストとともに、以下のコピーが記されている。

 
 正確(たしか)な貴金属品は

 永年専業の商店(みせ)として信用ある、

 大西白牡丹(おほにしはくぼたん)へ御申付下(おもをしつけくだ)され度(たく)候(さふらふ)。

 ◁よそほひ第七号発行無料贈呈▷

 東京南伝馬町 大西白牡丹


(『青鞜』一九一三年六月号・第三巻第六号)


 現在の雑誌にたとえるのはちょっと無理があるかもしれないが、『アエラ』にジュエリーマキの広告が入っているようなものだろうか。

 そういう違和感を『青鞜』編集部の面々は抱いていたようだが、広告収入を稼ぐため、東雲堂書店の社長・西村陽吉が捻じこんだのだろう。





 四時か五時ごろ、野枝たち三人は文祥堂を出て、一昨日も行った築地の居留地の方に歩き、銀座に出た。

 野枝はそこでふたりと別れ帰宅して返事を書き直そうと思ったが、この日は辻が不在なのでひとりで苦しむのが嫌だったので、ふたりと一緒に歩いた。

 銀座を真っ直ぐ歩いて京橋を渡り中通りから日本橋に出て、常磐橋から電車に乗った。

 水道橋で哥津と別れ、春日町で清子が降りた。

 野枝は巣鴨橋で降りて山手線に乗り換えるころから、頭も体も何かにはさまれたように固くなった。


京橋2 


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 11:16| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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