2016年04月14日

第81回 第二の手紙






文●ツルシカズヒコ


 一九一三(大正二)年六月二十四日の朝、辻が出かけるとすぐに「京橋釆女町(うねめちょう)にて」と裏書きされた、荘太からの手紙が届いた。

 それは荘太が前日の夕方に書いた手紙だった。

 野枝は昨夜、荘太への手紙を書こうとしたが疲れていたので書かなかったので、書き遅れてしまったと思った。

 そして、何かしらその手紙を開けたくないような気もしたが、開封して読んでみた。

 野枝は昨日、話すべきことを話さなかったという自責の念に駆られた。

 そして、こういう手紙を書かせてしまった荘太にとても申し訳なく思い、ジッとしていられなくなった。

 野枝はすぐに机に座り、筆を執って半紙に墨文字を書き連らねていった。

 野枝はまず、昨日、話すべきことを話さなかった非礼を詫びた。


 何とお詫びしたらよろしいので御座いませう。

(「動揺」/『青鞜』一九一四年八月号・第四巻第八号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』/「書簡 木村荘太宛」 一九一三年六月二四日

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 そして荘太に自分のことを理解してもらうために、まず辻と同棲するに至った経緯を順を追って書き始めた。

 女学校五年生の夏に結婚を強制されたこと。

 卒業式の翌日、学校の英語の先生と一緒に展覧会を見に行き、帰りに抱擁されたこと。

 婚家から出奔したこと。

 上京して英語の先生の家に厄介になったこと。

 そのころからその男と愛し合う仲になり、それが原因で男が失職したこと。

 今は離婚問題が解決し、男と同棲していること。

 きびしい状況下ではあるが、ふたりの結合は固く離れることができない関係であること。

 荘太からの最初の手紙を男に見せて相談し、男が返事を書くように勧めたことも書いた。





 今後の荘太との関係について、野枝はこう書いた。


 ……親しいお友達として御交りして頂き度いと思ひます。

 ……私の半身である男にもお合ひ下さればどんなに幸でせう。


(同上)

 
 エレン・ケイの翻訳については、こう答えた。


 勿論私の極くまづしい語学の力で完成する筈はありません。

 たしかに男の力によるのです。

 私も出来る丈け勉強して他人の力などに依らずに自分で出来るやうにしたいと心懸けて勉強してゐます。

 私は決してそれをかくしたり偽つたりはしません。

 ……六月二十四日


(同上)


 野枝は書き終わってから読み返し、すぐに出そうか出すまいか迷った。

 しかし、まあ辻に一度見せようと思い封筒に入れて表を書いて、わざと封をせずに机の上に置いた。

 野枝はホッと息をついた。

 長文になったので封筒は分厚く膨れていた。

 少し落ちついてくると、荘太の手紙の終わりの方の「生田長江氏」という文字が目に入り、野枝は訳もなく腹立たしくなった。

 先生ほどの方がなにも私のような小娘を相手に、そういうことを公言するなんて馬鹿馬鹿しくなり、本当のことではないような気もした。

 けれどもまさか、荘太が出鱈目なことをわざわざ書くはずもないだろう。

 野枝はらいてうが『中央公論』新年号に書いた「新しい女」のことを思い出した。

「新しい女」は『ジャパン・タイムス』にも英訳して掲載された。

 紅吉によると、長江はこの「新しい女」について自分がらいてうに話したことだと言ったという。

 紅吉の言うことだから信用していなかったが、本当かもしれないと思った。

 野枝はそういうことを好んで吹聴する長江のことがおかしくなった。

 長江は誰にでも調子のいいところがあった。

「先生先生」と言って相当に尊敬の念を払っていたのが、なんだか馬鹿馬鹿しくもなってきた。





 そんなことを思っていると、荘太が昨日の夜に書いた手紙が届いた。

 それを読んだ野枝は、どうしていいのかわからなくなった。

 真面目なある力が、遠慮もなくぐんぐん自分の生活の中に押し寄せてくるような気がした。
 
 野枝は外に飛び出し、息をつかせぬものに追われるようにむちゃくちゃに歩いて、保持のところに行った。

 保持は出かけようとする間際だったが、かなり長い間話した。

 出かける保持と一緒に出て帰ろうとしたが、崖の道をそのまま帰ることができず、林の中に入ってしばらく歩いた。

 足どりがややゆっくりになるにつれて、昂(たかぶ)っていた心も落ちついてきた。

 野枝はふと不安になった。

 自分が書いた返事は自分の態度の明瞭さを欠いているのではないか……。

 またせかせか歩き出した。

 染井の墓地に出たころ、野枝はフラフラする自分の気持ちがおかしくなってきた。

 今ごろ辻が帰っているだろうと思うと、なんだか悲しくなってきた。

 静かな墓地を歩きながら、あれこれ考えをめぐらしていると、何がなんだかわからなくなってしまった。

 一度会っただけで深い印象を持ったわけでもない人が、嵐のように襲ってきて、自分の生活をかき乱していることに腹が立ってきもした。

 気狂いか何かに抱きすくめられて、あがきのとれない苦しさも感じた。

 苦しくなって大急ぎで歩いた。

 家の前まで来ると、いつものようにジョンが飛びついてきたが、邪険に突き飛ばし家の中に駆け込んだ。





 帰宅していた辻は机の前に座り、野枝が書いた返事の手紙を読んでいた。

 野枝の方にちょっと振り向いた辻の顔は、なんとも言えないほど険しかった。

 野枝は体中に漲っていたある感情がグッとこみ上げてきて、辻の手から手紙をひったくり、辻の体に抱きついた。

 悲しいのか恐ろしいのか得体の知れない涙が、止めどなく流れた。

 再び手紙を読み始めた辻の顔を見上げると、激した辻の顔は恐ろしいほど締まり、細い筋肉の微動さえわかるほどだった。

 野枝は辻の胸のあたりに顔を埋めて、じっとしていた。

 辻の心臓の鼓動が野枝の額に伝わり、野枝の体の中へ消えて行くのがはっきりわかった。

 辻が手紙を読み終えたが、ふたりはひと言も言葉を交わすことができなかった。

 しばらくして、野枝が紙に鉛筆で書いた。

「怒つてるんですか」

 辻も紙に書いて答えた。

「僕はなんにも別に怒つてはゐない、木村氏の手紙は皆気持がいゝ、たゞおまえの昨日の態度の明瞭でなかつたのが遺憾だ」

 野枝は責められなくていいことを責められたような気がしてちょっと嫌な気がした。

 しかし、やはりそれが一番いけなかったのだと気づくと、野枝は何も言えなかった。

 野枝は返事をもっと明瞭に落ちついて書き変えようと思った。

 辻はそれならもっと簡単に書いたらいいだろうと野枝に注意した。

 辻と並んで座っているうちに、野枝は辻の力がグングン自分の体内に流れ込むのを感じて、やはりこの人なしには生きていくことはできないと思い、ホッとした。

 野枝はすっかり疲れて頭が重くなったので寝(やす)んだ。





 野枝が書いた第二の手紙について、らいてうはこう書いている。


 私は第二の手紙を読んだ時、すぐ昨年の初夏未見の野枝さんから受取つた最初の長い手紙のことを思ひ出した。

 今日の境涯を切開いた過去の野枝さんの苦しい経験を思つて涙が出たと同時に、すぐ一筋に思ひ詰めて無我夢中になれるこの種のパツシヨネートな人や又自己をよくもまだ知らぬ人の前にすぐ語ることの出来る人を羨ましくも思つた。

 そして野枝さんの何処か野生的の処のある血色のいゝ顔や、無邪気に話すあの大きな声や締つた筋肉や、よく発育した肉体が心に浮かんだ。

 と同時にその野枝さんが真白な水泳服を着て高い櫓から水の中に飛び込む時の様子を思つた。


(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』一九一三年十一月号)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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