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2016年04月12日

第78回 フュウザン






文●ツルシカズヒコ


 荘太が野枝への手紙を投函して数日後、長尾豊が荘太を訪ねてきた。

 荘太は友人である長尾に、自分が伊藤野枝に興味を持っていることを話していた。

 長尾はいきなり野枝のことを話し出した。

 数日前、生田長江を訪ねた折りに、野枝について聞いてみたという。

 長尾が長江から得た情報によれば、野枝には「ある人」がいて、それが夫なのかラヴァアなのかわからないが、その人が野枝の署名している翻訳の筆を執っているのだという。

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 長尾はまもなく帰ったが、荘太は「ある人」に対して軽い嫉妬を抱き、いい知れぬ当惑の情を感じた。

 すぐに手紙を書いて、長尾から聞いたことが事実かどうか確かめようと思ったが、面倒くさくなってやめた。

 翌日、長尾から葉書が来た。

中央新聞』に野枝の記事が載っていて、それによると彼女には後藤某という内縁の夫があつて、近く出産したのだそうだ、ということが簡単に書いてあった。

 荘太は自分のことを一種の興味で見ているやうな長尾の葉書の書き方に軽い不快を感じ、ますます自分の気持ちが野枝から離れ去るのを感じた。

 もうこの件に関して、自分から何かしようという気が全然なくなった。

 図書館へ行って新聞を見ようと思ったが、 それすら嫌になった。

 返事が来るかもしれない。

 来ないかもしれない。

 とにかく会うという返事かもしれない。

 事実をハツキリ知らせてくるかもしれない。

 どうでもいい。





 それから十五日まで、荘太はフセーヴォロド・ガルシンの短篇小説の翻訳に没頭した。

 徹夜をして翻訳し終えた原稿を持って、佐藤惣之助の家に行ったのが六月十五日の夕方だった。

フュウザン』の同人が集まっていて、みんなで七月号の編集作業をやった。

 この号から「フュウザン」を「生活」と改題することになったのだ。

 作業を終えると、みんなで打ち上げをやった。

 夜の十時過ぎに高村光太郎がやってきた。

 明け方近くまで話し続けた。





 六月十六日は佐藤の家で昼まで寝て、夕方、下宿に帰ると野枝からの手紙が来ていた。

 手紙を手に取る刹那、荘太はまったく自分の知らない感情を蔵しているのに気がついて、驚愕した。

  手紙の内容によっては、自分が強い打撃を受けるかもしれないと思った。

 荘太は運命と面接するような気持ちがした。

 不安のほか何物も感じなかった。

  そして、やはり自分はこの手紙が来ることを待っていたーーそのことに気づいた。

 荘太は二、三分間、手紙を持ったまま開けることができなかった。

「市外上駒込染井三二九 辻方 伊藤野枝」と書いてある封筒を見詰めていた。

「本式な崩しの草書で、伸びやかに、うまい字」(『魔の宴』)だった。

 荘太はその字に少し圧倒されるのを覚えた。
 
 荘太はますます不安になり、急いで封を破って読み始めた。


『フュウザン』復刻版



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:13| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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