2016年04月11日

第75回 魔の宴






文●ツルシカズヒコ


 一九一三(大正二)年五月十六日ーー。

 土砂降りの雨の中(1913/05/16の降水量)、若い男が北豊島郡巣鴨町の青鞜社事務所を訪れた。

 男は応対した保持に野枝との面会を請うたが、野枝は不在だったので男は帰った。

 野枝はその後二、三回、事務所に行ったが、保持は男が来たことを忘れてしまっていたので野枝には伝えなかった。

 男は『青鞜』の愛読者だった。

 最近の『青鞜』を読んで、下らない歌や小説を書かずに、『青鞜』五月号に載ったエレン・ケイの「恋愛と道徳」の翻訳などをしている伊藤野枝のことが気になった。

 伝え聞くところによると、伊藤野枝は青鞜社の中で最年少だったが、二月の青鞜社公開講演会では演壇に立ち多くの聴衆の前で臆することなく語ったという。

 野枝に対する興味が募り、男は思い切って会ってみようと思った。

 青鞜社は毎週金曜日を読者との面会日にしていたので、男は五月十六日の金曜日に青鞜社を訪れたと思われる。

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 エレン・ケイに関しては、らいてうが『青鞜』に訳載していたが、同誌五月号に載った「恋愛と道徳」を野枝が担当することになったのは、同号「編輯室より」によれば、そのころらいてうが体調を壊し「十日ばかり前からひどい熱に苦しめられてずっと床について居」たからだ。

 しかし、「恋愛と道徳」を訳したのは野枝ではなく辻だった。

 男は自身の女性観、恋愛観を綴った「顫動(せんどう)」を雑誌『フュウザン』六月号に載せた。

 男は「顫動(せんどう)」にスタンダールの『恋愛論』から言葉を引いて、野枝にメッセージを送った。


「愛のない結婚生活で、妻が貞操を守るなどということは、おそらく自然に反する」という言葉を「恋愛論」から引いて、この言葉を「エレン・ケイの訳者に贈る」と書いて、最後に載せた。

(木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』・朝日新聞社・一九五〇年/『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』・平凡社・一九八一年)。





 らいてうはその男が青鞜社を訪れたときのことを、こう書いている。


 五月の或雨降りの金曜日に私は小母さんと事務所で話しをしてゐると、玄関の方に人が来た。

 取次ぎに出て戻つて来た小母さんは木村といふ人が野枝さんに逢ひたいと云つて来たのだと云つた。

 そしてそれは若い書生風の男だといふことだつた。

 けれど私達は野枝さんからついぞそんな姓の人のことを聞いた覚えもないので……例の紹介もなしに……用事もなしに……好奇心から訪問しに来る青年の一人だらう位に思つてそれなり忘れて仕舞つた。


(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』一九一三年十一月号)





 麹町区平河町の下宿に住んでいる男は、野枝に手紙を書いた。


 拝啓、未知の私から手紙を差し上げる失礼を御ゆるし下さい、さて先月の中程の金曜日に編輯所へ上つてあなたをお訪ねしたのは、私でした、実はその頃からして私はあなたを知り度く思つてゐまして、それで突然御伺ひして見たのでした。

 ……僕には……かなり烈しくあなたに対する興味を抱かせようとしてゐるものがあるのです……私はあなたの書かれるものゝ幼稚さがかなり純らしい処から出てゐるようなのを愛してゐます……僕はかう云ふ自分の気持ちが……幾分ラヴに似てゐる事を驚くのです。

 ……もし御会ひ下さるようでしたら御都合の時処をお知らせ願へば幸甚です。

 ……六月八日夜


(「動揺」/『青鞜』一九一三年八月号・第三巻第八号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)





 木村荘太「牽引」によれば、荘太は翌日、自分の下宿から半町と離れていない、紀尾井町三番地の下宿にいる弟(木村荘八)のところへ行き手紙を見せた。

 画家の弟は黙って手紙を読んで、黙ってそれを男に返した。

 しばらくして、弟が兄に言った。

「若い綺麗な人だそうだ」

 兄が興奮気味に言った。

「とにかく会うと言ってよこせば面白いだろうと思う」

 話題はすぐに変わり、しばらく話した後、男は弟の下宿を出た。

 男は途中、手紙を投函し一種の期待を湛へた安らかな心になった。

 木村荘太、荘八の父は木村荘平、牛鍋屋のチェーン店を何人もの妾に経営させていたという明治の豪傑である。

 荘太、荘八は妾の子で同腹の兄弟だった。


江戸老人のブログ「明治の豪傑”いろは”木村荘平」

Art & Bell by Tora「生誕120年木村荘八展」

※木村荘八「私のこと



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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