2016年04月07日

第70回 荒川堤






文●ツルシカズヒコ



 野枝と岩野清子がらいてう宅を訪ねると、らいてうは折りよく居合わした。

 三人は荒川の方へ歩いて行くことにした。

 本郷区駒込曙町のらいてうの家を出て、駒込富士前町の裏手から田端にかけての道は、野枝がよく知っていた。

 お天気が馬鹿によかった。

 あっちこっちに木蓮が咲いていた。

 荒川まではだいぶあった。

 田端の停車場を出て山手線の掘割に入ろうとする曲がり角近くの断層(田端の断層)のところに、子供が大勢いた。

 らいてうは誠之(せいし)小学校の室外教授で、ここに連れられて来たことなどを話した。

 空は綺麗に晴れていた。

 野枝は広々とした田圃道を岩野とらいてうに挟まれて自由に話しながら歩いて行くのに、非常な満足を覚えた。

 野枝は愉快になって声を放ってよく笑った。

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 小台(おだい)近くまで行ったとき、らいてうがずっと前によくこのへんに散歩に来たものだと言って、何かを思い出すような顔つきをした。

 小台の渡しを渡って荒川堤が見えるようになるころから、三人の後にも前にも花見らしい人たちの姿が続いた。

 荒川堤の桜はまだ六分ぐらいの開き方で、まだ茶屋にもそうたくさんな人の姿は見えなかった。

 三人は川口の渡しの方へとだんだんに上って行った。

 どこまでも行っても桜は尽きなかった。

 野枝はらいてうと清子の間に挟まって歩きながら、本当に子供っぽい気になってはしゃいだ。

 いく度もいく度も洋傘の先で桜の枝を引き下ろしては、美しい花を手折った。

 しかし、野枝はそれをすぐに捨ててしまうので清子に笑われた。

 風がひどくなってきた。
 
 清子は髪に埃がつくのが嫌だと言って、ヴェールを頭からかぶって歩いた。





「栄螺(さざえ)が食べたいわ、食べましょう」

 清子が掛茶屋(かけじゃや)の中を覗き込みながら言った。

「こんなところのはあてにならないわ。アカニシだっていうじゃありませんか」

「そう?」

「こんなところだけでなしに、市内の安料理屋なんかのだって、やはりそうだっていいますよ」

「そうでしょうね、やはり東京じゃ高くて駄目なのでしょうね」

「そうですね、でもたいていの人はアカニシと承知して食べているのですから、アカニシのつぼ焼と書いたらよさそうなものね」

 らいてうはそんなことも言った。

「やはりサザエと言わなければ体裁が悪いのでしょうね。こんど折りがあったら、江ノ島に食べにいきましょう」

「江ノ島なら大丈夫ね。だけどサザエもアカニシも、あんまり味は違わないんですってね」

「そうですってね」

「岩野さん、ずいぶん食べたそうですね」

「ええ、食べたいわ」

「そんなら食べましょうか」

「食べてもいいわ」

 来た道を茶屋の前まで引き返した。

「何だか変ね、よしましょうよ」

「どうして、あなた、食べたいんじゃありませんか」

「だけど変ね」

 そう言ってずんずんまた歩き出した。

 茶屋の若い衆が妙な顔をして三人を見送った。





 野枝たちが話をしながら歩いて行く後から、自転車が走って来て三人を追い抜いた。

 しばらく歩くと、木の下に自転車が立てかけてあり、乗っていた男が野枝たちを見ていた。

 三人は話に気を取られて歩いていた。

 三人が男のそばに近づくと、その男が写真機を持っていることに気づいた。

 直後、その男は三人の姿を写した。

 三人が顔を見合わせていると、その男は自転車をかかえ三人の傍らをすり抜け、大急ぎで駆けて行った。

「まあ、ひどいのね、私たちを写したんですよ」

「いったい、私たちと知って写したのでしょうか。それとも知らずにかしら」

「まさか知ってじゃないでしょう、きっと偶然なんですよ」

「そうかしら、三人が三人妙だから、きっと写したのよ。もし知っているとすれば、またきっと“新しい女の花見”だなんて出ますよ」

「だけど、三人とも講演会には顔をさらしたんだから、知られているのかもしれないわ」

「どんな風に撮れたでしょうね」

「さあ、きっと大変よ」

 目先の景色が変わるように、三人の話題も留まることなくずんずん進んで行った。

 三人はとうとう幾里かの道を歩いて、日暮れに赤羽の停車場に出た。

 電車に乗って腰をかけたときには、本当に三人とも疲れてぐったりした。

 けれども、何とはなしに三人の心は楽しいその日一日に取り交わした談話にやさしく絡まり合って、めいめいに親しい微笑を傾け合った。

 以上、荒川堤に遊んだ話は野枝の書いた「雑音」に添っているが、らいてうも野枝と清子に突然誘い出されて、綾瀬に菖蒲を見に行ったことがあると書いている。





 ……こんなとき、きまって清子さんは、厚化粧して、せいいっぱいしゃれこんでくるのですが、この日もぼたん色の濃い地色の羽織を着ているのが、おとろえた肌の厚化粧をいっそう目立たせ、さびしいものに見せたのでした。

 清子さんの顔は、平たい大きな顔で、別段美しいという顔ではありませんが、笑うとパッと愛嬌のただよう顔で、なによりも声の美しい人でした。

 ポンポン蒸気に乗って綾瀬までゆき、菖蒲園を中心にあの辺を終日散歩しながら、若い野枝さんのはしゃいだ声に調子を合わせ、清子さんもきれいな声で、よく笑いました。

 その日別れぎわに、「今日は愉快でした。ありがとう」と、挨拶のあとで、「岩野ともう一週間も口をきかないので……」と、ひとり言ともつかずいったことが……そのころ、まだ奥村といっしょになる前のわたくしには、夫婦というものの容易ならぬ葛藤の断面を、見せられた思いで長く心に残りました。


(『元始(下)』)


 このとき、清子三十一歳、らいてう二十七歳、野枝十八歳である。


小台の渡し ※明治後期の荒川堤の桜 ※日本のカメラのはじまり




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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