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2016年04月04日

第69回 国府津(こうづ)






文●ツルシカズヒコ



 一九一三(大正二)年二月十五日に開催された、青鞜の講演会は反響を呼んだが、新聞の無責任な記事による被害もまた甚大だった。

 青鞜の「悪評」が人口に膾炙(かいしゃ)されるようになった。

 この受難期に社員の結束を新たにするために、そして世間の雑音に煩わされないために、らいてうらは自分たちを守り育てることに専念すべきだと考えた。

 そのために「青鞜社文芸研究会」と、地方の社員のためにその講義録の発行を計画した。

「青鞜社文芸研究会」はそれまで内輪の社員だけが集まってやっていた研究会を、広く一般から会員を募集し、会費を徴収し、講師陣に講演を依頼するものだった。

 四月開講予定だった。

 しかし、まず会場探しが難航した。

 保持がひと月歩き回った末にやっと見つかる始末だった。

 青鞜社の「悪評」によって断られ続けたからである。

 会場は確保したが、周囲を慮ってか会員が集まらなかった。

 申し込んだ後のキャンセルもあった。

 計画は頓挫した。

 三月になり野枝は悪阻(つわり)のために、体調がすぐれない日が続いた。

 窮迫生活の重みも増していたが、それは辻との結合を強くする喜びを与えるものでもあった。

 講演会以後の世間の圧迫に、野枝たちの憤りは頂点に達していた。

 しかし、誤解は誤解を生み、沈黙するしかなかった。

 野枝たちはあくまで歩調をひとつにして、懸命に勉強することにした。

 芝で暮らした時分の野枝は、大半の時間を読書に費やした。

 できるだけいろいろな書物を読んだ。

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 らいてう、岩野清子、哥津、保持らに取り囲まれているのが、野枝の唯一の慰めだった。

 万年山(まんねんざん)の事務所にらいてう、清子、紅吉、野枝が居合わせたときのことだった。

 岩野泡鳴と同棲する前に、清子は失恋から小田原の国府津(こうづ)の海に入水自殺を謀った。

 その話になった。

 森まゆみ『断髪のモダンガール』によれば、清子が入水したのは一九〇九(明治四十二)年の夏だった。

 妻帯者だった新聞記者、中尾五郎を熱愛した清子は「私がどうしても欲しいのなら奥さんと別れて下さい」と迫ったが、中尾は清子との別れを切り出してきたのだった。

「ハイカラ美人の入水」として、住所実名年齢入りで翌日の『二六新報』の記事になった。

 事務所を出てからも、四人は歩きながらその話をし、紅吉が寄寓している生田長江宅の部屋に行った。

 野枝は清子の話を聞きながら、清子にそんなローマンチックな過去があったことに驚いた。

 それまで野枝にとって清子は硬い感じのする人だった。

 野枝は清子に会うと心がぎこちなくなった。

 らいてうに対しても、彼女がキチンと坐っているときや、電車の中で隣り合わせて腰かけたりするとき、野枝は堅苦しいような感じがしないではなかったが、初めかららいてうに対しては非常に和らかな親しみを持っていた。

 野枝はらいてうのいつも優しいところに引かれていた。

 子供が自分をかわいがってくれる大人に甘えるような、たわいもない気持ちになったりした。

 そのために、紅吉に当たられたことを後になって気づくことが何遍もあった。

 野枝が自分の心を安心して清子に開けるようになったのは、国府津の話を聞いてからだった。

 ローマンチックな愛のために、生命まで投げ出したことが非常な驚異であり、感激であった。

 国府津の海に下駄を脱いでジャブジャブ入って行ったという話を聞いて、野枝はいつもあの汽車の窓から見える国府津の海の色を思い出した。

「ちょうどそのとき、私はこの着物とこの時計を身につけていました。偶然ですが不思議ですね」

 野枝たちはたいがい黙って聞いていた。





 清子の話はなかなか終わらなかった。

 檜町の清子の家に泡鳴が来て共同生活をするようになり、世間からさまざまに言われながら、遠藤、岩野と表札も軒灯もふたりの名前で並べ、とうとう泡鳴の切なる願いによって結婚生活をするまでの経路はずいぶんと時間がかかった。

 らいてうは煙草をゆっくり喫かしながら微笑を持って、時には深い目の色を一層深くしながら熱心に聞き入っている。

 紅吉も初めはしゃべっていたが、沈黙してしまった。

 野枝は不思議な感激に浸って、その話を聞いた。

 一度死んだ人ーー野枝はそんな気持ちにもなって、つくづくと清子の横顔を眺めた。

 野枝たちはすっかり夜になってから、紅吉の部屋を出た。

 らいてうと清子と別れた野枝は、ひとりで歩きながら、清子の過去をまたつくづくと思い返してみた。

『耽溺』や『放浪』や『発展』を透して見た泡鳴は、現実的で肉欲的な野蛮人である。

 清子は感傷的で伝奇的な背景を持った、厳格なピューリタンである。

 このふたりが一対であることが、野枝の目にいかに奇怪に見えたことか。

 痛々しいほど痩せた清子の傍らに、泡鳴の膏(あぶら)ぎった赤ら顔と精力の満ちあふれるような動作を見ると、いつも野枝は泡鳴に対してある反感を持たずにはいられなかった。

 清子は哥津や野枝にとっては、いつも親切な年長者だった。

 それはらいてうの甘えるような親しい気安さとは違い、厳格な先輩という距離を置いての親しみだった。

 なんとなく近づき難いところがあって、そこになんとなく頼りたさをも覚えさせるものだった。





 桜の咲く時分になると、野枝は悪阻(つわり)がおさまり体調がよくなった。

 目黒に住む清子を訪ねようと思って、野枝は芝区芝片門前(かたもんぜん)町の家を出た。

 その少し前の天気のいい日に、清子とふたりで目黒の苔香園(たいこうえん)からずっと奥に入った万花園(ばんかえん)の方に散歩した。

 その野道の感じがよかったので、また行ってみたくなったのだ。

 野枝が増上寺の大門(だいもん)の電車通りを突っ切って浜松町の山手線の停車場の方へ行こうとしたとき、ちょうど停車場を出て歩いてくる人がいた。

 清子だった。

 ふたりで大門をくぐり山内(さんない=境内)から池の方に歩いた。

 清子はこの二、三日、泡鳴と仲違いをしていて、口をきいておらず、出歩いているのだと話した。

 ちょいちょい、そんなことがあるらしい。

「大久保にいたころにもよくそんなことがあったのだけれど、うちにおいた婆やが近所の人に、うちの旦那様と奥様のように仲のいいご夫婦を見たことがないって言ったそうよ。年寄りなんかには、ちょっとわからないようね」

 と言って清子が笑った。

 昨日は三崎町の荒木のうちに遊びに行って、帰りに三崎神社の中で占いしてもらったという。

 何物にも惑わされそうにない清子でも、そんなことをしてみることもあるのかと、野枝は不思議な気がした。

「占いと言えばね、岩野の先妻がずいぶん凝っているのよ、子供が育ってしまったら、自分は占い者になるなんて言っているんですものね。でも、信じていればいくぶん当たるところもあるらしいわね」

 清子はそんなことも話した。

 池の畔(ほとり)の茶屋でひと休みしてから、ふたりは山内を斜めに御成門へ出て、電車に乗って曙町のらいてうを誘いに行った。

 清子と野枝が休んだ茶屋は、高浜虚子が『六百句』の中で「春雨や茶屋の傘休みなく」と詠んだ田川亭のことと思われる。


増上寺絵葉書1 ※増上寺絵葉書1 ※増上寺今昔1 ※増上寺今昔2 ※腕時計のはじまり ※腕時計を見せたがる馬鹿の図

※長谷川時雨「遠藤(岩野)清子


●伊藤野枝 1895-1923 index

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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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