2016年04月03日

第68回 枇杷の實







文●ツルシカズヒコ



 上山草人(かみやま・そうじん)の家を訪れた興奮の夜の後も、野枝は紅吉に三回ばかり会った。

 紅吉はあいかわらずらいてうの悪口を言ったが、あの夜ほど興奮してはいなかった。

 巽画会展覧会に出す下描きができたなどの話をした。

 このころ紅吉は根津神社に近い、本郷区根津西須賀町の生田長江の借家の一室に寄寓して、屏風絵の制作に励んでいた。

 長江が根津のこの家に引っ越したのは二年前の一九一一(明治四十四)年だった。

 ニーチェの『ツァラトゥストラ』を初めて日本語に翻訳した長江は、この家を「超人社」と称し、佐藤春夫と生田春月も寄寓していた。

 慶応義塾大学文学部の学生だった春夫が、お使いで出入りする紅吉の妹・福美(ふくみ)に片恋をしたのは前年、一九一二(大正元)年の秋、紅吉が生田邸に寄寓し始めたころだった。

「平塚さんとのことが判然と決まったので落ち着けたのです。私は今、仏手柑(ぶっしゅかん)の絵にしようかと思っているんです。紅すずめの絵は見合わせにしました」

「あなたの気に入ったものを描いたらいいでしょう。絵と詩だけは、本当にあなたは立派なものができますよ」

「そうね、詩も自信がないではありません。ああ、このあいだ作った小唄を書いてあげましょうか。あなたは私の字も好きだって誉めてくれましたね」

 紅吉は眼を輝かせて、紙を出しペンを持って「道中」と気どった字で書いた。

 そして、ちょっと首を振って節をつけて吟(よ)みながら書いた。

noe000_banner01.jpg



 春のひくれの戻籠(もどりかご)
 
 めさせ召ませ のぼりやんせ
 
 どつちもちがふた道ながら
 
 ゆれてゆられてのぼりやんせ

 春の暮方金花鳥の室で 

 K吉 伊藤のえ様


(「雑音」/『大阪毎日新聞』一九一六年/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)


「これをあなたにあげましょう。〈ひくれ〉ってわかって? 夕方のことよ」

「あらそのくらい知ってるわ、ずいぶんね」

「でもわからないといけないから、聞いたのよ。あげましょう」

「そう、ありがとう。大事にしまっておくわ」





「ねえ、おじいさんの顔って実に難しいのよ。おじいさんと子供を描くつもりなんですけれど、たいへんに難しいんです」

「さっき、仏手柑を描くんだって言ったでしょう」

「ええ、まだ定(き)めやしないけど、三つばかり描こうと思うものがあるのよ」

「まあ、そう。ずいぶん気が多いのね」

「だって、できるだけ立派なものを描きたいでしょう。いよいよ描くようになると、生田先生が二階を提供して下さるはずになっているんです」

「私も期待してますよ。できるだけ大きなーーね、いいでしょう」

「ええ、なにとぞ。そのかわり絵が売れたらおごりますよ、どこでも」

「大丈夫ですとも」

 別れ際にすべて忘れ去ったかのように、紅吉は平気でこう言伝(ことづて)した。

「平塚さんによろしく」

「いよいよ描き始めました、見に来て下さい、本当に立派なものを描いてお目にかけます」という葉書が来てから、五、六日して野枝が訪ねると、紅吉は長江の家の二階の画室に案内してくれた。

 広い部屋にいっぱいに六枚屏風を拡げてもう彩色にかかっていた。

 紅吉が完成させた六曲屏風一双「枇杷の實」は、第十三回巽画会展覧会で褒状一等を受賞した。

 中山修一「富本憲吉と一枝の家族の政治学(2)」によれば、ジャーナリストや文化人が参加して、「枇杷の實」の総見が行なわれたのは四月一日だった。

「枇杷の實」は三百円で売れた。

 野枝は「枇杷の實」を見に行く機会を失ってしまったが、多くの人を集めての総見があったという話は方々から聞いた。





 らいてうの円窓(まるまど)の部屋でも紅吉の絵の噂が出た。

 そこにいた二、三人はみな、おだてられてはしゃいでいる紅吉の姿を思い浮かべていた。

「思ったほどのできじゃないのね。人物がみななんだかふわふわしていて、ちっとも力がないんですもの」

 らいてうの口からもこんな批評が出た。

「総見なんて下らないことをやったもんですね」

「ああいう人を担ぎ上げるのはいけませんね。勝手に担ぎ上げて、またすぐ下ろすのですからね」

「あんまり騒ぐのは紅吉にとって可哀そうなことなんですね。コキ下ろされるときの紅吉のことを考えると堪らなくて」

「社が誤解されたのは、紅吉ひとりのためなんですがね、それでいてまた私たちのところへ来る人のような気がするし、来たら喜んで手をとりたい気がしますね」

「もう少し真面目になれば、立派なあの天分を伸ばすことができるんでしょうにね、おしいわ」

「絵だって本式にはいくらも稽古してないんでしょう、それであれくらいのものが描けるんですからね」

「詩だってなかなかいいのができるわ」





「だけど、説明には恐れ入るわね。このあいだもね、私の家に朝っぱらから来てね、小唄を作ったからって。それを書いて、さて、その説明よ。『ぬれて』って文句があったのよ。ちょいと『ぬれて』って文句どおりに雨に濡れるってことだけじゃないのよ、他にも意味があるのよって、わざわざお断りなの。まあ、それっぱかしのこと知らないでどうするもんですかって言ってやるとね、それだってもしわからないと、この小唄がみんな滅茶苦茶になってしまうからって澄ましているんですもの、ずいぶんだわ」

 哥津がおかしそうに思い出し笑いをするので、みんなも一度に笑った。

 野枝も「春のひくれ」で聞かされた説明を思い出して笑った。

 たまに描いた絵をあまりよいできでもないのに、持ち上げて騒いではこの先、紅吉にとってよくないことであるーーみんなが心配しているのは、そのことなのだ。

 紅吉はもう青鞜社というサークルから離れた人であるけれども、らいてうをはじめ、小母さんも、哥津も、野枝もーーみんな紅吉のことを気にしたり、心配したり、親身に思っていた。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



【このカテゴリーの最新記事】
posted by kazuhikotsurushi2 at 11:08| 本文
ファン
検索
<< 2017年04月 >>
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
index(1)
本文(439)
プロフィール
さんの画像

1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
プロフィール

美は乱調にあり――伊藤野枝と大杉栄 (岩波現代文庫)

新品価格
¥1,058から
(2017/3/4 02:04時点)

諧調は偽りなり――伊藤野枝と大杉栄(上) (岩波現代文庫)

新品価格
¥1,058から
(2017/3/4 02:09時点)

美は乱調にあり (英文版) ― Beauty in Disarray (タトルクラシックス )

中古価格
¥3,487から
(2017/3/4 02:14時点)

飾らず、偽らず、欺かず――管野須賀子と伊藤野枝

新品価格
¥2,268から
(2017/2/16 10:43時点)

自由それは私自身―評伝・伊藤野枝

中古価格
¥1,081から
(2017/2/9 02:00時点)

野枝さんをさがして―定本伊藤野枝全集 補遺・資料・解説

中古価格
¥3,913から
(2016/3/13 18:23時点)

定本 伊藤野枝全集〈第3巻〉評論・随筆・書簡2―『文明批評』以後

中古価格
¥18,616から
(2017/2/9 00:18時点)

伊藤野枝と代準介

新品価格
¥2,268から
(2016/3/13 20:05時点)

日録・大杉栄伝

新品価格
¥4,536から
(2016/3/13 20:13時点)

ルイズ 父に貰いし名は (講談社文芸文庫)

新品価格
¥1,620から
(2016/3/13 20:24時点)

地震・憲兵・火事・巡査 (岩波文庫)

新品価格
¥821から
(2016/11/5 01:11時点)

海の歌う日―大杉栄・伊藤野枝へ--ルイズより

中古価格
¥1,619から
(2016/11/5 01:26時点)

大杉榮 自由への疾走 (岩波現代文庫)

中古価格
¥2から
(2017/2/9 00:00時点)

日本的風土をはみだした男―パリの大杉栄

中古価格
¥700から
(2017/2/9 00:12時点)

動揺 [CY大正浪漫コミックス1]

新品価格
¥1,080から
(2016/3/13 18:18時点)

裁縫女子 (サイホウジョシ)

新品価格
¥1,132から
(2017/2/9 18:20時点)

「週刊SPA!」黄金伝説 1988~1995 おたくの時代を作った男

新品価格
¥1,296から
(2016/3/13 20:26時点)