2016年04月01日

第63回 姉様






文●ツルシカズヒコ



 一九一三(大正二)年二月半ば、寒い日だった。

 野枝はらいてうの円窓の書斎を訪れた後、哥津の家に行った。

 彼女の家は麹町区富士見町五-十六、靖国神社のすぐそばにあった。

 ふたりで話していると、紅吉が来た。

 三人は火鉢にかじりついて話をした。

「平塚さんはだんだん激しくなるわね」

 突然、紅吉が言い出した。

 野枝がびっくりして聞き返した。

「何が?」

「何がって、あなたもわからないわね。ずいぶんお盛んじゃありませんか。今日も出かけるって言ってやしなかった?」

「そう言ってらしたわ」

「きっと西村さんと一緒よ。どこへ行ったんでしょうね。どこだろう?」

「何を言ってるの紅吉は?」

「あなたたちはお話にならない! 西村さんは平塚さんのことを姉さん、姉さんと言ってるんだって、知ってる?」

「なあに、知らないわ」

「あなたたちは実に呑気だ。平塚さんが太陽閣に行ったことを知らないでしょう?」

「それなら知ってるわ」





「誰に聞いたの?」

「平塚さんからだわ」

「平塚さんが? 自分で話したの?」

「ええ、なあにそんな顔をして」

「変です、そんなこと言うはずないんだけどね、わからないな」

「言ったんですもの仕方ないわ」

「じゃ西村さんと一緒だってことも言って?」

「それは知らない」

「そらごらんなさい。それまで言うはずはないわ、やはり言いやしない」

「紅吉はずいぶん変ね」

 野枝と哥津は顔を見合わせて笑った。

「平塚さんとは絶交だのなんだの、しょっちゅ言っているじゃないの。そんなことはもう気にしなくたっていいじゃないの」

「そうですとも、だけど知ってたっていいでしょう。今日はどこだろう?」

「どこだかわかるもんですか」





「だってね、平塚さんはそんなに会う人なんか持ちませんよ。お友達がそんなにないんですもの」

「あるかないか、そんなこと気にしなくてもいいわ」

「哥津ちゃん!」

「あ、びっくりしたわ、なあに?」

「あれは哥津ちゃんがこさえたの?」

「ええ、そうよ」

「うまいわね、ひとつくれない?」

「紅吉は、だって田村さんがこしらえた、あんなきれいなのを持っているじゃないの」

 田村俊子は姉様作りの名人だった。

「でも、くれてもいいでしょう」

「あんなのでよければあげるわ」

「ありがとう」

「私にもちょうだいよ」

「ええ、これはいつか芝居を見てすぐこしらえたのだけれど、思うようにどうしても感が出ないのよ」

 哥津は大小ふたつの姉様を膝の上でいじりながら、方々を直した。

 大きい方には「浦里さん」、小さい方には「かむろのみどりさん」と書いた小さな紙切れがつけてあった。





 紅吉はきれいな千代紙の着物や帯をつけた姉様に夢中になった。

 野枝がもらおうとしたものまで横取りした。

「ひどいわ、それはだけは私にちょうだいよ」

 と野枝が口を尖らせて言うと、

「いや、これは私がもらうわ。あなたはあとで、もっとよくこしらえておもらいなさい」

「いやよ、私はそれがほしいんですもの。私が約束したんじゃないの。ひどいわ、ひどいわ」

「野枝さん、あたし今度、日本橋(※筆者注:「はいばら」と思われる)からもっといい千代紙を買って来てこしらえてあげるわよ。あれは紅吉にやっておきなさいよ」

「だって私ほしいわ、本当に紅吉はひどい!」

「あたしより、妙(たえ)さんはずっとうまいわ。姉さんにもこしらえてもらってあげるわ、およしなさいよ、あんなもの」

「ええ、じゃあそうするわ、本当にひどい紅吉、ずいぶんだわ」

 野枝が本気で怒るのを哥津も紅吉もおもしろそうにして笑った。

「だけど、今ごろ平塚さんはどこにいるのだろう?」

「よけいなお世話だわ、そんなこと」

 紅吉がまたもとの話に戻そうとするのを、野枝が一口で押しのけた。





「あなたは平塚さんのことというと真剣になるのね。そんなに平塚さんがいいの」

「いい方だわ、私好きよ」

「そう、今のうちが一等いいんだわ。ぜひぜひ信ずるといいわ」

「紅吉は私たちの前でばかしそんなこと言わないで、少し平塚さんの前で言うといいわ」

 なにかというと野枝がらいてうに可愛がられていると言っては、妙な嫌味を言ったり、野枝たちの前ではらいてうの悪口を言うくせに、らいてうの前では何も言えない紅吉を、野枝は腹立たしく思い怒った声で言った。

「野枝さんはすぐと本気になって怒るのね、およしなさいよ、そんなこと。紅吉も平塚さんの話なんかよすといいわ、もうさっきからずいぶん聞いたわ」

 哥津はふたりの喧嘩を、さもおかしそうに仲裁した。

「そいだって、いつも紅吉は私の顔さえ見れば、私が平塚さんに可愛がられているの、家来だのって言うんですもの、ひどいわ」

「帰りましょうよ」

 紅吉は薮から棒にいきなり立ち上がった。

「どうしたの、まあいいじゃありませんか」

「ええ、どうもしやしないけど」

「いやよ、紅吉は、本当に気違いじみているのね。おや、何か降ってきたわね」

 その晩、野枝と紅吉が哥津の家を出たときには、もうかなり雪が降り積んでいた。牛込見附で電車に乗り、水道橋の乗り換えでしばらく寒い風に吹かれながら立っていた。

「フイに今度の電車で平塚さんに会わないかな」

 ひとり言のように紅吉が言った。

 野枝は黙っていた。

「ねえ、私きっと平塚さんは伊香保にでも行っているような気がするけどーー」

「そう、今ごろは曙町のお宅でやすんでいっらっしゃるでしょうよ」

「そんなことないわ、きっと」

 電車が来た。

 ふたりはそれきり話をやめた。

 白山下で紅吉は降りた。

 ふたりはそのとき「さようなら」と言ったきりで、電車の中でも話はしなかった。





 野枝がその次に紅吉に会ったとき、紅吉は野枝の顔を見ると、いきなり言った。

「私の直感は実に偉いものだ。当たりましたよ、本当に感心しちゃった」

「なんのこと、それは?」

「そら、いつか平塚さんが伊香保に行っているって気がするって言ったでしょう。あの晩、やはりそうなんですとさ」

「そう、どうしてわかったの?」

「そりゃちゃんとわかるわよ、私あそこの女中をよく知っているんですもの」

「なんだってあんなところに、平塚さん行ったんでしょうね」

 野枝はなんだかその瞬間、平塚さんがひどく不道徳なことをしたような気がして、思わずそう言った。

 紅吉は勝ち誇ったような顔をしたが、次の瞬間には恐ろしく興奮した表情になった。

「それでね、口惜しいから平塚さんに会って、伊香保に行ったでしょうと言ったらね、驚くかと思ったらばね、平気でええ行きましたよ、二度も三度もって。それがどうしたんですって調子なんです。私が一等悔しいのはそれなんです。そんな言い方ってないでしょう? いつでもあの方は言い逃れができなくなると、高飛車に出てこちらを圧(お)しつけてしまうんです。茅ケ崎のことだって、そうなんです」

 紅吉はそう言いながら、暗い暗い影を顔にこしらえた。

 野枝が言いようもなく黙って紅吉の顔を眺めていると、たちまち野枝の顔を見つめていた紅吉の目には涙が湧き出した。

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エキグチ・クニオ著「あねさま人形」2 旧牛込駅1  旧牛込駅2

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●伊藤野枝 1895-1923 index

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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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