2016年03月28日

第52回 阿部次郎





文●ツルシカズヒコ


 一九一二(大正元)年十一月の末、その日は夕方から、青鞜社の事務所がある本郷区駒込蓬萊町万年山(まんねんざん)勝林寺で、阿部次郎がダンテの『神曲』講義する研究会のある日だった。

 毎月一日発行の『青鞜』の校了は前月の二十五日前後のようだが、この日は『青鞜』十二月号の校了後であろう。

『青鞜』十二月号(二巻十二号)には野枝の「日記より」が掲載された。

 野枝が寺の内玄関の正面にかかった大きな郵便受けから郵便物を取り、選り分けていると、めずらしく自分宛てのハガキがあった。

 特徴のある字から、紅吉からであることがすぐにわかった。


 今日は研究会がすんだら、ゐらつしやい。

 この間の約束のとおりに、岩野さんはゐらつしやるらしい。

 晩の御飯は私の家で召し上がれ。

 私はあなたの言葉を信じて待つてゐますよ


(「雑音」/『大阪毎日新聞』一九一六年/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)

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 岩野泡鳴夫人の清子さんに会いたいという野枝の言葉を、紅吉は覚えていてくれたのだ。

 野枝は紅吉の親切をありがたいと思い、ぜひ行こうと思った。

 万年山勝林寺本堂裏の十畳ほどの座敷が事務所だった。

 野枝は火種をもらって火を起こしたり、卓子(テーブル)を直したり、ボールドの掃除をした。

 この日の研究会に出席するのは、らいてう、哥津、野枝の三人だけだった。

「ずいぶん今日は寒いわね」

 哥津は本当に寒そうに肩をすぼめた。

 日暮れ前の広い座敷の空気がしんしんと三人に迫った。

 らいてうがいつもの静かな調子で言った。

「阿部先生はずいぶん大変ね、大井からですもの。ここまではかなりあるのですものね。それでたった三人くらいじゃお講義していただくのにお気の毒なようね」





 哥津が西崎花世たちが事務所を訪れたときの紅吉のそぶりを、思い出すように笑いながら言った。

「西崎さんのことをよほど気になったらしかったわ。ここにいらっしゃい、いらっしゃいというのがおかしくて、私たまらなかったわ」

 野枝もあのときの紅吉の興奮した言動を思い出し、おかしさがこみ上げてきた。

「でも野枝さんもあの晩は、ずいぶんはしゃいでいたのね。私、あんなに騒ぎやだとは思わなかったわ」

「そう……」

 野枝はきまり悪そうに微笑んだ。

「そりゃそうですともね。まだ若いんですもの。今に騒げなくなるときがじきにくるわ。今、騒いでおかないと。それからね、新年号の執筆をお願いする手紙を書かなければならないから、また来てちょうだいね。また新年号の編集が忙しくなりますよ」

 らいてうが若いふたりの顔を等分に見ながら、気持ちよく調子よく言って、後ろの時計を見た。





 阿部次郎の講義が終わり、三人は外に出た。

 白山までは一緒だった。

 哥津は白山から電車に乗り、らいてうと野枝は曙町まで一緒に行き、そこから野枝は染井まで長い長い通りをひとりで歩いて帰るのだった。

 真向かいから吹きつける寒風に逆らって歩きながら、野枝は紅吉のハガキのことを思っていた。

 この寒い夜に根岸まで行くのはなかなか大変だった。

 電車の不便な駒込の奥からでは、十時より遅くなれば山手線がなくなり、市内電車に乗るしかなくなる。

 そうなれば巣鴨橋で降りて、山手線の掘割に沿った両側の二本の道のどちらかを歩くしかない。

 一本は森に沿った崖っぷちの細い道、もう一本は岩崎の長い長い煉瓦塀に沿った気味の悪い道だ。

 野枝は寒さに堪えながらできるだけ急いで歩いた。

 染井橋を渡り終えると、向こうから飼い犬のジョンが勢いよく駆けて来て、野枝に戯(じゃ)れついた。

 野枝は軽く犬の頭を叩いてやりながら、ジューと音を立てて青い火花を散らしてレールの上を走って行く山手線の電車を見ながら、時間を考えていた。

 ふと、一度家に帰ってから紅吉の家に行ってみる気になった。

 歩いたので体はもう寒くはなかった。

 帰宅して自分たちの部屋に入ると、いつも机の前に座っている辻の姿はなかった。

 正面のスピノザの顔だけが、静かに空虚な部屋をいつものように見下ろしていた。

 野枝は辻が留守だったのでがっかりした。

 あの刺すような冷たい風に逆らいながら、一心に帰ってきた自分の気持ちのやり場がないように立ちつくした。





 隣室から義母・美津に優しい言葉をかけられたので、暖かい部屋に入っていった。

 火鉢に当たりながら、帰りの遅い辻をこのまま待つより、紅吉のところに行った方がよいと決心した。

「寒かろうに……」

 美津の言葉を後ろに、野枝は暗い寒い外へ出た。

 駒込駅の階段を降りるころは寒さに震えていたが、元気がよくはち切れるような、つき出てくるような紅吉の声を思い出しながら、覚えのある根岸のあたりを歩いているころには、たいぶ体が暖かくなってきた。

 根岸には二年あまり住んでいたので、女学校を卒業してからどうしているのかわからない同窓生の家の前などを何軒も通り過ぎながら、いろいろなことを懐かしく思い出していた。

 紅吉の家にようやく着くと、はっとした。

 家の中がひっそりとして、紅吉がいそうなようすがない。

 案内を請い名前を言うと、出て来た女中が早口で言った。

「それならば夕方、お客様と一緒に、神田の三崎町の荒木さんとおっしゃる方のところへお出かけになりました。あなた様がおいでになりましたら、そちらへいらして下さいますようにとおっしゃってございました」

 野枝は紅吉の態度を怒らずにはいられなかった。

 こんな寒い日に、わざわざ呼びつけておいて、自分は勝手に出かけてしまうなんて……。

 神田になんて行くものかと怒りにまかせて足を返したが、帰っても辻はまだ戻ってはいないだろうから、帰る気にもなれなかった。

 寒空をわざわざ染井の奥から出て来たのだから、紅吉にも会って帰りたくなった。

 とうとう電車に乗って三崎町で降りると、尋ねる家はすぐにわかった。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:24| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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