2016年03月28日

第51回 伊香保






文●ツルシカズヒコ



 一九一二(大正元)年十月十七日、『青鞜』一周年記念会が鴬谷の「伊香保」で開かれた。

「伊香保」は当時、文人墨客がよく利用する会席料理屋として知られ、常連だった尾竹竹坡の紹介で会場が「伊香保」に決まった。

 らいてう、瀬沼夏葉、生田花世、紅吉、神近市子などが出席した。

 らいてうはこの席で女子英学塾三年に在学中の神近市子と初めて会った。

 七月ごろ神近はらいてうに小説を郵送し、八月には青鞜社の社員になった。

 神近市「手紙の一ツ」という小説は『青鞜』九月号に掲載された。

 らいてうは神近に理知的な頭脳を持った有望な人材として期待していた。

 神近は会に遅れて参加した。

 この日は神近が関係していた日曜学校の秋の運動会だったからである。


 私は終日代々木ノ原で子どもたちと走りまわり、夕方……「伊香保」という店に向かった。

 私はヘトヘトに疲れていたが、将来作家になろうという婦人や、それに好意を持つ既成の女流作家の集団に、はじめて参加を許されたのだと思うと、一日の疲労などは吹き飛んでしまうようだった。

                  
(『神近市子自伝 わが愛わが闘い』/講談社/一九七二年三月)

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 神近は創刊号から『青鞜』の愛読者だった。

 女子英学塾の文学好きの友人から『青鞜』創刊を知らされ、麹町区にあった大橋図書館で読み、「元始、女性は太陽であった」という宣言を知った。

 当時、女子英学塾は麹町区一番町にあったので、学校の近くの大橋図書館で読んだのである。

 神近はまず「伊香保」が豪奢な料亭なのに度肝を抜かれた。

 宴会場に入ると、二十人近い女性が思い思いの服装で席につき、正面にらいてうが陣取っていた。

 細かい大島紬セルの袴をはいたらいてうは、もうかなり酔っているらしく、陶然として盃(さかずき)を手にしていた。

 これにも驚いた神近は、らいてうの第一印象をこう語っている。


 私は長崎時代に、何人かの上級生で知的な美をそなえた人を見かけたが、平塚さんの美しさは……異質だった。

 長崎の人たちの美は、ラテン語やヘブライ語を学び幾何や代数を考える努力が生み出したものであり、平塚さんの美は仏教や文学をあさる知性と、半ばは貴族の血が生んだものだろう。

 キラキラと光る眼が、年少のものをからかうようにきらめき、私はまともに平塚さんの顔を見ていられないように思いながら、見ることが楽しくたまらなかった。


(『神近市子自伝 わが愛わが闘い』)




                                       
 らいてうによれば神近は、ほとんどひとりで話し続けたという。


 多弁といっても、いわゆる女のおしゃべりではなく、その情熱と理知をもりこんだ多弁は、彼女の書くものと一致したつよい印象を人に与えずにはおきません。

(『元始(下)』)


 らいてうは神近の顔にも強い印象を受けた。


 全体としてかたく引きしまった男性的な感じで、大きな目はたえず涙ぐんでいるような、異様な刺戟的な光をおび、なんとなく不安なような、恐ろしいような、危険性をひそめているようにも見えました。

(『元始(下)』)


 文学を志していた神近は『万朝報』の懸賞小説に応募して「平戸島」という短篇が当選し、賞金十円をもらったばかりだったが、孤独だった。

 文学について語れる仲間が周囲に誰もいなかったからだ。

 神近は仲間を求めて青鞜社の社員になった。

 らいてうはじめ青鞜社の社員は、「保守的」な女子英学塾から加入した新人を歓待した。

 先輩たちは次々に神近の盃に酒をついだ。

 いつのまにか、久留米絣にセルの袴、顔が浅黒く太って背の高い紅吉が神近の隣りに割りこんできた。

 神近はひと目で紅吉が好きになり、盃を重ねた。

 運動会の疲労と空腹、初対面の先輩と話す緊張感、共鳴する仲間と語り合える開放感、それらが混じり合い酒が神近の五体にしみわたった。





 神近は酔いつぶれた。

 らいてうもこの日は羽目を外して、日本酒の盃をあけた。


 便所の草履をはいたまま廊下を歩いて座敷まで戻ってくるという失敗をやっております。

 後にも先にも、自分が酔ったと意識したのは、このときが生涯で唯一度のことでした。


(『元始(下)』)


 酔いつぶれた神近を、らいてうはこう回想している。


 ……やがて神近さんは酔いの苦しさに、ひどく青ざめて倒れてしまいました。

 そのときしきりに「私は悪かった、悪いことをした、このことは決してだれにもいわないでください」とくどくど念を押されたことに対して、「神近さんらしくもないーー」という軽い失望を覚えたのでした。

 その後神近さんは「青鞜」に発表するものに「榊纓(さかき・えい)」というペンネームを使うようになりました。


(『元始(下)』)





 神近は活水女学校の生徒だった長崎時代は厳格な禁酒を守っていたが、上京後は禁酒の戒律を捨てていたので、宗教上の罪の意識に悩んだのではなかった。

 女子英学塾からのペナルティを気にしていたのだ。


 それが公表されると、学校からどんな処罰をうけるかわからなかったので、それが気がかりだったのだろう。

(『神近市子自伝 わが愛わが闘い』)


 酔いつぶれた神近は紅吉ら四、五人と「伊香保」に泊まり、翌日、吉原の弁天池近くの尾竹竹坡邸に立ち寄った。

 神近は長崎県北松浦郡佐々(さっさ)村の漢方医、神近養斎の三女として生まれた。

 三歳のときに父を亡くし、父の医業を継いだ長兄も九歳のときに逝った。

 姉の夫が医業を再興する間、神近家は没落の危機に直面し、神近は尋常小学校を休学して他家に女中奉公に出される辛酸を経験していた。

 らいてうは才能に恵まれながら、なにか煮え切れない不徹底さのある神近にもどかしさを感じていたようだが、職業婦人として経済的な自立を望んでいた神近は、卒業を目前にして女子英学塾と揉めたくなかったのだ。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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