2017年02月21日

第432回 栗鼠






文●ツルシカズヒコ



 石山賢吉『回顧七十年』(ダイヤモンド社/一九五八年)によれば、一九二三(大正十二)年九月十二日ごろ、大杉は石山に借金の申し込みをした。

「金がなくて困る。十円ばかり貸してくれ」ということだったが、あいにくモラトリアムが敷かれ、銀行から預金を引き出せなかったので、石山は手持ちの金十円から五円を都合した。

 大杉と石山は主義は互いに相入れなかったが、別懇の間柄だった。

 そのころ、大杉家は金欠で困っていたが、安成の妻が安成にこう言ったことがあったという。

「今日野枝さんが来ているとき、沢庵売りが来てうちで買いましたから、野枝さんにお宅でもいかがですかって言ったら、お金がなんにもないって蟇口(がまぐち)を開けて見せるんですよ。私、一円だけあげてきましたよ」
(安成二郎「二つの死」/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』_p266・新泉社・一九七三年十月一日)

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 安成二郎「かたみの灰皿を前に」と「二つの死」によれば、安成が大杉と野枝に最後に会ったのは九月十三日の夜だった。

 まだ省線が動いていなかったので、安成は新宿から歩いて来て大杉の家に立ち寄った。

 二階に上がると、いつものように野枝が珈琲を入れてくれた。

 大杉の家には珈琲をつぶす器具があり、大杉と野枝は自分たちの家庭の珈琲が自慢だった。

「こんなうまいやつは、どこ行ったって飲めないだろう」

 大杉は、よくこう言って自慢していた。

 地震で銀座が壊滅した後にも、大杉がそう言うので、

「今は銀座がないからね」

 と、安成が言うと、

「なに、銀座があったって飲めはしないよ」

 と、大杉は頑固だった。

 安成は大杉家の珈琲は少し味が薄いと思っていた。





 安成は家に引っ込んでいる大杉に、東京市内の様子などを話して聞かせた。

 地震発生から一週間ほどして、柏木のあたりには電燈がついた。

 電燈は灯ったり消えたりしたが、とにかく人々の気持ちを明るくさせた。

「電燈が来てなにしろ愉快だよ。銀座の真っ暗な焼け野から帰って来ると、ここらの田舎がまるで天国のようだ。こんなあべこべの世の中になったんだね」

 大杉も明るい電燈を楽し気に見ていた。

「この隣りの家の女中が」

 と、大杉が大きな目をくりくりさせて吃りながら言った。

 右隣りの家の裏庭が、そこから見下ろせた。

 台所の前に井戸があって、そこで女中の働いているのを、昼、安成も見かけたことがあった。

 「昨夜だ。この部屋の電燈がつくと、その井戸端で働いていた女中がふたりいたが、ひとりは近所の女中らしい。あっ、電燈だ、ついたついたと手を叩いて喜ぶんだ。消えたりついたりしたが、つくたんび、ついたついたとやるんだ」

 それは、手を叩いた女中たちよりも、大杉がその無邪気な女中たちの様子を何十倍も嬉しがっているようだった。

 野枝も大杉のそばに腰をかけて、微笑していた。

 ひと月ほど前に生まれたネストルが、部屋の隅の揺りかごですやすや眠っていた。

 いつも十日と産褥にいないという野枝は、栗鼠のように健康そうだった。

 安成は一時間ほどして、大久保百人町の自宅に帰った。

 安成も大杉が夜警に出ているのを目撃していたが、近所の植木屋などに、

「大杉の旦那が夜警に出て来られた」

 と、言って喜ばれて、大杉のいわゆる人望を集めている光景が不思議に思えた。





 安成が来訪した九月十三日、野枝は大杉の次妹・柴田菊に手紙を書いた。


 三日に書きました手紙はつきませんでしたでせうね。

 私共は郊外で高台でしたので、地震の被害も大しては被(こうむ)らず、火事にもあひませんでしたので皆んな、まづ無事でした。

 けれども、心配なのは勇さんの一家です。

 実は五日に事務所の方の人に頼んで横浜をさがして貰ひましたが、一昨日帰つての話に、まるで消息が分らないとのこと、それに川崎の会社は大分ひどく潰されてゐるさうです。

 私の考へでは、皆んな無事でゐてくれたら、勇さんのこと故きつと私の処までは何んとかたよりがある筈だとおもひますけれど、今日まで全く何んのたよりもありません。

 富子さんと宗坊の方は如何とも手の下しやうがありませんけれども、せめては勇さんの消息をと思つて大杉からは警察や新聞社方面へ頼んでゐますが今だに分りません。

 けれどもそんな悲観の中にも、ひよつとして、そちらへでも避難して皆んな無事なのではあるまいかと僅かな希望につながれてゐるのですけれどどうなのでせうか。

 もし御無事なら急いでおしらせ下さいませ。

 大杉が出かけられるといゝのですが、あまり先へは出かけられないのです。

 戒厳令のおかげで、少し外を歩いたりするとぢきに検束されますので。

 私はまだとても押しあいへし合ひの汽車にはのれず、歩くことも出来ませんーー事務所の方の人達はみんな検束されてしまひますし、一昨日横浜から戻つた人にもまだ会へないでたゞことづけを聞いただけな位で、その人も勿論ひつぱつてゆかれたのだと思ひます。

 そんなわけで勇さんの方は捜すにしても私共としては自ら手の出せない風なのでどうかして他でさがしてくれるのを願つてゐるやうな訳なのです。

 京浜間の電車が通るようになつたとかいふ話ですから、二三日したら女でものれるやうになるかもしれませんからそしたら出かけて見ます。

 けれども、あなたの方へ無事避難してお出でになればいゝのですけれども、あやめさんがどんなにか心配してお出でのことでせう、みんなに怪我があつたとは思ひたくはありませんが消息不明なので心配でなりません。

 此度の地震と火事の災害は本当に恐ろしいものです。

 私の家でも二家族の避難者をひかえてゐますが、私共も関係書店が全部滅茶々々なので、途方にくれて居ります。

 一二ケ月はしなくては、方針も整理もつかないやうな風らしいので、俄に貧乏でよはつてゐます。

 何しろ米は玄米しか食べられません上に副食物と云つたら野菜だけ、乾物もカンヅメももう今ではまるで何んにもありませんし、子供等のおやつのお菓子にも困る程で、大人はまだいゝのですが可愛想なのは子供等です。

 本当にそれはミジメなものです。

 けれども焼け出されたり一家離散したり怪我をした人々から見れば私共は本当にしあはせだとおもひます。

 何にしても私共の今の一番の憂慮の種は勇さん一家、殊に宗坊の消息についてのあやめさんの心配をおもひますとたまりません。

 勇さんの処も家は勿論焼けてしまつてゐるのでせう。

 三四日横浜にゐて、戸部(とべ)の警察で充分調べて来たのでせうとおもひますが、何処へ避難してゐなさるのでせう。

 川崎工場もまるで滅茶に潰れてゐるのですから無事であれば、よほどのしあはせです。

 しかし此度の地震では落ちついた人の方がよほどひどい目にあつてゐるやうですから心配でなりません。

 それでもいろんな話を聞くうちに不思議な助かり方をした方が多いのでさういう風にして運よく何処かで助かつてお出なのかもしれないとおもつたり、毎日あゝかこうかと悩まされて居ります。

 もしいよ/\あなたの方へも避難してお出でないとしましたら恐れ入りますけど、電報ででも進さんを呼んで頂けますまいか。

 そしてあの人に少ししつかりさがして貰ふ外はないと思ひます。

 中央線を来れば少しの徒歩連絡で来られるやうですから。

 何んだか、書きたいことは山ほどあるやうな気持がしますが今はまづとりあへず要事だけ。

 それからもし、勇さん一家がそちらへも行つてゐないとしましても、あやめさんにはなるべく力を落さないように、はつきりと分りますまではなるべく希望を持つてゐるようにあなたから力をつけてあげて下さい。

 お願ひします。

 九月十三日 野枝

 菊子様

 
 此の手紙を出さないうちに勇さんのたよりがありました。

 みんな無事で鶴見に避難してゐるさうです。

 私共も明日は行つて見ます。

 何よりも、三人の着物を都合してあげて下さい。

 宗坊の着物をと思ひますが私の方ではどうにも出来ません。

 また富子さんの着物も、私は避難者の家族にあてがつて何んにも残つてゐないで洋服でゐますので困ります。

 出来得るだけはやく着物をおねがひします。

 ではまた書きます。

 勇さんの処は

 神奈川県橘樹(たちばな)郡鶴見町字岸一八五八

 大高芳朗様方です。


(『東京日日新聞』一九二三年十月九日/「書簡 柴田菊宛」一九二三年九月十五日・『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、宛先は「静岡市鷹匠町三丁目一〇五番地」、水色のレターペーパー二枚、ペン書き。

 追伸の部分がいつ書かれたかは不明だが、封筒裏に「九月十五日」の記載があるので、九月十五日投函と推定される。

『東京日日新聞』(一九二三年十月九日)に「殺害される前日書いた野枝の手紙 義弟と宗一の安否を案じた優しい心遣ひ」という見出しで掲載された。

「川崎の会社」は大杉の次弟・勇が勤務する川崎の東京電気会社。

「富子さん」は勇の妻。

「私の家でも二家族の避難者をひかえてゐますが」は、服部浜次と袋一平一家が避難していること。

「戸部の警察」は、勇が住んでいた横浜市西戸部町の所轄の警察署。

 大杉の三弟・進は神戸に在住していた。

 この手紙が野枝の絶筆になった。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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