2017年02月09日

第426回 ネストル・マフノ






文●ツルシカズヒコ





 一九二三(大正十二)年八月八日、野枝は橘あやめに葉書(官製)を書いた。

 ペン書きで、宛先は「静岡市下二番町一五番地 伴野医院内」。


 転居

 東京市外淀橋町柏木三七一 野枝

 宗坊の病気は大したことはないさうだから心配しずに、御自分の体を大事になさい。

 いづれ勇さんのところへ行つて様子を見てからおしらせしたいとおもひます。


(「書簡 橘あやめ宛」一九二三年八月八日/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

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 八月九日、野枝が長男・ネストルを出産した。


 野枝さんはお産は何時も軽く済んださうだが、今度のネストル君は少し早産で、いつもよりは重いと言つていた。

 早産をしたのは、その二日程前の晩に、縁側でルイズちやんにお湯を使はせて、その盥の湯を庭へ捨てる時、『盥と一緒に庭に落ちて、ドシンと尻もちをついちやつたんだもの』と、野枝さんがあとで笑つて話した。


(安成二郎「かたみの灰皿を前に」/『改造』一九二三年十一月号/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』収録時に「かたみの灰皿」に改題)


 当時、大杉は「無政府主義将軍 ネストル・マフノ」(『改造』一九二三年九月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第二巻』/『大杉栄全集 第7巻』)を執筆中で、ネストルという命名は、この名にあやかったのである。

 この命名についても、安成は書き記している。


 ……名前はついたかと私がきくと、傍にゐた野枝さんに、ネストルにしようかネと、何度目かの相談といふ調子で大杉君が言つた。

 ネストルつて何だときくと、さういふ無政府主義者がゐるんだ、その人のことを此の間書いたからと彼は答えた。


(「大杉君の遺児達」/『改造』一九二四年十月号/安成二郎『無政府地獄 - 大杉栄襍記』)





 魯庵が銭湯で大杉に会ったのは、大杉一家が来訪した四、五日後だった。

 魔子を連れた大杉は、洗粉や石鹸などの七つ道具をそろえて、洗い場で体を洗っていた。

 この子煩悩のお父さんが、官憲から鬼神のように恐れられている大危険人物だとは、番台の娘も流しの三助も気がつかないだろうななどと思いながら、魯庵が表に出ると、湯屋の角の交番で飛白(かすり)の羽織を着た尾行が張番をしていた。


 ツイ眼と鼻の間にをりながら夫(そ)れぎり大杉は来もしなかつたし、私もお産があつたと聞いたが見舞ひにも喜びにも行かなかつた。

 が、大杉は始終乳母車へ児供を乗せて近所を運動してゐたから、能く表で出会つては十分十五分の立話しをした。

 魔子は毎日遊びに来たから全家(うちじゆう)が馴染になり、姿を見せない日は殆んど無かつたから、大杉や野枝とは余り顔を合わせないでも一家の親しみは前よりは深かつた。

(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思い出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)





 一九二三(大正十二)年八月十日から十五日の間のある日、佐藤春夫が日夏耿之介(ひなつ-こうのすけ)と堀口大學と一緒に銀座に出て、尾張町に近いレストラン「清新軒」に入ろうとすると、店から出て来る大杉と遭遇した。

 大杉はヘルメットを被り白い洋服の洋装で、魔子の手を引いていた。

 佐藤は日本を脱出した大杉がフランスから帰国したことは新聞で知っていた。

 しかし、帰国歓迎会の招待状をもらったが出席はしなかった。

 そのせいか、佐藤には大杉がいつもより珍しかった。


「や!」と私は呼びかけた。

 彼は生き生きした血色であった。

 私は言った「ひどく顔色がよくなった。よく肥った。若くなったね」

「うん、健康はいい」

「どこにゐるのーーやっぱり鎌……、いや西巣鴨とか、新聞で見たが……」

「いや、四五日前越した。柏木だ」

 私たちは軽く頭を下げ合って、別別の方向へ歩き出した。

「君が大杉を知ってゐるのは妙だね」と日夏耿之介が清新軒の卓上で言った。

「うん」と私は答へた「僕は十年ほど前から大杉とは口を利く間柄だよ」

 大杉は殺された時、白いリネンの背広服だったと新聞に書いてあった。

 私が最後に逢った時に見かけたあの同じ服装であったのであらう……。


(「吾が回想する大杉栄」/『中央公論』一九二三年十一月号/『佐藤春夫全集 第十一巻』・講談社・一九六九年五月三十日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 23:36| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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