2017年02月09日

第425回 柏木






文●ツルシカズヒコ



 安成二郎「かたみの灰皿を前に」(『改造』一九二三年十一月号/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』収録時に「かたみの灰皿」に改題)によれば、大杉一家が本郷区駒込片町一五番地の労働運動社から、豊多摩郡淀橋町字柏木三七一番地に引っ越して来たのは、一九二三(大正十二)年八月五日だった。

 この大杉一家の新居の住所は、現在の「北新宿一丁目十六-二十七」である(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 内田魯庵「最後の大杉」によれば、大杉と野枝が魔子とルイズを連れて魯庵の家を訪れたのは、八月六日だった。

 魯庵と大杉の交流が始まったのは、赤旗事件で入獄していた大杉が出獄したころだったが、ここ数年ふたりは没交渉だった。

 ふたりが最後に言葉を交わしたのは数年前で、銀座で遭遇したふたりは十五分くらい立ち話をした。

 そのとき大杉は野枝と一緒だったので彼女を魯庵に紹介したが、野枝は離れて立っていたので、魯庵にとってこの日の野枝との対面は、初対面のようなものだった。

 突然の大杉一家の来訪は魯庵にとって思いがけないことだったが、家人に二階に通すように言うと、白地の浴衣姿の大杉が現われ、その後に子供を抱いた大きなお腹の野枝と新聞の写真でお馴染みの魔子がついて来た。

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 之が魔子で、之がルイゼで、此外にマダ二人、近日お腹から飛出すのもマダあると云つて笑つた。

 以前から見ると面差(おもざし)が穏かになつて、取別けて児供に物を云ふ時は物柔(ものやさ)しく、恁(か)うして親子夫婦並んだ処は少しも危険人物らしくも革命家らしくも無かつた。

『イゝお父さんになつたネ、』と覚えず云ふと、野枝さんと顔を見合はしてアハゝゝと笑つた。

 ……昨日同番地へ移転(ひつこ)して来たと云つた。

 ツイそこの酒屋の裏だと云ふから段々訊くと、近頃まで何とかいふ女医が住んでゐた家だ。

『あの家(うち)は本はお医者さんで、移転(ひつこ)したてに家の塀の角へ看板を出さしてくれとタウルを半ダース持つて頼みに来た、』と云ふと、『そんなら僕も看板を出さして貰はうかナ』と云つた。

『アナーキストの看板ぢやタウルの半ダースぐらゐじや引受けられない』と云つて笑つた。

 魔子は臆面の無い無邪気な子で、来ると早々私の子と一緒に遊び出した。

 野枝さんの膝に抱かれたぎりのルイゼはマダあんよの出来ない可愛いゝ子で、何を云つても合点々々ばかりしてゐた。

 アツチもコツチもとお菓子を慾張つて喰べこぼすのを野枝さんが一々拾つて世話する処は矢張世間並のお母さんであつた。

 エンマ・ゴルドマンを私淑する危険な女アナーキストとは少しも見えなかつた。

『日本ばかりぢや騒がし足りないと見えて、仏蘭西までも騒がして来たネ。雀百まで躍りやまずで、コンナに多勢の子持になつても矢張浮気は止まんと見えるネ』と云ふと、『矢張時代病かも知れない』と大杉は吃りながら云つた。

『夫(それ)でも』と野枝さんは微笑みつゝ、『尾行が申しましたよ。児供が出来てから大変温和しくなつたと。』
 
 大杉が児供を見る眼はイツモ柔和な微笑を帯びて、一見して誰にでも児煩悩であるのが点頭(うなづ)かれた。

 野枝さんも児供が産れる度に、児供が長(おお)きくなる毎に青鞜時代の鋭どい機鋒が段々と円くされたらうと思ふ。


(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思い出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)


 野枝は子供を連れて先に帰ったが、大杉は昼になって迎えが来ても根を生やして、魯庵とあり合わせの昼食を一緒に食べ、三時ごろまで話し込んだ。

 大杉は思想上の立ち入った問題には触れず、フランスでの体験をしゃべった。





 中央線の大久保駅に近い大久保百人町の安成の家と、大杉一家の新居は三丁足らずの距離だった。

 八月二日に白馬山に登山に向かった安成が帰宅したのは、八月七日の早朝だった。

 安成の子供たちはまだ寝ていて、一緒の床に魔子も眠っていた。

 八月四日に野枝が魔子を連れて新居の掃除に来て、魔子はその日から安成の家に泊まっていた。

 八月八日、安成が大杉の新居を訪問すると、大杉は明るい二階の籐椅子に座り、落ち着いた顔で安成を迎えた。

 この日の訪問のことを安成は「二つの死」に記している。

「二つの死」はフィクションの形式で書いているが、安成自身が書いた解説によれば、文中の「杉村」は大杉、「近野」は近藤憲二のことである。





「これはなか/\好い家だね、探し方がうまいからね」と私は笑つて言つた。

「周囲に二階家が少いから、展望がきいて好いよ」と彼も愉快さうであつた。

「家主の方は簡単に行つたのか」

「ああ、近野の名で申込んだが、その時主人が留守だつたので、あとで電話できくと、住む人は近野さんで無く杉村さんでせう、杉村さんならお貸しゝます、といふ狐につまゝれたやうな返事なんだ」

「それは変だね、君のやうな男に好んで家を貸さうなんて、全く狐を馬に乗せたやうな話ぢやアないか、家主は何物かね」

「何んでも新潟県とかに寺を持つてる坊主ださうだが、何にしろ僕は人望があるよ」

 杉村はさう言つて、嬉しがつてゐた。

 裏庭には青桐が涼しさうな広葉を風にそよがせてゐた。

 前庭には大きな石などもあつて、何か四五本の植込みもあつたが、その石の傍に、一本の枯れ松が立つてゐた。

「あの枯れ松が下座敷から見るとそんなでも無いが、二階から見るとバカに目立つよ」

「さうだ、あいつはいけないね、切つて了へア好いぢやないか」

 が、とうたう最後まで、その枯れ松は切らずに立つてゐたのである。

 そんなことに、何かの不幸を予感するには、杉村の気持はあまりに明るかつたし、元々、私達は枯れ松などを担ぎはしなかつたが、やはり人智の及ばない何かゞこの世の中にはあるのかも知れないと、私はあとになつて其の一本の松の木にも心を暗くされたのである。


(「二つの死」/安成二郎『無政府地獄 - 大杉栄襍記』・新泉社・一九七三年十月一日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 19:49| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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