2017年01月30日

第421回 安成二郎様






文●ツルシカズヒコ


 安成二郎「二つの死」(『無政府地獄 - 大杉栄襍記』)と「かたみの灰皿を前に」(『改造』一九二三年十一月号/『無政府地獄 - 大杉栄襍記』収録時に「かたみの灰皿」に改題)によれば、野枝が安成の家を訪れたのは、一九二三(大正十二)年七月二十九日だった。

 前日に開かれた大杉の帰朝歓迎会の席で、野枝が安成に言った。

「あなたの方に家がないでしょうか。引っ越したいと思っていますが」

「そうですね、ぼつぼつあるようですが、なんなら一度見においでなさい。一緒に探してみましょう」

「では明日まいります、お昼すぎ」

noe000_banner01.jpg


 野枝が大久保百人町の安成の家を訪れたのは、約束の昼すぎよりはだいぶ遅れた、午後四時ごろだった。

 野枝が安成の妻に久闊(きゅうかつ)の挨拶をし、ちょっと休んでから、安成がこのあたりの地理に疎い彼女を案内して貸家を見て歩いた。

 野枝はもう来月は生まれるというお腹で、洋装をしていても目につくほどだった。

 ある横丁に貸家札が出ていたので、そこから二、三軒先の家主の家を訪ねると、

「ご案内しましょう。ちょうどそこへ出かけるところですから。まあ、どうぞお茶をひとつ」

 などと、どこか商人らしい調子で、家主が出て来た。

 貸家はそこから六、七町も離れたところにあった。

「なに、じき近くでございます。庭が広うござんすし、家の前にはテニスコートなどもありまして、ご勉強にはもってこいというところです」

 そんなことを言いながら行く家主の後について、安成と野枝は道々、貸家札に気を配りながら歩いた。

「バカに家を貸したがっているんですね」

「そうですね、どんな家でしょう」

 野枝は皮肉な微笑を浮かべていた。

 大杉に喜んで家を貸そうという人は、まずいなかった。

 たいてい友人の名で家を借りるのだが、実際の借り主が大杉だとわかると、どの家主も慌て騒ぐのが常だった。





 家主に案内された家は、トタン屋根のひどくお粗末な家で、二軒長屋のひとつだった。

 郊外電車の停車場にも遠く、近所に店らしい店もなかった。

 下座敷には、若い学生らしい男が机をすえて本を読んでいた。

「なるほど、昼間だけ来て勉強するにはよさそうですね」

「とてもたまらないわ」

 遠いところを連れて来られて、野枝は腹を立てていた。

 すぐに引き返そうとすると、ポツポツと大粒の雨粒が落ちて来た。

 ちょっと大きい夕立が来そうな空具合いだったので、安成と野枝は雨宿りのつもりで二階に上がった。

 二階は六畳一間で、縁側はなく、窓の欄干はグラグラしていた。

 空が一面に暗くなって来て、降り出した雨はなかなか止まなかった。

 ふたりは暢気に雨の上がるのを待つことにした。

 原っぱの向こうに雑木林があり、蝉がしきりに鳴いていた。

 郊外の夏の夕暮れらしく、静かな空気があたりをつつんでいた。

 近くの中央線を走る電車の音が折々聞こえてきた。

 野枝は疲れたような横顔を見せて、じっと窓に腰をかけていた。





 このとき安成は『読売新聞』の記者だったが、安成は野枝と初めて会ったころのことを、ぼんやりと思い浮かべた。

 大杉と野枝が「フリーラブ」事件の渦中にいるころだった。

『女の世界』編集長だった安成は、野枝に原稿を依頼するために、大杉の紹介状を持って彼女が滞在していた外房の御宿まで、東京から汽車で四時間かけて行ったのだった。

「あなたは原稿を頼みに遠いところから来ながら、強いて書かせようという調子がちっともありませんので、私は書きたくないとは言いましたが、書いてみる気になりました」

 野枝が『女の世界』に寄稿した「申訳丈けに」の冒頭には、こんなふうなことが書かれていた。

 以下、「申訳丈けに」の冒頭を全文引用。





 安成二郎様

 お目に懸つて、お話をしたしましたやうに、私は此の度のことに就いては、断片的には、何も云はない決心をして居りました。

 切れ切れに他人に向つて話をするには、私が此処迄来ついた気持の経過は、事件の進み方は、多くの人が解らうとしてゐる以上に、また考へて見やうとしてゐる以上に複雑で、無理すぎました。

 で若(も)し私の事を話すならば、若しくは書くならば、一から十まで落ちなく事件の内容推移、それに、同時に動いて来た私の思想、感情のすべてを語らなければならないのです。

 その上に、私にはまだ、それ程多くのことを云つても、なほ、局外の人達に、本当に解つて貰ふことが出来るかどうかと云ふことを危ぶまずにはゐられない程私自身さへも驚くべき事があるのです。

 宿の女中によつてあなたの名刺が取り次がれました時に、本当に、私は当惑いたしました。

 会うと一番にあなたがお断りになつたやうに、肩書はなくとも、雑誌の用でお出になつたと云ふことは直ぐに察せられましたから、さうして、いよ/\その用があなたのお口から申出されたときまで、私は決して話すまい、書くまいと思ひながら、それでもあんな、いやな汽車に四時間も揺られながら、わざ/\お出になつたと云ふこと丈(だ)けでも、何だか、お断はりすることが、大変むづかしいやうに思はれました。

 さうして少しお話をしてゐます間(うち)に、『仕事で来た』とお断りになつた程、あなたは記者商売の人達のもつ熱心さと執拗さを少しもお見せにならないで、どうでもよくはない癖に、どうでもいゝやうな顔をしてすまして、お出になるのが、単純な意地つ張りの私には、大変うれしかつたのです。

 それでとう/\書くことを承知致しました。

 けれども私は何を書かうかと云ふことに就いて、可なり何時までも考へなければなりませんでした。

 それと、もう一つ、私が厭なのは、世間の人達が、何とか彼とか云つてゐる最中にその事に就いて云ふときに、一人でも多くの人に解つて欲しいと云ふ気持に知らず/\支配されて、出来る丈け真直ぐに書かうとする努力を妨げられると云ふことを考へないではゐられませんのです。

 さうして、さう云ふ無理な気持が這入(はい)つて来ると云ふことは、つい心にもない弱い弁解めいた事を自分に云はせたがります。

 それが、また、負け惜しみの強い私にはいやなのです。

 それで、私はこれを書くのにも、あなたお一人にあてゝ書く手紙のつもりで書くのです。

 で、この間少しづつお話したことをまた書くかもしれませんがとにかくそのつもりで書かして頂きます。

 そうすれば、何か少しは書けさうですから。

 実はかうやつて原稿用紙に向つてゐてもまだ何を書き出すのかはつきりは、自分にも解つてゐないのです。


(「申訳丈けに」/『女の世界』一九一六年六月号・第二巻第七号/安成二郎『無政府地獄 - 大杉栄襍記』・新泉社・一九七三年十月一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』 ※「申訳丈けに」は大杉栄全集刊行会『伊藤野枝全集』では、冒頭と末尾の安成二郎宛ての手紙分の部分をカットし「『別居』に就いて」と改題し収録されている)





 安成は野枝のそんな片意地なところは性に合わなかったが、聡明でものにこだわらない性格は嫌いではなかった。

 あれから、もう七年も経っていた。

 その間の大杉と野枝の苦しい、華やかな、さまざまな生活ーー。

 安成は古ぼけた畳の上に腹這いになり、煙草を吸いながら、そんなことを考えていた。

「あの時分から見ると、ずいぶん野枝さんも古女房になったもんだ。もうじき五人目の子供を生もうというんだからなあ……」

 安成は、そんなことも思ってみた。

 雨が小降りになったのでそこを出たふたりは、途中、二、三軒の貸家を見たが、どれも気に入らなかった。

 引き上げようしたとき、野枝がふと電柱に貼ってある貸家札を見つけた。

「柏木三七一というと、内田魯庵さんと同じ番地だが、あのへんはさっき見て廻ったはずですよ」

 安成は野枝にそう言ったが、とにかくもう一度、そこに行ってみることにした。

 ふたりは酒屋で場所を尋ねて、内田魯庵の家の横の路地を入って行くと、少し引っ込んだ門があり、それが空家だった。

 貸家札が貼られていなかったので、気づかなかったのである。

 前の家に聞いてみると、すぐに案内して見せてくれた。

 下が三間、二階が二間の相当な家で、間取りもよく、野枝はひどく気に入ってそこに決めてしまった。

「あさってごろお金ができるから、すぐ引っ越して来ましょう」

 野枝はそう言って、家主の所を聞いて、喜んで帰って行った。





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



【このカテゴリーの最新記事】
posted by kazuhikotsurushi2 at 23:21| 本文
ファン
検索
<< 2017年02月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
index(1)
本文(433)
プロフィール
さんの画像

1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
プロフィール

美は乱調にあり――伊藤野枝と大杉栄 (岩波現代文庫)

新品価格
¥1,058から
(2017/3/4 02:04時点)

諧調は偽りなり――伊藤野枝と大杉栄(上) (岩波現代文庫)

新品価格
¥1,058から
(2017/3/4 02:09時点)

美は乱調にあり (英文版) ― Beauty in Disarray (タトルクラシックス )

中古価格
¥3,487から
(2017/3/4 02:14時点)

飾らず、偽らず、欺かず――管野須賀子と伊藤野枝

新品価格
¥2,268から
(2017/2/16 10:43時点)

自由それは私自身―評伝・伊藤野枝

中古価格
¥1,081から
(2017/2/9 02:00時点)

野枝さんをさがして―定本伊藤野枝全集 補遺・資料・解説

中古価格
¥3,913から
(2016/3/13 18:23時点)

定本 伊藤野枝全集〈第3巻〉評論・随筆・書簡2―『文明批評』以後

中古価格
¥18,616から
(2017/2/9 00:18時点)

伊藤野枝と代準介

新品価格
¥2,268から
(2016/3/13 20:05時点)

日録・大杉栄伝

新品価格
¥4,536から
(2016/3/13 20:13時点)

ルイズ 父に貰いし名は (講談社文芸文庫)

新品価格
¥1,620から
(2016/3/13 20:24時点)

地震・憲兵・火事・巡査 (岩波文庫)

新品価格
¥821から
(2016/11/5 01:11時点)

海の歌う日―大杉栄・伊藤野枝へ--ルイズより

中古価格
¥1,619から
(2016/11/5 01:26時点)

大杉榮 自由への疾走 (岩波現代文庫)

中古価格
¥2から
(2017/2/9 00:00時点)

日本的風土をはみだした男―パリの大杉栄

中古価格
¥700から
(2017/2/9 00:12時点)

動揺 [CY大正浪漫コミックス1]

新品価格
¥1,080から
(2016/3/13 18:18時点)

裁縫女子 (サイホウジョシ)

新品価格
¥1,132から
(2017/2/9 18:20時点)

「週刊SPA!」黄金伝説 1988~1995 おたくの時代を作った男

新品価格
¥1,296から
(2016/3/13 20:26時点)