2017年01月21日

第415回 姉御






文●ツルシカズヒコ




 大杉が乗船する日本郵船の箱根丸が上海に入港したのは、一九二三(大正十二)年七月七日だった。

『読売新聞』によれば、大杉は警官立ち会いの下、船室の外で取材に応じた。


『仏蘭西に三ケ月余り滞在したのみで独逸にも露西亜へも行かなかつた、巴里で露西亜の主義者には逢つた 船に乗って以来健康は変らないが大分痩せた、陽にも焼けた』と黒い顔を撫でる、

『日本に着くと早速廿九日間の拘留になるさうだといふから多分そんな事だらう』と別に気にもかけていない、

 記者との会談は簡単に終つたが大杉氏は小林警部等と自動車で領事館に向つた……


(『読売新聞』一九二三年七月八日)

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 近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、箱根丸が上海に着いたとき、真っ先に船に駆け上がって大杉の手を握ったのは、コズロフだった。

 大杉がコズロフ一家を神戸で見送ったのは前年の七月だったので、ふたりは一年ぶりの再会を果たしたことになる。

 そして、コズロフにとってそれが大杉との永別になった。

 七月八日の『東京朝日新聞』五面のトップは、「軽井沢の別荘で有島武郎氏心中 愛人たる若い女性と 別荘階下の応接室で縊死」という見出しの記事だった。

 同紙によれば、七月七日、隣家の三笠ホテルの別荘番がふたりの遺体を発見、検視の結果、六月中旬ごろ縊死したようで、死体は腐乱していた。





 箱根丸が七月十一日に神戸に入港することになり、野枝は神戸に向かった。

 「コンヤ九ジコウベツク」という野枝からの電報を、安谷寛一が受け取ったのは七月九日の午後だった。

 当時、神戸で「新聞屋の仕事」をしていた安谷は、須磨の旅館「松月」に予約を入れた。

「松月」は月見山松風村雨堂に近い、新築の料理旅館だった。

 七月九日の夜、神戸に到着し宿に落ち着いた野枝は、浮かぬ顔をしていた。





 臨月に近い身重で、やんちゃ坊主のマコを連れての十余時間、疲労もあろうが、いつもこの人はこんな風であった。

 何用があるのか、この人はちょく/\九州に行った。

 郷里の今宿なのだが、大てい大杉の留守の時だった。

 亭主の留守に女房も留守なんて不都合だが、この人はそんな事かまっちゃいない。

 ムシャクシャ腹で飛び出してしまう。

 つまり近藤憲二、和田久太郎など、彼女から見ると妙な異分子と、ピッタリしない。

 大杉がいればタカジャスターゼ役になるのだが、いないとなると不良消化の症状が進んで、ノイローゼ気味になる。

 村木など多少は役立つが、決定的なものでなかった。

「労働者の解放は、労働者自らが成就しなければならない」なんて、大杉の筆になる古看板の下で、野枝さんは「吹けよあれよ、風よ嵐よ」と念じつづけている。

 まるで違ったのが、なんとなく一緒にいるのだから、火事も小火も起らないのだが、不快なノイローゼがお見舞いする。

 名にしおう労働運動社の楽屋裏には、長年に亘ってこんなところがあった。

 村木の言い草が面白い。ーー

『親分の留守の時には、姉御(あねご)/\ってことにしてくれるといいんだが、連中コチ/\でどうにもならないんだ』


(安谷寛一「大杉を神戸に迎えた野枝さん」/世界文庫から一九六四年七月に刊行された大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』の復刻版『大杉栄全集 第10巻』の「月報10」)


 長旅の途中、野枝は気分が悪くアイスクリームを口にしただけだというので、旅館に夜食を頼み、風呂から上がった野枝と魔子が膳につき、安谷もまずビールを頼んだ。

「大杉は神戸では上げない。横浜まで連れて行って警視庁に決まっている。迎えに行くなんて無駄だって、いう人があったりして迷ったんだけど、何だか無性に来たくなって来たんです。あなたどう思う?」

 野枝はとりあえず、このことが気がかりだったようなので、安谷は「間違いなく神戸で下ろします」と自信を持って答えた。

 安谷の確信の根拠は、神戸在住の大杉の末弟・進に特高から連絡が入っていたからだった。





 野枝は神戸に向かう途中、橘あやめに手紙を出している。

 宛先は「静岡市下二番町一五番地 伴野医院内」。

 十ノ廿(二百字詰)松屋製原稿用紙二枚、ペン書き。


 明日船が入るので、神戸までゆきます。

 今途中です。

 買ものがおくれてすみません。

 横浜へどうしてもゆけないので、絹紬(きぬつむぎ)は勇さんにたのんでおきました。

 帯はどうしてもメリンスでは思はしい柄がないので、麻にして見ました。

 お気に入らなかつたら遠慮なく返して下さい。

 買ひかへます。

 これはメリンスよりは安く、四円八十銭です。

 メリンスでは六七円位の間ですね。

 西川へゆけばメリンスもいろいろありますが此の二週間ばかりの間忙しくてどうしても出られなかつたものですから、本当に、気に入らなかつたら返して下さいよ。

 お体をお大事に。

 おきくさんにもよろしく

 神戸では進さんに会はうと思ひますが処が分らないから、うまく会へるかどうか分りません。

 あやめ様

 野枝


(「書簡 橘あやめ宛」 一九二三年七月十日推定/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)


 この手紙の発信地は不明だが、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば「大杉帰国の前々日に、野枝はエマだけを今宿に残し、魔子とルイズを連れて、博多から神戸に上がっている」とあるので、野枝はその途上でこの手紙を出したのかもしれない。

 しかし、安谷寛一「大杉を神戸に迎えた野枝さん」によれば、野枝が魔子だけ連れて東京から来たような記述なので、このあたりの事実関係は不明だ。

『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、「西川」は日本橋の布団店西川



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:13| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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