2017年01月04日

第408回 佐藤紅緑






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年五月四日、大杉がラ・サンテ監獄に収監された翌日、コロメルが依頼したトレスという弁護士から、大杉宛てに手紙が来た。

 トレスは共産党のちょっとした名士で、革命派の人々の弁護をいつも引き受ける弁護士だった。

 毎食御馳走にあずかれると呑気に構えていた大杉だったが、所持していたはずの金が裁判所に没収され、しばらくは監獄の食事でがまんした。

 差し入れの食事もとれず、煙草も買えず、読む本もない大杉は、ただ寝て暮らした。

 日本の監獄のように、監視が厳しくないラ・サンテ監獄の暮らしは、何にも邪魔されない静かな時間だった。

 四方の壁のあちこちに落書きが、書き散らしてあった。

「Vive le soviétique」(ソヴィエト万歳)という落書きがあり、その下にわざわざ「ヴォルシェヴィキ」と書いてあったので、大杉も面白半分にこう書き、ペン先で深く彫り込んで、その中にインクを詰めた。

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 E. Osugi.(エイ・オスギ)

 Anarchiste japonais(日本無政府主義者)

 Arrêté à S. Denis(セン・ドニにて捕わる)

 Le 1 Mai 1923(一九二三年五月一日)


(「入獄から追放まで」/『改造』一九二三年九月号/『日本脱出記』・アルス・一九二三年十月二十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』・一九二五年七月二十五日/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)


「Anarchiste japonais」は英訳すれば「Anarchist Japanese」なので、日本語に直訳すれば「無政府主義者 日本人」である。





 この間、大杉の身を案じた佐藤紅緑は、日本大使館や警視庁に足を運んだ(佐藤紅緑「巴里に於ける大杉栄氏」/『文藝春秋』一九三〇年二月号)。

 林倭衛も東京外国語学校時代の大杉の同級生でフランス語が堪能な『東京朝日新聞』特派員の町田梓楼に会ったり、面会には日本語で話すことを禁じられた場合に備えて青山義雄に行ってもらうなど善後策を講じた(林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」p127/松本伸夫『日本的風土をはみだした男 パリの大杉栄』p222)。

 大杉は一度、予審に呼び出されたが、それは判事と弁護士との懇談のようなものだった。

 警視庁は官吏抗拒罪、秩序紊乱罪、旅券規則違反罪、浮浪罪などの罪名を挙げていたが、予審判事が尋ねたのは旅券規則違反に関してだけだった。

 ちなみに、大杉がパリで逮捕されたという日本の報道だが、『大阪毎日新聞』は「メー・デー当日支那人に化け過激な演説」という見出しで、こう報じている。


[巴里特電二日発]支那人薫某の名で巴里に滞在中の大杉栄氏は、メー・デーの大会にサン・デニス街で群集を前に過激な演説中を官憲に知られ、二日午後五時、サン・ミシェルの広場で逮捕された。

 氏はネクタイも結ばずチョッキもつけず霜降りの古洋服を着たまま、六名の刑事に警戒され警視庁に引致されたが、折柄出会った記者に、「到頭やられたよ、覚悟の上さ」と鋭い目を光らし、更に氏は、「去る三月中旬上海から巴里に来た。四月伯林で開催の国際無政府主義者大会に出席のはずだったが、同大会が延期となったので滞在を続けている。同大会終了次第日本へ帰る予定である」と語った。


(『大阪毎日新聞』一九二三年五月四日/『大正ニュース事典』第六巻-p57・毎日コミュニケーションズ・一九八八年九月二十六日)





 イタリアに旅行する予定になっていた佐藤紅緑は、それを延期してまで大杉の釈放に尽力していたが、結局、この件から手を引くことになった。

 その経緯を紅緑自身が詳しく記している。

 そのきっかけとなったのは、紅緑の寄宿先に「大杉の同志」と称する、ロシア人やスイス人やポーランド人などの若者たちが集まり、彼らの溜まり場になったことである。

 彼等らが紅緑の寄宿先に集まってきたのは、「佐藤という男が警視庁に行って大杉のために奔走している」という情報が流れたためのようであった。

 毎日彼らがやって来て議論をし、バナナを食って解散するーー紅緑の部屋は彼らの事務所のようになり、四日間もそういう状態が続いた。

 林が来ているかもしれないという思惑もあり、紅緑がパリの日本人倶楽部に遊びに行くと、パリに在住し比較思想史を研究している大住嘯風(おおすみ-しょうふう)に遭遇した。

 しばらくして、嘯風が紅緑に話しかけた。





「君は今まひどく詰らない事になつてるよ」

「なにが?」

「君が今ま君がどんな位置にあるかを知てるか」

「どんな位置でもないよ」

「のんきだね君は」

「一体君は文学者でありながら外務省の嘱託でやつて来たのは可笑しな話だ」

「僕は可笑しいとも思はんよ、僕は国家のために必要だと思ふ事をやつて居るんだ」

「理屈は言ふなよ」

「うん、それぢや可笑しいとして置くよ」

「もう一つ可笑しい事がある」

「何だ」

「日本主義愛国主義者たる君が、非日本主義非国家主義たる大杉のために奔走して居るのは可笑しいぢやないか」

「其れは君……」

「……君の弁解は解つてる。だが他人から見ればの話だ、他人が見ると君には以上二つの不思議な矛盾がある」

「僕を理解せずに表面ばかりを見て独断してしまふ様な奴は僕は相手にしないよ」

「……僕の言ふ事を終まで聞いた上で怒るなら怒れよ」

「君は何を言ふ積なのか」

「君の家へ毎日/\共産党の奴が集まつて居る、それが巴里の政府に知られずに居ると思ふか、同時に日本の政府へ」

「日本? 日本政府は僕を信じてくれる」

「……外務省や大使館乃至は君の友人は君を信じて居るさ、だが日本から内務省や警視庁の奴がどれだけ巴里に入込んでるかを君は知るまい、彼らは君を疑つて居る、佐藤紅緑といふ奴は外務省の用命を看板にして内実は共産主義者と密議を凝らして居るのだと」

「そんな、そんな」

 私は髪の毛が一本/\に逆立つ様な気がして椅子を離れて拳を固めた。

「……世の中にはものゝ解つた奴ばかり居ないのだよ、君は恁(こ)ういふ疑を受けてるんだ」


(佐藤紅緑「巴里に於ける大杉栄氏」/『文藝春秋』一九三〇年二月号)





 嘯風は即刻、イタリアに旅立つように紅緑に忠告したが、大杉を見捨てて逃げるような卑怯なことはできないと紅緑は思い、嘯風の忠告にひどく憤慨した。

 主義の上から言えば自分と大杉は仇敵であるが、情の上において仇敵と情死しなければならぬこともあると、紅緑は思ったのである。

 しかしーー。

「ところが君」と奇妙に静まり返つて話し出した嘯風の発言に、紅緑は脳天に一撃を喰らったような衝撃を受けた。

「君の家へ集まつてる共産党の奴等だね、彼等は君をどう思つてるか、君は知るまい。大杉の出獄を待て居る人だと思つて居るだらう。ところがさうぢやないのだ」





「それぢや何と思つてるか」

「君をスパイだと思つて居る」

「おい」

 私は眼がぐら/\して大住氏の顔が見えなくなつた。

 男と生れてスパイと呼ばれる、これほどの恥辱はない。

「なに? スパイ?」

「佐藤は大杉のために奔走しているといふのはあれは看板だ、彼は日本政府の命を受けて我党の内情を探つて居るのだ、其の証拠に佐藤がいくら奔走しても大杉及び一党は一向放免にならないぢやないか、僕等は佐藤に釣られて毎日/\彼の家へ行て秘密まで語つたのは不覚だつた、彼奴は実に怪しからん奴だ、恁(こ)う言つているよ」

 私はもう怒る気もなくなつた。

 余りに馬鹿/\しい話であり、余りに意外な話である。

 私はすつかり興奮から冷めきつて大きな声を出して笑つた。

 大住氏も初めて笑つた。

「だから君は内務省の役人と共産党の一派と両方からスパイの様に思うはれて居る、これほど割に合はない話がないぢやないか」


(同上)





 紅緑は嘯風の忠告にしたがい、翌日、イタリアへ旅立った。

 イタリア旅行を終えた紅緑は、パリの日本大使館のX氏に遭遇した折り、大杉が警視庁から日本大使館に引き渡されて日本郵船の船で帰国したことを知らされた。

 関東大震災の報に接した紅緑は、当初の予定を変更してロンドン、ニューヨーク経由で帰国することにしたが、帰国の途につく前日、パリで林に会った。

 林によれば、帰国する大杉を林がマルセーユまで見送ったという。

 大杉が憲兵に虐殺されたーー。

 紅緑がその第一報に接したのは、九月二十四日ごろ、ロンドンの日本大使館を訪ねた折りだった。


「なぜ殺したんだ、なぜ殺したんだ」と私は突然叫んだ、其れから急に一種言ひ様のない沈鬱な気持になつて便所へ駆け込んだ、さうして暫らく眼を閉ぢた。

(同上)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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