2016年12月16日
第398回 足下

文●ツルシカズヒコ
近藤憲二はそれがいつのことかは特定していないが、野枝が駒込の労働運動社の二階で起居していたころの一シーンとして、こんな回想をしている。
おそらく大杉が日本を脱出していたころのことだと思われる。
みんな出かけて労働運動社には野枝と近藤しかいなかったある日、反動団体の男たちが四、五人で押しかけて来た。
階下にいた近藤が玄関に出て行くと、連中は肩をいからし両手を袴の腰のあたりにあてて、馬鹿慇懃な挨拶をし、やがてドヤドヤと上がりこんできた。

「フーン、こ奴等あばれに来やがったナ」
そう思った私は、テーブルを背にして、火鉢の近くに陣どった。
やかんの湯が煮立っている。
それに、幸い、いま買いに出ようとしていた油の一升ビンが手近にある。
そいつの底を火鉢のふちでたたきわれば、これも、いよいよのときには武器になる、そう考えていた。
「こいつ、生意気な奴だ、国賊が、きょうは、あやまり証文をとりに来たんだ、書けッ!」
兄きぶんの奴が怒鳴った。
一人は、いかにも何かを呑んでいるかのように、懐に手を入れてモズモズさせている。
一人は、しきりにうしろにまわろうとする。
何をどう罵り合ったかは今では忘れたが、いい争っているところへ、いつの間にか二階にいた野枝さんがきて、ふすまをパタッとあけた。
「あなた達なにしに来たんだ! 大勢で見っともない!」
「なにを! このアマ!」
またも暫くもんだが、まもなく奴さんたちは退散した。
野枝さんはいつの間にか、梯子段のところに、灰をいっぱい入れたバケツをかくしていたのである。
いざの時に目つぶしをくれるつもりだったらしい。
(近藤憲二『一無政府主義者の回想』・平凡社・一九六五年六月三十日)

一九六四(昭和三十九)年の春、福岡に取材に訪れた瀬戸内晴美(寂聴)は真子(魔子/当時四十七歳)に話を聞いているが、真子はこのときの野枝の「武勇伝」をこう語っている。
これだけは、不思議に、一つだけはっきり覚えている場面があるんです。
何でも父の留守のことで、二階家に住んでいた時でした。
玄関にどやどや人のけはいがすると、母が珍しく恐い顔をして、私を二階に追いあげ、絶対下へ来ちゃあいけないっていうんです。
近藤憲二さんが、玄関でしきりに大声でわめきあうようにいっている声がするんです。
何となく子供心にも怖くなって、二階の踊り場から、そうっと首だけのばして階下をうかがったんですよ。
すると階段の一番下の段に、母がどかんと真中に腰をかけていて、横に、灰をいっぱい入れたバケツをひきつけているんです。
その時の母の妙にどかっと坐った恰好と、灰のバケツが、くっきり目の中に残っています。
怖かった気持と、母の姿が何となく頼もしかったのと、バケツの灰が子供の目にも異様だったんでしょう。
もしふみこまれたら、灰で防ぐつもりだったんですね。
(瀬戸内晴美・寂聴『美は乱調にあり』/『文藝春秋』一九六五年四月号〜十二月号に連載)
このときの野枝の「武勇伝」は、四十年のときを超えて、魔子の中にも鮮明な記憶として残っていたのである。

一九二三(大正十二)年三月二十一日から、大杉はリヨンのオテール・ル・ポワン・デュ・ジュールに滞在していたが、ドイツに入国するための警察からの許可はなかなか下りない。
大杉栄「入獄から追放まで」によれば、そもそも四月一日にベルリンで開催されるはずの国際アナキスト大会は八月ごろに延期になり、それすらやれるかどうか危うい状況になっていた。
グズグズしている間に、金はなくなり、おまけに風邪を引き寝て暮らした。
大杉は野枝に三月一日以来、久しぶりの手紙を書いた。
直ぐドイツへ行くつもりで二十日にここへ来たのだが、それ以来風引きで寝たきりである。
尤もパリを出る晩から少しいけなかつたのだけれど。
風は大した事ではなかつた。
が、宿のお神さんの親切で、キニンとアスピリンとを飲んだら、すつかり腹をこはして了つた。
幾度下痢をしたかと聞くから、けふは五度だと云ふとそんな事では駄目だ、もつとうんと下さなければ風は治らない、と云ふのだ。
とてもたまつたもんぢやない。
それから、もうお神さんの一切の親切を辞退して、三日間食はず飲まずで寝たきりでゐた。
それで、けふは下痢もとまつたやうだ。
風の方も鼻がまだ少しグズ/\云つてゐる位でも殆んどいい。
それに此の間、実はまるで無一文でゐたのだ。
パリを立つ時にCに少し貰つて来たのだがHと僕との二人分のホテル代を払つたり、汽車賃を払つたりなんかしてゐるうちに、其の金がすつかり無くなつて了つたのだ。
Hは南の方に帰つて閉息してゐる。
又、Cに無心状を出して置いたが、まだ返事がない。
外国でこんな目に遭ふのもちよつと面白い。
ここへ来たら、ちようど二月はじめの手紙がついてゐた。
僕についてのいろんな風評は日本や支那の新聞でちよい/\見てゐる。
仲間同志の事や運動の事は、遠くからやきもきした処で何んにもならないから、一切なるがままに任して置かう。
太つたのはいいね。
僕は船の中で大ぶ痩せたのが、其後又益々痩せて、カラやシヤツを買ひ代へた位だ。
そして又こんどの病気でゲツソリ痩せた。
あの手紙を出した直ぐあと頃に、僕からの電報が着き、猶続いて船中からの手紙が着いたのだらうと思ふが、随分不便なものだよ。
Yに話したKへの言づては間違つてゐる。
毎月と云ふのではない。
ただあの時きりの約束なのだ。
社での問題の、結局は大衆と共にやるか、純然たるアナアキスト運動で行くかは僕もまだ実は迷つてゐる。
純然たるアナアキスト運動と云ふその事にはまだ僕は疑ひを持つてゐるのだ。
これはヨオロツパで今問題の焦点になつてゐる。
其の事は通信で書いて行く。
風で寝た二日目か三日目かに労運への第一回の通信を書き出した。
そして三十枚近く書いてて熱で殆んど倒れるやうにして寝てしまつた。
あしたから又其のあとを書き続けよう。
要するに大会を理解するために、大会前のいろんな形勢を書かうと思ふんだが、それだけでも大分長くなりさうだ。
改造への通信もまだ未定のあま放つてある。
これもこんどこそは本当に書きあげる。
原稿は×××に宛てよう。
大会は又日延べになつて、処もどこかほかに変る事になつた。
ドイツではとてもやれさうにないのだ。
しかし、とにかく僕は今直ぐドイツへ行く。
ベルクマンもエマもゐるやうだし、マフノと一緒に仕事をしたヴオリンなどと云ふ猛者もゐる。
ロシアの事はベルリンに行かないと分らない。
本月中には其の手続きが出来さうだつたのが、もう十日位延びさうだ。
若し出来なければ窃つと国境を歩いて、越さうと思つてゐる。
それもイタリイとイギリスへ行けば僕の用事は大がい済みさうだ。
大会が延びるなら延びるで、其の前に出来るだけあちこち廻つて来たい。
愚図々々して大して研究すると云ふ程の事もなささうだ。
材料だけ集めれば沢山だ。
一年の予定は多分もつと余程縮まるだらう。
前の手紙で金を千円つくつて送るように書いたが、都合では其の半分でもいい。
電報為替で。
そしてそのあとは、改造の原稿料だけを普通の為替にして送る事にしてくれ。
毎月三百円は欲しいのだが、二百円位しか書けない。
宛名は以後すべて所は同じで Monsieur T. John. としてくれ。
そして手紙ならそのそばに漢字で章先生と書いて置いてくれ。
フランスに来てから殆ど毎日雨ばかりだつたのがーーちようど雨季だつたのだーー三四日前から晴れて、大ぶ春らしくなつて来た。
パリの街路樹が新芽を出す頃は随分よからうと思ふのだが、其頃は暗いドイツにゐさうだ。
フランスの景は実に明るい。
都会でも田舎でも、重苦しいやうな処はちつともない。
足下や子供等のからだにつけるもののいろんな寸法(メエトル)を知らしてくれ。
二百円もあればいい加減にトランクに一ぱいほど買へよう。
もう目がまいさうだ。
二月号の労運見た。
三月二十八日
(「脱走中の消息」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一七三 伊藤野枝宛・一九二三年三月二十八日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index

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