2016年12月13日

第397回 Vous avez une raison






文●ツルシカズヒコ



 林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」によれば、一九二三(大正十二)年三月十八日、この日の夜の汽車でリヨンを発った大杉と林は、三月十九日の朝、マルセイユに着いた。

 ふたりは大杉がアンドレ・ルボン号でマルセイユに着いた日に泊まったホテル・ノアイユに宿を取り、そこでマダムNの行き先を聞いてみることにした。

 マダムNの滞在先はマルセイユの町外れにある、素晴らしく広い立派な庭園の中の貸し別荘のひとつだった。

 大杉はマダムNの話をするとき、何か妙に面映い顔で「別嬪じゃないよ、もうお婆さんさ」と言っていた。

「まあ、井上さんよく来て下さいましたわね」

 マダムNが「井上さん」と呼んでいる大杉の突然の訪問は、彼女をひどく驚かせたようだったが、彼女は悦びのあふれた顔を生き生きさせて大杉を歓迎した。

 大杉が言ったように、マダムNは綺麗とは言えなかったが、お婆さんというほどではなく、三十六、七に見えた。

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 マダムNが昼食の準備をしている間、大杉と林は広い庭に出て散歩をした。

 大杉はマダムNになにもかも話しているのだと言った。

 彼女は大杉を「井上さん」と呼んでいるが、その正体が大杉栄であることも知っていれば、彼の思想も日本人のパスポートを持っていないことも知っていた。

「僕にね、革命家なんて止めろと言うんだよ、そんな危険なことをせずに、学者として安全な道を歩めって勧めているんだ。そんなことはできないっていくら言っても、そこは解らないのさ。僕がその気になるかと思って、まだ今日なんかも言っているんだぜ、弱るね」

 大杉はそう言って笑っていた。





 ふたりが深い草の中を散歩していると、マダムNが食事の準備ができたからと迎えに来た。

 食事は純ロシア料理のすこぶる質素なものだった。

 食卓はマダムNと大杉と林、病人を診察に来たロシア人の医者の四人だった。

 マダムNのフランス語は流暢だった。

 しかし、日本に一年近く滞在したことがあるという彼女は、日本語がほとんど話せなかった。

 食事がすむと、マダムNは大杉と林を庭に誘った。

 マダムNはしきりに林に同意を求めるように言った。

「ねえ、林さん、あたなはどう思います? 私の方が真実でしょう」

 林は大杉とマダムNの話の内容がよくわからなかったので、いいかげんな返事をするしかなかった。

 最後に家に入ろうとしたとき、彼女は再度、林に同意を求めた。

 林はよくわからなかったが、その場を取り繕うように答えた。

「C'est vrai(そのとおり)」

 マダムNはニコニコして大杉の方を振り向いて言った。

「どうです、ハヤシさんも私の意見に賛成してるじゃありませんか」

 すると大杉は即座に、こうやり返した。

「なあに、ハヤシは Vous avez une raison(それも一理ある)と言ったのですよ」

 大杉は林宛ての「脱走中の消息」で林がマダムNに「C'est vrai(そのとおり)」と答えたと書いているが、林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」によれば、林は「Vous avez raison」(そのとおりです)と答えたと記している。

 ちなみに「C'est vrai」の英訳は「It's true」であり、「Vous avez raison」は「You are right」、「Vous avez une raison」は「You have a reason」。





 三月二十日、大杉と林はホテル・ノアイユには一泊しただけで、マルセイユを去ることにした。

 林は午後三時の汽車でアンティーブに、大杉は夜の汽車でリヨンに向かうことにした。

 昼食後、林はもう一度マダムNを訪ねるという大杉と別れた。

 大杉はマダムNに会いに行き、林に手紙を書いた。


 やつぱり今日は行くんぢやなかつた。

 きのふのまゝで分かれて了へば、大ぶ甘いロマンスとして其の記憶が残るんだつたらうがけふはもうそれをすつかり打ち毀はして了つた。

 誰にも話してない、又今からも話さない、と云ふ筈だから、其のつもりでゐてくれ。

 もう疲れ切つた。

 マルセイユはいやな処だ。

 アンチーヴはいゝ処であつてくれ。

 マダムは君の事を大変 sympathique だと云つてほめてゐた。

 例の C'est vrai が余程お気にめしたものらしい。

 そして僕が更にそれを説明して、Vous avez une raison と云つた事を、僕が一人ぎめで付け加へたものと考へてゐるようだ。

 又其間違で、そしてこんどはうんと立ち入つて三時間程庭でおしやべりした。

 僕はこれで、外国人とは二度目のプラトニツクだ。

 がプラトニツクはもういやだ。

 バル・タバランのダンスーズの方がよつぽどいゝ。

 二十日午後八時

 今リオンに着いた。

 又あの色つぽい女の処にでも当分ゐよう。

 二十一日朝


(『改造』一九二四年六月号・林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「脱走中の消息」/『大杉栄書簡集』一六九 林倭衛宛・一九二三年三月二十一日)





 三月二十一日の朝、リヨンに着いた大杉は警察本部に行き、ドイツ行きを願い出た。

 その許可がなければ、ドイツ領事にビザを発行してもらえないからだった。

 警察本部の外事課の旅券係によれば、一週間後ぐらいに許可証は間違いなくできているという。


 で、僕は出立の日まできめて、すつかり準備をして、其の日を待つてゐた。

 ドイツに関する最近出版の四五冊の本も読んだ。

 ドイツ語の会話の本の暗唱もした。

 おまけに、帰りにはオオストリイ、スヰツル、イタリイと廻るつもりで、イタリイ語の会話の本までも買つた。


(「入獄から追放まで」/『改造』一九二三年九月号/『日本脱出記』・アルス・一九二三年十月二十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』・一九二五年七月二十五日/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)





 一週間後の三月二十八日、大杉が警察本部の外事課に行くと、二、三日中に改めて出頭せよという。

 四日目に行ってみると、許可証は出ていなかった。

 その後、警察本部に日参する大杉だったが、一向にらちがあかない。

 その間、当局は大杉本人はもとより、大杉が宿泊している宿の主人や林のことまで取り調べているようだった。

 大杉はだんだん不安になりだした。

 いっそのこと合法的な手続きをうっちゃって、国境越えをしようかとさえ思ったが、もし何かの間違いがあれば、責は世話をしてくれているリヨンの中国人同志にまで及ぶので、それもできない。

 大杉は不安と不愉快の日々を過ごすことになった。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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