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2016年12月13日

第396回 バル・タバラン






文●ツルシカズヒコ




 一九二三(大正十二)年三月三日、大杉の宿を訪ねた林倭衛は、とりあえず昼飯でも食おうかと大杉と連れ立って宿を出た。


 はからず斯うして巴里の街を彼と肩をならべて歩いてゐるのが、いまさら不思議な事のように想はれてきた。

 夢のように懐しんでゐたものが、卒然として目の前に現はれた。

 何にから語そうか、つい順序もなく断片に話し乍ら、ひとり嬉れしい気分になつた。

 今、彼とのこの不思議な邂逅によつて、譬へ一時的なものにしろ、鬱積してゐた悩ましい蟠(わだかま)りが苦もなく解けてゆくのであつた。


(林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」/『改造』一九二四年六月号)

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 大杉は林と相談し、その日のうちに、ベルヴィル通りにある木賃宿からモンマルトルのホテル・ビクトル(ヴィクトル)・マッセに移った。

 二階の部屋で大杉の向かいの部屋には、林も投宿することになった。

 現存しているホテル・ビクトル(ヴィクトル)・マッセについては、松本伸夫『日本的風土をはみだした男 パリの大杉栄』(p101)に詳しい。

 大杉と林は連れ立ってまるで地廻りのように、夜のモンマルトルの盛り場のカフェを渡り歩いた。

 カフェで林は酒を飲んだが、酒の飲めない大杉は一軒の店で二杯も三杯もコージーをお代わりをし、それと同じことを二軒も三軒もはしごする店でやった。

 あるとき、大杉と林がカフェに座りこんでいると、林を知っている女が入って来た。

 女は大杉と林のテーブルに座りこんで、なかなか動きそうもない。

 退屈していた大杉と林が適当に相手をしていると、女は大杉の腕時計に目をつけ、ちょっと貸してくれと言って自分の腕に巻きつけた。

 その腕時計は、三年前に大杉が上海に密航したとき、野枝に上海土産として買って帰ったものだった。

 今回の国外脱出に際して、大杉はその小さな金時計を野枝から借りて来ていた。





 その内に女が時計を呉れと云ひ出した。

 僕は冗談に云つてゐるものと思つてゐたら、大杉は、そんなに欲しければ興るよと云ふのだ。

 よせ/\莫迦ばかしいぢやないかと、夫れに君のぢやないと云つて居るではないかと僕がとめると、何あに、帰つてから訊かれたら紛失したと云へばいゝさとその彼女に興つて仕舞つた。

 女は寧ろ意外に思つたらう、それを貰ふとさつさと出て行つて了つた。

 彼はそれから帰へるまで時計がなかつた。


(同上)





 大杉と林はホテル・ビクトル(ヴィクトル)・マッセの近くの踊り場(キャバレー)、バル・タバラン(BAL TABARIN)にも繁く通い、ふたりのめぼしい専属踊子とそれぞれ仲良くなった。

 大杉は「どうだい二人であれを引き連れて帰ろうか、そしてあの踊りをやらせれば、そのくらいの費用は出るぜ」などと冗談を言い、ご機嫌だった。

 永井荷風がパリで過ごしていたのは一九〇八(明治四十一)年の春ごろだった。

 荷風はバル・タバランについて、こんな記述をしている。


 バル・タバランは夜の戯れを喜ぶ人の、巴里に入りて、必ず訪ふべき処の一つなるべし。

 肉楽の機関備りて欠くる処なきモンマルトルにある公開の舞踏場なり。

 土曜には殊更に、夜の十二時打つを合図にいと広き場内をば肉襦袢の美女幾十人、花車を引出て歩む余興もありと聞きて、われも行きぬ


(永井荷風『新編ふらんす物語』_p211/博文館・一九一五年十二月一日)





 モンマルトル近辺に住んでいる日本人はほんどいなかったし、ときどき街を歩いているときに林の知り合いの日本人に遭遇しても、林は大杉を「安部」という名前で紹介したので、林の同行者が大杉だとは誰も気がつかなかった。

 ふたりはパリの日本人が多く住むエリアには近づかなかった。

 大杉の部屋をちょいちょい訪問していたのは、若い支那人の無政府主義者のLだった。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』は、Lを李卓と推定している。

 昼も夜も遊び暮らした大杉と林だったが、それにも少し飽きて来たころだった。

 日本からパリの日本大使館に、林の行動や素行を至急取り調べろという電報が三週間も前に来ているが、パリの日本大使館では取り合っていないという情報が林の耳に入った。

 ようするに、林を調べれば大杉がフランスに来ているかいないかが判明するという、日本当局の思惑のようだった。

 大杉栄『日本脱出記』によれば、「これはあとで、メエデエの日の前々日かに、パリでそつと耳にした話だが、実は其時既に、日本政府からドイツの大使館に僕の捜索命令が来て、そして其の同文電報がドイツの大使館からさらにヨオロツパ各国の大使館や公使館に来てゐたのだそうだ」。

 四月一日にベルリンで国際アナキスト大会が開催されることになっていたので、大杉はそれまでにドイツに行かなければず、この時点でパリで見つかるわけにはいかなかった。

 大杉がリヨンで申請したドイツに入国するための旅券(ビザ)も、そろそろ受け取れるころだった。





 三月十六日の夜、外出していた林がモンマルトルのホテル・ビクトル・マッセに帰ると、大杉が林の部屋に入ってきた。

 この日、大杉がリベルテール社に行くと、マルセイユに滞在している例のロシアの婦人からの手紙が同社に届いていた。

 どういうわけか、ひと月も前に届いていた手紙だった。

 リヨンからは、ドイツに入国するための旅券(ビザ)も受け取れるという手紙も来ていた。

 三月十七日の夜に汽車でパリを発った大杉と林は、三月十八日の朝にリヨンに着いた。

 ふたりは章謦秋(章桐)夫妻の宿を訪れ、夫妻が中仏大学に行く時間が来ると、大杉が宿泊していたオテール・ル・ポワン・デュ・ジュールのカフェに行き朝飯を食った。

 昼飯は中仏大学前の支那料理屋で、章夫妻やその仲間たちと一緒に食べた。

 昼食後、大杉はソーヌ河岸の警察に立ち寄って旅券を受け取った。

 夕食も一同が支那料理屋に集まり、賑やかな晩餐会になった。

Bal Tabarin (1929)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 00:42| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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