2016年12月10日

第394回 パリの便所






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年三月一日、大杉は野枝に手紙を書いた。

 パリに来て十日近くなったこと、リベルテール社でコロメルに会ったこと、そして女性のイタリア人同志の案内で、彼女が宿泊しているリベルテール社のすぐ近くのホテルに投宿したこと、パリの街の様子、中国人同志とのミーテングなどについて、大杉は野枝に手紙で知らせた。


 ホテルと云ふと立派なやうだが、しかもグランドホテル何んとかと云ふのだが、実は木賃宿だ。

 僕の室は三階の六畳敷位の室だが、フアニチュア付で一ケ月百十法(フラン/十五円ばかり)だ。

 ガスがあつて自スイの出来るようになつている。

 リオンから日本語のうまい支那の同志を一人連れて来てゐるので、そいつと二人で自スイをやつてゐる。



(「脱走中の消息」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一六八 伊藤野枝宛・一九二三年三月一日)


 大杉と一緒に自炊をしていたのは、リヨン中仏大学学生の章謦秋(章桐)で、大学の無政府主義者のリーダー格である彼は、国際アナキスト大会の中国代表だった(林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」『改造』一九二四年六月号/『中国アナキズム運動の回想』)。

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 大杉は外食するためにホテルの近辺を歩いてみて驚いた。


 此の辺はまるで浅草なのだ。

 貧民窟で、淫売窟で、そしてドンチヤンドンチヤンの見世物窟だ。

 軒なみにレストランとカフエとホテルがあつて、そして人道には小舎がけの見世物と玉転がしや鉄砲で何かあてる変な屋台店ばかりが並んでゐる。

 そしてそれが皆な浅草のよりももつと下等で、そこへうぢようぢよ寄つて来る人間も日本のよりももつと下等なやうな気がする。

 浅草と云ふよりも寧ろ、九段の祭りの時のやうなものだ。

 九段の祭りと云つても、もう十年余り或はそれ以上にも行つた事はないが。

 そして其の到る処に、やはり日本のよりももつと汚ない(顔も風も)やうな淫売がうようよしてゐる。


(同上)


 外食は一品料理店では一品二、三十サンチームから一フラン半ぐらいまでで、日本円で一円あれば鱈腹食えた。

 定食のある店では、三品か四品で二フラン半、三フラン、三フラン半くらいだった。


 そして、食つてゐる間にも、あちこちに淫売が陣どつてゐて、切に目でいろんな相図をする。

 一寸でも其の方を見つめてゐると、直ぐそばへやつて来て、坐りこんで、カフエを一杯勝手に注文する。


(同上)





 パリに到着した翌日、二月二十一日ごろから四、五日間、大杉は章の仲介でパリや近郊の中国人同志と接触し、ミーテイングをした。


 翌日、郊外にゐる支那の同志連を訪問した。

 自動車でパリのちようど目抜きの大通りを通つたが、そこで始めて僕はパリに来てゐるのだと云ふ気がした。

 それまでは、どこも分らない、ただヨオロツパの文明のはいつている野蛮国にでもゐるやうな気がしてゐたのだ。

 其の後は殆んど毎日、支那の同志とばかりの会見だ。

 リオンにも十人ばかりゐたが、ここにも二十人ばかりゐる。

 それを纏めてしつかりした一団体をつくらせようと思ふんだが、随分骨が折れる。

 しかしもうほぼ纏つた。

 そしてベルリン大会のあとで、此の支那人連の大会をやる事にまでこぎつけた。

 パリから四五時間かかる田舎の農学校にも大分同志がゐるので、そこへも四人連れで行つた。

 しかし、もう其の方の用事はほぼ済んだので、リオンからの先生もきのふ帰つた。

 そしてゆうべから一人ぼつちになつて、暫く目でいい気持で寝た。


(同上)


 松本伸夫『日本的風土をはみだした男 パリの大杉栄』(五十四頁)によれば、「郊外」はラ・ガレンヌ・コロンブ(国鉄名はコロンブ)、「田舎の農学校」はモンタルジ農業学校。






 この間に、ジェルメーヌ・ベルトンと親しかったイタリア人の女性同志は、ホテルから追い出された。


 警察のうるささは、ほとんど日本と違はない。

 或る点ではこつちがもつとうるさいかも知れない。

 リベルテエル社の前には二人か三人制服が見張つてゐる。

 三日ばかり前の晩に、同志の音楽会と芝居とに行つて見たが、其の入口には十人位の憲兵が見はつてゐた。

 しかし、何よりも先づ厄介なのは、外国人は勿論、一切の内国人ですらも、皆な其の居住地の警察の身分証明書を持つてゐなければならない事だ。

 それがないと、直ぐ罰金か牢屋だ。

 フランスへはいればもう大丈夫だと思つて来たが、此の分だと頗る危険だ。

 が、大会の済むまでは捕まりたくないものだ。


(同上)





 なお、大杉がリベルテール社のすぐ近くのホテルとは名ばかりの「木賃宿」の便所について言及しているのが、「パリの便所」である。

 大杉が宿の女将に便所の場所を尋ねると、二階の梯子段のところにあるという。


 が、その便所へ行って見ておどろいた。

 例の腰をかける西洋便所ぢやない。

 たゞ、タゝキが傾斜になつて、その底に小さな穴があるだけなのだ。

 そしてその傾斜の始まるところで跨ぐのだ。

 が、そのきたなさはとても日本の辻便所の比ぢやない。
 
 僕はどうしてもその便所では用をたす事が出来なくて、小便は室の中で、バケツの中へヂャア/\とやつた。

 洗面台はあるが、水道栓もなく従つてまた流しもなく、一々下から水を持つて来て、そしてその使つた水を流しこんで置く、そのバケツの中へだ。

 僕ばかりぢやない。

 あちこちの室から、そのヂャア/\の音がよく聞える。

 大便にはちよつとこまったが、そとへ出て、横町から大通りへ出ると、すぐ有料の辻便所があるのを発見した。

 番人のお婆さんに廿サンテイム(ざつと三銭だ)のところを五十サンテイム奮発してはいつて見ると、そこは本当の綺麗な西洋便所だつた。

 貧民窟の木賃宿だから、などゝ、日本にゐて考へてはいけない。

 その後、パリのあちこちをあるいて見たが、かうした西洋便所ぢやない、そして幾室或は幾軒もの共同の、臭いきたない便所がいくらでもあるのだ。

 そして田舎ではそれがまづ普通なのだ。


(「仏京に納まつて」/『東京日日新聞』一九二三年六月二十二日〜六月二十五日『日本脱出記』「パリの便所」・アルス・一九二三年十月二十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』・一九二五年七月二十五日/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)


「パリの便所」は「仏京に納まつて」というタイトルで『東京日日新聞』に掲載されたが、単行本『日本脱出記』に収録する際に「パリの便所」と改題された。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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