2016年12月03日

第392回 ベルヴィル通り






文●ツルシカズヒコ


 一九二三(大正十二)年二月十三日、マルセイユに上陸した大杉は、船中で知り合ったロシアのN婦人夫妻と、ホテル・ノアイユに一泊した。

 二月十四日、大杉はリヨンに行き、上海の同志からの紹介状を持って中国人の同志たちに会った。

 大杉のパスポートの偽名は唐継(タン・ジー)であり、国籍は中国なので、ヨーロッパに滞在中は彼らの協力が必要だった。

 中国からフランスに入国するパスポートしか持っていない大杉は、フランスからヨーロッパ諸国へ廻る旅券をもらう必要もあったが、フランスに二週間以上滞在する外国人はまず、カルト・ディダンティテ(Carte d'identite/警察の身元証明書)が必要だった。

 大杉はこのカルト・ディダンティテを入手するために、一週間ほどリヨンに滞在した。

 リヨン滞在中に大杉が宿泊したホテルについての描写が、林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」(『改造』一九二四年六月号)にあるが、鎌田慧が『大杉栄 自由への疾走』取材で一九九七年春にリヨンを訪れた際に、このホテル「オテール・ル・ポワン・デュ・ジュール」の存在を確認している。

 大杉が七十四年前に宿泊したそのホテルはは現存していたのである。

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 二月二十日ごろ、大杉はパリに行き、コロメルから届いた手紙の発信元であるリベルテール社(フランス無政府主義同盟機関)を尋ねることにした。

 リベルテール社のあるベルヴィル通りについて、大杉はこう書いている。


 ……成程大通りは大通りに違いないが、ちやうどあの、浅草から万年町の方へ行く何とか云ふ大きな通り其儘の感じだ。

 自動車で走るんだからよくは分らないが、店だつて何んだか汚ならしいものばかり売つてゐる。

 そして通りの真中の広い歩道が、道一ぱいに汚ならしいテントの小舎がけがあつて、そこを又日本ではとても見られないやうな汚ならしい風の野蛮人見たいな顔をした人間がうぢや/\と通つてゐる。

 市場なのだ。

 そとからは店の様子はちよつと見えないが、皆な朝の買物らしく、大きな袋にキヤベツだのジヤガ芋だの大きなパンの棒だのを入れて歩いてゐる。


(「日本脱出記」/『改造』一九二三年七月号/『日本脱出記』・アルス・一九二三年十月二十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』・一九二五年七月二十五日/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)





 週刊『ル・リベルテール(自由人)』などの出版物の事務所でもあるリベルテール社は、ベルヴィル通りの横丁にでもあるものと当たりをつけていた大杉の予想と反して、通りの地並のラ・リブレリ・ソシアル(社会書房)という本屋の中にあった。

 リベルテール社はベルヴィル通り九六番地にあったが、その写真が松本伸夫『日本的風土をはみ出した男ーーパリの大杉栄』(雄山閣出版・一九九五年四月二十日)に掲載(四十一頁)されている。

 本屋の中では表にいるのと同じふうな顔の人間が七、八人が何か怒鳴るような口調でしゃべっていた。

 大杉がその中のひとりにコロメルはいないかと聞くと、奥にいるという。

 奥といっても、店からすぐ見える汚らしい次の部屋である。

 その部屋にある机のひとつで、手紙の束を手早く選り分けている男がいた。


 日本で云つてもちよつと芸術家と云つた風に、頭の毛を長く延ばして、髯のない白い顔を皆んなの間に光らしてゐた。

 ネクタイもしてゐた。

 服も、黒の、とにかくそんなに汚れてゐないのを着てゐた。

 僕は其の男をコロメルだときめて其のそばへ行つて、君がコロメルか、と聞いた。

 さうだ、と云ふ。

 僕は手をさし出しながら、僕はかう/\だと云へば、彼は僕の手を堅く握りしめながら、さうか、よく来た、と云つて、直ぐ日本の事情を問ふ。

 腰をかけろと云ふ椅子もないのだ。


(同上)





 田中ひかる「A・コロメルによる大杉栄追悼論説」によれば、大杉が殺害された後、コロメルは『リベルテール』(一九二三年十一月発行)の巻頭に大杉の追悼論説を掲載した。

 一八八六年生まれのコロメルはこのとき、三十七歳、大杉より一歳下である。

 コロメルは大杉の印象を、こう書いている。


 身体は細身で、その目の輝きは鋭敏な知性を感じさせ、話しぶりは若々しく快活だった。

 その時、私は大杉の生涯について全く知らなかったし、彼の著作も、彼の才能も、極めて戦闘的なその活動も知らなかった。

 しかし私は、創造的な人間だけが持っている、他者を励ます力と熱気を彼から感じた。


(田中ひかる「A・コロメルによる大杉栄追悼論説」/『トスキナア』二〇〇七年十月・第六号)





 リベルテール社の女性アナキストの案内で、大杉は近くに宿を取った。

 その若い女性は、日本人に比べても背の低い、色のたいして白くない、唇が大きくて厚い、ただ目だけがぱっちりした、あまり西洋人らしくない、風体もそのへんで見る野蛮人と変わりのない女性だった。

 女性が案内したホテルの看板にはグランドなんとかと書いてあるが、要するに木賃宿だった。

 三階の狭い部屋にはダブルベッド、鏡つきの大きな箪笥、机、椅子ふたつ、洗面台、自炊のできるガス台があった。

 部屋代は一ヶ月百フラン、日本円で十二円五十銭といったところで、東京の木賃宿の一日五十銭に較べればよほど安い。

 ガスは一サンティーム銅貨を入れれば、三度の食事ぐらいには使える量が出るという。

 大杉は宿帳をつける際に、宿からカルト・ディダンティテ(警察の身元証明書)の提出を求められた。

 連れの女性によれば、フランスでは外国人はもとより、内国人ですらも自分の写真を貼り付けたこの証明書を持っていなければならないという。

 大杉は連れの女性と一緒になって、その場は何とか誤魔化した。





 大杉が荷物を取りにリベルテール社に戻ると、社のすぐ前に制服の巡査が三人立っているのが見えた。

 連れの女性によれば、女性無政府主義者、ジェルメーヌ・ベルトンが王党の一首領を暗殺した、ベルトン事件以来、ずっとこうなのだという。


 そして其の以前からも、集会は勿論厳重な監視をされるし、家宅捜索もやる、通信も一々調べる、尾行もやる、遠慮なく警察へ引つぱつても行く、と云ふ風だつたのださうだ。

『はあ、やつぱり日本と同じ事なんだな。』

 僕はさう思ひながら、多分其の巡査共の視線を浴びながらだらう、ル・リベルテエル社の中へはいつて行つた。

 ーー一九二三年四月五日、リヨンにてーー


(「日本脱出記」)


 ちなみに「ベルヴィル」は「Belle ville」で「美しい町」の意味である。

 十九世紀半ばからパリの労働者街、貧民街を形成していたベルヴィル地区は、不世出のシャンソン歌手エディット・ビアフを生んだ街であるが、そのあたりは松本伸夫『日本的風土をはみ出した男ーーパリの大杉栄』(雄山閣出版・一九九五年四月二十日)に詳しい。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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