2016年11月27日

第390回 アナナス






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年二月、野枝は実家に手紙を書いた。


 久しく御無沙汰を致しました。

 其後皆様お変りもございませんか。

 叔母やエマがいろ/\お世話になつてゐる事と存じます。

 実はもつと早くおたより申上げる筈のところ、実は私が突然帰りましたのは大杉外遊の為めで、旧冬中は其の準備に忙殺され、出立と同時に子供が代りばんこに病気を致しまして、一月中は人出なしのところに、赤ん坊の病気で殆ど不眠不休に続いて、雑誌の編輯といふ訳けで、今まで殆ど寸暇もない有様でしたので、気にかかりながらも失礼してしまひました。

 大杉は旧冬中に立つて、先月末ヨオロツパに到着しました筈で、来春帰る予定です。

 何分急の事でしたので、後々の事もろくに相談が出来ず、内外一切のことを委されてゐますので、今までの呑気に引きかへて急に責任が重くなり弱つてゐます。(以下紛失してなし)

 野枝

 父上様


(「消息(伊藤)」「大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/「書簡 伊藤亀吉宛」一九二三年二月推定『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

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 二月初旬、大杉はジプチから野枝に手紙を出した。


 コロンボを出てから七日目、あしたは漸くジプチに着く。

 ジプチと云つても分るまいが、紅海のはいり口の、アフリカの仏領のごく小さな港だ。

 イギリスや日本の船だと、大がいその向こう岸のアデンに着くのだ。

 七日は少しうんざりする。

 しかし、あともうジプチとポオトサイドの二つしか港がないんだと思ふと、大ぶ心強くもなる。

 もう十日でマルセイユだ。

 コロンボでは碇泊時間が短かかつたので遠出は出来なかつたが、近郊だけは走り廻つて見た。

 そして新聞を買つて見て、フランス軍がドイツのルウル地方を占拠した事を知つて、内心大いに喜んでゐる。

 そんな事で或は大会が遅れるかも知れない。

 船の中では毎日其の話で持ちきつてゐる。

 そしてきのふからは、フランスが一部の動員をしたと云ふうはさが広まつてゐる。

 それだと僕にとつては猶いい。

 願はくば一度戦争が始まつて欲しい。

 そしていろ/\面白い事を見たい。

 が、ロシア人共は大恐慌だ。

 若し戦争が始まれば、フランスやスヰツルにゐる旧政府の大官共がきつとロシア人を動員してフランスを助けるに違ひない。

 そんな目に遭つちや大変だ。

 と云ふので、中にはすつかりふさぎこんでゐるものもある。

 僕はポオトサイドで降りようかしら、などと云つてゐるものもある。

 きのふの夕方近くから、始めて船が少し揺れた。

 僕は例の通りで、直ぐキヤビンで横になつたが、しかし夕飯は食堂へ食べに行つた。

 西洋人の女が一人と支那人が一人とのほかは皆んな出て来てゐた。

 しかしそれもゆうべ寝てゐるうちにすつかり治つて了つた。

 けふは大ぶ勉強して、デツキ・パツセンジアのあとを書き続けた。

 ポオトサイドまでには書いて了ひたいと思ふが、あてにならない。

 コロンボで買った人間の頭位ゐの大きさのアナナスの貯へが尽きて閉口してゐる。

 アナナス、バナナ、僕はこんなにうまい果物をこんなにうんと毎日食つただけでも、こんどの旅行は十分に値打ちがあると思つてゐる。


(「脱走中の消息」大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一六二 伊藤野枝他宛・一九二三年)





 以下、大杉の紅海航行を伝える手紙である。


 紅海にて

 ヂブチには夜着いて朝早く出帆したので何も見る事が出来なかつた。

 尤も、ごく小さな町で、ほんの石炭を積み込むに寄るところなので、別に見るものも何もないんださうだ。

 紅海と云つたところで別に赤くはない。

 やつぱり青い海だ。

 ほんの小さな、狭い海かと思つてゐたが、所々に島が見えるだけで、両岸はちつとも見えない。

 そして此の紅海にはいつてから、此の航路での最初の暴風に会つた。

 ヂブチを出た翌日の夕方から始まつて、次の日の朝には静かになつたが、始めて僕は朝食を食ひに食堂へ行かなかつた。

 しかし吐いたり唸つたりする醜体は演じなかつたからえらいものだ。

 けふうはこの紅海が大ぶ狭くなつて、アフリカとアラビアの両方の山が見える。

 多分シナイ山だらうと云ふのも見た。

 あすの朝はスエズだ。

 そこには寄港しない事と思つてゐたら、やはりちよつととまるらしい。


(「脱走中の消息」大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一六三 伊藤野枝他宛・一九二三年二月六日)






 以下、大杉のスエズ運河の航行を伝える書簡である。


 スエズ運河にて 七日夜

 朝起きて見たら、とうにスエズに着いて船はとまつてゐる。

 が、上陸する時間はなく、朝食を食つてゐる最中に船は運河の中にはいつた。


(「脱走中の消息」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一六四 伊藤野枝他宛・一九二三年二月七日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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