2016年11月23日

第389回 仏歯寺






文●ツルシカズヒコ

 一九二三(大正十二)年一月中旬ごろ、大杉は安南(ベトナム)から国外脱出後、最初の便りを野枝に書いた。


 此のおどり子の顔はちよつときれいだが、安南の女ときたらとても見られたものでない。

 女も男もみなおはぐろをつけてゐるが、女は殊にこれが甚だしい。

 そして彼女等はよく道で唾をするが、その唾がおはぐろの色そのままの黒ずんだ朱のやうな色だ。

 到る処のペエブペントに此の唾のあとが点々としてゐる。

 そして皆なまるで乞食のやうな生活をしてゐる。

 これは安南の旧王朝のおどりだが、ちよつと日本のおどりと似たところがあるやうだね。


(「脱走中の消息」 野枝子・外諸兄宛(絵はがき)/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一六〇 伊藤野枝他宛・一九二三年)

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 大杉は絵葉書を出したようだが、「おはぐろ」と書いているのは檳榔(ビンロウ)のことであろう。

「ロシアへ行つたか 大杉氏の国外脱走 一ヶ月前から日本に居ない 警視庁大狼狽を極め 秘し隠しに隠して八方大捜索」という見出しで、大杉の国外脱出を報じたのは、一月二十日『読売新聞』だった。


 大杉氏は……十二月中旬風邪を引いて寝てゐたが警視庁が同氏の居ないことを知つたのは夫れから僅数日後の二十二日で所轄本富士署に輪をかけた狼狽振りで殊に山田特別高等課長は着任早々の大痛事とて秘し隠しに隠して八方大追跡を始め満州里(マンチユリア)、上海等の国外の関所の警戒厳重を極めてゐるが、未だに何の手係も無い。

(『読売新聞』一九二三年一月二十日・五面)


「野枝氏の謎の笑ひ 一と月もすれば分るでせう」という見出しの野枝のコメントも載っている。


『もう一と月も経てば何処へ行つたか分るかも知れません、案外そこらの温泉で原稿でも書いてゐたら面白いでせうね』

 と謎の様に笑つて

『警視庁では北京にゐるが態(わざ)と捕まへないのだとか、ロシアへ行つたのだ、そして米国を廻つて帰るつもりらしいがうまくロシアを出られるかどうかなどと心配してゐて呉れます。

 さうかと思ふと確に欧州航路にテイ・コジマと名乗つて乗り香港で船を乗り換へる為に降りた事が分つたと言つたりしますが定めしそのテイ・コジマといふ人は大杉と間違はれて、ひどい目に会つたことでせうがお気の毒です』


(同上)





 一月末、大杉はコロンボ(スリランカ)から野枝に手紙を出した。


 印度洋にて

 今晩コロンボに着く。

 着いたらそこから出すつもりで此の手紙を書く。

 僕がフランスに着いてからそちらへ届くのだから、もう心配はない。

 漸くあともう二週間と少しになつた。

 此の分ならどうやら無事に着けさうだ。

 上海でのことはいろ/\聞いたらうから別に書かない。


(「脱走中の消息」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一六一 伊藤野枝他宛・一九二三年)





 大杉が「上海でのこと」を書かなかったのは、野枝が山鹿からいろいろ聞いただろうと思ったからだ。

 船は三等だが日本の船の二等のような感じで、ふたりで一室、大杉が上のベッドで下のベッドは支那の若い学生だった。

 その支那の学生は少し英語を話すので都合がよかったが、「少し馬鹿でね、折々なぐってやろうかと思うことがあるが、辛棒している」。

 食堂でも支那の男女学生十一名と大杉がひとつの卓だった。

 支那の学生たちもみなマルセイユ行きだった。

 大杉は香港から夏服に着替えたが、それでも汗だくになるので、一日中デッキに出ていた。

 狭いデッキがみんなの籐椅子でいっぱいだったが、キャビンの扇風機ではとてもたえられない。

 大杉は昼は三等のデッキで過ごしたが、夕飯後は四等のデッキ・パッセンジャーのデッキに遊びに行った。

 そこにはシベリアから来たロシアの学生がたくさんいて、大杉は彼らといい友達になった。

 ロシアの学生たちはたいがい英語が少し話せ、フランス語を話す奴も二、三人いた。

 大杉は彼らのことをペチカ(ピーター)、ミンカ(ミハエル)だのと呼び、彼らは大杉をマサチカ(正一)と呼んだ。

 大杉は中国人になりすましていたが、彼らの間では日本人であり、寄港地に上陸するときもたいがいは彼らと一緒だった。





 そして、大杉はその学生のひとりの紹介で、一等にいるロシアの五十に近い貴婦人と知り合いになった。

 夫は七十に近い総領事で、リュウマチで一日中寝ている。

 貴婦人は太ってもいず、身長も鼻も高くないので、西洋人らしい圧迫を大杉に感じさせなかった。

 一年ばかり夫婦で七里ケ浜にいたという。

 大杉は婦人の望みで毎日二時間ばかり、彼女に日本語を教えた。

 ふたりの会話はフランス語だったから、大杉にとっては彼女はいいフランス語の先生だった。

 この婦人のおかげで、大杉は上陸するたびに車に同乗させてもらった。


 モスクワ大学で歴史を専門にやつたとか云つてゐるが、切りに民衆の生活を見たがつて、田舎へ遠乗りしては百姓家などにはいつて見る。

 僕が漢文の筆談でいろ/\用を足すので細君は大喜びだ。

 ペナンまでの支那人の勢力は実に恐ろしい位だ。

 あしたも亦、細君と二人で、コロンボから四五里程ある、セイロン島第一の高峯何んとか云ふのに登つて、釈迦昇天の旧跡だと云ふ大きなお寺へ行く筈だ。


(同上)


「セイロン島第一の高峯」は標高2,524mのセイロン島の最高峰ピドゥルタラーガラ山、「釈迦昇天の旧跡」はダラダー・マーリガーワ寺院(仏歯寺)のことであろう。


 このロシアの婦人について、大杉は「日本脱出記」に「モスクワ大学出身の女で、嘗つてパリに幾年か留学した事があり、其の兄が社会革命党に関係してゐた事から彼女までもツアルの官憲から危険人物扱ひされた事があると云ふ……。彼女は暫く日本にゐて、今僕と同じやうにやはりフランスへ行くのだつた」と書いている。





 大杉は船の中でやろうと思った仕事はちっともできなかった。

 暑くてキャビンにはいられず、デッキや食堂兼喫煙室は騒々しくて、仕事をやる場所がなかった。

『種の起原』を二、三章と『改造』への第一回通信をほんの少し書きかけたくらいで、「自叙伝」には何も手をつけていなかった。

 大杉は『改造』の連載の題を「デッキ・パッセンジャー」にして、そこのいろいろな人のことを書いてみようと思っていた。


 海は実に平穏無事で、今までまだ船の動揺を感じた事がない位だ。

 これだけは実に有難り。

 それでも、一時間ほど仕事をすると、少し胸が変な気持になる。

 やつぱり酔心地でゐるんだね。

 マルセイユに着いたら電報をうつが、これからはもう心配なしに港々で手紙を書かう。

 合服と夏服とレエンコートを直ぐ送つてくれ。

 船がどこの国の何んという船かと云ふ事が分つてはまづいから、途中の手紙は一切発表してはいけない。


(同上)





 なお、大杉はアンドレ・ルボン号での航海中、同船した中国人、ロシア人、フランス人、ベトナム人、ユダヤ人などと積極的に交流をし、かつ寄港地でもさまざまな観察をしているが、その詳細は「外遊雑話」(『日本脱出記』・アルス・一九二三年十月二十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』・一九二五年七月二十五日/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)に記している。

「外遊雑話」は大杉が帰国後に単行本『日本脱出記』出版のために書き下ろしたものであるが、その原稿の元は『改造』に連載予定だった「デッキ・パッセンジャー」だったと思われる。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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