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2016年10月27日

第385回 アインシュタイン






文●ツルシカズヒコ



 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九二二(大正十一)年十二月上旬、大杉は山崎今朝弥とともに盲腸で鉱泉病院(大森町森ヶ崎/現・大田区大森南)に入院中の堺利彦を見舞った。


 ……大杉君でも堺君でも公私は決して混淆しなかった。

 犬猿啻(ただ)ならぬ両君の間でも、運動上の事や天変地異の挨拶にはよく往来をした。

 大杉君のチブスの見舞には僕と堺君がセントルカへ行った。

 堺君の盲腸炎の時には僕と大杉君とで森ヶ崎へ行った。


(山崎今朝弥著・森長英三郎編『地震・憲兵・火事・巡査』/岩波文庫・一九八二年十二月十六日)


「日本脱出記」によれば、大杉が秘かに自宅を出たのは一九二二(大正十一)年十二月十一日の夜だった。

 大杉がしばらく留守にすることは、魔子には知らせなかった。

 野枝は子供を騙すのは可哀相だと言ったが、尾行の口車に乗せられないともかぎらないと考えた大杉は、十二月十一日の朝、村木に魔子をある同志の家に連れて行ってもらった。

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『こんどは魔子のすきなだけ幾つ泊つて来てもいいんだがね。幾つ泊る? 二つ? 三つ?』

 ……彼女は……ただにこ/\しながら黙つてゐた。

『ぢや、四つ? 五つ?』

 僕は重ねて聞いた。

 やはりにこ/\しながら、首をふつて、

『もつと』

 と云つた。

『もつと? それぢや幾つ?』

 僕が驚いたふりをして尋ねると、彼女は左の掌の上に右の手の中指を三本置いて、

『八つ。』

 と云ひきつた。

『さう、そんなに長い間?』

 僕は彼女を抱きあげて其の顔にキスした。そして

『でも、いやになつたら、いつでもいいからお帰り。』

 と付け加へて彼女を離してやつた。

 彼女は踊るやうにして、Mと一緒に出かけて行つた。


(「日本脱出記」/『改造』一九二三年七月号/『日本脱出記』・アルス・一九二三年十月二十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』・一九二五年七月二十五日/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)





 その家には魔子より一、二歳下の女の子がいたので、魔子はしばらく泊まってきたいと言った。

 自宅兼労働運動社である駒込片町の家は狭く、すぐ前の空き地の小さなお稲荷さんの小舎に中にいる尾行には、家の中の話し声を聞いているだけでも、大杉がいるかいないかは知られてしまう。

 大杉がちっとも顔を見せないことの口実は、上海に渡航したときと同様に病気ということにして、毎朝氷を一斤ずつ買うことにした。

「それも尾行を使いにやるんですね」

 そんなことには如才のない村木がそう発案して、ひとりニコニコしていた。

 大杉は近藤と一緒に家を出た。

 近所まで近藤と一緒だったが、そこから大杉は自動車で東京駅(大杉豊『日録・大杉栄伝』)近くまで行った。

 駅の近くで小さなトランクひとつとちょっとした買い物をした大杉は、急いで駅の中に入って行った。

 列車の発車時刻が迫っていた。

 大杉はプラットホームを見回したが、風呂敷に入れた荷物を持って来ているはずの和田の姿が見当たらないので、待合室の方に行こうとすると中から男が出てきた。

 男は黒い長いマントを着こみ、前の方を上に折り曲げた黒のソフトをかぶり、足駄をカラカラ鳴らして歩いて来た。

 大杉は変装した和田から荷物を受け取り、発車しようとしている列車に飛び乗った。





 列車が走り出した。

 和田が手を上げたので、大杉も手を上げてそれに応じた。

 和田の姿が見えなくなると、大杉はボーイに顔を見られないように外套の襟を高く立てて、車内に入り寝台の中にもぐりこんだ。

 ひと寝入りした大杉は、夜中にそっと起きて洗面場に行き、まだ剃っていなかった上下の髭を剃り落した。

 そして、大杉は和田が持って来てくれた風呂敷包みの荷物をトランクに入れ替えた。

 荷物は途中、船の中でやる予定の仕事の材料と原稿紙だけだった。

 移動警察官の人数を増やすという記事が新聞に出ていたが、それらしい顔もついに見ないで、十二月十二日の朝、大杉は無事に神戸に着いた。





 大杉にとって神戸は鬼門だった。

 コズロフに会いに来たとき、警察本部の外事課や特別高等課に顔を出しているので、大杉の顔は神戸の刑事たちによく見知られていた。

 その神戸から船に乗るのはずいぶん剣呑(けんのん)だったが、横浜の方が神戸よりさらに剣呑だった。

 鎌倉や逗子に住んでいた間に、代わる代わるいろんな尾行がついたので、横浜の刑事たちのほとんどが大杉の顔を見知っていたからだ。

 神戸駅の改札口を出ようとすると、どこの停車場でもひとりやふたりはいる、怪しい目つきの男がひとり見張っていた。

 大杉はすぐに車に乗り、いい加減なところまで走らせ、それからさらに車を替えてあるホテルまで行った。





 船は翌日十二月十三日に出るはずだったが、出港は翌々日に延びていた。

 十二月十二日、十三日の二日間、大杉は仕方なしにホテルの部屋にこもり、共訳で出すことになっていた『自然科学の話』(大杉豊『日録・大杉栄伝』)の原稿を直して暮らした。

 一度だけ昼飯後の散歩にブラブラと外に出てみた大杉は、改造社の二、三人が車に乗ってその晩(十二月十三日)に開催されるアインシュタインの講演のビラをまいているのを目撃した。

 大杉は髭を剃り落して変装した顔が、彼らにわかるかどうかと思い、わざと彼らの方に近づいてみたが、正体はバレなかった。

 十二月十四日、大杉が船に乗り込むと、五人の私服刑事が船内に入りこんであちこちうろうろしたり、大杉が乗った二等船室の喫煙室に座りこんだりしていた。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉が乗船したのはカナダの客船エンプレス・オブ・ルシア号だった。

 船が出るまでキャビンの中に閉じこもっているのが癪だった大杉は、刑事たちをひやかしてみるのもおもしろいと思い、喫煙室とデッキの間をブラブラしたり、一度は私服刑事らしい三、四人以外は誰もいない喫煙室に行って、彼らの横顔を眺めながら煙草をふかした。





 船は門司を通過して長崎に着いた。

 そこでもやはり、二人の制服と四五人の私服刑事がはいつて来た。
 
 そして乗客の日本人を一人一人つかまへて何にかを調べ始めた。

 日本人と云つても、船はイギリスの船なのだから、二等には僕ともで四人しかゐないのだ。

 僕の番は直ぐに来た。

 が、それは寧ろあつけない位に無事に過ぎた。

 そして彼等は一人のヒリツピンの学生をつかまへて何にやかやとひつつこく尋ねてゐた。


(同上)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:23| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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