2016年10月04日

第371回 コズロフを送る(三)






文●ツルシカズヒコ



 一九二二(大正十一)年七月二十三日、午後、新橋から東海道線下りの汽車に乗った大杉は、いつもなら車中では眠ることにしていたが、このときは眠れなかった。

 大森か川崎あたりで、大杉は行ってきたばかりの改造社の二階の編集室にかけてある、二枚の写真が目にちらついた。

 一枚には改造社社員とサンガー女史や石本恵吉夫人が写っていた。

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 もう一枚はバートランド・ラッセルとブラック女史を真ん中にして、改造社社員がふたりを取り囲んだものだったが、その中にもうひとりの西洋人がいてそれがコズロフだった。

 大杉はラッセルを横浜の埠頭に見送りに行ったとき、ラッセルが「この人のおかげで、私は東京に着く前に、すっかり日本の社会主義運動と社会主義者とにお馴染みになっていましたよ」と、コズロフに感謝していたことを思い浮かべた。

 そしてコズロフの書いた「日本における社会主義運動と労働運動」のできのよさを思い、実際、コズロフはラッセルだけでなく、日本の社会主義運動や労働運動を知ろうと思った外国人から非常な感謝を捧げられている著者だった。





『さあ、魔子と三人で行かう。もう時間がないから早く。』

 僕は逗子の家に着くと直ぐ自分は先づ裸になつて、女房をせきたてた。

 着物を着かへたり荷物をつくつたりするのに、いい加減時間がかかるだらうと思つて、わざと少々誇張してせきたてたのだ。

 が、女房はそのままの風でよかつた。

 四五日前に自分で浴衣がはりに造つた、袋にバンドをしめたやうな洋服風のものが、まだいくらも汚れてはゐなかつた。

 子供もその儘でよかつた。

 荷物と云つては、支那製の小さい手提げに一ぱい、タオルや石鹸箱や子供の着がへや、汽車の中で子供に読んで聞かせる童謡の本が二冊入つただけだつた。

 そして女房の着がへになるブラウズとスカアトとは、あんまり皺になつてはと云ふ心配から、畳んで亭主のポケツトの中に蔵ひこむ事にした。

『これでよござんすわ。さあ、行きませう。』

 と、こんどは僕の方が女房からせき立てられた。

 しかし、時計を見ると実際はまだ一時間ほどの余裕があるのだつた。

 僕は『うん、出かけよう』と云ひながら、裸のまま、はだしで庭に下りて、子供のおもちやの兎を見に行つた。


(「コズロフを送る」/『東京毎日新聞』一九二二年七月二十九日から十三回連載/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)





 二坪ほどの囲いをして、そこに四、五匹入れておいたのが、どうしたのか一番大きな雄が一匹囲いの外に出ていた。

 大杉が庭中を追い回して、ようやくそれを捕まえて囲いの中に入れた。

 大杉が「フウフウ」言いながら汗をふいていると、その兎が大杉のすぐ前の囲いの外にいる。

 二尺あまり土の中に埋めてある竹の垣は、どこにも、そんな大きな兎の出る隙間はなかった。

 生まれたばかりの小さな子兎が、狭い隙間から出て、近所の泥棒猫の餌食になっていたから、子兎はみな別の箱の中に移すことにしていた。

 大杉はまた兎を捕まえて囲いの中に入れ、囲いの中を調べてみると、最近この大きな兎によって掘られたらしき穴があった。

 穴の周りには、掘り出した新しい土がうず高く積まれていた。

 そしてその穴の中に兎が入っていった。

 大杉はふと気づいて、さっき兎が現れ出たところに行ってみた。

 そこは二坪ほどの茄子の畑になっていて、砂地に丹精して作ったその茄子の幾本かが、実も葉もめちゃくちゃに食われていた。

「奴、やりやがったな」

 と、大杉は思って食われた茄子の一本の根本を見ると、直径五寸ぐらいの疑いもない兎が掘った穴があった。

 囲いの中の穴とその穴の距離は二間ばかりあったが、このふたつの穴はトンネルでつながっているとしか考えられなかった。

 大杉がその穴を足で砂埋めしていると、魔子が縁側から大きな声で叫んだ。

「パパ、早く行きましょうよ。スガちゃんとこへ、早く行きましょうよ」





 大杉は湯殿へ足を洗いに行った。

 逗子の家には一歳の三女・エマ、六月に生まれたばかりの四女・ルイズがいたが、野枝の伯母・坂口モトが来ていて、エマはモトが世話をしていた。

 ルイズは生まれてからちっとも抱かずに寝台の上にばかり寝かしつけているので、乳を飲む時間が来たら、ミルクの瓶をあてがってやることのほかにはなんの世話もいらなかった。

「ちょっと行ってきます」

 よくこうして家を留守にする野枝は、三、四日間出かけて行くのにも、手軽にただこう言っただけで、安心して家を留守にすることができた。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 23:34| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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