2016年10月03日

第365回 科学知識叢書






文●ツルシカズヒコ



 大杉が一九二二(大正十一)年三月、四月に安谷寛一に宛てた書簡(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)、安谷寛一「晩年の大杉栄」(『展望』一九六五年九月・十月号)、大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉がアルスに売り込んだファーブルの「科学知識叢書」の出版企画が通ったので、大杉と野枝はその準備に取りかかっていた。

 翻訳スタッフは野枝と安谷を軸に、安成二郎の弟・四郎、四郎の友人の平野威馬雄、宮嶋資夫、宮嶋の妻の八木麗子(うらこ)の妹・八木さわ子らを予定していた。

 和田久太郎が「僕の見た野枝さん」にも書いているが、安谷によれば同志間での野枝の評判は芳しくなかったという。

 多くの同志が大杉から離れるのは、野枝が高慢で威張り屋で気取り屋だからーーという話がたいていの同志の口に上ったという。

 しかし、安谷はそういう野枝に出会ったことがなかった。

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 ……私が大杉等に交はつたのが、無政府主義運動と云ふ様なものに関してではなく、本当に家族的な交はりだつたからだと思ふ。

 大杉も殊にそうだつたが、野枝さんと会ふと、第一番に私の子供の事を気づかつて、惣領の男の子や次ぎの女の子の事をたづね出す。

 それから其の子供等の着物や玩具のことまで、それは事細かに訊ねて、英国あたりから取り寄せた洋服の本などを家にことづけなどもした。

 家の経済や、親達の私に対する心配に就いてまで話し出して、私にとつては、どこまでも親切な姉さんだつた。


(安谷寛一「野枝さんを憶ふ」/『自由と祖国』一九二五年九月号)





 福岡へ帰省する際、野枝は神戸駅では停車時間が短くて話す間もないと言いながら、山北駅あたりから電報で通過時間を知らせてきた。

 安谷も喜んで神戸駅まで会いに出かけた。

 山北は現在の御殿場線の駅であるが、当時はまだ丹那トンネルが開通しておらず、現在の御殿場線が東海道線の一部だった。

 丹那トンネルが開通したのは一九三四(昭和九)年十二月一日である。

 ファーブルの「科学知識叢書」の打ち合わせのために、フランス語の翻訳を担当することになった安谷が、逗子の大杉の家を訪れたのは五月ごろだった。

 安谷は和田信義らと一緒に来ていた。

 大杉は本屋の主人らと散歩に出かけて留守だった。

 和田が玄関のあたりで大阪から来ていた同志たちと、声高に議論していた。





 私と野枝さんとは茶の間と云つたような部屋で、いつもの様な話を演ませてから、写真の話が出た。

 近頃こんな道楽を始めたと云つて、大きな箱に一杯の写真を、それ/″\説明しながら見せてくれた。

 どれもこれも大てい下手くそだつた。

 その話がすむと、こんどは『あなたはお酒が好きだから』と云つてウ井スキイを出して来て、小さいグラスに注いでくれた。

 それを一二杯あけたところに信義は議論が済んだと見えて入つて来た。

 そして『僕にも一杯下さい』と云つて、グラスに手をかけた時だ。

 野枝さんは急に血相を変へて怒り出した。

『あなたに飲ませるつて出したわけではありません。これは薬にするつて買つてあるのですから、それにこんなものを飲んで無駄口を利かれちやたまりませんから』

 全くお話にならぬ事を云つて野枝さんは信義につつかかつた。

 それを信義はきかぬふりで、自酌で一杯ひつかけて出て行つた。

 私は妙な気になつて、もうあとのウ井スキイは飲む気がしなかつった。


(同上)





 このときの野枝の対応は、安谷にとって唯一の不愉快な憶い出だったという。

 この野枝の対応を、安谷は「晩年の大杉栄」ではこう書いている。


 大杉は何人かのあれこれの車座の中に挟まって夢中で話し込んでいた。

 私は野枝さんに手まねきされて奥の間に入った。

 なんにも云わずにウイスキーをついでくれた。

『あなた、あんなの帰して二三日休んでらっしゃいよ、大杉も話しがあるって待っていたんだから……』

 野枝さんの云う『あんなの』とは荒畑寒村の前任の『日本労働新聞』編集長・和田信義のことで、その夜の私の同伴者だった。


(安谷寛一「晩年の大杉栄」/『展望』一九六五年九月・十月号)





 和田信義には『香具師奥義書』という著書があり、いわゆるテキ屋たちとも親交があった。

 安谷はおそらく和田の影響で、テキ屋の世界に片足を突っ込みかけていたのだろう。

 三月、大杉が安谷に宛てた書簡によれば、大杉は荒(すさ)んだ安谷の生活を心配し、安谷がそういう生活をするようになった責任の一端を感じていると書いている。

 妻子を連れて逗子の家に来れば、面倒を見るとまで書いている。

 ファーブルの「科学知識叢書」の仕事は、安谷をヤクザ家業から足を洗わせる絶好の機会だと、大杉は考えていただろうし、野枝も同感だったであろう。

 野枝が和田に敵意を持って接したのは、安谷のことを思ってのことだったと思われる。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:07| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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