2016年10月01日

第362回 平和紀念東京博覧会






文●ツルシカズヒコ



 江口渙がぶらりと鵠沼の家を出て汽車で逗子まで行き、初めて大杉を訪ねたのは、一九二二(大正十一)年四月中旬だった。

 大杉の家は葉山に近い県道の右側にあり、噂に聞いていたとおりの大きな家だった。

 門の外には二坪ほどの板小屋があり、中には私服の刑事が四人いた。

 なるほどこれがいわゆる「犬小屋」だなと思いながら門を入ろうとすると、小屋の中からふたりの刑事が飛び出して来て、江口の住所氏名を尋ねた。

 江口が名刺を渡すと、刑事は名前を見て「ふふん、江口渙か」と言って、改めてじろじろと江口の顔を見た。

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 幸い、大杉も野枝も在宅していた。

 ふたりは江口を歓待した。

 料理上手だった野枝は手料理の昼食をふるまい、江口はぜんぶ平らげた。

 応接間は二十畳ぐらいの西洋間で家具がなく、広すぎるほど広く見えてがらんとしていた。

 昼食後、大杉、野枝、魔子、江口はこの応接間で蓄音器にレコードをかけて遊んだ。

 ちょうど、上野で平和紀念東京博覧会が開催中だった。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉と野枝は魔子を連れてこの博覧会を見物に行った。

 演芸館でエリアナ・パヴロワが演じた「瀕死の白鳥」を見た魔子は、それ以来バレエが好きになり、レコードをかけると歌に合わせて踊るようになった。

 この日も魔子は、レコードをかけるとたちまちにして踊り始めた。





 蓄音器から流れ出す歌のリズムの、そのひとつひとつの波にのせて手をふったり、足を上げたり、体を横にくねらせたり、ときに天を仰ぎ地に伏して、家具が一つもないひろい応接間をところきらわず動きまわる。

「江口さん。あれ、ごらんなさい。あのマコの眼つきを。子供でも歌のリズムに合わせて何か自分の気持を表現したい衝動があるんですね。あれでも自分じゃ、しんけんなんですよ」

 伊藤野枝のいうとおりだった。

 マコは六歳にしては少し小さい体に精一ぱいの緊張を見せて、何かを表現しようとしきりに努力している。

 それが私にもわかる。

 どこか日本人ばなれのした特徴のある眼が、子供ながらに興奮できらきら光っていた。


(江口渙『続 わが文学半生記』/春陽堂書店・一九五八年)





 快晴のこの日、午後三時過ぎ、大杉の家にもうひとりの来訪者があった。

 二十五、六の頑丈な骨組みの男だった。

 赤茶けた紺の作業服に煤けた鳥打帽をかぶり、巻きゲートルに黒ゴムの短靴から素足が覗き、埃まみれのズックの雑嚢(雑脳)を左の怒り肩から重そうにぶら下げている。

 その男は上着のポケットから取り出した手帳を開き、門柱の表札に近寄った。

 月刊雑誌『労働運動』編輯所と書かれた小さな看板の下に、一葉の名刺が貼りつけてあった。

 名刺には「大杉栄」という三文字が浮かんでいた。

 見張小屋から洋服の刑事四人が飛び出して来た。

「おい! 貴様はなんだ? そこでいったい何をしているんだ?」

 男は待ってましたとばかりに微笑んで答えた。

「電燈屋です。故障を直しに来たのです。あなたがたは?」

「その筋の者だ、この家を見張っているのだ!」

「さようですか……。この家は大杉ってお宅でしょう? どうも二、三日前から電燈が消えていかぬ、見に来てくれと事務所に通知があったものですから、やって来たのです」

「しかし電燈屋! 昨晩もこの軒燈は消えていなかったぜ!」

 何かと高飛車な刑事たちだったが、その中のひとりが、こう言った。

「それなら家の中の電燈に故障があるんだよ。大丈夫だよ、これは俺が保証する」

 大杉の家に入った電燈工夫は変装した中浜鉄だった。





 江口たちが魔子の自称バレエを興味深く眺めていると、居候の寺田鼎が応接間に入って来た。

 そして、少し不安そうな眼で大杉を見た。

「村木君の紹介だと言って、中浜という男が来て、ぜひ大杉さんにお目にかかりたいというのですが、どうしましょう」

「初めての男だね」

「ええ……」

「ふうん、村木の紹介か……中浜……」

 大杉が少し首をかしげ何かを考えているのを見て、江口がそばから言葉をはさんだ。

「中浜って、自由人連合にいた、あの中浜鉄かい」

「さあ、僕は知りませんが、中浜鉄というんです」

「じゃ、そうだよ。鉄ならよく知ってる。上野桜木町の僕の家にも来たことがある」

「君知っているのか。じゃ、ここに通して」

 入ってきた中浜を見た江口は、一年前に自由人連合の事務所で見たころとすっかり変わっている風体に驚いた。

 カーキー色の巻脚絆をしている様子は、土方の親方のように江口には見えた。

「やあ、しばらく」

 江口が中浜にそう言うと、中浜はじっと江口の顔を見つめた。

「君、この男、知っているね」

 大杉が吃りながら、江口に聞いた。

「ええ、知っています」

 そして、中浜は江口と大杉の顔を代わる代わる見ていたが、突然、大杉に向かって少し咳き込んだ調子で言った。

「大杉さん、あなたにぜひお話したいことがあるんです。僕とちょっと別室に行ってほしいのですが」

「ああ、そうか。じゃ、江口君、ちょっと失敬する」

 大杉はなんでもなさそうな様子で立ち上がり、中浜を連れて、応接間の横の梯子段を上がり二階の部屋に行った。

 江口と野枝はそのまま応接間に残り、またもやレコードをかけて、魔子のバレエを見物していた。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 01:53| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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