2016年09月27日

第359回 猫越(ねっこ)峠






文●ツルシカズヒコ


 絵画の道具を持ち伊豆方面に写生に出かけた久板卯之助は、一九二二(大正十一)年一月二十二日午後、天城山中猫越(ねっこ)峠で凍死しているのを発見された。

 神近市子によれば、久板は前年の十二月二十五日、居候をしていた池尻の神近の家から伊豆に出発した。


 ……暮れの二十四日になって、突然伊豆へ写生に行くといい出して、私たちを驚かせた。
 
「せめてお正月をいっしょに迎えてから、お出かけになったら……」

 と私たちは引きとめた。

 お金も十分にないだろうからとはいえなかったが、むろんその意味もあった。

「伊豆には知り合いがあって、来いといってくれますから、あすでかけます。絵をかいてくる約束で二、三人から前金をもらいました」

 といって、有島武郎氏や数人の文士の名を挙げた。

 その晩は久板氏が好きな鱈チリで別れの晩餐会をした。


(『神近市子自伝』・講談社・一九七二年三月)


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 小松隆二『大正自由人物語』(岩波書店・一九八八年八月)によれば、久板は下田方面から天城山中猫越峠を越えて、湯ケ島方面に出ようとした。

 峠の麓の宮ノ原を発ったのは一月二十一日午後三時半ごろだった。

 健脚が自慢だった久板は、茶屋の老婆の制止を振り切って出かけたのだった。

 この日は数十年ぶりの寒さだった。

 一月二十五日、岩佐作太郎、村木源次郎、望月桂らが現地に急行した。

 望月らが尽力し猫越地域の人々の厚意により「久板卯之助終焉の地」という石碑が伊豆・湯ケ島に建てられた。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一月上旬から伊豆地方に写生旅行をしていた久板は、六十センチ余の新雪と暗闇と寒さに倒れ、二十二日に峠を七、八丁越えたところで死体が発見された。

 地元・上狩野村の村人が遺体を運び納棺して火葬に一夜を費やしてくれたという。

『労働運動』三次三号は「久板君の追悼」特集をし、大杉は「久板の生活」を寄稿、野枝も「決死の尾行」を寄稿した。





 久板さん程よく歩いた人はさう沢山はあるまい。

 其の死が、やはり健脚が災ひした形になつてゐるのも、考へて見れば不思議はない。

 今の労運社の直ぐ下の曙町に最初の労働運動社があつた頃、駒込署では久板さんの尾行に非常に困つた。

 誰も彼も、久板さんの尾行と云ふと尻込みしてなりてがなかつたさうだ。

 最初の久板さんの尾行は二十の上を幾つも出ない血気盛んの丈夫な男だつた。

 処が此の男久板さんに尾(つ)いて歩いてゐるうちにすつかり体を壊してしまつた。

 先づ久板さんの徒歩主義が此の男を可なり弱らした。

 しかも余程敏捷にしないと、一日中食事をする時間がない。

 隙を見ては何かを頬張るなり掻つ込むなりする。

 が、直ぐに歩き出さなければならない。

 おまけに毎日食事時間がちがふ。

 食べる物も行きあたりバツタリ手当り次第の出鱈目で、或る時には、朝から晩まで飲まず食はずでゐなければならない。

 彼はとうとう此の不規則な乱暴な食事の為に胃腸をこわした。

 それに過度の疲労が手伝つて、この男は僅かの間に死んで了つた。

 で、他の連中がそれを見聞きして、久板さんの尾行には決死の覚悟が要ると宣伝し初めたと云ふ話だつた。

 私達が鎌倉へ越してからは、一度か二度会つたきりでもう長い事会ふ機会がなかつた。

 久板さんが死んだ、と聞いても、生憎(あいにく)の風邪で告別も出来なかつた私は、今でも、どうしても久板さんが死んだとは思へない。

 機会さへあれば、何処かで『やあ』と手をこすり合はせてにこにこしてゐる久板さんに会へるやうな気がして仕方がない。


(「決死の尾行」/『労働運動』一九二二年三月十五日・三次三号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一月三十一日に神田中央仏教会館で約百人列席の告別式が営まれたが、野枝は風邪のため列席できなかったようだ。

『定本 伊藤野枝全集 第三巻』の「決死の尾行」解題によれば、久板が大杉グループと疎遠になったのは、第二次『労働運動』のアナ・ボル提携に批判的だった久板が、『労働者』の労働者グループに参加していたからである。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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