2016年03月21日

第34回 出奔(六)






文●ツルシカズヒコ



 野枝は上野高女のクラス担任だった西原和治が送ってくれた電報為替で旅費を工面し、上京した。

 上京したのは「十五日夜」に辻が書いた手紙が福岡についた後であるから、一九一二(明治四十五)年四月二十日ころだろうか。

 とにかく、野枝としてはぐずぐずしていると拘束されてしまうので、できるだけ迅速に東京に旅立ちたかっただろう。

 上京した野枝は北豊島郡巣鴨町上駒込四一一番地の辻潤宅に入った。

 辻はその家で母のミツ(美津)と妹のツネ(恒)と同居していた。

 上野高女の教師の職を辞め、野枝を受け入れた辻は、その間の事情をこう記している。

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 卒業して国へ帰へつて半月も経たないうちに飛び出してきた野枝さんは僕のところへやつて来て身のふり方を相談した。

 野枝さんが窮鳥でないまでも若い女からさう云ふ話を持ち込まれた僕はスゲなく跳ねつけるわけにはいかなかつた。

 親友のNや、教頭のSに相談してひとまづ野枝さんを教頭のところへ預けることにきめたが、その時は校長始めみんなが僕らの間に既に関係が成立してゐたものと信じてゐたらしかつた。

 そして、野枝さんの出奔は予(あらかぢ)め僕との合意の上でやつたことのやうに考へてゐるらしかつた。

 国の親が捜索願いを出したり、婚約の男が怒つて野枝さんを追ひかけて上京すると云ふやうなことが伝えられた。

 一番神経を痛めたのは勿論校長で、若(も)し僕があくまで野枝さんの味方になつて尽す気なら、学校をやめてからやつてもらひたいと早速切り出して来た。

 如何(いか)にも尤(もっと)も千万(せんばん)なことだと思つて僕は早速学校をやめることにした。

 ……たうとう野枝さんと云ふ甚だ土臭い襟アカ娘のために所謂(いわゆる)生活を棒にふつてしまつたのだ。

 無謀と云へば随分無謀な話だ。

 しかしこの辺がいい足の洗い時だと考へたのだ。

 それに僕はそれまでに一度も真剣な態度で恋愛などと云ふものをやつたことはなかつたのだ。

 さうして自分の年齢(とし)を考へてみた。

 三十歳に手が届きさうになつてゐた。

 一切が意識的であつた。

 愚劣で単調なケチ/\した環境に永らく圧迫されて鬱血(うつけつ)してゐた感情が時を得て一時に爆発したに過ぎなかつたのだ。

 自分はその時、思う存分に自分の感情の満足を貪り味はうとしたのであつた。

 それには洗練された都会育ちの下町娘よりも、熊襲(くまそ)の血脈をひいてゐる九州の野性的な女の方が遙かに好適であつた。


(「ふもれすく」/『婦人公論』一九二四年二月号/五月書房『辻潤全集 第一巻』)





 堀切利高編著『野枝さんをさがして』によれば、辻と一緒に西原も上野高女を辞めるはずだったが、ある事情(その事情は不明)でそうしなかった。

 校長も教頭・佐藤政次郎(まさじろう)も、辻と野枝はすでに関係ができていて、野枝が婚家から出奔して辻の家に入るのは、あらかじめふたりが合意していたことであると見ていたようである。

 辻も野枝も心外だったろう。

 辻としては、因習を打破しようとして窮地に追い込まれている教え子を救うべく尽力しているうちに、自然にふたりは恋愛感情を持つようになったのだ、と周りに解釈してほしかったにちがいない。

 野枝も「出奔」で、辻との恋のためだけに家出したと思われることが不快だと書いているが、野枝としても出奔はまず因習打破のための実際行動であり、辻との恋はその過程で成立したのだと、主張したいのである。

 順序が逆で辻と恋愛に陥ったから出奔したとなれば、それこそ姦通罪に問われかねないので、野枝にとっては重要なことだった。





『野枝さんをさがして』によれば佐藤も西原も、結局、一九一五(大正四)年に上野高女を去るが、西原はその後、雑誌『地上』を創刊。

 野枝は『地上』に寄稿した原稿で、上野高女五年時の自分と西原についてこう言及している。

 
 もっとも私の苦しみのひどかった時代であり最も私の学校生活の幸福な時代でありました。

 ……私の一生の前半生に於ける最大の危機でもありました。

 来るべき爆発に対する恐怖時代でありました。

 私のこの最大の危機に於いて兎にも角にももがきもだへてゐる私をとう/\無事に私の学校生活を終らして下さいましたのが西原先生でございました。

 もしもあの最後の一年間に於いて先生がお出にならなかったら私の性来の一徹な狂ひ易い感情は抑えるものゝないまゝに私の持つたあらゆる無分別と自棄を誘つて真直に自身を死地に導いたに相違ありません。


(「西原先生と私の学校生活」/『地上』一九一六年三月二十日・第一巻第二号/堀切利高『野枝さんをさがして』)


 上野高女時代の野枝と言えば、辻との出会いにスポットを当てられがちだが、野枝にとって西原の存在も大きかった。

『地上』には辻も寄稿しており、西原、辻、野枝の三人の交流は、三人が上野高女を去った後も続いていたようだ。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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